十八章 黒鎧の巨神
地面のぬかるみの所為なのか、重心を意識できない所為なのか、ヴァニの操縦するオルディバルの動きは、ただ歩行するだけでも大きく前方へ傾いだ。
今やヴァニの肉体の感覚は遠く、自分の皮だけが宙を泳いでいるようなおぼろげな感覚を背後に感じるのみだ。
一方で、オルディバルの一挙手一投足は、まるで自分の肉体そのもののように感じられる。
だからこそ、人族と大きく異なる機械構造の肉体は、扱いが難しく、視覚だけがモニタを介して感じられることが、肉体と精神の齟齬をより大きくしていた。
早く、早くしねぇと……!
〝九つ頭〟は緩慢としてこそいるが、一歩ふみ出されるたび、まばらな緑の地は砕け、木々は木端と化してゆく。
アオスゴルはとうに滅びたと見え、東の地平線は白銀の氷河めいた様相を呈していた。あれがさらに歩を進め、少しでも南へ逸れれば、マクベルの復興も危うくなるだろう。エブンジュナの森も更地か冥府へと姿を変え、二度と祖父や仲間たちと暮らした美しい緑を踏むことは適わなくなるに違いない。
「くそッ!」
気が逸ればはやるほど、重心は乱れてゆく。
よろめく足が前へ進めば、姿勢を制御するために後退を余儀なくされる。
いっそ荒っぽく駆けだしたい衝動にかられるが、そんなことをすれば、昏き森の一部は滅び、山は崩れ――〝九つ頭〟よりも先に、ヴァニ自身が、ミズィガオロスを無茶苦茶な荒野へと変えてしまうだろう。それでは本末転倒だ。
ヴァニはこの巨神の視野を初めて覗いたとき、驚きとともに勝利への希望を見た。
ところがいざ操縦してみれば、その重量と破壊力に翻弄されるばかりだ。〝九つ頭〟を倒すどころか、戦場へ立つことすらままならないのである。
老爺の助言もなぜか途絶えてしまった。呼びかけども、返ってくるのは反響する己の声ばかり。あるいは、荒々しく駆動するオルディバルの軋みだけが響きわたった。
ヴァニは唇を噛み、きつく瞼を閉じた。遠い感覚の中では、それが自身の動きというより、モニタの映像が遮断されたような無機質な反応のように感じられた。
どうすればいい、どうすればいい、どうすればいい……!
こんな時、彼の中に去来するのは、やはりエズ・アントスの面影だった。
数多の戦いを馳せ〝瀑布流転の戦い〟で手足を失くすまで杖を掲げつづけた誇り高き英雄。隠居生活を送るようになってからは、孫である自分にただただ愛情を注いでくれた優しき祖父。
孫に魔法使いの素質がないのは明らかだったというのに、彼はヴァニを叱りつけることも焦らせるようなことも言わず、黙って見守ってくれていた。求めれば助言をくれたし、決して孫を傷つけるようなことは言わなかった。
けれどヴァニは、ただただそうして自分を信じてくれた祖父の密やかなる願いを叶えることができなかった。
ヴァニは魔法使いの道を諦め、遺物堀となり――
『惨めだなぁ、大つるはしのヴァニ――』
そう、惨めな人生を送って来たのだ。
誰から感謝されることもなく、黙々と古代の遺産を掘り返し、挙句の果て、仲間から反感を買って、唯一の居場所さえ失いかけた。
不意に、ヴァニの心象に小さな炎が灯った。蝋燭のうえで儚く揺れる、微かでたしかな熱をもった炎だった。
その中に目を凝らすと、芯で燃えていたのはザキムの下衆な表情だった。屈辱と愉悦をない交ぜにしたクソ野郎の顔だ。
そうして湧き上がってくるのは、怒りか。それとも憎悪か?
不思議とどちらでもない。
再びザキムの憎らしい声が脳裏に
『大つるはしのヴァニ』
ヴァニは無意識のうちにスフィアから手を離し、背中へ手を回していた。
あるのは、柔らかなラバー生地だった。今やそこに彼の忸怩の象徴はなかった。
――そうか。
あれはヴァニの大切な得物だった。祖父の願いを裏切り、夢を捨て、それでも惨めに生きることを選ばなくてはならなかった者の証だった。
心に負った傷を、苦しみのまま終わらせるか。
痛みすら、新たな一歩を踏みだす糧とするのか。
それを決めるのは自分だ。
オルディバルの視界が回復した。
ヴァニは、背筋にはりついた朧な自身を意識した。ずっと負ってきた哀れな自分を、この胸にたぐり寄せた。
感覚はますますオルディバルへと近づき、最早モニタを覗きこむ必要もなくなっていた。それでもヴァニは、朧な己の存在が背後に生きていることを意識し続けた。
「動け、動きやがれ……!」
ヴァニは一歩を踏み出した。荒野が音をたてて大きな亀裂を刻んだ。泥が跳ね上がり、緩やかに土煙が巻き起こった。
身体がやや前へ傾ぐ。
しかし、その足が後ろへ引き戻されることはない。
今、オルディバルの背には不可視の荷が負われている。傾いだ身体には、それを支えるための力がこめられ、曲げられた膝がバランスをとっていた。
さらに一歩。
荒野に新たな亀裂が生じた。大地の吐息のごとく噴き上がる粉塵。
オルディバルの山のような巨躯は、老人のように背や膝を曲げこそすれ、着実に前へ進み始めたのだ!
「じいちゃん、俺は魔法使いにはなれなかった」
オルディバルの軋みが、鋼鉄の鼓膜を揺らす。
一歩。
全身が上下に揺れる。頭の中がシェイクされたように痛む。
「でもじいちゃんは、一度だって俺に魔法使いになれなんて言わなかった。じいちゃんは俺が生き続けることを願ってくれてた。だから強く歩めって言ったんだ。じいちゃん、俺は今――」
稲光とともに空が咆哮した。
刹那、オルディバルの身体に幾筋もの雷光が降り注いだ!
大地を鍛え上げんとでもするような鉄槌の如き一歩がふみ出された。それは昏き森をまたぎ、ガオラト山の麓に着地した。
オルディバルの背に無数に設けられた瘤のような排煙管から、歪んだ雷光が吐き出された。それは雷のマントのようにも、雷に鍛え上げられた巨大なつるはしのようにも見えた。
「強く歩めてるか!」
ヴァニの感覚はさらに遠くなる。
羊皮紙に落ちる一滴の水滴のような微かな感覚だけがある。
皮膚も肉もオルディバルを知り、血も骨もオルディバルを知る。
そして見えてくる。
己の身体が。構造が。
ヴァニは大きく息を吸った。
こいつは、魔法を求めてるんだ!
「スプリーンガ!」
これまで胡桃の殻を割るためにしか使ったことのない魔法の名。
祖父が得意とした爆発の力。
解錠の力を行使した時と同じように、オルディバルはヴァニの貧弱な魔法の力を何倍にも増幅させた。
そして、それがオルディバルの内部で、燃えさかる薔薇の如く咲き誇った。
足首付近で爆発が生じ、オルディバルの内部機構が、魔法によって急可動する!
全身に熱い血が循環するのを感じた。オルディバルの右足が跳ね上がり、脹脛に設けられた排気管から、黒々とした煙が噴きだされた。
しかしその右足は、ガオラト山の山腹へ下ろされようとしている。ようやく平地での前進を覚えたばかりのヴァニでは、この山を斜めに駆け上がることなどできるはずがない!
ヴァニはそれを理解しているのか、いないのか。焦燥に駆られることなく、もう一方の足にも魔法を行使した。
左足が跳ね上がった。オルディバルは着地する前から両足を浮き上がらせ、下手くそなジャンプをして姿勢を崩した。
斜めに傾いだだけの身体に、前方へ跳躍する推進力などない。
最早、転倒は免れない!
先を急ぐあまり、自暴自棄になったか。
否!
「スプリーンガッ!」
直後、彼は背中にまで爆破魔法を解き放った。
背中の排煙管すべてから一斉に血のように赤い炎が噴き出され、超重量の黒き巨神の背に赤き翼を生じた。
次の瞬間、オルディバルは暗雲の蓋を己が身でこじ開けようとでもするように、天高く宙を舞った!
巨神の倍以上の標高を誇ろうかというガオラト山の稜線すれすれに、緩やかな放物線が描かれた。山を覆う緑が、威容に震えあがった。残像のごとく黒煙が噴きだまり、およそ五マイル先まで尾をひいた。
なんと黒鎧の巨神は、この荒業でガオラト山を越え、エブンジュナの森上空を飛翔。マクベルとエブンジュナの森とのおよそ中間地点にまで、その塔の如き黒く巨大な二本の足を突き立てたのである!
落下の衝撃で、一帯の大地はめくれあがり、火口から噴き上がる炎の如くうねった。
雨粒が衝撃波を可視化した。一瞬にして白い輪が膨れあがり空を洗った。
大地から噴き上がった粉塵が、袴のように広がった腰の装甲まで、こんもりと膨れ上がった。
たちまち、足許から肩にまで強烈な痺れがつき抜ける。腰に鋼のベルトを幾重にも巻きつけているようなだるさを感じ、耳鳴りがした。
オルディバルはたたらを踏んだ。片膝と手を付き、なんとか転倒を免れた。
ヴァニは奥歯を噛みしめ、鼻から荒い息を吐いた。薄らと鼻血の糸が垂れた。それを拭い、さらにオルディバルとの同調を深めた。
地上の様子はどうなった? 今の衝撃で、全部ぶっ壊れたりしてねぇよな……?
恐るおそる大地に目を転じる。
予想していた通り、先の衝撃波で、マクベル周囲の木々はドミノのように倒れ、西側の石壁も無残な瓦礫と化してしまっていた。しかし不幸中の幸いというべきだろう、それらが衝撃の盾となったことで、街に直接的な被害はでなかった。マクベルの家々はヨトゥミリスの死体の周囲を除き、ほとんど損壊していなかったのだ。
振り返ればエブンジュナの森。一見して、大きな被害はない。木々に茂った緑は衝撃で吹きとび、寒々しい姿となっていたが、幹のほうは強く耐え凌いでくれていた。
ヴァニはほっと胸を撫で下ろした。
正面へ向き直り、やおら立ち上がる。
と同時に、スライドした視界に恐るべき威容を捉えた。
これまでは不慣れな歩行を正すため、注視できなかったが、ヴァニがこの強大な力を借りねばならなかったのは、他ならぬあの破滅の化身――〝九つ頭〟を滅ぼすためだった。
それはアオスゴル西街道を冥府へと引きずり込みながら、涎を垂らした不気味な九つの頭部を蠢かせていた。
互いにあと十も歩み寄れば、決戦の火蓋は切られるだろう。
ヴァニは雨に濡れた鋼鉄の肌に熱いものが滾るのを感じた。
それはザキムたちと対峙した時とは比べ物にならない興奮と怒りだった。その奥の芯を凍らせる冷気は、初めて眼前にまで迫る死を自覚した恐怖だ。
「オオオオオォォォ……」
〝九つ頭〟の唸りが、装甲を掻き毟るように響いた。悍ましかった。一度は固めた決意に、亀裂が生じてしまいそうなほどに。
しかし視線を落とせば、端にマクベルの姿が映り、守るべき世界の一端を見ることができる。
心に勇気の風が吹く。
恐怖の靄はたちまち吹きとび、次いで再燃した怒りが戦いへの決意を新たに鍛え上げた。
今、宣戦布告の一歩がふみ出される!
かかってこい。
黒鎧の巨躯が、やや北に逸れて動いた。エブンジュナ、マクベルから離れ、しかしその隻眼だけがまっすぐに敵を射た。
凍てついた一歩がふみ出された。九つの頭すべてが、オルディバルを眺めた。
虚ろな眼差しを真っ向から受け、ヴァニはさらに斜め前方へ移動する。
〝九つ頭〟の視線は逸れなかった。オルディバルだけを凝視していた。地上には一切の注意を払わず、浮きでた鎖骨の上に涎を垂らし続けていた。それが全身から発せられる冷気によって凍り、厚い胸板をおおう氷の鎧と化した。
「オ、オオオオオォォォ……」
そしてついに!
絶対零度の爪先が、僅かにその向きを変えた!
〝九つ頭〟が街道の木々をなぎ倒し、耳を聾するような破砕音を連続させた。なぎ倒された木々の亡骸は、一瞬にして冷気に蝕まれ氷の彫像と化した。
オルディバルはさらに北へと誘導した。十八の霜のひとみが、執拗に黒鎧を追った。
いつの間にか雷鳴は鳴りを潜めていた。厚い黒雲は眠ったように赤錆のひらめきを失い、鈍色に薄れ、小雨の一粒さえ落としはしなかった。
そしてヴァニの目が、マクベルを地平の底にぽつんと認められるようになった頃、雲がちぎれ、光のヴェールが下ろされた。
双方の歩みは、互いに九歩。
決戦の火蓋を切るのは、一瞬の決断のみだった。
ヴァニは躊躇しなかった。
左足の排煙管から火柱がはなたれ、黒鎧の巨躯が急加速した。踏みだした左足に全体重をかけ、腰をわずかに捻り――強烈な右ストレートをくりだした!
移動に徹していた〝九つ頭〟は、とっさの防御も間に合わない。胸の鎧に神の鉄槌ともまがう衝撃を受けた。大きく後ろへよろめき、鎧が一撃のもとに砕け散った。地上に危険な氷の雨がふり注いだ。
しかし〝九つ頭〟が倒れることはなかった。一歩片脚を引いただけで踏みとどまったのだ。
ヴァニは、氷の鎧を打った瞬間、たしかな手ごたえを感じた。だが奴の身体は、想像以上に頑強だった。鎧の下に隠された紺青の外殻にはひび一つなく、小さく「オオォ」と呻いても、しぼりだされたのは悲鳴ではなかった。
ヴァニは間髪入れずもう一方の拳で殴りつけた。
狙いは中央によった三つの頭部だ。どれでもいい。致命的なダメージを与えられるのなら。
ところが〝九つ頭〟は、意外にも敏捷な動きをみせた。
腰を落とし、拳を避けたのである。
空隙を穿ち、衝撃だけがむなしくつき抜けた。オルディバルの無防備な胸へ、十八の眼差しがむけられた。
〝九つ頭〟が踏みこんだ。懐へ。
そして、オルディバルの甲虫じみた顎を一瞥した。
山の峰のような腕が、天へと突きあがる。
膝のスプリングをのせた、
「ォォォオオオオオ!」
アッパーカットだ!
水の神が司る間欠泉の如き一撃が、オルディバルを襲った!
「うわああああッ!」
衝撃と同時、コックピット内は蒸気に満たされた。ヴァニを運んだあの蒸気が、搭乗者を衝撃から護ったのだ。
それでも天変地異のごとき衝撃は、ヴァニを混乱させ怯ませるには充分だった。同調が薄れ、視界はモニタをのぞく人のそれと重なった。感覚のスイッチが切り替わったことで、動作に一瞬の空白が生じる。
そこへ〝九つ頭〟が両の腕をのばした。
雷に煌めく肩を掴んだ。
間もなく、大気を取りこみ歪に成長した氷の膝が、鋼の腹部へ痛烈な膝蹴りを叩きこんだ!
腰のよじれるような衝撃に、ヴァニの平衡感覚はさらに乱れた。腹の底から突き上げてくる揺れに首がちぎれそうだった。
鼓膜には装甲のひしゃげる音が続いた。鋼鉄が歪み、皮膚を破かれるような痛みにヴァニは顔をしかめた。
執拗な膝蹴りが続く!
ヴァニは唇を噛んで痛みに耐えながら、うつろな目でモニタを見た。指先がスフィアを掻いた。
意識が徐々にオルディバルへと傾ぐ。
次第に腹部へ鈍痛を感じるまでになる。
やがてそれは胃の裏返るような痛みへと変わり、吐き気さえ促してきた。
一、二、三――。
打ちつけられるたび、痛みは増してゆく。張りだした胸部装甲で翳った腹部装甲に、無数の凹みが生じ、斑に影を濃くしていった。
その痛みが、却って混乱したヴァニの頭をクリアにさせた。
「あいにく殴られるのには慣れてんだ……!」
ヴァニはザキムたちに殴られた痛みを思い出し、歯を食いしばり唸った。
次の膝蹴りを腕で払い飛ばした。
〝九つ頭〟が体勢を崩し、後ろへ仰け反った。
オルディバルは踏みこむ。
拳を握り、先の報復とばかりに鋭いボディーブローを叩きこむ!
腹部にならば、氷の膜はあっても鎧はない。外殻もまばらだ。打ちつけられた拳は、激しい振動を伴い、〝九つ頭〟の肉をかき乱し潰した!
「オオオオオォォォッ!」
苦悶の声が暗雲を突き抜けた。九つの頭から吐き出された反吐が胸の前で固まり新たな鎧を生みだす。
オルディバルはあえて一歩後退し、再度の踏みこみをかけた。
右腕が弧をえがき、自身の頭の横で急加速する。
二度目のストレート。
だが、ただのストレートではない。
ヴァニは祖父の失われた手足を思い返し、脳を怒りの炎で炙った。
「スプリーンガ!」
オルディバルの肘の内部でつよい爆発が起こった。関節部に設けられたスリットから、燃えさかる大海蛇の舌のごとく炎が噴き上がった。前腕が激しいピストン駆動に伸縮した。
刹那、衝撃の輪が膨れ上がる!
全身全霊をかけた鋼鉄の拳が、〝九つ頭〟の胸を捉え、鎧を――抉りぬいた!
そればかりか、紺青の外殻までもが、ガラスのように容易く打ち砕かれたではないか!
九つの頭すべてから白い息が吐きだされた。悲鳴を上げることさえままならず、大きくよろめき、胸を押さえ片膝をついた。
「あああぁぁっ……ぐッ……!」
ただし、代償は高くついた。
ヴァニはオルディバルの感覚から弾き出されていた。魔力の過剰消耗による負荷を無視できなくなったためだ。鼻から粘ついた血が流れ、歯茎に赤いものが滲み始めていた。
元来、魔法の扱いに長けていないヴァニの肉体は、魔法の連続使用に耐えられるようにはできていないのだ。
無論、精神面にも綻びは生じ始めていた。ヴァニの胸は心臓を抉り抜かれたようなむなしさに苛まれ、
オルディバルの感覚を共有している間は、負荷を無視できた。しかし一度自身の心身に目を向ければ、終わりのない苦しみが身を焼くように連続した。
ヴァニは頭を押さえた。
割れるような痛みがあった。
いや、そんな生易しいものではなかった。頭の中でなにかが弾け、破片が脳をずたずたに引き裂いていた。胃の腑に鉛の兎が跳ね、筋肉は血を啜るヒルへと変わっていた。間断なく押しよせる痛みと虚脱とが、理性をかすめ取っていった。
ヴァニは充血した目を見開き、震える腕を伸ばした。
縋るようにスフィアへ手を重ねる。
たちまち風にさらわれたように生身の感覚が遠のき、機械の感覚が心身に沁みた。
視界をとり戻したヴァニは、〝九つ頭〟を見た。奴は胸を押さえたまま、まだ復帰できずいた。手からぱらぱらと外殻の欠片のようなものがこぼれ落ちていた。
ここが好機だ。
ヴァニは足許に力をこめた。
「ンッ……」
ところが、足が地面から離れなかった。
「……ッ!」
咄嗟に足許を見下ろしたヴァニは、言葉を失った。
ひび割れた大地の上に、汚らしい血肉の池ができていたのだ。
そう、それは池であった。おびただしい量の血肉が、母なる大地を殺戮の色にそめ上げていた。
異状だった。林に棲む生物が犠牲になっただけで、これだけの惨状になるはずがない。
訝ったヴァニは血の池を注視した。
そして間もなく息を止めた。
どうなって、やがる……ッ!
泳ぐようにして無数の影が蠢いているのが判った。無論、血をすすりにきたヒルではない。もっと巨大で、禍々しいものだ。血に手足を滑らせながら、黒鎧の脚部を絡めとり這い上がってくる。
オルディバルと同調してなお、ヴァニの心は恐怖の鎖にからめ取られた。
それはミズィガオロスに住まう誰もが知る忌むべき怪物だった。
ヴァニなどは、あの大つるはしで、直接頭をかち割ったこともある。
小型ヨトゥミリス。
オルディバルの足許でひしめくのは、その大群だったのだ。
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