十一章 敗北の唄

 どれだけ強く生を望む者に対しても死はやって来る。

 どれだけ生を望まれた者に対しても、死が慈悲を与えることはない。


 エヴァンが愛しい仲間たちの未来を願おうと、ヨトゥミリスは彼らを死へと誘い続ける。ただ破滅のみに生きる巨人は、心ある者たちの存在を蝕む。


 多くの命が喪われ、魔法を扱うヨトゥミリスの存在が懸念される今、エヴァンは鉛の血液が流れるような気だるさを感じていた。


 壁の隅に寄せ集められた花束とカード。

 今後どれだけの仲間が生き残れるだろうか、と憂慮する。


〝足のない巨人〟が使ったと思われる魔法は、氷魔法と推測された。その対策として、枢区や南の防衛拠点から炎魔法の使い手たちが派遣されてきた。彼らは、壁上から遠距離攻撃を行う後衛部隊だけでなく、エヴァン小隊にも組み込まれた。


 だが彼らは接近戦のエキスパートとは言えない。

 そもそも、炎魔法を得意とする魔法使いが前衛として送り込まれること自体稀だ。

 自衛のために不向きな魔法だからだ。


 エヴァンが用いる風魔法は、風の流動で攻撃のエネルギーを分散させたり、急加速することで敵の攻撃そのものを回避することができる。

 水魔法や氷魔法なら、盾をつくり出し防御することが可能だ。


 ところが雷魔法や炎魔法には物理攻撃をふせぐ手段がない。

 炎魔法とはいわば、攻撃面に特化した遠距離戦でこそ活きる魔法だった。


 炎使いがアオスゴルに到着してから、すでにヨトゥミリスの襲撃は二度あった。

 今のところ犠牲者は出ておらず、〝足のない巨人〟も確認されていない。

 しかしエヴァンには、それが嵐の前の静けさのように感じられるのだった。


「浮かない顔ですわね、中尉殿?」


 地鳴りのような教会の鐘の音が響いたあと、見慣れた仲間の顔が建物の陰からひょっこりと顔を出した。

 可愛い部下との四日ぶりの再会に、陰鬱な心にも多少の晴れ間がのぞいた。


「戻って来たのだな、カルティナ兵長」


「ええ、なんとか。聴力も回復しましたわ。耳障りな鐘の音が嫌というほど聞こえますもの。肋骨のほうはまだしばらく時間がかかるそうです。治癒魔法で肉は治せても骨を治すのは難しいそうで。見習い時代に骨を折った時も、同じようなことを言われたのを思い出しましたわ」


 そう言って若い女魔法使いは胸当ての下を撫で、くすくすと笑った。


「いずれにしても、よく戻った。魔力の消耗が激しかったので、戦線復帰は難しいものかと思っていた」


 魔力の過剰消耗は、時に〝門壊症もんかいしょう〟と呼ばれる症状を引き起こす。症状自体は日常生活に支障をきたすほどではないが、魔法使いとしては致命的な「魔法を扱えなくなる病気」だ。


「わたくしももう絶望的かと。巨人と相打つくらいの気持ちでおりましたし」


 肩をすくめるカルティナを、エヴァンはきつく睨みつけた。


「死ぬことは許さんぞ。貴様の命は多くの命を助ける。その力がある」

「買いかぶりすぎですわ、中尉殿」

「いいや、そんなことはない。それに人が人に及ぼす影響というものは、貴様に限らず計り知れるものではない。意識せずとも、人は人の命を助けて生きているものだ。だからこそ、人は生きなければならず、殺生をしてはならぬ。私は師にそう教えられた」

 

 かつてクルゲの里から魔法使いとしてアオスゴルへと旅立ったエヴァンは、長い見習い時代を過ごした後、小隊に組み込まれ、同じくクルゲ出身の魔法使いの許で鍛え上げられた。


 彼もまた現在のエヴァンと同じく、その心根の優しさ故に中尉以上の階級へ進級できなかった〝はみだし者〟で、突撃部隊の小隊長を任されていた。十六年前の大戦〝瀑布流転の戦い〟で手足を失うまで、彼は中尉階級のままだった。


 だがそれこそが、彼が己の信念を貫いた証でもあったとエヴァンは信じている。


 彼は「人を生かす」ことに重きを置き続け、無辜の民を守るため奮闘した。魔法の反動で手足が焦げた肉塊となっても、決して他者の命を軽んじることなく、身を挺して目の前の人々を守り抜いたのだ。


 そして彼の信念が今、多くの命を救う屈強なる魔法使いを生かしている。


 その一人――〝赫の踊り子〟と称される魔法使いが遠い空を眺め笑った。


「確かに、わたくしもこうして生きていることで、ヨトゥミリスを殺し、人を助けているのかもしれませんわね」


 その命がエズ・アントスと呼ばれる偉大な魔法使いによって生かされたことを彼女は知らない。


 だがいずれ彼女も、復讐の道から護りの道へとその足を踏み出してゆくだろう。五日前の戦いの折、エヴァンの言葉に横たわったカルティナの声音には、その兆しが感じられたように思った。


 俺も昔は――。


 エヴァンは改めて過去の自分を内省した上で、若い魔法使いに返した。


「そうだ。故に生きろ。本当にその命を捧げるべきは、目の前でか弱い命が喪われそうになったときだけだ」


「あら、それはいいんですの? 弱い命が助かるよりも、中尉殿のような強い魔法使いが生きているほうがいいんではなくて?」


 さらりと放たれたカルティナの残酷な言葉は、けれど真実なのかもしれなかった。信念とは綺麗事で「生きるべき者が生きる」ことこそが世を救うことになるのではあるまいか。


 そうだとしても。

 命の可能性を、どうしてそれまでと言い切れるだろう。


 エヴァンはあえて答えず「貴様にもいずれ私と同じものが見えてくるかもしれん」とだけ返しておいた。言葉をすべて与えたところで、そこに内包されたすべてを学ぶことはできない。実際に彼女自身が経験し、内省することで、それがいずれ彼女のものとして育ってゆくのだから。


 海色の目が細まり、じっとエヴァンを見返した。

 エヴァンもまた彼女を見つめた。


 ところが二人の視線が交わることはなかった。彼女の目はエヴァンの方向へと向けられていたが、どこも見ていなかった。海色の目は淀み、悲哀が深く融けていた。


 眼差しの意味を問いかける猶予は与えられなかった。

 壁上で見張り番を務めていた男が身体を強張らせたのが、視界の端でもはっきりと見てとれた。


 ただ事でないとすぐに判った。


 ヨトゥミリスの襲来に慣れた男が、角笛を手に取るまでに普段の倍以上の時間を要していた。手が小刻みに震えていると判ったのは、エヴァン自身、謎めいた震えに襲われているのに気付いたあとだった。


 間もなくして方々で角笛の高鳴りが轟いた。アオスゴル全体を音の重力が圧した。

 エヴァンは重い息を吐き、反射的に花束とカードを見下ろした。


 もう誰もいなくならないでくれ。


 そう天に懇願しながら。


 しかし、そこへ否をつき付けるかのように、天頂に神の拳がひらかれた。白き傷痕が無残に大気を裂き、雷鳴が頭の芯にまでじんと響き渡った。天上の拳には、水の塊が握られていたのだろう。間もなく、大粒の雨が地上を打擲ちょうちゃくしはじめた。


                 ◆◆◆◆◆


 カルティナ・ヨフォンの戦いに終わりはない。

 瀑布の底から、ついに巨人族の呻きが途絶えるその時まで。


 心休まる一時もない。

 家族を喪ったあの日、まっとうな人としての道は閉ざされたのだから。


 愛する者を殺され、今を枯らされ、未来は腐り果てた。


 どれだけヨトゥミリスを殺しても家族は戻ってこない。どれだけこの身を危険にさらしても、彼らの声を聞くことはできない。


 死ねば、家族に会えるだろうか。エヴァン中尉の言を無視して己を滅ぼせば、あるいは安寧の道を拓けるだろうか。


 そう思いながらも、黒々と凝った復讐の粘液は、彼女を小隊長の後ろに付き従わせた。過去から去来する恐怖は怒りとなって燃え上がり、血に飢えた狂気はその若く美しい相貌に歪んだ笑みをはりつかせる。


 ところが運命は、どこまでも無慈悲で。

 彼女には、復讐の刃が閃く機会すら与えられなかった。


 アオスゴル東門は、ぴたりと口を閉ざしたまま微動だにしない。門衛の姿さえ見当たらず、塁壁からは後衛魔法使いたちが、雨に足を滑らせながら駆け下りてきた。


 慌ただしく開かれたのは、家々や工房の古びたドアのほうだ。


 中から次々と人が吐き出されてゆく。土砂降りをふり払い、石敷きの地面を転がるように西門を目指しかけ出してゆく。


 エヴァン小隊もまた西門へと向かった。逃避行を開始した民の背中を守るようにしながら。


 絶えず角笛が吹き鳴らされていた。それは今や壁上からでなく、すぐ隣や前方からも響き渡ってくる。


 平時とは大きく異なった音色で。

 耳を聾するような雷鳴の唸りさえ貫きながら。


 間違いない。

 カルティナは確信した。


 これは十六年前に鳴らされた音色と相違ない。

 当時、治癒術師を志していた少女も遠方から忍び寄る絶望の気配を感じていたものだ。


〝敗北の唄〟と呼ばれるこの音色は「砦を放棄し、散開せよ」あるいは、単に「逃げろ」を意味する。魔法使い全員が原則所持を強制される二本の角笛のうちの一本が、この音色を奏でるのだ。


 今、世果ての大瀑布からは、実に三十以上の小型と十近い中型・大型が押し寄せていた。


 それはさながら瀑布の激流が逆流したかのようだった。

 紺青の波が、水路から氾濫する汚水めいて地を侵してゆく。ヨトゥミリスの群れがうねり、大地はひび割れ、天は破滅の化身を祝福するがごとく雷雨の哄笑にはじけた。


「急げ、急げぇ!」


 アオスゴルは瀑布から這い上がるヨトゥミリスを滅ぼすための砦だ。

 しかしその実、「いつでも放棄できる砦」としての一面ももっていた。


 塁壁の補修がなされないこと。

 墓を残す風習が失われたこと。

 それは人材、資源の不足も理由の一つに違いないが、実情は、アオスゴルをいつでも捨て去れるように排除されたに過ぎなかった。


 マクベルの壁が年々高さを増してゆくのも、クルゲの里人たちが今も大樹を住居としているのも、いずれアオスゴルが放棄されることを知るがゆえ――。


「西門を出た者から、直ちに六人一班を編成し散開しろ。班は他小隊との混合編制となるが、必ず一人以上、兵長以上の指揮官をたてること。巨人と対峙し、勝機がなければ逃げること。必ずや奴らを滅ぼすために、生きよ!」


 西門を出た者たちは、ドゥエタス少将の指示に従い班を編制し、方々へ散っていった。


 カルティナもまた六人一班の一人となった。他の構成員が上等兵以下であることから、彼女は必然的に指揮官を務めねばならなくなったが、この窮状の最中文句は言っていられなかった。


 たった今打ち壊され宙を舞った塁壁の破片を避けるようにしながら、彼女らは、アオスゴルをあとにした。


 雨にけむる砦は見る間に瓦礫の山と化していく。泡のように弾けた粉塵が、飛沫とともに舞い上がり、濁った霧をあとに残した。威容を誇っていた教会も無残に破壊され、装飾が剥がれ落ちてゆくのが、かろうじて窺えた。


 それも間もなく土砂降りのカーテンの中へと消える。悲鳴があったかどうかも判らない。鼓膜には雨粒の爆ぜる音がはりついていた。


 今のカルティナにできるのは、祈ることだけだった。あの汚らわしい巨人どもに潰された者がいないようにと。エヴァンの信仰神らしいソルテアなる神にこいねがい、後退に努めるのだった。


 やがて彼らの進路は南西に定まる。


 アオスゴルの西方面に広がるのはだだっ広い平野だ。

 雨で視界が悪いせいもあって、延々と同じ場所を進んでいるような錯覚に陥る。ひとたび街道を外れれば、森のなかのたった一枚の葉を探しあてるような迷いに、足許が震えだしてもおかしくなかった。


 だが、アオスゴルの性質上、そこに詰める魔法使いたちは、防区の地理を事細かに把握している。


 南西方角へ直進をつづければ、いずれ雑木林が見えてくる。さらに、その中央を裂くように進んで行けば、木々の連なりはたちまち大きく腕をひろげ、再び人族の均した街道を迎えにだすだろう。


 それがカルティナの故郷――マクベルへの最短ルートだった。


 誰が取り決めたわけでもないが、仲間たちは黙ってカルティナの足の向くほうへ付き従ってくれた。


 彼女の指揮能力の欠如はだれもが知るところだったはずだ。

 それでも文句の一つも言わず従ってくれる仲間たちに、カルティナは一瞥をよこし、感謝の意としてみせた。


 その上で己を生かしてきた命綱をきつく握りしめる。


 必ず、ヨトゥミリスを狩り尽くす。

 

 正面へ向きなおると、口端に血がにじみ、ザラついた鉄の味がした。

 四肢にめぐる不安や恐怖を、唇を噛んで耐え忍んでいた。

〝赫の踊り子〟誕生の地が近づくにつれ、弱みを暴かれていくような気がした。


 と同時に、脳裏へひらめく相貌があった。

 その厳めしい顔が言った。


『杖を掲げよ!』

 

 と。


 悲愴なカルティナの心に、谺が爆ぜた。

 雨に冷えゆく身体が、却って燃えあがるかに思えた。


 胸の奥、新たな決意がたしかな熱をともす。


 仇の血肉に酔う殺戮者こそ殺すべきだと。自分は殺戮者である前に、魔法使いなのだと。ヨトゥミリスを屠るためでなく、か弱き命を守るために杖を掲げることが、真の使命なのだと。


 カルティナは強く地を蹴った。

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