十七章 神の街の異人

 ムステオヘダ火山。ミズィガオロス島最西端にそびえる山を、人々はそう呼び、今なお恐れている。

 かつて、それは間断なく炎の柱を噴きあげる西の支配者であったからだ。


 天を衝くがごとき巌の塊は、それ自体が悪意に染めあげられた邪神であり、中でも火口からそそり立つ角のような一部は、スリトーラと呼ばれ恐れられてきた。


 如何なる種族もスリトーラの紅蓮の大地を踏むこと能わず、西から強い風がふけば、それが熱波となって人々を焼き殺した。


 東の神々はこれを憂い、冥府の女神ヘロウの協力をあおいだが、芳しい返答は得られなかった。


 その時、危険を承知で立ち上がった神がログボザであった。


 彼の神はヘロウの父であり、ついに女神を動かすことまではできなかったが、氷の羽衣を借りることには成功した。彼はそれを身にまとい熱波を退けながら、己が神器で宙を舞い、灼熱の大地を突破した。


 スリトーラの許へたどり着いたログボザは、額に浮いた汗をぬぐい、炎の邪神に問う。


『よう、スリトーラ。お前はどんなに暑い日も、どんなに寒い日も眠ろうとは思わんのかね?』


 これにスリトーラは炎の笑いをあげながら答えた。


『炎は眠らぬ。我らの眠りは、即ち死であるからだ。燃えぬ炎はただの燃え殻に過ぎぬ』


 ログボザは呵々と笑った。


『如何にも、お前の言うとおりだ! しかし熱いの、お前の息で何百何千の人が滅んでおる。少しは大人しくできんのかね?』


『笑止。我が命は我のためにある。神が人を慮って生きるものか』


『しかし熱いの、この大地も海も、すべては我らが母神から生みだされし命よ。人の死に、一片の憐れみも持たぬわけではあるまい?』


 ログボザが首をひねると、スリトーラは心底おかしそうに炎を噴きあげた。


『若いの、どうやらお前は大きな勘違いをしているな。すべての神や人は、母神から生みだされたわけではない。我はあの母神の子に非ず。故に人は我らが同胞ではない。我はただ燃えるのみ。この巌の体躯、あるいは燃え盛る炎こそ、我らが兄弟なのだ』


 この時、ログボザは思いもよらぬ真実に驚き、また年老いた神に呆れかえりもした。


『熱いの、お前の言い分はよく分かった。だからオレは決めたぞ。耄碌したジジイには、冷たい床で眠ってもらうと』


『小僧に我が討てるものか』


『生憎、こちらにもジジイの知り合いがいるのだ』


 そう言ってログボザが取り出したのは、一冊の書物であった。これは知恵と魔法の神が、他の神々と協力して生みだした神器で、決して滅ぼすことのできぬ神を、弑するのではなく封じる力をもっていた。


 ログボザはこれを掲げ、スリトーラが炎を吐きだすより速く、忌まわしき邪神を書物へと封じこめた。


 こうしてムステオヘダは、邪神の体躯だけを残した火山となった。


 その後、東の地へ戻ったログボザは、人々からの崇敬を集めた。


 またその人らは、スリトーラが決して蘇ることがないように、西の果てに根を下ろし、街を建立した。その中央には、スリトーラを封じた書を所蔵する魔法の図書館――光芒図書館が設けられた。


                ◆◆◆◆◆


「それがスヴァルタールヘダの歴史。どこまでがホントかは解らないけど、ログボザの信奉者の集う街であることは間違いない。ワタシとビルは、そこで生まれ育ち、ログボザがいかに素晴らしい神であるかを説き伏せられてきたんだ」


 カナンの語った神話は、ミラにも多少聞き覚えがあった。枢都の教団ログボザの司祭が、度々演説を行っていたからだ。だが、人々の死を嘆いたログボザから、どうしてあのような諦念の教義が生まれたのか解せなかった。


 カナンは川の水をすくい、それを顔にぶちまけると、荒っぽく息を吐きだした。ミラもそれをマネて顔を洗い、一口水を含んだ。冷たく澄んだ液体が、ゆっくりと胃の腑へ落ちていくのが判った。ところがそれは、すぐに胃の中で鉛のように重みを増した気がした。


 その緊張を知ってか知らずか、カナンは光の珠が転がる水面にくらい眼差しを注いだ。


「……けれど、それは神話のほんの一部に過ぎない。あるいは脚色された歴史だ。ログボザは憐れみから人を救う神などではなかった」


 カナンの大きな手が大剣の鞘のうえを滑った。

 しかし彼女は不意に我にかえり、ばつ悪く複雑な笑みを浮かべた。


「そうではなかったね。ワタシとビルの話だ」


 二人の間にフギが割って入った。翠の獣はまっすぐに川向こうを見つめると、ミラの緊張を解こうでもするように、その頬へ鼻先を押しつけた。


 ミラはフギの頭を撫でてやってから、改めてカナンを見た。

 カナンもまた少女を見返した。


 そして彼女は、長い回想をはじめた。


                ◆◆◆◆◆


 スヴァルタールヘダは美しい街だった。

 防壁の中に波のような三角屋根がならび、ヒビ一つない舗道のうえを、金糸を編んでつくったような馬車が往来する。北は一面の緑であり、ムステオヘダ火山と隣接した西は神々が天上へいたるべく踏みしめる段のごとく棚田が広がっている。


 そして街の中央には、天と口づけを交わさんとでもするように高く金の塔がそびえる。光芒図書館と呼ばれるそれは、特別な書物をおさめるばかりでなく、教団ログボザの社会的中枢でもあった。


 だから幼いカナンの遊び場といったら、専ら北の放牧地や西の棚田だった。


 幼馴染のビルとはそれらの場所で、鬼ごっこやかくれんぼをした。こっそり果物をもいで盗み食いすることもあった。あるいは司祭様の語る神話を、自分たちで演じてみたりした。幼いながらに腕も気も強かったカナンは、いつもログボザ神の役を独占したものだった。


 あの日も、すっかり遊び疲れてから家へ帰るつもりだった。


 ところが、学舎での授業を終え、道へとびだしたカナンの傍らには馬車が迫っていた。

 辺りにいた大人たちは、短い悲鳴を吐きだすと、棒を呑んだように立ち尽くした。


「……ッ!」


 当の本人は、悲鳴をあげることさえできなかった。馬がけたたましい声で嘶き、馬車はすんでのところで止まったが、それが何を意味するのか幼いながらに理解していたからだ。


 馬車を利用できるのは、身位の高いものに限られる。それこそ、光芒図書館に詰める役人や司教のような者たちだ。


 その進路を妨害したとなれば「邪だ」とされ、いずれログボザ神の執り行う「調和」のときまで、ヘロウ神の許へ預けられることとなる。つまりは死を賜るのだ。


 幼く信仰の浅いカナンにとって、死は未だ恐怖の対象であった。

 操馬士の冷たい怒りの眼差しは、研ぎ澄まされた刃のように感じられた。


「……邪なり。しかしてログボザ様は、汝のごとき咎人にも救済をお与えになるだろう。暫し、ヘロウ神の御許に抱かれ悔い改めよ。調和の訪れとともに、彼の神は、汝を新世界へとお連れになるだろう」


 そう言うと操馬士は腰に佩いた刀剣を抜いた。しろがねの刀身が、燦々と降りそそぐ光をあびて輪のような殺気を放った。


 カナンは震えあがり、井戸の釣瓶をきったように悲鳴をあげた。


 手を差し伸べようとする者はなかった。無論、庇う者も。

 彼らはただ祈りを捧げるだけだった。ログボザ神が、罪深き幼女をどうか調和の時代にお迎え下さいますようにと。


 銀の刀剣が天にきらめいた。


「待たれよ」


 しかしそれが振り下ろされることはなかった。


 重く静かな声が、操馬士の背をうった。彼は金縛りにでもあったように、そのままの姿勢で動きをとめた。


 カナンは声の主をさがした。

 すると操馬士の背後、屋根つきの馬車の中から、純白のマントをなびかせる五十がらみの男が歩みでてきた。


「この程度のこと、ログボザ神は邪とは仰られぬだろう。わざわざヘロウ神を煩わせる必要もあるまい」


 男はそう言うと、操馬士の手首をポンとたたいた。操馬士は慌てて刀剣を鞘におさめ、跳ねるように頭を垂れた。


 その傍らを通りすぎた男は、カナンの目の前まで来ると、やおら屈みこんだ。苔むした巌のような双眸がやわく細まった。


「ケガはないか?」


 穏やかな声とともに、骨ばった手が差し伸べられた。誰も寄越しはしなかった、たった一つの手が、目の前にあった。


 カナンは歪んだ視界の中から、それを手繰り寄せた。

 男はカナンの頭を撫で、抱きあげるように立ち上がらせた。


「どうやらケガはないようだな、よかった。だが、急にとびだすと危ないぞ。気をつけなさい」


 カナンは泣きじゃくりながら、何度も頷いてみせた。男はその頭をもう一度やさしく撫でると、馬車へと戻っていった。


「……さっさと行け」


 操馬士はばつ悪そうに少女を促した。カナンは涙を拭い、そそくさと道を横断した。


 それから間もなくして、馬車は去っていった。


 カナンはとても遊ぶ気持ちにはなれなかった。しかしビルは一足先に学舎をでており「草むらで待ってる」と約束だけを言いつけていたので、断りだけでも伝えなくてはと北へ爪先を向けたのだった。


 慎重に周囲へ気をくばり、たっぷり時間をかけて牧草地へたどり着くと、ビルは馬の鼻先を撫でながら鼻歌をうたっていた。


「……ねぇ、ビル」


 その背中へ声をかけると、ビルは笑顔で振り返ったが、すぐに怪訝に首をひねった。


「どうした、カナン? ラーナとケンカでもしたか?」


 カナンはすぐにかぶりを振った。

 ビルは細い腕を組むと、ややあってから勢いよく膝をうった。


「わかったぞ! さては、先生を怒らせたな? タッカー先生はコワいもんなぁ」

「チガうの……」

「違う? じゃあ誰を怒らせたんだよ」

「そうじゃなくて。今日はもう帰ろうと思って……」

「ええっ? なんだよ、どうしたんだよ」


 困惑して辺りを見渡すビルは、純粋無垢な子どもだった。恐怖を知らず、ただ友達と遊ぶことばかりを考えている子どもだった。カナンの秘めた恐れなど知らなかったし、それを悟るだけの知識も経験ももたなかった。


 だからカナンは泣き崩れた。

 一瞬の非日常に、自分の生きてきたすべてを壊されてしまった気がした。けれど、日常はまだここにあるのだ。


 無論、ビルはますます困惑し、慌てふためいた。


「おいおい! どうしたんだよぉ……」


 彼にできることと言ったら、助けを求めあたりを見渡し、馬では役に立たんだろうと肩を落とし、躊躇いがちにカナンの背を撫でることだけだった。


 その温もりを受けながら、カナンはただ泣き続けた。永遠のような慟哭があった。

 それほどまでに死とは恐ろしく、司祭の諭す安寧からは程遠いものに感じられたのだった。


 だが生とは有限であり、慟哭は即ち生である。


 ビルの温もりの他に、肩を叩くものがあった。

 カナンは洟をすすり、泣き声を呑みこんで振り返った。


 ビルがいた。なぜだか泣き顔の幼馴染がいた。

 その後ろに、もう一人いた。ラーナでもタッカー先生でもなかった。けれどカナンは、その人物にはっきりと覚えがあった。


「……さっきの、おじさん?」

「やあ」


 それは馬車から現れたあの男だった。教団の白いマントを背に、その背丈はあろうかという杖を手に、彼は佇んでいた。


 ビルは訳が分からず、男と幼馴染を見比べたが、カナンはそれについて説明しなかった。


「どうして、ここに来たの?」


 しゃくりあげながらカナンは訊ねた。

 すると男は、少女の頭をわしゃわしゃと撫でてから答えた。


「先ほどの件について、どうしても謝っておきたかったんだ。私の従者がひどいことをしたからね」


 これにビルが敏感な反応を示した。赤い目のまま立ちあがり、カナンを庇うように前へ立ったのだ。

 男はカナンから手を離すと、穏やかな目でビルを見下ろした。


「どうやら君にとって、彼女は大切な友人らしい。ならば先程、従者が冒した過ちについては、君にも謝罪させてくれたまえ。すまなかった」


 男は子ども相手に深く頭をさげた。

 ビルは仰天して背後のカナンを一瞥し、彼女も驚いた目で友人を見返した。


 やがて男は頭をあげると「許してくれるかい?」と言った。

 カナンは頷いた。するとビルも、同じ深さで頷きを返した。


「そもそもワタシが悪かったんだもの。それにおじさんは、悪者どころか命の恩人よ。おじさんがあの人を止めてくれなかったら……」


 カナンは己が身をかき抱き小さく震えた。その肩を、男がもう一度やさしく叩いた。


「本当に怖い思いをさせてしまった。従者の過ちは私の過ちだ。深く悔い改め、二度とこのようなことが起こらぬように配慮する」


 子どもたちにはその意味が解せなかったが、男が穏和な人柄であることは知れた。ビルは緊張を解いて「頼むよ、おじさん!」と生意気に言った。


 すると男は生真面目な顔つきで頷いた。


 カナンはと言えば、これ以上この話題について話したくなかったので、改めて男の身なりを眺め、こう問いかけた。


「ところで、おじさんは何をしてる人?」


 身分の高い人間であることは一目瞭然だ。このスヴァルタールヘダにおいて、ログボザのマントは特別な位をもつ者しか身につけることができない上、彼は馬車に乗っていた。本来なら、一市民であるカナンたちが、口を利いていい相手ですらなかったはずだ。


 しかし男は、身分の隔たりなど感じさせない微笑を返した。


「私は司書だ」


 子どもたちは目を丸くして、互いに顔を見合わせた。


「司書って、図書館を守ってる偉い人、だよね……?」

「ああ、そうだ。貴重な書物を守っている」

「「すごい……」」


 二人は同時に感嘆をもらした。


 光芒図書館の司書と言えば、魔法の才を認められた一級の兵士だ。門衛とは比べ物にならない力を秘する、ほんの一握りの実力者である。


 純粋な子どもたちにとって、それは憧憬の対象だった。カナンは先のトラウマを一時忘れ、ビルは熱に浮かされたように男を見つめた。


「ねぇねぇ、おじさん。名前はなんて言うの?」


 ビルがますます目を爛々としながら訊ねた。

 男は変わらず穏和な眼差しで子どもたちを見返した。


「私の名はエズ。エズ・アントスだ」


 この出逢いが、彼らの長い戦いの始まりだった。

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