十五章 故郷
「さァて、それじゃあ休もうか」
街道を外れ、雑木林の間を縫うように移動していたカナンは、空が白み始めるや立ち止まった。
ミラはフギの呼気を背後に感じながら、首をかしげ長躯を見上げた。
「え、これから休むんですか?」
時間もさることながら、辺りは木々に埋めつくされ、どこが街道に続いているのかさえ判然としない。まったき自然の只中である。まさか野宿することになるとは思っていなかった。
「ワタシは貧乏でね……。宿に泊まるお金がないんだ。移動は基本的に夜。朝になったらしばらく休んで、昼にちょっと動く。そしてまた休む。辺りが暗くなりはじめたら、イッキに動く」
「どうして、そんな――」
言いかけてミラは、咄嗟に口を塞いだ。カナンに多くを訊ねてはいけないのだった。どうやら彼女には、他人に言えない大きな秘密があるらしい。
ところが動揺したミラを見て、カナンはニッと笑ってみせた。
「そんなにビクビクする必要はないさ。あの時は、あんな脅すような言い方をしたが、べつに答えたくないことは答えなければいいだけなんだからね」
「ああ……なるほど」
ミラはほっと胸を撫でおろし、なんとなくフギを一瞥した。翠玉の彫刻めいた獣は、怜悧な瞳でじっとカナンを見つめている。
「この子はワガママ言ったりしないんですか?」
ミラはフギの隣に腰かけ訊ねた。
一方、カナンは未だ腰を下ろさず、背中の大剣の帯を解きはじめる。
「言わないわけではないね。でも、ワガママとは違うかもしれない」
そこでようやく帯を解いたカナンは、大剣を幹にもたせかけ大きく息をつくと腰を下ろした。
「どういうこと?」
「フギは獣だ。人間より、遥かに鋭い感覚をもっている。だから、フギにしか判らない危険が潜んでいたりするんだ。フギが反抗するとすれば、ワタシの決断が間違っているのを確信したときだね」
「へぇ……」
ミラは心底感動し、その
「……気高い生き物なのね」
その言葉にカナンの柔い笑みが返る。
「そうさ。これは本来、人に馴れる生き物ではないんだ。
「え、凶暴なんですか? 信じられない」
「ああ、ワタシにも信じられない」
カナンは慈愛に満ちた眼差しでフギを見つめる。だが、一方の目は包帯に隠され、どんな感情を孕んでいるのか窺い知れなかった。
あの傷は、フギを手に入れた代償だと言っていた。だとすれば、彼女の潰れた眼は、憎悪に黒く腐っているのだろうか。
ミラは恐怖めいたうら悲しさを覚え、目を伏せた。
と同時に、腹の虫が鳴いた。
「あ……」
「ガフゥ……」
フギが、頬に鼻を押しあててきた。かすかに湿り、熱い息が乾いた髪をなびかせる。
カナンは微笑んで、腰に下げた袋を手に取った。
「フム、珍しいね。フギはワタシ以外の人間には懐かないんだが。どうぞ」
袋から投げて寄越されたのは、幾つかの木の実とトカゲの肉だった。
「あ、ありがとうございます」
量はさほどでもないが、食べてみると旨味が舌にしみる。味をとおして、身体の求める栄養が循環するのを感じられるようだ。
ミラはあっという間に与えられた食物を胃袋におさめた。
そこであることに気付く。
「カナンさんは食べないんですか? フギも」
「ああ、ワタシたちはあとで食べるよ。そのときには、ミラもご馳走にありつけると思う」
「ご馳走?」
「狩りをするんだ。フギの感覚を頼りにね」
「罠は張らないんですか?」
「まあね。それよりフギに狩らせたほうが早いから」
「なるほど。ふあぁ……」
腹が膨れると、いよいよ眠くなってきた。心身の疲れも看過できるものではない。昨夜は恐ろしい目に遭ったし、暗く足場のわるい雑木林の隙間を行進するのは大変な道程だった。
「ワタシも疲れた。お互いじっくり休もう。フギもね」
「ガァウ」
そうして二人と一匹は眠りにつく。カナンは幹にもたれかかり、枝葉の陰に隠れながら。ミラは疾狗の天然の迷彩に埋もれながら。
◆◆◆◆◆
日が中天よりやや西に傾きはじめた頃、ミラたちは行進を再開した。
疲れはまだ、身体中にどんよりと滲んでいる。汗や垢のはなつ体臭も強烈で、精神的な苦痛もあった。鼻の利くフギには申し訳ない。
だが疲れているのは、どうやらミラだけでないらしい。
カナンの息遣いは荒い。足許もふらついている。彼女は大剣を負っているし、片眼も見えないので、余計に難儀するのだろう。肩などしょっちゅう木にぶつけているし、面倒を見てもらっているミラのほうが心配になるほどだった。
それでもカナンは、決して休もうとはしない。歩幅も短くはない。付いていくだけで息があがる。まるで、焦っているかのようだ。
この人、傭兵だって言ってたけど……ホントにそうなのかな。いったい何者なんだろう。
一緒に旅をするとなれば、怖い目に遭うかもしれないと言っていた。自然のなかはそれだけ厳しいのだと思っていた。
しかし、違うのではないか。
街道を避け、夜に歩くほうが、常識的に考えてはるかに危険だ。道に迷うおそれがあるし、夜目の利く生き物に襲われる危険もある。うっかり毒性の動植物と接触してしまうことも考えられるだろう。
つまりカナンは、自然をさほど恐れていない。
彼女が恐れているのは――。
「ん……? 水の音がしないか?」
「エッ?」
思考の泡をぱちんと割られ、ミラは弾かれたようにカナンを見た。カナンはそんな少女の様子には気付かず、目を伏せ、耳をそばだてている。
ミラは我に返って、フギを見た。フギは鼻をヒクヒクさせて、首をかしげる。もしかしたら耳のほうはあまり良くないのかもしれない。ミラ自ら耳を澄ました。
すると――。
「……聞こえる。ちょろちょろって」
「近くに川があるかもしれないね。水浴びできるかも」
「水浴び!」
「ちょっと探してみよう」
それまでおよそ直進をつづけていた一行は、水の音の正体を探るべく、辺りを散策しはじめた。音の方向へ慎重に歩を進めていくと、殺風景な木々の世界に、突如、光のヴェールがきらめいた。飛沫だ。
「あそこだ!」
カナンは光の方向を指さし、ふらつく足で駆けだした。ミラも期待を胸につづき、剥きだした木の根を跳びこえた。
緑と茶の世界が一変した。
不意に林がとぎれ、幅十ヤードもありそうな巨大な川がとびこんできたのだ。
「すごい! おっきい!」
「ああ、大きいね。おそらくシュロイ川だろう」
「シュロイ川?」
「〝陰〟へ続くとされる川さ。南で何本かに分かれていて、その一本が〝光陰の裂け目〟へ続くんだ。どうやら、まだ枢区の半分にも至ってないらしい」
「やっぱり防区までは遠いんですね」
言うと、カナンは包帯に埋もれた目許を押さえた。
「……ああ。この調子じゃ何時ビルに会えるかわからないな」
「そのビルって人は、カナンさんの恋人ですか?」
訊ねた瞬間、カナンがぱちぱちと瞬いた。間もなく吹きだし、膝を叩く。
「恋人! それはないな! あれはヒドい男だもの」
そんなことを言いながら、カナンの口調は楽しげだった。
「ひどい男?」
「ああ、ヒドい男さ。とにかくいつも欠伸ばっかりしててね。仕事はサボる、すぐに逃げだす。人間のクズさ」
「どうしてそんな人に?」
「あれは昔、一緒に住んでたんだ。同じ街にね。まあ、腐れ縁なんだよ。それでちょっと……ワタシたちの故郷で問題が起きてね。それを伝えに行かなくちゃならなくなった」
カナンはそこまで言い終えると、不意にあんぐりと口を開けたまま動かなくなった。しまった、そんな顔をしていた。
ミラは、聞いてはいけないことを聞いてしまったのだと悟った。
だが、ミラが口を開くより前に、カナンがこう言った。
「……この話は、どうか内密に。誰にも話さないでおくれ。だけど、ミラがホントに信用できると思った人にだけ、彼の居場所を尋ねてもいい」
「え?」
その時、二人の正面にフギが回りこんできた。カナンを見上げる双眸が妖しくきらめいた。
カナンは哀しげに微笑みかぶりを振った。
「……ミラ、ワタシのお願いを聞いてくれないか?」
ミラはなぜか、その一言にひどくゾッとした。首筋に刃物を押しつけられるような怖気を感じとった。
フギが「グルル……」と唸り声をあげた。
「な、なに……?」
「思い直したんだ。秘密を聞いてほしくなった。その上で、頼まれて欲しい。さっきのビルに関することさ」
ミラはすぐに頷き返そうとした。
しかし、できなかった。
他でもないカナンの言葉を思い出したからだ。
『――物事を知るということは、ときに知らぬことよりも恐ろしいんだよ』
つまりカナンは、その恐れを押しつけようとしている。あるいは共有させようとしている。
知れば戻れない道がある。一方通行の道がある。そんな風に思えた。
けれどミラは、この短い、ほんの半日ばかりの間に、カナンへの大きな恩義を感じてもいた。
彼女と出逢わなければ、自分は今ごろ、〝宿〟の奴隷となって男たちの腹の下で眠っていただろう。彼女に捨ておかれていれば、いずれ飢えの業火によって灰燼と化していた事だろう。
その恩を返すべきではないか。ただ彼女の後ろに付きまとう、金魚の糞ではなく、受けた恩を返す一人の人間としてあるべきではないか。
ミラは迷った末、フギを見た。フギはまだカナンを睨み続けていた。主の決断を糾弾するように、じっと。
その様が、殊更不安をあおった。
しかし同時に、カナンの迷いを想像せずにはいられなかった。
「……それは、あたしに出来ることなんですか?」
「ああ、キミにしかできない。フギが心をひらいたキミだからでこそ、初めて明かせると思うんだ」
カナンの瞳には、口調には、つよい迷いと罪悪感が露呈していた。だからこそ、ますます恐ろしかった。
一方で、嬉しくもあった。
今まで何もできなかった弱い自分が、初めて信用され、頼りにされているのだ。
ミラはフギに歩みよった。その足許から、ジャリと鎖の音が鳴った。美しい獣の首にそっと触れる。そして、ゆっくりと撫ではじめた。
「心配してくれるんだね、フギ。ありがとう。でも、あなたたちが困ってることなら、協力させて。お願い」
ミラはフギの毛皮のなかに顔をうずめた。ふかふかとして温かかった。生命に躍動する心音があった。ミラはこの瞬間を、永遠に胸に刻みつけようと思った。
「ホントにいいんだね、ミラ?」
その背中に、カナンの声がかかった。彼女の声は、未だ迷いに震えていた。
ミラは振り返り、頷いた。
「……そうか」
か細い相槌をかえすと、カナンが隣に腰を下ろした。川の中に足をひたし、ふっと息を吐いてから言った。
「じゃあ、聞いてもらうよ。ワタシとビルの故郷……スヴァルタールヘダに関するお話を」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます