十三章 再来

「入れ」


 アルバーン・ストラスは、マクベル駐屯施設三階の一室に、ヴァニを招きいれた。埃と黴のにおいが充満したそこは、かつては私室だったが、今は誰も使っていないのだそうだ。


 曇った窓を透かしてやってくる光は、乾いた水飴のように暗い。隅に寄せられた執務机は、その脚を見るに元は褐色だったのだろうが、今は色褪せ、濁ったミルクのようだ。ベッドにはマット一つなく〝肉食み〟に中身を食い荒らされたシャラの木を思わせる。いかにも殺風景な部屋だった。


 少年は窓の前に立つと、指示を求めるように振り返った。


「適当なところに座れ」


 促すとヴァニは、躊躇いがちに執務机とセットになった椅子へと腰を下ろした。座り心地を吟味するように、小さく身動ぎする。そのたびに、痛々しい軋みが鼓膜を掻いた。


 アルバーンは、入れ替わるようにして窓の前に立つ。

 その背中に早速、問いが投げられた。


「……こんなところで、なにをするんですか?」

「今日はお前に訊きたいことがあってな」

「え、俺に?」

「ああ。そう、だ!」


 アルバーンは、建付けの悪くなった窓を無理やりこじ開けた。室内に光の帯がなだれ込み、風が渦を巻いて吹きつけた。そこここに溜まった埃が舞い上がり、星のように瞬いた。


 ヴァニが大仰にくしゃみをした。


「俺が訊きたいのは、あれについてだ」


 厳かに目を細めたアルバーンは、東の方角を指さして言った。


 マクベルは、六フィート程度の防壁によって、あたりをぐるりと囲まれている。その上、周囲を林が分布しているため、閉じた印象のある街だ。東西の方角だけが、街道のつくる林のきれ目に地平を見渡すことができた。


 しかし遥か遠方には、地平線を遮るようにして、空をも穿たんばかりの巨躯が佇んでいる。


 光を呑むがごとき漆黒の巨人だ。


 全身をおおう肌は、温い生身でなく黒き鋼。ひとたび息を吹き返せば、その隻眼と肩部には稲妻が宿る。頭頂に頂かれるは冠。黒雲の中に迸る雷弧のごとく、黄金こがねの茨が複雑にねじくれ、今以て威容を示し続けている。


「……オルディバル」


九つ頭スルヴァルト〟を屠った英雄にして、未だ正体の判然としない太古の遺産。


 ヴァニはあれに選ばれた。

 あるいは、彼自身があれを選んだ。


「あれについて、お前はどれだけのことを知っている?」


 訊ねると、すぐさま懐疑的な視線が返された。


「なんで、そんなことを?」

「お前が普通ではないからだ」

「普通じゃない?」


 少年は自身の髪を撫でつけ言った。


「ああ。お前の魔法は、異常な速度で成長している」


 ヴァニの魔法は、とても攻撃能力を期待できるようなものではなかった。枝先を擦ったような怪我を負わせるのが精々だったはずだ。

 それが、たった数日で大怪鳥峯主ホスを、あと一歩のところにまで追いつめてみせたのだ。魔法使いでさえ命を落としかねない、あの峯主に。


 信じがたい事だった。


 ゆえにアルバーンは、彼が人族以外の種族なのではないかと疑いさえしたのだ。

 しかし歴史的資料に記された魔法の熟練者エルフ族は、男女ともに息を呑むほど美しく、その瞳は雨上がりの巌にも似た灰色、耳はそれ自体が装飾品であるがごとき楔型にとがっているという。おまけに背丈が高く、無駄な肉を一切そぎ落としたような痩躯であるとされる。


 一方、ヴァニは醜くはないが、容姿端麗とは言い難い普通の少年だ。瞳は深緑、耳は丸い。遺物堀としてスコップやつるはしを振るってきた所為か、腕にきざまれた筋肉の線は、その童顔と不釣り合いに深く、逆に背丈のほうは顔立ちと調和がとれている。


 明らかにエルフのそれとは違う。


 そもそもエルフやドワーフが、この一帯に残っていたとするなら、クルゲの里以外でも、それに類する噂や伝承が残っていて然るべきだろう。

 加えてヴァニは、これまで魔法に関わってこなかったわけではない。彼には魔法使いを志し、鍛錬に努めてきた時期がたしかに存在したのだ。


 少年は自身の手のひらを見下ろした。アルバーンは、そこに微かな震えがあるのを見てとった。押し黙ったヴァニは、まるで手のひらに杭を打ち震えを止めようとでもするように、決して視線をあげなかった。


「思い当たる節があるな?」


 訊ねると、少年の眼差しがようやくアルバーンを見上げた。その瞳は陰鬱にくもり、恐れに揺らいでいた。


「……はい」

「なにを知っている?」

「……」


 少年はすぐに答えず、憂えた目でとおい巨神を眺めた。


 アルバーンは待った。じっと佇む少年の双肩に、冷徹な彼ですらも躊躇するほどの重みが透けて見えたからだった。


 やがてヴァニは、手を組んで俯くと、ごちるように言った。


「……死ぬんだ」

「なに?」

「俺、死ぬんですよ。いずれ肉体を失って、オルディバルと一つになるんです」


 瞬間、アルバーンは色を失った。


「死ぬだと……」


「はい。オルディバルには、以前の搭乗者の意識が残ってました。たぶん魂みたいなもの。あの日、決戦に臨む直前、その人に言われたんです。こうなる覚悟はあるかって」


 少年の話はまったく不可解で要領を得なかった。


 以前の搭乗者の意識があった? それが言った?


 意味が解らなかった。己の抱いた恐怖が、とんちんかんな思い違いなのではないかとさえ思えた。

 だが、少年から立ちのぼる悲愴の気配はたしかだった。最悪の事態が近づきつつあるのだと解った。


 オルディバルを操縦できるのは、搭乗者登録を行ったヴァニだけだ。情報を更新することも可能らしいが、そのためには一ヶ月の猶予期間を必要とするという。ゆえに新たな搭乗者がたてられることなく、ヴァニには特殊階級が与えられたのだ。


 その唯一の希望が潰えようとしている。


 彼の死は、すなわちミズィガオロスの滅びを意味する。オルディバルの力なくして地上は存続できない。スルヴァルト級の脅威に対抗できるのは、あの黒鎧――ひいてはこの少年だけなのだ。


「……バカが。なぜ、そんな重要なことを黙っていた」


 胃の腑でぐつぐつと煮え立つ怒りを押しとどめ、アルバーンは少年を見据えた。

 視線は交わらないまま、鬱憤を吐きだすような声だけが返ってくる。


「……言っても仕方ないから。オルディバルは、遺物は、ちっとも解らないモンでしょ。だから、こんなこと言ったって、みんなを不安にさせるだけだと――」


 言い終えるより前に、アルバーンはその胸倉を掴んでいた。ようやく窺えた瞳は、驚愕と怯懦にぬれていた。


「このクソガキがァ! そんな腑抜けた覚悟で……魔法使いに与することを選んだのか。そんな悲愴な決意で、命を守ると嘯くのか。お前が守りたいと思うものは、今しかないのかッ!」


「それは……」


「お前は傲慢だ」


 アルバーンは少年を突き飛ばし、冷たく見下ろした。


「お前は力を手にした。オルディバルという強大な力だ。スルヴァルト級に対抗するために、欠かすことのできん絶対の力だ。だが、その力はお前だけのものなのか。責任を負うのは、お前だけでなくてはいかんのか。残酷な現実を目の前にして、悩まなければならんのは、お前だけなのか」


 呆けたような眼差しを返す少年を前に、アルバーンは自ら首を左右に振ってみせた。


「そうではないはずだ。オルディバルは、ミズィガオロスの未来を左右する力だ。そしてお前は、魔法使いとしての道を選んだ。それはお前が、この世界を守ると誓った約束であると同時に、我々魔法使いにその力を託したということであるはずだ。オルディバルに危険があるのなら、それについて悩み、責任を負うのもまた、お前だけでなく我々全体でなければならん」


 震えたヴァニのまなじりに、少しずつ涙が溜まっていった。あどけなさを残した相貌が、見る見るうちに歪んでいった。


 こんなものを今まで一人で抱えてきたとは、まったく以てどうしようもないクソガキだ。


 アルバーンは怒りを忘れ、呆れかえって嘆息した。そこに少年の嗚咽が重なった。


「この事は上に報告する。俺たちだけが頭を捻っていても仕方がない。全員で考えなくてはならん。今を守るだけではない、明日を守る答えを。……いいな?」


 魔法の鬼教官は、相手が泣こうが喚こうが容赦しない。如何なるときも冷たく厳しい口調を崩さなかった。

 泣きじゃくる少年は、かろうじて頷きと判る反応を返した。

 アルバーンはその様を見ながら考えた。


 だとすれば、この異様な成長は、オルディバルの影響とみて間違いないだろうな。


 それがどの程度の段階を意味するのかは不明だ。だが、早急な対処が必要なのは間違いない。すぐにでもヴァニの異変を止めなくてはならない。


「今日の訓練は一時中断――」


 ところが、暇を告げようとしたアルバーンの目に破滅の気配が凝った。


 街道の遥か向こう、地の果てに達するほど遠いところだった。南北をうめ尽くす、怪物の牙のごとき稜線――コトゥルマス山脈、その麓だった。二つの河が渦をまき、奈落に激流を落とす深淵だった。


 そこに突如、濁流が噴きあがったのだ。凍てついた魂とともに眠る死と安寧の神ヘロウが、天に怒り狂い、その御手を突きだすがごとく。


「莫迦な……」


 遠目にも水のすべり落ちる様が見てとれた。高く虚空へと噴きあがった濁流は、ついに天と口づけを交わすことなく、果てたように地上を叩きつけたのだ。


 しかし恐るべきは、その流れが生みだす厄災だけに留まらなかった。


 霧のように舞い上がった飛沫の中、濁流が地に落ちてなお、そこには影が佇んでいた。あるはずのない赤黒い岩山が鎮座していたのだ。


 たちまち陰鬱な笛の音が届いた。魔法使いならば、誰もが知った音色だった。アオスゴルが滅びる以前、それは「砦を放棄せよ」を意味し、〝敗北の唄〟と呼ばれてきた。だが砦が滅びた今、それは英雄に助けを乞う哀れな断末魔のようにしか思われなかった。


 大地が波打ち、緩やかに揺れ始めた。

 赤黒い岩山の両端が割れた。それが霧の中で蜃気楼のように揺らぎ蠢いた。


 揺れに気付いたヴァニが面をあげた。涙に濡れた無垢な相貌が、いっそう痛々しく動揺に歪んだ。

 それを一瞥したアルバーンは、頬の裏を噛み、憎しみと恐れをもって岩山を睥睨した。


 運命はなんとしても、このガキを殺すつもりなのか。


 割れた岩肌が、弧をえがき大地を叩いた。

 スルヴァルト級ヨトゥミリスの再来だった。

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