二十一章 夢幻の如く

 無数の針に刺されるような痛みが、徐々に上へうえへと侵食してゆく。


 足許にまとわりついたヨトゥミリスの大群は、今や振り払うことのできない重量に達していた。〝九つ頭〟にとどめを刺そうにも踏み出すことができなければ、爆破魔法を用いたブーストナックルを当てることは不可能だ。


 それどころか行動不能になったこちらが強烈な一撃を受けることになりかねない。


 小型からのダメージも看過できるものではない。オルディバルと同調するヴァニには、小型の攻撃にもダメージがあるのだと理解できていた。もし、頭部にまで到達され一斉攻撃を受ければ、装甲を破られ、コックピットへ侵入される恐れもある。


 ヴァニは歯を食いしばり、青筋を立てながら、杭で打たれたように動かない足に力をこめた。


 肉体は過負荷によってさらに傷つく。充血した眼は紫がかり、耳から滴る血液は、尾をもたぬ蛇のごとく絶えず頬から顎へと流れてゆく。


 それでも、ヨトゥミリスの沼から足を引き抜くことはできない。


 こうなれば、残された手段はたった一つだ。

 爆破魔法で脚部をブーストさせるしかない。


 でも、俺はあと何回の魔法に耐えられる?

 次が最後だとしたら――。

〝九つ頭〟を討つことはできなくなる。

 

 あれが地上を闊歩し続けるだけで、人族は滅びの一途を辿るだろう。エズの、数多の魔法使いの守ってきた大地が、ヨトゥミリスに蹂躙され消えるのだ。


「クソッ!」


 ヴァニは腰にまで這いあがってきたヨトゥミリスを、半身を捻ったり、手でふり払ったりしながら叩き落とす。


 それが〝九つ頭〟に復帰の猶予を与えた。大木をへし折るようなメキメキという音をたてながら、氷山じみた半身が天へともち上がり醜い顔をさらす。


 ダメだ、やられる……!


 ヴァニの中で焦燥と恐怖、そして無力感が滲んだ。


 それを皮肉るかのように、天はますます晴れ渡っていった。宙をかく雨は今や一粒もなく、赤錆色をしていた雲は、眠る赤子の肌にも似て白くなめらかとなっていた。


 ところが空の唸りだけは、まだ鳴りやんでいなかった。


 オルディバルと同調したヴァニは、外界の音を直接とらえることはできずとも、その激しい音の波を鋼鉄の肌の振動から知ることができた。


 そしてすぐに理解した。

 それが遠雷の音でなく、ましてヨトゥミリスのたてる地鳴りの音でもないことに。


 出所を探ろうと、地上を見下ろした時だった。

 そこここで土煙があがり、オルディバルの足許に、血煙がこんもりと膨れ上がったのは。


 オルディバルの身体をよじ登る蔦めいて列を組んだヨトゥミリスの群れが、突如、稲妻や炎の弾によって狙撃されたのである。


 異常を察知し地上へおり立ったヨトゥミリスを血肉の塊へと変えるのは、無数の黒い粒子――魔法使いの軍勢であった!


 ヴァニは茫然としてそれを眺めた。夢を見ているような気分だった。こんな瞬間を想像したこともなかった自分に羞恥さえ覚える、感動的な光景だった。


 魔法使いの誇り高さに、胸が高鳴る。

 これが祖父の生きた世界の者たちの姿なのだ、と。


 そこへ〝九つ頭〟の呻き声が轟き、鋼鉄の肌を振動させた。


 我に返ったヴァニは、安堵も感謝もいまは心の内奥に封じこめ、正面へ向き直った。

 今まさに、〝九つ頭〟が曲がった背を伸ばしきったところだった。


「でけぇの、決着をつけようぜ」


 オルディバルの肘関節のスリットから煤が吐き出された。

 両腕が胸の前にまで持ち上がり、指が軋む。

 その手が拳を形作った。


                ◆◆◆◆◆


 エヴァン・ソルトールの足許には、いついかなる時も死の影が横たわっていた。


 クルゲの里に生を受けたエヴァンは、遺物堀の父と家畜商の母の許で育てられた。

 父の賃金はとりわけ少なく、家計を支えていたのは母のほうだった。

 その分母は忙しく、父は惨めな思いを味わったに違いないが、子どもの前で両親が物憂げに俯くところも、唾を飛ばして罵り合うところも見たことがなかった。


 つまり彼は、幸せな家庭の中でぬくぬくと育った。時には母の仕事場で動物に関する知識を学んだりしながら、のびやかな日々を過ごしてきた。


 そんな人生に暗い影が差したのは、彼が十歳になった頃だった。


 当時、遺物堀のおもな仕事場は、昏き森に囲まれた荒野でなく、ヘンベの谷のほうにあった。遺物堀とは言いながら、その仕事内容もほとんど炭鉱夫とかわりなく、谷をつくるガオラト山やマヌズ山から鉱石を発掘するのが彼らの役目だったのである。


 岩盤の崩落事故で命を落とす者たちが少なからずいたのは、だから致し方ないことなのかもしれなかった。


 そう、エヴァンの父もまた、事故の犠牲者となったのである。


 母が家畜商としての生き方を教えてくれた一方で、原始的な生活を熱心に説いてくれたのは父だった。獣の狩り方、上手く魚を釣るコツ、自然の中での防衛手段――。玩具代わりに遺物をくすね、遊んでくれたのも父だった。


 そんな父がなんの前触れもなく死んだ。


 初めの三日間は涙もでなかった。父が死んだという事実を受け止めきれなかったし、なにより実感が湧かなかった。


 けれど父の帰って来ない夜が一つ、二つと過ぎる度、満たされていたはずの心の端は欠けていった。


 そして四日目の夜、エヴァンの心はついに暗雲に呑まれた。真夜中、突然がばりと起きだした彼は、喚くように泣いたのだった。


 涙が涸れても、喉がかき毟られたように痛んでも泣き続けた。


 その背中を母が撫でてくれた。母は滅多に遊んでくれなかったし、寡黙な男勝りの人だったけれど、エヴァンが笑えばその頭を撫で、泣けば背中に手を回してくれる愛しい母だった。


 そんな彼女もまた、年をまたぐことなく、病に侵され命を落とした。エヴァンの名をよぶ唇から血の塊がはき出された時には、全身を病魔が蝕んでいた。手の施しようがなかった。魔法の力も傷を塞ぐことはできても、病魔に対してはまったくの無力だった。


 幸い、魔法の才に恵まれたエヴァンは、十一の誕生日を迎えるより前に魔法使いとしての将来を約束され、アオスゴルへ移住することとなった。


 それからは正式に魔法使いとして認められるため、血の滲むような鍛錬の日々が続いた。


 両親を失った悲しみを埋めるように彼は己を鍛え上げ、十五になる頃には、数少ない付与式の使い手となっていた。


 だがどれだけ強くなったところで、彼の欠けた心を修復することはできなかった。


 むしろ彼の力は、虚ろな心を歪ませ、慢心を生んだ。戦場におけるリスクの少ない後衛魔法使いを蔑視し、前衛魔法使いの誰よりも多くヨトゥミリスを殺せると息巻いて、毎日のように下っ端の魔法使いたちとの喧嘩に明け暮れるようになった。


 その慢心と狂暴性ゆえ、彼が前線へ送り出されるのには、長い時間がかかった。


 ともに鍛錬に励んできた仲間たちは、次々と前線へ送られてゆくのに、エヴァンだけが鍛錬の日々をつづけていた。訓練長からは「身を弁えろ」だの「協調性を持て」だのと小言が積み重ねられていくばかり。敵襲をつげる笛の音が響いても、彼は壁内で待機しなければならなかった。


 そうして時間を浪費する間に、防壁の内側には、花束とカードが増えていった。一匹狼のエヴァンに友人と言えるほど親しい間柄の相手はいなかったが、一度や二度酒を呑み交わした奴らならいた。カードにはそんな奴らの名ばかりが記されていた。


 花束は枯れ、カードは雨に濡れ、いずれも風にさらわれて消えていった。


「なんで俺は、いつも生き残る……」


 朽ちたカードの上に重ねられた新たな花束とカードを見下ろしながら、エヴァンは風に問いかけるように呟いた。


「そりゃあ、お前さんに役目があるからさ」


 返ってきた飄々とした声は、無論、風の声ではなかった。


 はっとして振り返ると、見慣れない小男が立っていた。目尻に物好きのしそうな深い笑いじわを刻んだ壮年の男だった。


 肩から羽織られた黒のマントには大樹の刺繍。美女の浮き上がったブローチが、それを前で留めていた。手に握られているのはトネリコの杖だ。正式に魔法使いとして認められ、階級を与えられている者の出で立ちだとすぐに判った。


 それを認めたエヴァンの中では、反抗心がむくむくと膨れ上がっていた。男を睨みつけ、唾を吐き捨てた。


「おっさん。役目のある人間は、壁の中で愚痴なんて言わねぇんだよ」

「はて、それはどうかな。生きていれば、愚痴なんざ一つや二つでは足りんさ。愚痴の吐ける身体さえあれば、お前さんにもやれることがある。それはお前さんの口汚い愚痴より、遥かに多いことかもしれんな」


 その一言で、怒りの導火線に火がついた。


「馬鹿にしてんのか、ジジイ? 壁の外へ出られねぇ、壁の上に立てもしねぇ奴に、なにができるってんだ! 俺は、どうせ俺は……馬鹿どもの背中を見てることしかできねぇクズさ! 役目なんざどこにもありゃしねぇんだ!」


 唾を飛ばしながら、つかつかと歩み寄った時だった。

 男が自分の杖を投げて寄越したのは。


「なッ!」


 エヴァンは咄嗟に杖を掴んだ。

 男は華奢な身体つきをしていたが、杖は意外にもずっしりと重く、まるで中に鉄の芯を埋め込んであるかのようだった。


 男が微笑み、突き抜けるような青空に手を伸ばした。


「ほぉら、ソルテア様が見ておられる。杖を掲げよ」

「ああ? なんで俺がそんなこと……。そもそも、ソルテアって誰だよ?」


 気勢を削がれたエヴァンは、杖と男とに視線を彷徨わせながら荒っぽく訊ねた。


 すると男は「太陽の神。祝福の神だ」と答え、不意にするどい眼差しを寄越した。それはソルテアなる神から降りそそぐ光よりも、よほど目に痛く感じられた。思わず目を眇め、手で庇を作ったほどだ。


「ソルテア様に誓いを立てるには、最良の日和だ。お前さんが傍観の日々から抜け出したいと思うのなら、杖をかかげ誓うがいい。我、この命尽きるそのときまで、御身の眷属としてあることを誓わん、とな」


 腹の底を炙られるような男の声に、エヴァンは気圧され、一歩後ずさった。


 踵がカードを踏んだ。枯れた花束が石敷きの地面を掻いた。カードに記された名前には覚えがあった。たしかこいつは下戸だったはずだ。


 エヴァンは肩をすくめた。


「神の眷属になったら、俺はどうなるんだ?」

「光となる」

「光?」

「ソルテア様の光となる。この世を生かす光となるのだ」


 男は真っ直ぐにエヴァンを見つめていた。その目に先程までの鋭さはない。ソルテアの降らせる光の如く穏やかな眼差しがあった。


 だがそれこそが、最もエヴァンの心を打ちつけたものだった。そこに宿っているものは、暗く荒んだ心を照らし潤す清浄な力をもっているように感じられたのだ。


 神に誓えば、こんな光が俺にも手に入るのか?


 エヴァンはその時初めて、反骨の鎧を脱ぎ捨て、男の目に宿るものへ純粋な憧憬を抱いた。


「我」


 エヴァンは天に杖を掲げた。天頂にまたたく神は、物言わずじっと荒んだ眼差しの青年を見下ろしていた。


「この命尽きるそのときまで、御身の眷属としてあることを誓わん」


 言い終えると、微かな羞恥が胸を過ぎった。


 これでなにが変わるってんだ?


 自嘲的に笑いながら、エヴァンは杖を下ろした。

 天から降りそそぐ光は、じりじりと肌を焼くばかりで、エヴァンに特別な力を授けてくれるわけではなかった。


 ただ正面に立った男に、こう言わしめただけだ。


「では、付いて来い。お前さんはこれからエズ小隊の一員じゃ」


                ◆◆◆◆◆


 あれから長い年月が経った。


 偉大なる師は、冥府の魔女の凍てついた懐に抱かれ、自身は老いた。

 ちょうどあの頃の師とちかしい年齢になっていた。


 にもかかわらず、彼が自分を暗い穴の底から引き揚げてくれたように、自分が誰かを救い出せたためしはなかった。師の瞳に宿った光を手にすることは、今なおできていないのだと思う。


 しかし、それを悔いるつもりなど毛頭ない。

 手にできなかったものは、これから手に入れればいい。生き抜いた未来で手にすればいいのだ。


 そして同じように未来を生きる者たちのために、全力で戦えばいいのだと知っていた。


「おおおおおぉぉぉッ!」


 今、エヴァンは怒号ひしめく魔法使いの軍勢へと加わった。

 黒い風が黒鎧の巨人の足許で旋回し、ヨトゥミリスを物言わぬ肉塊へと変えてゆく。


 黒鎧に取りついたヨトゥミリスたちは、死の旋風から逃れるようにひたすら上を目指す。それを遠距離戦に秀でた魔法使いたちが撃ち落としてゆく。


 それでも取り逃がしは出てくる。魔法には有効射程があり、使い手と魔法の距離が離れればはなれるほど威力も精度も減退する。黒鎧の身体はあまりにも大き過ぎるのだ。


 エヴァンは迷いなく大地を蹴っていた。強化魔法を施した魔法使いたちが小型の群れを相手どる中、彼だけは黒鎧の扁平な足のうえへと跳び移っていた。


 そして風の力をかり、鋼鉄の壁をかけ出した。その目が捉えるのは、黒鎧の肌をよじ登る小型ヨトゥミリス。後衛魔法使いの取り逃がした小型を仕留めるつもりだった。


 エヴァンは上昇する。逆向きの稲妻のごとく。残像が長くながく尾を引いてゆく。黒鎧の巨神の身体に、みどりの血管が描かれてゆく。


 地上は阿鼻叫喚の地獄絵図。

 敵も味方も血肉、あるいは血煙となって天地へ融けてゆく。


 エヴァンはその終焉を、鋼鉄の巨人に託そうとしていた。


 杖を掲げる。祝福の神の眷属として、この巨人を眩しく照らすために。


 腰にまで到達したエヴァンは、背中の排煙管から内部へ侵入しようとするヨトゥミリスを発見した。


 その手を包みこむ柔らかな風が、たちまち無数の糸を編み、碧の太刀を形作る。

 鋼鉄の肌を蹴る。その身体がヨトゥミリスの背後にまで舞いあがった。風がエヴァンをさらに斜めに突き上げる――肉薄!


「てえええええぇッ!」


 天籟てんらいの唸りとともに、太刀が突き出される。ヨトゥミリスの後頭部が貫かれ、額から切っ先と脳漿がとびだした。血の華が咲き、太刀は霧散する。排煙管の煤の上、噴きだした血液がペイントされてゆく。


 エヴァンはヨトゥミリスの背中を蹴って外へでる。間もなく斜めに駆け出した。


 その目はまだ小型の踵さえ捉えていない。


 しかし先の小型を目にした瞬間、次の標的もまた視界の中におさめられていた。眼前の敵を殺す算段を整えながら、その裏では次の敵のうごきを予測し続けていたのである。敵を探しだす手間を省き、早急に黒鎧が全力で戦える環境を整えるために。


 排煙管の間隙を縫い、あるいはそれを踏み台に、エヴァンは次の小型の姿を捉えた。


 鋼鉄をける音を聞いたのか、魔法使いに渦巻く天籟を耳にしたのか、小型と目が合った。


 瞬間、巨人の首はパノラマめいた景色の中へと吸いこまれていた。残された胴体がちぎれた頭部へ追い縋るようにして、黒鎧の肌をはなれた。


 さらに一、二、三と紺青の肉が、黒鎧から剥がれ落ちていった。


 黒鎧の胴を一周し排煙管群で七体目を斬首したエヴァンは、残心し、こごった空気の塊をはき出した。消耗負荷の具合をたしかめるように鳩尾を撫で、すぐさま跳ぶ。


 ちょうどその時、排煙管の裏では、息を潜めたヨトゥミリスが必殺の間合いを計っていた。


 これは〝九つ頭〟から分離した量産型ではなく、奈落の底から這いだてきた一体であり、稀少個体の〝尾つき〟と称されるヨトゥミリスだった。〝尾つき〟はその名の通り尾をもち、それを用いた攻撃の他に、普通の小型より優れた知能をもつことで知られる。


 そして人族が〝尾つき〟の間合いに入った瞬間、この異形はするりと排煙管の裏側から現れ、足と尾をもちいた恐るべき超加速から拳をくり出したのである!


 不意をつかれたエヴァンだったが、彼は一拍おくれただけで、瞬時に殺気を感じとった。時間感覚がうすくひきのばされ、杖もつ掌に魔力が爆ぜた。


 衝突のコンマ数秒前!

 彼は〝尾つき〟の脇腹めがけ碧の槌をあんで打ちつけた。


〝尾つき〟は大きく体勢をくずし弾き飛ばされた。回転しながら宙を舞い、その手が排煙管の縁をかすめるが、掴みそこねる。

 異形に待っていたのは、全身をからめ取る重力による落下だった。ここは地上からおよそ八分の一マイルの高さ。落ちれば、屈強なヨトゥミリスといえど死ぬ。


「ゴハッ……!」


 ところが、宙へ投げだされたのはエヴァンとて同じだった。背中から排煙管に叩きつけられ、真紅の血がはき出された。管の振動が骨にまで沁みた。


 脇腹をうたれ、空中で一回転した〝尾つき〟は、その一瞬のうちに遠心力をのせた尾を一閃していたのである。


 手中から杖がこぼれ落ちた。血塗られた大地の中へと吸い込こまれ、たちまち見えなくなる。


〝尾つき〟もまた自由落下の理から逃れることはできなかった。しかし苦し紛れの一撃は、脆い人族を道連れにするには充分だった。


 風の鎧は即死を防いだだけだった。

 右腕と肋に燃える痛みは、死神の呟きに似ている。肺は石が詰まったようだ。苦痛で脳がやけ落ちそうになる。


「ガ……グフッ!」


 臓器が意思をもったように暴れ、またも血の塊を吐きだした。その色は水に溶いた絵具のように鮮やかだった。肺をやられたと一目で判る。


 さらに状況を悪くしているのは、杖を失ったことだった。

 かろうじて意識を繋ぎとめ魔法を維持しているが、この場に留まっているのが精一杯だ。とても動きだすことなどできない。


 エヴァンは白んだ視界の中、動くもののなくなった排煙管群を眺めながら自嘲的に笑った。


〝古の時代〟の人々が建てたという墓石は、こんな形をしているのかもしれんな……。


 全身を包みこむ碧が脈打ち、エヴァンは咳き込んだ。血の粒が散った。魔法はさらに安定をかき、重力は瀕死の魔法使いをからめ取ろうと躍起になった。


 その時、巨神が動き出した。前のめりに踏みだした重い一歩に、地上の魔法使いが散り、ヨトゥミリスは池と同化した。大地が悲鳴をあげ、血だまりが跳ねた。


 直後、黒鎧のストレートが空を穿つ。

 拳は、〝九つ頭〟の手のひらに受け止められ止まった。


 その反動が、ついに魔法の浮力をうち消した。エヴァンは落下した。

 

 他の生き残りは、今の衝撃で振り落とされただろうか。


 大地にひき寄せられながら、天に手を伸ばすが、指先が風の刃を編むことはもうない。


 天頂で輝く光球が見えた。

 かつて師から教えられた神の御姿だ。

 エヴァンは己の信仰する神を見つめ問うた。

 

 俺は、光となれたでしょうか? あなたの光、このミズィガオロスの地を照らす光となれたのでしょうか……?

 

 呆気ない最期だと思った。

 まとわりついた碧の糸は解れ、消えてゆく。落下速度は時とともに加速し、排煙管群はみるみるうちに小さくなっていった。

 

 やはり神のお答えを聞けるはずもないか……。


 エヴァンは無理やり瞼を閉じようとする死の誘惑にあらがい続けていた。だがそれも、すでに限界が近かった。彼の口中では血の泡がはじけ、脳を鷲掴みにされるような酸欠の苦痛が、意識の糸を絶とうとしていた。


 ゴウッ!


 そこへ天籟が吼えた。

 瞼のおりる寸前、一筋の閃光が天へと馳せていった。


 エヴァンはそれを幻と疑った。

 頬に灼けるような涙の熱を受けるまでは。


 ……なんだ。貴様も涙を流せるのではないか。


 忌々しい巨人どもの血に全身をぬらした赤い閃光が、はるか遠い排煙管群の中で舞踏を始めた。


 エヴァンは微笑み、今度こそ瞼を閉じた。


 ……これがソルテア様のお答えか。


 天へ伸ばした手で、満足に虚空をつかんだ。

 その時、ついに碧の糸がすべて解けた。色がぬけおち遠く旅立っていった。


 旗を翻すような天籟もいつしか薄れ消えていった。


 やがて彼をむかえ入れたのは、大きく両手をひろげた闇と終わりない静謐だけだった。

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