十九章 光が闇を穿つとき

「嘘、でしょ……。巨人が、空を?」


 信じ難い光景があった。


 今後の身のふり方を考えるつもりで、周囲の状況を確認していたカルティナの目に、突如として、その事象は出現したのだ。


 西から現れた黒鎧まとう巨人が、山へ跳びかかったと思ったのも束の間、背中から炎と黒煙の塊をふきながら宙を馳せたのである。


 空間がうねり、風が燃え荒び、雲が震えた。


 それすらも刹那の出来事にすぎなかった。

 黒鎧の巨人は、すでに山の稜線を沿うようにして、緩やかな放物線を描き始めていた。


「衝撃に備えて!」


 カルティナの怒号が、エブンジュナを切り裂いたのとほぼ同時だった。

 マクベルとエブンジュナを結ぶ街道上に、その塔にも見まがわん双脚が叩き下ろされたのは。


 大地が震撼した。


 魔法使いたちは枝にしがみつき、ファゼルは負傷した女性を、ハリュトスはディーンを抱えこんだ。


 殴りつけるような風が吹いた。枝が大きくしなり、メキメキと軋んだ。マントが意思をもったように暴れ、しずくを払い飛ばした。幾つかの樹木がたたき割られ、断末魔を鳴らした。それすらも風の音が押しつぶした。鼓膜に火を焚かれているかのようだった。


 ただひたすら耐えるしかなかった。ハリュトスとディーンを支える枝の根元が、爆ぜるように痛々しく裂けた。もはや祈るしかなかった。


「う、あ……治まったか……?」


 風の神は小さき者の祈りに応えたようだった。枝は皮一枚でなんとか繋がり、あとには肌を撫でるような緩やかな風が吹いた。


 ところが、彼らが迎えようとしていたのは、最悪の局面だった。


「まずいぞ……」


 なんと巣穴へ戻っていった〝肉食み〟たちが、仰天して外へとまろび出てきたのである。混乱した何匹かは、すでにシャラの樹皮を這いあがり始めていた!


「総員、強化魔法展開! 樹上から西の街道へ移動、〝肉食み〟との接触をできる限り避けて!」


 恐怖に顔を引きつらせながら、魔法使いは口々に詠唱を紡いだ。

 陣形もなにもなかった。仲間の安否を気遣う間もなかった。詠唱を終えた者たちは、すぐさま西へ跳躍した。


 カルティナが街道を示したのには理由があった。黒鎧の巨人が飛翔する寸前、彼女は街道を走る二つの人影を見ていたのだ。


 雨のいきおいが弱まったことで、魔法使いの黒々とした身なりは、一目瞭然だった。


 問題は距離だ。

 街道までの距離は、直線にしておよそ一マイルばかりある。魔法の力があれば、難儀する距離ではない。


 だが、この短時間で回復できた魔力などたかが知れている。付与式を展開し終えたカルティナの口中には、薄らと鉄の味が滲み、肉体損傷のはじまりを告げていた。脳裏では、こちらへ向けて手を伸ばすリッキルのシルエットが己のそれと重なり、胸を鷲掴むような恐怖を間断なく呼び起こしていた。


 それでも立ち止まれるはずがない。

 一度は牙を収めたカルハブラの悪魔たちは、泡立つ泥のごとく方々を埋め尽くし始めていた。


 カルティナたちが推進力を得るために幹や枝を蹴れば、それに反応して〝肉食にくはみ〟は標的を定めるだろう。樹上を移動していけば、すぐに追いつかれることはないはずだが、着地点に混乱した〝肉食み〟がいる場合も考えられる。無傷で乗り切るのは難しい場面だ。


 真っ先に損傷するとなれば足。カルティナは魔法で移動できるが、他の魔法使いたちは強化魔法を用い、自身の足で移動しなくてはならない。またリッキルのように自然のあぎとに捉えられる者が現れないとも限らない。カルティナは嫌な汗を拭いながら、三本目の枝を蹴った。


 と同時に、背後のシャラの木が稲妻に撃たれたかのように、音をたてて崩れ落ちた。


「なに……ッ!」


 見れば、〝肉食み〟たちは、魔法使いの超人的な動きに対応し切れておらず、遅れて樹上に姿をあらわしては茫然としている様子だ。


 ところが地上では、身の毛もよだつ異形が、カルティナたちを猛追していた。


 それは両足を失い、眼球を喰いつくされて褐色の涙を流す、あの大型ヨトゥミリスだった。残った両腕で殺戮の地を這いながら、木々をなぎ倒し迫ってくる。


 なにが魔法使いの居所を報せているのかは不明だが、それが人族を滅ぼさんとする使命の許に暴走しているのは明らかだった。


 カルティナは悲鳴を押し殺し、魔法に意識を傾けた。出力を上げる。魔力の消耗負荷によって、筋肉の断裂するような痛みが電流のように背筋を焼いたが、そんなものに構ってはいられなかった。


 満身創痍のヨトゥミリスは、己の腕だけでなく、地を馳せる〝肉食み〟の波に乗りながら移動し、すでに魔法使いたちの足許で声なき咆哮を上げていたのだ。


 魔法使いたちは色を失った。


 ハリュトスの着地点となるはずだった樹木がへし折られ足場が失せた。

 折った樹木を咥えこんだヨトゥミリスは、ブレーキをかけた際の回転を攻撃のエネルギーに転換、自然の棍を振り回し、カルティナとファゼルの着地点まで奪い去った。


 街道はもう五ヤードばかり先に見えていた。


 だが魔法使いたちは、すでに重力の網のなか。悪魔たちのひしめく冥府へと真っ逆さまだ。


 ただ一人、カルティナだけがこの窮地を乗り越えることができた。


 しかしそれは、仲間たちを見捨てることに他ならない。マクベルに置いてきてしまったバエンの生死は不明のまま。助けを求めて手を伸ばしたリッキルは、自然の摂理の中に呑まれ尽きはてた。


 繰り返すのか。


 選択肢はただ一つ。カルティナの位置からでは、付与式の性質上、ハリュトスやファゼル、そして彼らの担いだ者たちのところまで風の絨毯を拡げることはできない。自分だけが生き残った上で、多くの命を救うために、この生を費やすべきなのだ。


 死の大地が迫ってくる。

 カルティナは決断できなかった。


 そして三人の魔法使いは、の上に着地した。


 強化魔法を施した二人はともかく、カルティナは突然の出来事に対処がおくれ、危うく両足を砕くところだった。


「急げ、もうすぐだ!」


 木々の間隙に、中肉中背の壮年の男が立っていた。その手に杖、マントから覗く胸当ては漆黒の鴉鉄からすがね。魔法使いだ。


 足許の氷は彼がやったものだとすぐに解った。氷の中では時を止めた〝肉食み〟たちが高揚に大きく口器を拡げていた。その上を滑るように、新たな〝肉食みがやって来る。


 カルティナたちは走った。死にもの狂いで走った。氷に滑り、前へつんのめりながら、息を切らして駆けぬけた。


 壮年の魔法使いの横をとおり過ぎる時、不意に視界がひらけた。

 街道へ出たのだ。

 ハリュトスとファゼルも、無事に悪魔の森を突破していた。

 振り返ると、カルハブラの悪魔たちは不可視の壁にぶち当たったように、所在無げにシャラの木を這い上がっていくところだった。


 大型ヨトゥミリスは、あの一撃を最期に果てたのか。森の中、こんもりと盛り上がった褐色のシルエットは、もうぴくりとも動かなかった。


「危ないところだったな。よく切り抜けた」


 三人の背中へ労いの声がかかった。

 呼吸を整え、改めてその姿を見れば、ようやく彼が何者かを判別できた。


「……いえ、ドゥエタス少将のお力がなければ、今頃〝肉食み〟の中に溺れていましたわ」


 ドゥエタス少将。アオスゴル防衛部隊を指揮する男だ。


 その傍らにはもう一人、若い痩身の魔法使いが佇んでいる。

 彼は毛虫のような太い眉をぴくりともせず唐突に「ザウィル伍長であります」と名乗った。


 樹上から見た二つの人影に間違いなさそうだ。

 カルティナはこれを機に、部下たちの分まで自己紹介をし、ここに至るまでの経緯を簡潔に伝えた。


 ドゥエタスもあちら側の経緯を語ってくれた。


 アオスゴル放棄の後、北方の山岳地帯に陣を敷いた彼らは、誘導した大型ヨトゥミリスに奇襲を仕かけたそうだ。

 ところが、結果は失敗に終わった。大型を仕留めはしたものの、四人の犠牲を出してしまったのである。


 その後、〝九つ頭〟を目撃し、北の山脈を越えようとしたが、折悪しく中型と遭遇したことで、西へ向かわざるを得なくなった。

 そこからはカルティナたちと同じだ。黒鎧の巨神に退路をたたれ、南へ引き返してきたのだという。


「お二人のこの後のご予定は?」


 問うと、二人は顔を見合わせ頭を振った。


「西からもあんなものが現れてしまった以上、今や領主の意見を仰ぐこともできなくなった。逃走するより他ないが……」


 ドゥエタスはそれ以上言葉にせず、地をめ下ろした。

 その肩には、彼の絶望が黒い靄となって立ち昇っているように見えた。


 防区北方を管轄する領邦君主ボウダヌスは、防区と枢区を隔てる西の防衛線に居を構えている。西の道が断たれた以上、その声を聞くことは適わないのだ。


 カルティナにもドゥエタスの気持ちはよく分かった。彼女とて、途方に暮れた末、ドゥエタスとザウィルに合流することを選んだのだ。


 胸に巣食うのは深い絶望ばかりである。人族の小さな身体で、あれらのヨトゥミリスを討伐できる見込みはない。


 言葉を失くしたカルティナは、行動の手がかりを探るように北方へ視線をうつした。


 ちょうど、空に蓋をした雨雲が千切れ、光のヴェールが下りたところだった。

 一つ、二つと天の帳が増えてゆく。


 やがてそれが黒鎧の肩にかかり、雷をめぐらす球体を燃えるように輝かせた。


 黒鎧が大きな一歩を踏みだしたのは、それと同時だったろうか。

 あるいは、重い一歩を踏みだした直後に放たれたストレートが、それと同時だったのか。


「え……?」


 いずれにせよ、それが人類にとって想定外の出来事であることに変わりはなかった。


 唖然としたカルティナは、吸い寄せられるように踏みだしていた。


〝九つ頭〟の胸を覆っていた氷の鎧が、ぱらぱらと地上へ降りそそいだ。遅れて雷鳴じみた衝撃音が雑音をふきはらった。


「……あれを、あれをご覧になって」


 カルティナの上擦った声を聞くまでもなく、仲間たちも北方の情景に見入っていた。


〝古の時代〟の絵画が現存していれば、その中にこの一場面があったのではないだろうか。


 人々の脳裏に〝九つ頭〟の恐怖が刷りこまれたように、黒鎧の想定外の一撃は、見た者の記憶に焼きついた。


 凍てついた心に、稲妻が歪んだ線をひき火花を放った。冷気に凍えた蝋燭の芯に、そっとやわい光が呼びおこされた。


 とはいえ、〝九つ頭〟への攻撃だけで、黒鎧をこちらの味方と断定するのは早計である。希望的観測に躍らされれば、却って滅びを招くことになりかねない。


 ただ、このまま〝九つ頭〟と黒鎧が争えば、相打ちになる可能性が出てきたのも事実だ。そうならなかったとしても、残ったほうが大きなダメージを負うことになるのは必至だろう。

 満身創痍の相手ならば、いかに強大であっても倒すことができるかもしれない。


 黒い靄のなかに隠されていた光が隅々へしみ渡ってゆく。希望の芽がむくむくと育ってゆくのが判る。


 仲間たちを見渡すと、彼らの面差しにも血の気が戻ってきた。瞳の中を、みるみるうちに星めいた光がうめてゆく。吐きだされる息にも熱がこもっているようだ。


「……私はこれより北へ向かう」


 そう言ったのはドゥエタスだった。


「仲間を招集し、北へ向かおうと思う。奴らが相打てばそれでよし。そうならなかった時のために、できるだけ多くの仲間が必要だ。ザウィル、笛は吹けるな?」

「もちろんです」


 感情を表にださないかに見えたザウィルも、その声に熱いものを混じらせていた。どうやら北へ向かうのに異論はないようだった。


「お前たちも来てくれ。人族に存亡の望みがあるのなら、ここしかない」


 ハリュトスたちの視線がカルティナに集まった。

 カルティナはおもむろに頷きを返したが、進言すべきことがあるのは忘れなかった。


「ドゥエタス少将、ファゼル一等兵並びにディーン二等兵、そして彼女だけは南へ向かわせてください。ディーン二等兵と彼女には安静にできる環境が必要ですし、治癒の心得のある者がついているべきですわ。避難民の中には傷ついた者もいるはず。また彼らには先導者も必要となりましょうから」


 カルティナの進言を聞き届けたドゥエタスは迷いなく顎を引き、ファゼルへ歩み寄るとその肩に手を置いた。


「ファゼルといったな。頼めるか?」

「お任せください」


 ドゥエタスからの指令を快諾したファゼルは、一抹の逡巡も見せず女性を担ぎ直した。

 だが、さすがに彼一人で、ディーンまで負ってゆくことはできない。


「……俺のことなら、心配いりません。もう自分で動けますから」


 ハリュトスの肩の上から、ディーンの声がした。

 いつの間にか目を覚ましていたようだ。街道へおり立つと、まだ足許は覚束ない風だったが、しゃんと立ってみせた。顔色も蒼褪めているものの、声には力強い響きがあった。


「それどころか、俺も戦いたいくらいです」

「いえ、あなたは休むべきですわ」


 実際のところ、あの二体のどちらかと戦うとなれば、弱った魔法使いの力さえ借りたいところだ。


 だが、命は費やすものではない。生きつづけて然るべきものだ。


 少なくとも今のカルティナはそう思える。エヴァンがそう思い続けてきたように。目の前に生きる命に、これからも生きていて欲しいと願うのだ。


 ディーンは小さく肩をすくめたが、これ以上カルティナに反駁することはなかった。ただ一同を見渡すと「どうか生き残ってください」と小さな声で言った。


 それからファゼルとディーンは、仲間たちへ踵を返した。疲労を感じさせない足取りで街道をかけ出してゆく。さすが過酷な訓練を受け生きぬいてきた魔法使いたちだ。景色の奥へ吸いこまれるように背中が小さくなってゆく――。


 カルティナは見よう見まねで、エヴァンが祈っていた神に祈りを捧げた。本来ならば本人たちに「あなたたちも生き抜いて」と激励すべきだったのだろうが、不器用な彼女にはその言葉をしぼり出すことができなかったのだ。


 始まりの光にて地上を照らす神よ。どうかその聖なる御手で彼らの運命を照らしてくださいまし。


「カルティナ兵長、我々も行くぞ」


 ドゥエタスが促すと、魔法使いたちは街道を北上しはじめた。

 カルティナはやや遅れたが、すぐにハリュトスと並走する形をとった。


 ザウィルが杖を負い、角笛をとり出した。

 随分と年季の入った笛だった。表面は黄ばみ、口がわずかに欠けている。おそらく以前の上官や親族などから譲渡・相続されたものだろう。魔法使いの中には、こうした古い角笛を使っている者が少なくなかった。


 ザウィルは走りながら、それを慎重に口許へおし当てると、臓器を撫でるような低く緩やかな音を奏でた。決して明るい音ではないが、不思議といやな感じはしない。むしろ静かに、胸の内へ押しこめられていた高揚を引きだされてゆくような心地よさがある。


 カルティナはこの旋律を、見習いの時代に嫌というほど聞かされた。魔法使いとなった者ならば、誰もが耳にこびりついて離れないはずだ。


〝勝利の唄〟


 散り散りとなった魔法使いを一つところに招集する快哉の音色を、魔法使いはそう呼んだ。

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