二十章 狼煙を上げよ

 手刀の一振りで風がどよめく。

 編みあわされた風が二ヤードもの太刀となり、ヨトゥミリスの四肢と頭部をなぎ払った。


 エヴァンは〝九つ頭〟を一瞥する。

 土塊の雨をふらしながら、氷の塔めいた足が地面を離れたところだった。

 大きく股がひらかれてゆく。

 まるで天と天をつなぐ虹めいたアーチを、その体躯で描き出そうとでもいうように。


 やがて、マクベルへ至る街道のど真ん中に、それが振り下ろされた。

 瞬間、ミズィガオロスは戦慄する。天地を裏返すかのように。


 エヴァンは風の力で地上から離れた。

 ホルクスもまた跳躍し、難を逃れた。


 しかし破滅の余波は、ただ地を揺るがすだけに留まらなかった。着地と同時に行き場を失くした大気は放射状の衝撃波となって飛散し、〝九つ頭〟から発せられる冷気を孕んで、地上を凍りつかせるのだ。


 冷気のダウンバーストが、地上を冥府世界ニヴァルタルヘダへと一変させる。


 着地点は半マイルばかりも先だが、寒波はエヴァンたちの許にまで襲いかかった。

 まるで物理法則を無視した、平地を滑りおちる雪崩のように、白い煙が押し寄せる。


 ホルクスはすでに役目を理解していた。彼はエヴァンの指示を受けるより前に、詠唱を終えていた。

 鞭のように手をうち振ると、その手から炎の帳が編みだされた。それがエヴァンとホルクスの周囲を旋回する輪となって、冷気を弾き返した。


 寒波がおさまり炎の輪が散った時、二人は全身を濡らす雨粒のいきおいが衰えてきたことに気付いた。


 雨の煙霧もまた薄まり、小型ヨトゥミリスの数が倍以上も目につくようになっていた。今しがた切り落としたばかりだというのに、目視できる範囲で三つの紺青の壁がそそりたっているのが判った。


 そこへ次なる詠唱を終えたホルクスが、三つ又の蛇めいた炎を吐き出した。それぞれが雨の間隙をぬい、ねらい過たず三の頭部をやき焦がした。

 ヨトゥミリスはどれも絶叫し、膝をついた。頭をかき毟り鎮火を試みるが、魔法によって生じた炎は、使い手が意識を向ける限り、そう簡単に消えることはない。


 それをエヴァンが介錯した。

 すれ違いざまに風の太刀を三倍にも伸ばし、一挙に頸を刈り取ったのである。


 その後、彼らが直面したのは、大瀑布へと続く大河だった。


〝九つ頭〟の引き起こす寒波で表面は凍っているものの、所詮、薄氷に過ぎない。走って渡ろうとすれば、冷えた流れの中に真っ逆さまだ。加えてそれは、今や〝九つ頭〟の侵攻によって北も南もなくなった一本の巨大な大河と化しており、一息で渡り切るには距離が長すぎた。中洲へと続いていた橋も今ではみる影もなく、アオスゴルの残骸さえ、その一部が大河の中からかろうじて頭を出しているといった状況だ。


 その時、〝九つ頭〟が次の一歩をふみ出した。

 脳まで揺らぐ大地の鳴動に三半規管を狂わされ、一帯は雨さえ結晶と化して時の停滞をひき起こした。


 距離がひらいたことで、寒波は中途で白い煙と化して霧散したが、それでも念のため東へ逸れる必要があった。


 僅かに届いた寒波は、それでも身震いと頭痛を誘発するほどの冷気を孕んでいた。


「速度を上げる。ついてこられるか?」


 問うと、ホルクスは微苦笑を浮かべながらも頷きを返した。


 途端にエヴァンのマントの裾が翻った。中から教会の鐘ほどもあるみどりの玉が吐きだされ、螺旋を描きながら宙を舞った。


 ホルクスは魔法に意識を集中し、大きく膝を折った。直後、発条のように手足を伸ばし跳躍した。その姿たるや地上から天へと迸る雷光のようだったが、エヴァンはさらに先を行き、大河の向こう側へ降り立とうとしていた。


 なんとかその背に追い縋ろうとする。しかし風がそれを阻む。不可視の鉄槌が打ちつけてくるようだ。強化魔法を施していても全身が軋むように痛む。


 もはや目を開けてすらいられない。凍えた風が、燃えているようにさえ感じられた。口の中は灰のようだった。


 暗闇の中で雷鳴が轟き、瞼を貫き、目を焼いた。

 数瞬の後、ようやく身体が落下を始める。


 恐るおそる目をひらくと、一瞬、稲光が視界に焼きついた。滲むように色彩が戻ってくる。凄まじいいきおいで大地が迫ってきていた。


 慌てて魔法に集中したホルクスは、なんとか氷の破片をはね散らして前転。衝撃を殺した。しかし姿勢が安定せず、再スタートにやや遅れを生じた。


 一方、いち早く降り立ったエヴァンは、風に衝撃を吸収させ減速もなく、氷上に碧の残像を滑らせた。みるみるうちに、ホルクスとの距離はひらいていった。


 それでもホルクスは循環する魔力を燃やしながら、徐々に出力を上げ班長との距離を縮められるよう努めた。


 やがて二人の進路はわずかに逸れ、南西の方角へむき始める。


 真南には東から続く山脈の尾が続いており、こちらが林で敵を待ち伏せるならともかく、逆に敵が林の中へ潜んでいたら多大なリスクとなってしまうためだ。


 油断なく辺りを見回しながらエヴァンは、バヒル班の面々が林の中に留まっていないかを探った。しかし、外から状況を把握するのは容易でない。それらしき人影を見ることは適わなかった。


 今は信じることしかできない。

 ドゥエタス少将の許で鍛え上げられたバヒル少尉の率いる班なのだから、そう易々と屍にはならないだろうと。


 すでに林から離脱していたとして、彼らはどこへ向かっただろうか。


 おそらく〝九つ頭〟へ接近するリスクは避けるはずだ。北方には、東端から枝分かれした山脈も続いている。海を渡ろうとするかどうかはともかく、わざわざ北を目指す可能性は限りなく低いと見ていいだろう。


 合流できればいいが。


 林から転がってきた枯れ枝を蹴散らしながら、碧の風が雨粒を切り裂く。

 

 エヴァンはさらなる加速を考慮した。

 一方で、逡巡してもいた。すでに魔力の消耗を感じはじめていたからだ。背全体が鉄の板を埋めこまれたように凝り固まっている。精神面の摩耗は軽度だが、〝九つ頭〟を前にした影響か、常にわずかな恐怖心が付きまとい、喉をひくつかせていた。川を渡る際の急加速はやはり逸り過ぎたかもしれない。


 背後を一瞥すると、跳ね上がる泥の中にホルクスの姿がある。

 その影は今や、エヴァンの乾いた手のひらより小さく、暗雲の間隙から覗く光のように弱々しく見えた。


 エヴァンは心を決めた。

 徐々に速度を落としながら、荒い息をつくホルクスを気遣ってやったのだった。


「ホルクス、よく付いてきてくれた。〝九つ頭〟の背後からは逃れられた。我々はまだ巨人と戦わねばならん。ここから先は貴様の足に合わせる」

「しかし……」


 苦悶に表情を歪ませたホルクスは、二つの異形に目を転じた。


 その時、エヴァンへ返すはずの言葉は散りぢりに砕けた。酸素を求める肺の動きさえ止まったかもしれない。


 エヴァンもそれを見て、息を止めていた。すぐにホルクスの許へ風のマントを伸ばし飛翔した。


「莫迦な……」


 呟きが風に融けるころ、西の空に黒煙がふき溜まった。


 次の瞬間、黒鎧の巨人がエブンジュナの森からほど近いところに降り立った。

 大地が激しい降下と上昇をくり返した。

 左手で林の木々がさざめき、枝がメキメキと軋んだ。林を彩る緑の葉が雪のように散った。


 揺れがおさまるのを待って、エヴァンたちは降り立った。


 恐るおそる黒鎧の巨人へ視線を滑らせる。


 おかしなことが続いた。

 それを指摘したのは、先に立ち上がったホルクスのほうだった。


「中尉、あの黒い巨人……北へ移動してませんか?」

「ああ……」


 答えながら、エヴァンはホルクスの言葉に含意された意味を斟酌した。


 おかしなことは、黒鎧が北へ移動していることではなかった。

 あれが〝九つ頭〟に決して背を向けないこと、そして北へ移動を始めた黒鎧を、〝九つ頭〟が追っていることだ。


 いつしかエヴァンたちは足を止め、二つの巨躯の動向に目をうばわれていた。

 それらの様に美しさを感じたからではない。体力が底を尽きてしまったわけでもない。


 ただ、なにか予感のようなものがあったのかもしれない。


 その予感は、雨が止み、雲がちぎれ、光の粒子が帯となって地へ垂れたとき現出した。


 天から生えた稲穂のような黄金こがね色の光が、黒鎧の肩をするりと撫でたのと同時、塔めいた黒き脚はふみ出されたのだ。


 それが軸となり、弾かれたように拳が繰り出された。


 氷の鎧に覆われた〝九つ頭〟の胸へと!


「まさか……」


 エヴァンの中でジリっと希望の火花が弾けた。

 砕け散った氷の鎧の破片を、その超人的な視力が一つ、二つと捉える度、胸の中の炎は大きくなっていった。


「あいつ、あいつ、やりやがった……!」


 感極まってとびはねたのは、ホルクスだった。

 トネリコの杖を握りしめたエヴァンは、ゆっくりと立ち上がり、魔法に意識を集中した。


「ホルクス、進路を北西へ変更するぞ」

「え?」


 その一言で、光明に喜びを開花させたホルクスの表情は萎れた。

 彼はエヴァンの正気をたしかめるように北西へ向き直り、唸りをあげる氷山めいた巨体を凝視した。


「ち、中尉……。まさか、あのバカでかい背中が見えないわけじゃないですよね?」

「無論だ。多少迂回する必要はあるが、我々は北西へ向かうべきだと思う。あの黒鎧が味方かどうかは定かでないにしても、可能性が生じた以上は、あれをみすみす〝九つ頭〟の餌食にするわけにはいかん。加勢する」


 ホルクスは大河横断直前の出来事をおもい返した。


〝九つ頭〟の一歩は、一帯をニヴァルタルヘダめいた氷の世界へと変える。

 至近距離にまで接近すれば、小さな人族など瞬く間に氷の彫像と化すだろう。炎魔法で寒波を遮断できたとしても、超重量から吹きあれる衝撃波まで防ぐことは不可能だ。


 そもそもあの山のような巨体に対して、魔法が有効なのか。なんのために加勢が必要だというのだ?


 疑問に答えるように、エヴァンが言葉を紡いだ。


「奴は際限なく小型をうみ出す。それが黒鎧の弊害となるかもしれん。我々はそれを討つ」

「しかし……」


 たしかにエヴァンの言う通り、小型も群れをなせば黒鎧の障害となり得るかもしれない。どちらが人族の味方なのか、あるいはどちらも味方でないのか――それは不明だが、西から現れたイレギュラーのほうに人類の未来を賭けるのは、ホルクスとしても自然な選択に思える。


 だが、あの二体の巨躯に接近するのはリスクが高すぎる。己の命を賭してまでやらねばならないことなのか。自分でなければならないことなのか――。


 ホルクスは自らを試すように、エヴァンの眼差しと己のそれを交わらせた。その瞳に映るのは自分自身の姿。隣にも背後にも仲間はおらず、怯えた自分だけが情けなく見返してくる。


 ホルクスは頭をふって、楡の森をとびだしたつい数分ばかり前のことを思い出した。


 誰もがふみ出そうとしなかった時、自分だけがエヴァンに付いて行くことを決めたのではなかったか。一人でも多くの同胞の命を救いだそうとするエヴァンの意志に感化されて。


 もう捨てちまったのか、俺は? あの瞬間の自分を。


『貴様は自分の生き方を決めたのだ』


 エヴァンの言葉が思い出される。


 震える足が踏み出す時、あの言葉がどれだけこの胸を奮わせたか。俺はもう忘れちまったのか?

 俺はなんのために魔法使いになった?


 日々失われてゆく命や戦いの恐怖を前にして、大切なものを忘れているのではないか。魔法使いとなった者なら誰しも、たとえ曖昧模糊であろうと「人を救いたい」と志を抱いたはずではないか。


 この作戦がよい結果を招くかどうかは分からない。分からないが、海を渡ろうと言ったエヴァンを信じてやって来た以上、無謀は承知だったはずだ。今更、踵を返したところで、得られるものはなにもない。


 ホルクスは一度視線を下げてから、改めてエヴァンの眼差しを見上げた。


「中尉、恐れながら一つ。北へ向かうにはまだ早いかと」

「なに?」

「仲間を集めるべきです。悠長にはやっていられませんが、このままでは無駄死にするだけですよ。黒鎧の加勢を買って出るにも、俺たちだけじゃ戦力になりません」


 肌が白むほど握りこんだ拳の中には、恐怖が押しこめられている。一度拳を解けば最後、また逃げ出してしまうかもしれない。だからホルクスは、決して拳を解かなかった。


 エヴァンはそんな部下を前にして、自らもまた冷静さを欠いていたことに気付かされた。徒に命をなげ出すのは、師のおしえにも反することだ。


 深く息をはき、部下の思いを受けとめるように拳を握りこむ。


「貴様の言う通りだ。仲間を探そう。今すぐに」


 時間が惜しい。そうは思いながらも、ホルクスの言葉を無下にすれば、どんな結果が待っているかは目に見えている。


 耐えてくれ、黒鎧……。


 エヴァンは巨人たちから踵を返した。


 するとその瞬間、ようやくおさまったと思われていた遠雷が心房をまさぐった。

 エヴァンは晴れ間ののぞき始めた空を見上げ、足を止めていた。


 まだ雷が……? もう一雨来るのか?


 首を傾げたのも束の間、次の雷鳴が轟いた。

 ホルクスが辺りを見渡し、眉をひそめた。


「中尉、これって、もしかして……」


 言葉を遮るように、別の方角からも音が届いた。

 それは雷鳴ではなかった。

 互いに響き合い、衝突し、重なる音色だった。


 不思議と胸震わすこの音色。

 知らぬ魔法使いなどいるはずがない。


 エヴァンはベルトに手を伸ばした。その指先が濡れた角笛の表面をなぞった。


「ああ、雷鳴ではない」


 ミズィガオロスの大地に次々と、旋律の狼煙が上がった。

 胃の腑を揺るがし「集え、集え」と大地が唸る。

 それは徐々に北へ、北へと移動し、互いに共鳴し合って空をも揺るがす大音声へと至ろうとしていた。


「……ホルクス、どうやら魔法使いたちの心はすでに定まっていたらしいな」

「え、ええ……。そのようですね」


 方々で角笛の音が鳴り響く。

 魔法使いたちを招集する〝勝利の唄〟が、人々の怒号を孕んで膨張してゆく――。

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