十四章 カナンとフギ

 闇の中、男たちの双眸が下卑た欲望にひかりを帯びていた。

 天から垂れさがる月明かりが、薄らと武骨な手の輪郭をえがきだす。それがミラの肩にぬっと伸び、悲鳴をあげる間もなく突き倒した。


 男がバタバタと荷車にあがってくる。心臓がパンと強く打ったあと、たちまち縮み上がった。シンが馬乗りになって両腕を掴んだ。ナイフごと押しつけられ、手首の骨が軋んだ。


「お、お願い、やめて……」


 ミラはかすれた声で訴えた。腹のうえで燃える男の熱気が恐ろしかった。


 しかしシンは、上からじっと少女を見下ろしたまま、それ以上のことはしなかった。ギルは一緒にやってきた驢馬を索具で繋ぎとめると、荷台にあがって荷物をあさりはじめた。


「嬢ちゃん、安心しな。大人しくしてりゃ、ひでぇことはしねぇ。大人しくしてりゃあな。びぃびぃ喚いたり、暴れたりしなけりゃ、すぐに住むところも眠るところも見つかるぜ。イイ男も見つかるかもナァ」


 これにギルの乾いた笑いが続いた。

 ミラのまなじりから涙が一滴ながれ落ちた。


「イヤ、です……。はなして、放してください!」


 絶望をしぼりだすように懇願した。しかしその願いが聞き届けられることはついぞなかった。


「お願いしま、ひッ!」


 耳もとを拳がかすめたのだ。荷車を打つにぶい音が、胸の奥にまでじんと響きわたった。


「大人しくしろって言ったよな? ボロクズにして捨てられてぇのか」


「おい、シン」


「うるせぇ。生意気なガキは、たっぷり躾けてやらねぇと。それよりまだか。手も口も縛っちまったほうがいい」


「アイアイ、待てよ。今、見つけたから。ホレっ」


 ヒュンと風をきる音があって、ボトと重いものがシンの手許へ落ちた。


「そうそう、これ……ア?」

「あ、ああッ……!」


 ミラはたまらず悲鳴をあげた。


「……ガァ」


 風をきる音が鳴ったとき、眼前に黒く巨大な影がよぎるのを見ていたからだ。加えて、傍らに落ちてきたものは生温い液体で濡れていたのである。


 ひきつったシンの頬に、すっと明かりが滑りこんだ。

 驢馬が嘶いた。

 闇を、ギルの絶叫がうがった。


「ぎゃあああああッ!」


 ギルが片腕を押さえ、うずくまった。そこから、どくどくと液体が溢れだしていた。手首から先がないのだ!


 シンは恐れに目を見開き、鋼鉄の手錠をにぎったまま転がるギルの手を一瞥した。少女の拘束をとき、闇を裂く明かりを追って辺りを見回した。腰の短刀に這わせた指が、蛆のわいた亡骸のように震える。


 その時、またヒュンと風が切れた。

 シンの頬が赤くそまった。

 明かりではない。血の華が咲いたのだ!


「いでぇッ!」


 シンは痛みに転げまわった。


 そこへまたぼんやりと明かりがさしこんだ。


 チッと微かに炎の爆ぜる音。

 驢馬が恐怖に暴れだす!


 その慌しい荷台で、ミラは倒れたまま、恐るおそる光源を追った。


 すると、そこに丈高い人影があった。


 シンもまたそれを見た。その手が掲げるランプを見た。もう一方に握られた六フィート――いや、七フィートもありそうな大剣を見た。


「な、なんだお前ェ!」


 すっかり色を失ったシンが破れかぶれに叫ぶと、その人物はローブに翳った闇の中から笑いを吐いた。


「アッハハ、ゴメン! うちの子はなかなか聞きわけが悪くてね」


 飄々と放たれた声は、意外にも女性のものだった。

 彼女の提げたランプが、残像を伴いゆらりと揺れる。


 次の瞬間、暴れていた驢馬が不意に倒れ、荷車が大きく上下に揺れた! 索具が怪鳥の咆哮のごとく喧しい破砕音を鳴らした!


 ミラは驚きに半身を起こす。荷車の縁に背中をあずけ、背後におり立ったそれを認めると、息をとめた。


「フガァ……」


 それは巨大な獣だった。あまりにも大きな狼だった。


 明らかに、ただの狼ではなかった。あえかな明かりに濡れ、てらてらと輝く毛皮は息をする翠玉のようだ。闇をにらむ眼は月の色。ならず者の首筋につき立てられた爪牙は、早朝の森を撫でる陽光が形をなしたように白い。


「ダメだよ、フギ。そこまでだ」


 女性が穏やかに言いつけると、みどりの狼は月の双玉を瞬かせ跳び離れた。


 その行方を目で追うことはできなかった。きょろきょろと辺りを見回し、女性のほうへ向きなおったとき、翠の狼はすでにそこにいた。


「ば、バケモノ……ッ!」


 シンはそう吐き捨てると、痛みに悶絶するギルをおいて、転がるように逃げていった。それに気付いたギルが、遅れて荷車から転げ落ちた。


「おや、車は置いてくのかい?」


 驢馬はすでに息絶えていた。ギルはその血にすべりながら逃げていった。

 女はその背中を眺め、肩をすくめると、次いでミラを見た。


「大変だったね。大丈夫かい?」


 女の声音は穏やかだった。不思議とアゾルフを思い起こさせた。

 しかしミラは、その身をかき抱いて、不審の眼差しで見返すのだった。


「おっと、ずいぶん怖がられてるね」


 女は肩をすくめると、無造作に大剣を放りだした。フギと呼ばれた獣が、女の手の中からランプを奪いとりくわえた。女はそうして両手をかかげ、敵意がないことを示してみせた。


 ミラは警戒を解かなかった。

 だが、単にその獣の美しさと賢さに心惹かれていた。


「……その子、すごいのね」

「ん、フギのことかい?」

「うん」

「アッハハ! そうだろ?」


 女は飼い犬を褒められたのがよほど嬉しかったのか、快活に笑って獣の頭を撫ではじめた。


「代償を支払った価値はあるってもんさ」

「代償?」

「ああ、これだよ」


 女がフードを後ろへはね上げた。ミラははっと息を呑んだ。


「驚いたかい?」

「う、うん。ちょっと……」


 女の顔半分は厚い包帯におおわれていたのだった。あらわな肌まで深い裂傷をきざんでいる。右のこめかみから唇にかけて、ミミズのはったような痕が痛々しく腫れあがっていた。


「まあ仕方ないさ。それより、そっちへ行ってもいいかな? キミの戒めを解いてあげたいんだけど」


 ミラは足に繋がられた枷を見る。暗闇の中、ランプの明かりを受けて、鎖だけがぼんやりと浮かび上がっている。足を動かすと重い。痛い。


 やはりまだ女を信じることはできない。謎めいた村の女性、シンとギル。外にでて出会ったのは、みんな恐ろしい者ばかりだった。


 けれど、自分でこの枷を外すことはできそうにない。


『アハハ! あなたは独りじゃなにもできないの』


 そこへまたあの煩わしい声が聞こえる。


 ミラは陰鬱に俯いて、肯定の感情をかえした。

 そして女へ向けて「お願いします」と頭を下げた。


「承知したよ! 任せたまえ。伊達に傭兵はやってないからね」


 女は投げだされた大剣を拾いなおし、フギの口からランプを受けとると、ひょいと荷車にとびのった。

 その軽い身のこなしに驚きつつ、ミラは疑問を投げかける。


「傭兵さんなんですか?」


 女は枷をガチャガチャといじり、首をひねりながら「一応ね」と返した。


「じゃあ、お金が必要なんですか……? あたし、なにも持ってないけど……」


「お金? 欲しいけどねェ。キミからは取れないよ。べつに雇われたわけじゃないし。ワタシが勝手に助けただけ。ああいうの見過ごすと寝覚め悪いからね。まあ、自分のためっていうか。アッハハ!」


 女はなにが可笑しいのかよく笑う。なぜかずっと楽しそうだ。その点、アゾルフよりガゼルに似ている。底の知れない恐ろしさがある。


「アー、鍵ないのかね。あの二人ィ、もってちゃったのかな。ンン、面倒だ。ちょっと目瞑っててくれる?」


「え、あ、はい」


 ミラはなんとなく不安を感じたが、どうせこのままでは逃げられない。女の指示に従い、素直に目を閉じた。


 すると「えいッ」と一つかけ声があって、足許が突きあげられるように揺れた。同時に、巨獣が大樹を食むような破砕音があった。堪らず目をあけると、荷台に大剣の切っ先が沈み、鎖を絶っていた。


 途端に針のような恐怖がせりあがってきた。あと数インチでもズレていれば、ミラの足ごと両断されていたに違いない。


「よォし! これで身動きできるね。輪は残っちゃったけど、まあ我慢してよ」


 一方、女は満足そうだった。傷ついた唇で笑んで、軽々と大剣を肩へかつぐと荷台を降りた。


 ミラは恐るおそる立ち上がった。

 難なく立てた。輪の残った足はやや重く残った鎖がジャラジャラと喧しいが、支障はなさそうだった。


「ほら、掴まって」


 差し出された手につかまり、ミラも荷台を降りた。そこへフギが歩みよってくる。

 ミラは身を強張らせた。


「この子、あたしを食べたりしませんよね……?」


「アッハハ! 大丈夫だよ。フギは賢い。ワタシが殺せと命じなければ、決して食べたりしないさ」


「殺せって言ったりしない……?」


「もちろんだとも。キミがその物騒なものを抜いたりしなければね」


 女は柔和に笑んで、少女の手許を見下ろした。

 ミラは咄嗟にその腕をうしろへ隠した。


「ど、どうして?」


 訊ねると、女は包帯に覆われたこめかみを掻いて苦笑した。


「いやァ、実を言うとね、結構前からあの二人のことをつけてたんだ。なんかおかしなこと話してたんでね。それで君を押さえつけた時だよ。重い音がした」


「そんな音が聞こえるの?」


「集中してたからね。それにフギの様子を見ていても判った。少し警戒したみたいだったから」


「へえ……。すごいのね」


「アッハハ! まあね」


 外は殺伐とした世界だ。あえて兵を買って出るからには、彼女のような超人的な観察力が必要となるのかもしれない。


 自分には何があるだろう。

 ――なにもない。


 ミラは改めて後悔した。こんな危険なところに出てくるべきではなかったと。

 だが、引きかえす旅の準備もない。今更、戻ることはできないのだ。内なる声が言ったとおり、自分ひとりでは何もできない。ようやく思い知らされた。


『なら、その人に付いていくといいわ』


 え?


 その時、不意にあの声が話しかけてきた。愕然とした。初めて貶す以外の言葉をきいたからだ。


 どうして、急に?


 訊ねると一瞬の空白があった。まるで逡巡するかのようだった。


『……姉様がそう仰っているわ。その人は信用できると。決して離れてはいけないと』


 姉様? あたしに姉はいないわよ?


『アハハッ! バカなあなたには解らないわ』


 ミラは首をかしげ、胸に手をおいた。

 すると女がこちらを見下ろし「どうしようか」と呟いた。


「え?」

「これから、どうしようかなぁって。キミ、自分の家はわかる?」


 ミラは答えるべきか迷った。

 ガゼルの笑顔が脳裏によぎり、身がすくむのだった。


 だが、外の世界は恐ろしく過酷だ。誰もが自分のために生きている。スラムと変わらない。この女は窮地を救ってくれたが、それも裏があるのかもしれない。

 それでも帰れる望みがあるのなら、ここに賭けるしかなかった。


「……枢都」


 ミラは意を決して答えた。


 しかし女から返ってきたのは、意外な驚きでなければ、親切な微笑でもなかった。

 彼女はただ神妙な顔つきで虚空へ視線をすべらせ、次いでフギを見下ろした。


「ゴォウ……」


 翠の狼は低くうなった。女は頷いた。


「すまないけど、家までは送っていけそうにないね」


「え?」


「ワタシにも色々と事情があってね。小さな村くらいなら送っていくつもりだったけど、枢都はダメだ」


「ど、どうして?」


 訊ねると、女が乾いた笑みを寄越した。ガゼルのような笑みだった。顔は笑っているが、その双眸に容赦がないのだ。


 ただガゼルと異なっていたのは、彼女がその表情の理由を自ら語ってくれたことだった。


「事情があると言っただろう? そういうときは、多くを訊ねるものじゃない。物事を知るということは、ときに知らぬことよりも恐ろしいんだよ」


 女はそう言うと、背中の大鞘に刃をおさめた。しかしその数瞬の動作のなかで、ミラは何度も超重量の刃にたたき潰されたような気がした。


「ごめんなさい……。でも、あたしが頼れるのは、お姉さんしかいないの」


「ふゥむ。まあ、安心してよ。べつにキミを置いていくつもりはないんだ。だけど、枢都はちょっとね……。フギも目立つし」


 ミラは、獣の月の双眸をのぞきこんだ。


 たしかに、この獣は目立つだろう。まずもって身体が大きすぎる。体高だけで四フィート以上ありそうだ。その上、この色。まるで、森の中へ融けこむために自らを色づけたかのような、この色。人の踏みならしたところを行くには、あまりにも煌びやかに過ぎる。


「じゃあ、お姉さんはどこまで行くつもりだったの。それは訊いてもいいですか?」

「アーン……まあ、いいよ」


 女の反応は複雑だったが、フギと視線を交わらせると、やがて言った。


「……ワタシの行き先は防区だ。会わなくちゃいけない人がいてね。ビルっていうんだけど……知らないよね?」


「うん、知らない。ごめんなさい」


「だよね。べつに謝らなくていい。それより、どうする? 一緒に防区まで行くかい?」


 何気なく向けられた言葉に、ミラは弾かれたように女を見上げた。


「え? いいんですか?」


 訊ねかえすと、女が意外そうに目を細めた。


「ええっと、まあ、キミさえよければね。長い旅になるだろうし、怖い目に遭うかもしれない。手伝ってもらわなくちゃならないことも沢山ある。それでもいいかい?」


 眼前に思わぬ光明がさした。ミラの猜疑は、巌に打ちよせる流れが生みだす泡のような期待へと変わっていた。


「いいです! 連れて行ってください!」


 縋るように首肯すると、女の複雑な表情は、また例の笑みへと戻った。

 そして彼女は厚く乾いた手を、少女へとさしだした。


「そうと決まれば、自己紹介だ! ワタシはカナン」

「あたしはミラです」


 名乗り返したミラは、カナンの骨ばって男らしい手と握手した。

 その上にフギが顎をのせた。夜気に温い喉がグルグルと鳴った。

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