十二章 望み絶つ巨影
アオスゴルからミシェル河を渡った先には、楡の群生する深い森がある。
北方にうねる山脈の中腹までをも覆いつくす緑黄の世界は、自然の中を生きる者たちの監視塔だ。獣たちは下生えの中から目を光らせ、瀑布を見張り、怪物の到来を知るや彼らだけが知る暗がりの中へ逃れる。
それは人族にとっても恰好の隠れ蓑となった。
そもそも防区の自然がほとんど開拓されず放置されているのは、このような危急の際、ヨトゥミリスを殲滅するための三次元的フィールドを確保しておくためだった。
中型・大型の弱点は高所におおく、樹木はよい足場となる。複雑にかさなりあった葉は深い影を作りだし、奇襲の成功率を高める。最小限の戦力で巨人どもを殲滅するには、他とない地の利をえることができるのだ。
魔法使いの多くが西を行く中、エヴァン班は楡の森へと進入していた。
一方、南面のシュム河を渡ったところには小さな林があり、そちらには〝水龍万化〟の二つ名をもつ水魔法の猛者バヒル少尉率いる班が進入している。
彼らの目的は同じ。
あえて西方へ駆けるヨトゥミリスを追わず、瀑布からの新手を殲滅することだった。
「ゴゴァ……ゴ、アァゴ……」
ところが彼らの殊勝な決意は、すぐさま打ち砕かれることとなる。
楡の樹上へと降り立ち、瀑布へと目を凝らしたエヴァンは、それを見てしまったのだ。
「なっ、莫迦な……。あれは、あれはなんだ……?」
一呼吸遅れて樹上へ到達した魔法使いたちも、それを見て息を呑んだ。
ほんのひと月ばかり前に魔法使いとなったパックなどは、それを一瞥しただけで絶望に打ちひしがれ、けたたましい悲鳴を上げた。手からトネリコの杖がこぼれ落ち、下生えの中に紛れて泥を跳ねた。
次の瞬間、
「オオオオオォアアアアアァァァッ!」
山々の巌の肌をも砕かんばかりの大音声が一帯を覆い尽くした。
叫びはたちまち暴風と化し、楡の木々は大きくしなった。樹上で様子を見ていたエヴァンたちは、その咆哮だけで地面へと叩きつけられ、マントを泥にさらした。
生い茂った草木を手ではらい、すぐさま体勢を立て直す。
が、すぐには動きだせなかった。
先の光景が、エヴァンの心を恐怖で塗りかためていた。血液が冷え固まった鉄と化したように、身体の自由を奪っていた。
なんとか額に手をあてると、低い呻きがもれた。
自分が今、最悪の悪夢の中にいるのではないかと疑った。
しかし、今しがた打ちつけた背中は痛みに疼き、これが夢でないことを告げていた。
「あれは……」
ヨトゥミリス。たしかにヨトゥミリスだった。
瀑布から這い上がるヨトゥミリスの姿に相違なかった。
異様に肩幅が広く、その上に九つもの頭をのせていた。紺青の外殻で頭部や胸部、腕部までを覆い、手首から先だけが雷雨にさらされていた。イレギュラーな巨人だった。
これまでもイレギュラーは散見されてきた。四足の巨人、尾をもつ〝尾つき〟――五日前の戦いでは、〝足のない巨人〟が確認されたばかりだ。
だが問題なのは、形状ではない。
その大きさだ。
エヴァンが見たのは、胸から上を露出し、瀑布の縁を掴んだ片腕が見えるばかりの半身だった。
にもかかわらず、あの巨人は、これまで見たどんな巨人よりも遥かに巨大だと断言できた。
その巨躯たるや目視できる範囲だけで八分の一マイルはありそうだった。もし、あ
れが地上の土を踏めば、全長はその倍以上にもなるだろう。
四分の一マイル。まるで動く山だ。
あんなものにどうやって打ち勝つ?
散開したすべての魔法使いを招集し、蟷螂の斧を振るったところで結果は目に見えている。
そもそもアオスゴルの魔法使いたちは、あの山のような巨人を除いた襲撃者を前に、撤退を選択したのだ。彼らは戦力による不利を、作戦を用いて補わなければならないほど脆弱であったのだ。
あれに勝つ手段など、
「あるはずがない……」
エヴァンは杖を握ったまま、その場から一歩も動くことができなかった。
仲間たちも動き出さなかった。
無論、中尉の指示を待っていたわけではない。彼らはあまりにも強大すぎる脅威に戦意を喪失していた。
しかしすぐに決断の時はやって来た。
雨のカーテンに、ぬっと三つの影が浮かび上がったからだ。
一目見ただけで人族でないと判った。
一つがおよそ十フィート。残り二つは十二フィートほどもあったからだ。
霜色の眼光がかすかに軌跡をえがき、岩と岩をうち鳴らしたような唸りが、雨粒を跳ね上げた。
いずれも小型に分類されるヨトゥミリス。
だが油断はできない。この動揺の中ではなおさらだ。精神の乱れは魔法に大きく影響する。
エヴァンは咄嗟にハンドサインで上を示した。
魔法使いたちははっと我に返り、魔法を帯びた身体で人間離れした跳躍を見せた。
ところが、樹上に躍りでた影は五つだった。
「パックがいない!」
真っ先に炎使いのホルクスが声を上げた。
五人は一斉に地上を見下ろした。
雨の絨毯の中、パックが頭を抱え震えているのが見えた。
そこに三体のヨトゥミリスが迫った。
草むらに蹲るパックを見るやいなや、涎を振りまき駆けだしたのだ。
小型と言えど化け物だ。
恐慌状態のパック一人では、顛末など目に見えていた。
エヴァンは咄嗟に風の太刀を編み、幹を蹴った。
パックへ引き寄せられるように、巨人と人、四つの影がばく進した。
四人の魔法使いもそれに続いた。
「うあああぁぁっ! ああっああぁああっ!」
真っ先にパックへ辿り着いたのは、ヨトゥミリスだった。
すれ違いざま、その巨大な手が、パックの両足を掴んで振り回した。未熟な魔法使いは半狂乱に陥り、明らかに正常な判断力を失っていた。抵抗の意思はなく、悲鳴だけが雨音の中に谺した。
弧を描いたパックの頭が、エヴァン目がけ振り払われた。
エヴァンはそれを紙一重で躱した。
碧の軌跡が閃いた。
パックを掴んだ腕が宙を舞った。
投げ出されたパックは、水使いカレフの水の網に受けとめられた。
と同時、隻腕のヨトゥミリスの脳天へ太刀が振り下ろされた。
丸い頭部が熟れたざくろのように割れ、赤黒の血は雨と混ざり合った。下生えの床が汚れてゆく。
エヴァンはヨトゥミリスの肩に降り立つ。
血を浴びながら短い残心を終えると、すぐさま次の標的へ向け跳んだ。
カレフを除いた三人はもう一方のヨトゥミリスを相手どった。一人が足を掴んで転ばせ、残り二人で腕をもいだ。
濡れた灌木や腐植土に血の塗装が施された。三人は悶絶する巨人の頭部目がけ一斉に拳を振りおろし、忌々しい呻き声を殺した。
一方エヴァンは、残り一体の腹に風の太刀を閃かせたところだった。
ところがそこに、またもあの滅びの咆哮が轟く!
「アアアアァァオオオオオォォォン!」
魔法使いたちの身体は、
エヴァンは太刀を霧散させ空中で姿勢を制御したが、パックが下生えの中に呑まれた。さらにカレフが激しく楡の幹へ叩きつけられ、ぐったりと頭を垂らした。
小型ヨトゥミリスは泥に指を突き立て、衝撃に耐えていた。
唇をめくれ上がらせ、醜く黄ばんだ牙を剥きだしていた。
牙の間から血の糸が垂れ、裂けた脇腹から滝のように血が噴いていた。
ところが、腹圧で内臓がこぼれ落ちたその時、不意に小型の出血が止まった。
見れば、傷口の筋肉が巨大な肉腫のごとく膨れ上がっている。
なんと満身創痍の巨人は、筋肉を膨張させ、瞬間的に傷口を塞いだのである!
異形の荒業に魔法使いたちが驚愕をあらわにした刹那、泥の塊が跳ね上がった。
十フィート超の巨躯からは想像もつかない俊足が、楡の森を切り裂く。
衝突の反動をかえりみぬ捨て鉢な体当たり。
狙いは、幹に横たわってぐったりとしたまま動かないカレフに他ならない。
轢き倒された灌木がメキメキと音をたて崩れ、紺青の暴風はなおも吹きすさぶ!
「させるか……!」
マントを翻らせ、風の力を吐き出したエヴァンは、矢の如く空を馳せた。
刃を編んだ糸を絞り、風の太刀を倍にまで伸ばす。
忌むべき巨人の首。
なんとしても、ここで刈り取る。
「……ッ!」
しかし付与式の性質が仇となる。
不意に風の太刀が成長をとめたのだ。
すれ違いざま太刀が裂いたのは、ヨトゥミリスの首でなく背中だった。
高く血がしぶいたものの、それだけだった。
絶命させること適わず。
巨人の突進は止まらなかった。
カレフがゆっくりと瞼を持ち上げたのは、幹と骨肉の砕ける音が雨の騒音を打ち破る、まさにその寸前のことだった。
放射状に血液が飛び散り、すぐ近くで気を失っていたパックの半身までもが紅色に染まった。
ヨトゥミリスは、勢いそのまま頭から地面へ激突。
今まさに傷を負ったかのように、脇腹から血の塊を吐き出した。
そこへ強化魔法を得意とするマベルが追いついた。痙攣をはじめたヨトゥミリスの後頭部を、憎々しげに蹴りつけ頭蓋を陥没させた。さらにそこへ拳を捻じりこんで脳を握り潰した。汚らしい脳漿がはじけ、頬にはりついた。
エヴァンは転げるように着地すると、唇を噛みしめた。杖を支えに立ち上がり、見るも無残なカレフの許へ歩み寄った。
「……っ」
それは最早、人の原形すら留めていなかった。割れた幹から人肉の芽が伸びているような、人とも植物とも断じがたい亡骸だった。
エヴァンは哀れな骸の正面に片膝を下ろした。膝が雨と体液に濡れるが構うことはない。すぐさま手を組み、黙祷した。仲間たちもカレフの死を悼んだ。
しかし彼らに、涙を涸らす余裕はなかった。
今も瀑布から這い出そうともがく巨躯が脳裏にちらついた。理性がかすめとられていく。
そんな中、ホルクスは冷静だった。パックを叩き起こし、茫洋として意識のまとまらない彼を肩に担ぐと、指示をあおぐようにエヴァンを見たのだ。
班長は再びハンドサインで樹上へ登るよう指示した。
〝九つ頭〟のヨトゥミリスの動向を観察する必要があった。
ところがエヴァンは、すぐにその選択を悔いた。
なぜなら〝九つ頭〟は、すでに上陸を果たそうとしていたからだ。
膝までを地上にこすり付け、足裏で瀑布の縁を蹴り。
這う這うの体で前進をはじめていたのである。
今まさに、アオスゴルの塁壁が完全にうち砕かれ、教会が半ばからへし折れた。癇癪を起こした子どもが積み木の家を崩すような手つきだけで、人族の防衛線は半壊した。
エヴァンたちの胸中でも、なにかが音をたてて崩れていった。〝九つ頭〟が身動ぎするだけで、心の穴はうつろに拡がり、四肢の力を吸いあげた。
「どうやって……どうやってあれを止める?」
「……」
問いかけども、返ってくる答えはなかった。
〝九つ頭〟は、どうやらこちらには興味がないらしく、十八の瞳は正面を見据えていた。しかしエヴァン班は、絶えず胃の腑を刺し貫かれるような恐怖と対峙しなければならなかった。
規格外の巨躯だけが、〝九つ頭〟の脅威ではなかったのだ。
大地を掴む手からは、豪雨すらも白銀の結晶へと変える冷気が絶えず放出されていた。周囲には人の背丈をゆうに超える氷柱がそそり立ち、見る間に成長を遂げてゆく。さらに、その無数の指の一本一本は、小型ヨトゥミリスに似た〝足のない巨人〟の姿をとり、蛆のように蠢いていた。
エヴァンは絶望とともに理解した。
前回の戦いで目撃された四体の〝足のない巨人〟は、あの〝九つ頭〟の指に過ぎなかったのだ。氷魔法と思われていたものは、絶望の巨影から絶えず発せられる強烈な冷気だったのだ。
「あんなの、止められるわけありませんよ……」
強化魔法を解除し、サイフォンが答えた。他からも無言の首肯があった。
ヨトゥミリスを滅ぼす者として、エヴァンは部下を叱責すべきだった。
しかし彼もまた、部下と同じ絶望に打ちひしがれていることを認めねばならなかった。
あれを見た瞬間からエヴァンは、ほんの一瞬でも、ほんの一筋でも勝利の望みを見ることはなかったのだから。
そんな人類に対し、〝九つ頭〟は容赦なく絶望の苗を植え続けた。
無数の指の一本一本が、ぶつりぶつりとちぎれ始めたのである。
無論、それは自壊ではなかった。
ちぎれた指は、たちまちオタマジャクシのように足を生やし、小型のヨトゥミリスと化していった。指の失われた個所からは、マメのようなものが膨れ上がり、新たな指が形成されていく。
すでにほとんどのヨトゥミリスが西方へ走り去った中、楡の森にまで小型が現れたのが何故か。それが今ようやく解った。
最早、誰も口を利けなかった。
深い絶望が心を腐らせていた。狂うことすらできず、底のない穴の中へどこまでも落ちてゆくような気分を味わった。
雷鳴が鼓膜に破壊の指をのばし、稲妻が空を縫いなおすように閃いた。
その時〝九つ頭〟が、ついに大瀑布の縁を削り取り、上陸を果たした。
足裏が大地を捉えた瞬間、世界が震えた。
胃を蹴りつけるような揺れは、すぐに痺れをもよおした。
曲げられた膝が、歪んだ鉄を伸ばすようにゆっくりと平らかになってゆく。稲妻を負った背もまた天へと近づいていった。背骨がポキポキと音を鳴らすように、外殻まで白銀に染めあげた氷の鎧がメキメキと砕け、地上に破滅をもたらした。
その全長はエヴァンの予想した通り、およそ四分の一マイルばかりあっただろう。
その身一つで、空を支えられるような悪夢じみた巨体。
頭上を埋め尽くす暗雲は、霜の巨神のために用意された冠のようにすら見えた。
「ああ、あっア……」
圧倒的な威容を前に、次はサイフォンが狂気に呑まれた。
エヴァンの胸の内でも、狂気が暴れ回った。理性を破壊しようと鋭く爪を立てていた。正気の防壁が、がりがりとえぐられてゆくのが判った。
自らの皮膚に爪を立て、それをなんとか押し殺すも。
時間の問題のように思われた。
終末の時計は、すでにその砂を落とし始めたのだから。
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