八章 不穏な幕引き
魔法使いたちはカルティナの勇士に奮い立った。
巨人の傷ついた腋に侵入し、あらゆる属性魔法で組織を破壊し、内側から腕を切り落とした。
ヨトゥミリスは悲鳴を押し殺し、残った拳をかたく握りこんだ。霜の双眸が怒りに見開かれ、外殻の隙間から氷柱のような牙を剥きだし唸った。
しかし大型が反撃にでることはなかった。
それが
痛みすらも刹那、大型ヨトゥミリスは眼球に太刀を抉りこまれていた。血と脳漿の噴きあがる音が断末魔となった。
魔法使いたちは森中の鳥がつんざいたかのような鋭い勝鬨を上げた。それは怪物の絶叫よりも激しく腹の底をゆり動かし、次なる戦いの火を燻り起こした。
瀑布には未だ四体の影が蠢く。そのいずれも足を持たず、激流の中から這い出てくることもない。
魔法使いたちは慎重にそれらの様子を確認しながら、目許にまで垂れた血を拭い、乱れた魔法の構築に努めた。治癒魔法を扱える者は自身や仲間たちの傷をできる限り癒した。
エヴァン・ソルトールは、乙女の傍らに膝を落とし嘆息した。彼女の身体には余すところなく赤黒い血が塗られ、マントは風に翻るように奇妙なパターンを描き広がっていた。
遺物やヨトゥミリスの外殻を精錬して鍛え上げられた
「死んでくれるなよ」
エヴァンは彼女の口許に手をかざした。
すると岩と岩の隙間から吹き込む風のように、弱々しい息がかかるのが判った。湧き上がる安堵を押し殺し、周囲を見渡した。
「セムはいるか!」
大声で呼ばうと、セムと呼ばれた三十がらみの魔法使いが駆け寄ってきた。
彼はエヴァン小隊に属するれっきとした魔法使いでありながら、治癒魔法の扱いにも長ける稀有な戦士だった。治癒魔法の扱いに秀でる者の宿命として、属性魔法や強化魔法といった前衛向きの魔法を不得手とする者が多い中、彼は強化魔法も遜色なく行使することができる天賦の才をもつ。
階級はカルティナと同じ兵長だが、一匹狼の彼女と違い、分隊の指揮も担当する優秀な魔法使いであった。
「カルティナの治癒を頼む。見ての通り、危険な状態だ」
エヴァンの隣に屈みこんだセムは、カルティナの剥きだした肋骨を見て顔をしかめた。
「こりゃあ、ひどい。このまま治癒魔法を使うのは危険ですね。肋が内側へ戻る際に、却って傷を拡げてしまうかもしれない。治癒をかけ直せばその傷も塞げますが、この状態じゃ彼女の体力がもつかどうか微妙なところです」
「肋を切断するか?」
「ええ、そうしましょう」
付与式や強化魔法のような力の維持を求められる魔法は、時とともに状態が乱れる。エヴァンの風は、時折波打ち、かなり不安定な状態にあった。
それでも小さな肋一つ切断するだけなら、造作もない。碧の筋が閃いた時、皮膚からとび出した肋骨は、チョークのように容易く切断されていた。
すかさずセムが詠唱する。
「水よ、風よ、大地よ、大いなる自然の恵みよ。水は血となり、風は息吹となり、大地は肉となりて、今ここに、神の御手を紡がん」
徐々に、徐々に、目では捉えられないほど緩慢ではあるが、カルティナの傷は塞がり始めた。治癒の魔力の流動を感じられるセムにだけは、それが判った。
セムは小隊長に向けて小さく頷いてみせた。
治癒魔法が機能するということは、まだ息があり、助かる見込みもある。
瀑布のヨトゥミリスとの戦闘に二人は参戦できないだろうが、致し方ない。今はただ仲間の復活を祈り、前に進むしかなかった。
なんとしても食い止める。
エヴァンは己にそう強いたが、疲労はかなりのものだった。
視界は霞み、全身に綿のような疲れが蓄積していた。
口中には血の味。軽度であるとはいえ、魔力の過剰消耗によって肉体損傷が始まっている。
昨夜の戦いで消耗した魔力が回復しきっていなかったのだ。歴戦の勇士といえど、その魔力は無尽蔵ではなかった。
エヴァンは未だ瀑布で蠢く四体のヨトゥミリスを睨み、血の滲んだ唾を吐いた。
この状態でどこまでやれるか……。
消耗負荷によって精神にまで影響がでてきたか。
陰鬱な気持ちで杖を構えた。
その時だった。
震えてもなお麗しい声が鼓膜を優しく撫ぜたのは。
「……わたくし、まだ戦えますわ」
「カルティナ兵長! まだ動いては……!」
起き上がろうとするカルティナを、セムが押さえこんだ。それでも彼女は残された力で半身を起こそうとする。
「奴らに、ヨトゥミリスに、わたくしの名を囁いてやりますの。この名を、この姿を、誰もが恐れるように。〝赫の踊り子〟の名を囁いてやりますの……」
「ならば尚更、貴様は眠っているべきだ」
エヴァンは瀑布の方角へ向き直り、ぴしゃりと言った。
「いま戦えば、貴様は間違いなく死ぬ。そして、あの忌々しい巨人どもは〝赫の踊りの子〟の死に歓喜するか、あるいは安堵するやもしれぬ。我々は死者を恐れ、敬いこそすれ、巨人どもは死者を恐れぬ。私はまだ、貴様を語り草にするつもりはない」
そう言うと小隊長は、天に向けて杖を掲げた。
「巨人を滅ぼしたいのなら、命を無駄にするな。貴様が死ねば、その腕が杖を掲げることは二度となくなるのだ。これから千の巨人を屠り、万の命を救うやもしれぬ命をここで終わらせるのが、それほど貴様の心を満たすのか?」
カルティナはその背中に、エヴァンの悲壮めいたなにかを感じ取った。
思えば、小隊長が過去にどのような道を歩んできたのか、カルティナは知らなかった。
自分ばかりが不幸だと思いこんできたが、防区に住む者の中で安穏とした人生を歩んできた者などいるはずがない。甘い男と揶揄される小隊長にも、きっと悲惨な過去があり、それ故にあれほど仲間の死に心を痛めるのではないか。
エヴァンの気持ちを忖度しようと心が動いたあと、カルティナはふと我に返り、師の言葉を反芻した。
その上で思った。
もう一度杖を掲げたいと。
十六年前と同じ悲劇を繰り返さないために。
束の間の満悦の対価には、たしかにこの命は重すぎるかもしれない。
「中尉殿がそうおっしゃるのであれば、仕方がありませんわね」
カルティナは身を横たえ、セムへと視線を戻した。治癒術師は両の眉尻を下げ、小さく頷いた。
「私はもう行く」
治癒が再開されたのを見て取ったエヴァンは、腕を下ろし、杖を固く握りこんだ。
ところが、彼が踏み出した直後、唐突に終わりはやって来た。
「なに、どういうことだ……?」
瀑布で蛇のように蠢くだけだったヨトゥミリスたちが、突如、不可思議な力に引きずり込まれるようにして、瀑布へと引き返していったのだ。
徒に人を殺し、前進はあっても後退はない破滅の使者が、どういうわけか瀑布の底へと戻っていった。
魔法使いたちは警戒を怠らず、瀑布をにらみ続けた。
呆気にとられたエヴァンの代わりに、ゴラス少尉が「まだ警戒を解くなよ!」と指示した。
ところが、ついにヨトゥミリスが姿を現すことはなかった。笛の報せが届くこともなかった。
戦いはこうして不可解に幕を引いたのであった。
魔法使いたちはなおも瀑布を注視しながら、死体の撤去作業を始めた。
東門から屍運びの馬車が、がらがらと音をたてながら現れた。壁内では、焼却房の管理人が事態を察して忙しなく準備に取りかかった。
作業が終わる頃になっても、ついに笛の音が響き渡ることはなかった。
ただ瀑布の唸りだけが延々と続いていた。
◆◆◆◆◆
ロスキュル・コルミュトフが瀑布の方角から駆け寄ってくる人影を見つけたのは、死体撤去作業が終わってからおよそ一時間後のことだった。空はほんのりと茜に色づき、遠方には紫紺がにじみ始めていた。
彼は壁上に展開されていた後衛部隊の魔法使いと交代し、遠眼鏡に目をやりながら瀑布を見張っていたが、現れたのはヨトゥミリスでなく人族の男だったのである。
下水から這い上がってきたネズミのように濡れそぼったその男は、マントを片方の肩にかけ、せっせと身体を揺らしていた。ブローチの柄までは判別できないものの、マントに描かれた大樹の模様は、折れ曲がって歪ながらも見て取ることができた。
魔法使いだ。杖は紛失したのか握られておらず、背やベルトにも吊るされていないが間違いない。
ロスキュルは近場の男に、橋を下ろし、門を開けるよう頼んだ。
間もなくして、息を切らした魔法使いの男がアオスゴルへ戻ってきた。
名前までは記憶にないが、顔には見覚えがあった。エヴァン小隊の魔法使いだ。
ロスキュルは壁上から訊ねた。
「おい、あんた。死体を処理してから一時間は経ったぜ。なんでまた今頃になって戻ってきた?」
アオスゴルを往来する魔法使いは少なくないが、普通、ヨトゥミリス出現の恐れがある東門へわざわざ回りこんでくる奴はいない。そんなことをするのは、よほどのアホか、よほどの事情がある奴だけのはずだった。
濡れネズミの魔法使いは、まだ息が整わないらしく膝に手を置いてゼェゼェと喘いでいた。門衛の魔法使いが見かねて背中をさすってやると、数度咳き込んだ。
ややあって、濡れた魔法使いは、ロスキュルと門衛を交互に見た。口をぱくぱく動かして、なにか言いたげな様子だが、どちらに話したものか逡巡しているようだ。
ロスキュルは「独り言のつもりで話せばいい」と、助け舟を出した。
するとその男は、二度頷いたあと、早口にこんなことを言った。
「俺は死ぬはずだったんだ」
「なんだって?」
門の魔法使いが怪訝な表情で返した。
「信じてくれ。俺は死にかけたんだ。大型の攻撃で吹き飛ばされて流れの中に落ちた。俺は意識を失って……でも、気付いたら受け止められてたんだ」
ますます状況が理解できず、ロスキュルは首を傾げた。
濡れた魔法使いが補足する。
「氷だ。氷に受け止められた。瀑布の水が凍ってて、俺はそれに受け止められたんだよ」
「氷だと?」
ロスキュルは慌てて遠眼鏡を握り直し、大瀑布を見た。しかし二つの流れが氷で堰き止められているようには見受けられなかった。飛沫のカーテンが時折虹色に煌めくのが見えるばかりだ。
ロスキュルは訝しげな視線を送った。
すると濡れネズミは、今にも壁をよじ登らんいきおいで手を叩きつけて、ロスキュルを見上げた。
「本当なんだ、信じてくれ! 俺はちょっと前に目覚めた。氷はほとんど融けかかってて、危うく瀑布のなかへ真っ逆さまに落ちるところだったんだ。もう全部融けちまったかもしれねぇ。そうなると証明する術はねぇんだが……とにかくそういうことなんだ。信じてくれよ、なあ!」
「分かった。分かったから、少し落ち着いてくれ」
ロスキュルは今日の出撃者のなかに氷魔法の使い手がいないことを知っていた。昨夜の襲撃においては突撃部隊にも氷の使い手は出撃していたが、消耗の激しさから、今回は補欠部隊と交代していたはずだ。
もちろん、氷魔法が得意でなくとも魔法の行使自体は可能だが。
あえて不得意な氷魔法を行使しなければならない理由が解らなかった。
この魔法使いを救うために氷魔法を使った奴がいるなら、そいつはおそらくアホだ。よほどのアホだ。仲間を救出するつもりなら、氷で身体を受け止めるよりも、風魔法で河の中から引き上げたほうが確実に仲間の命を救い出せるのだから。
ロスキュルは、もう一度遠眼鏡に目を押しつけ男が走ってきた方角を見た。
やや南寄り。シュム河の流れに位置するところ。
水の流れ落ちる瀑布へゆっくりと視線を滑らせてゆくが、やはり氷らしきものは見受けられない。不自然に飛沫の上がっている個所はないし、氷柱が立っているわけでもない。
だがロスキュルは、あることに思い当たった。
「あんた、巨人と戦ってたんだよな。なら、足のない巨人がどこに現れたか、判るか?」
「ああ、判る。ようやく信じてくれたんだな!」
濡れた魔法使いは、どうやらロスキュルの思い描いた結論に、端から達していたようだった。
一方、門衛は、どうしてそんなことを訊ねるのか解らないようで、腕を組んで口を一文字に結んでいた。
「信じる。だから、早く教えてくれ。足のない巨人たちは、ミシェルから近いほうに立っていたか? それともシュムから近いほうに立っていたか? あるいは滝から上がって間もない中央に立っていたのか?」
訊ねると濡れた魔法使いは、興奮に目を見開きながら答えた。
「奴らは陸地に近いところまで来てた。南に近いほう、シュム河のほうだった……」
改めて事態の深刻さを察したのか、その語尾は小さく尻すぼみになった。
そこでようやく門衛もはっとして双眸を見開いた。最悪の可能性に思い至ったようだった。
ロスキュルは震える手で遠眼鏡を下ろすと、ひとりごちるように言った。
「信じたくはないが、上に報告せねばならんな……。〝足のない巨人〟が、魔法を扱える可能性について――」
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