五章 穴の底に

 人工の窪地の中で、ヴァニは苦痛に呻いていた。


 全身に絶えず杭を打たれるような痛みが疼いている。頭の中では角笛を鳴らされているかのよう。胃は痙攣がおさまらず、もう吐くものもないのに時折酸いものが口端を伝った。右のこめかみから頬にかけては、べったりと吐瀉物がはり付いている。彼の悔恨の象徴たる大つるはしは、穴の外に放りだされ、虚しく風にさらされていた。


「……クソっ、クソ野郎ども」


 ザキムの目を恐れたのか、他の遺物堀たちは仕事を投げだしてまで、救いの手を差し伸べるのを拒んだ。監督役のガンズに叱られその剛腕に打たれるよりも、ザキムの執拗ないじめから逃れるほうが彼らにとって重要なことだったからだ。


 ヴァニは酸い唾を吐き出し、胃を捻り上げられるような痛みに顔をしかめた。ザキムを叩きのめしてやれなかったのが悔しかったし、些細なことに、怒りを爆発させてしまった自分が情けなかった。


 けれどあの大つるはしで、ついに奴の頭を叩き割らなかったのは、爆破魔法で脳をシェイクしなかったのは、賢明な判断だったはずだ。


 落ちこぼれの自分が、あろうことか殺人者になってしまったら、あの世で祖父に合わせる顔がない。七年前、ついに瞼がひらかなくなる瞬間まで、魔法使いとなることを信じてくれた祖父に。


 いつかエズ・アントスの言った言葉が、あの時、ヴァニの最悪の決断を押し留めてくれたのかもしれない。


『ヨトゥミリスどもは憎むべき敵じゃ。奴らは徒に人族の命を奪ってきた。儂らにはそれを屠るための魔法ちからがある。だが、いかに憎むべき者が現れたとしても、それが奴らのような心なきものでない限り、決して傷つけてはならん。心ある者は気まぐれ、時に過ちを犯しもするが、誰かを助けることもある。相手を殴り倒すのも、転んだ者に手を差し伸べるのもまた心ある者の証なんじゃよ。相手を敬い生かすのは、これから生まれる命を助けることにもなるかもしれんのじゃ』

 

 果たしてザキムが人を助けることがあるのか。疑問も憎しみも潰えることはない。


 だが、祖父の嗄れた声を思い出せば、これでよかったのだと思えた。ヴァニには、それが正しいことだと信じ続けることができた。


 ザキムの憎らしい言葉が記憶の中に去来するまでは。


『てめぇはエズのジジイの血を引いてるとは思えねぇ、落ちこぼれのクズ野郎――』

「クソったれのハゲ頭……」


 ヴァニは唇を噛みしめ、土を掻いた。惨めに地面を這いながら、立ち上がろうとする。

 しかし、膝を伸ばしたところで足許がふらつき、派手に転倒した。


「うっ、あぁっく……!」 


 激しく打ちつけた鼻から、眉間の裏にまで痺れるような痛みが拡がった。乾いた鼻血の痕を、新しい血が塗り潰してゆく。


「ちく、しょう……」


 血とともに怒りの蒸気が吐き出された。

 

『心ある者は気まぐれ。時に過ちも犯すが、時に誰かを助けもする――』

 

 ヴァニはその文言を暗示めいて繰り返し、胸の中を黒い粘液で塗り潰そうとする殺意を押し殺した。

 そこへ野太い男の声が落ちてくる。


「言わんこっちゃねぇな」


 鼻面を押さえながら見上げると、そこには〝夢見のビル〟が立っていた。採掘作業はどうしたのか、口許には例のパイプがくわえられ、中毒性の高い紫煙がもくもくと吐き出されていた。


「これから大変だぜ、ヴァニ? 今から魔法使い目指すか?」

「バカにしてんのか、ビル」


 ヴァニは拳を振り上げ、偉丈夫を睨みつけた。


「じゃあ、ログボザに入信するか?」

「あんな掃き溜めに入ろうなんて奴は、鼻も頭もイカれてるに違いねぇよ」


 鼻血を拭うと、ビルから手を差し出された。わざと鼻血を拭った手を伸ばすと「きたねぇ」と、無理やりもう一方の手をとられ、いきおいよく引き上げられた。少々強引だった所為で、肩や胃が痛んで短い悲鳴がもれる。


「旅はどうだ? 俺たちの住処を作ってくれた小人族も南西へ旅立ったって言うぜ。海抜を渡れるかどうかは知らんがな」

「渡れるわけねぇよ。ヲームルガドラの腹の中が快適なわけもねぇし」


 ミズィガオロスの民にとって、海は恐怖の象徴だった。何故なら海原には、〝古の時代〟から棲息する大海蛇ヲームルガドラがいるからだ。


 その大波の如き体躯は、なんとミズィガオロス島を一周するほどだという。普段は大人しく姿を見せることはないものの、人族がひとたび波へ漕ぎだせば眠れる蛇は憤怒に目覚める。舟ごとすべてを呑みこみ、二度と地上へ還すことはないとされていた。


 実際、海に出ようとした者は、突如発生した渦潮に引き込まれ、数日後、浜で骨になって見つかるのだった。


「とにかく、ここにはいねぇほうがいいと思うぜ」

「それには……同感だ」


 弱者をいじめ抜くことだけを生き甲斐にしてきたような男に、真っ向から喧嘩を売り、敗けたのだ。これからどんなにひどい仕打ちが待ち受けているかは容易に想像がつく。後悔は先に立たない。今頃になってようやく湧き上がってくる。


「でも俺は魔法使いになんかなれないし、商いの才もない。旅にでる金もなければ、ヲームルガドラを出しぬく術もない。獣狩りの心得なら多少はあるつもりだけど、一生自給自足で生きていける自信はないし……」


 貧しい者が多く、森の中に居を構えるクルゲの里人には、獣狩りの習慣があった。獣の追い払い方や逃げ方、狩り方、捌き方などは幼いうちから教育される。だが、一生を自然の中で生きるとなれば、里をかまえて生活するのとは、まるでわけが違ってくる。


「だがここにいれば、お前の心は死ぬだろうぜ」

「そうだな……。疲れ果てて死ぬか、あるいはザキムの野郎を殺しちまうかもしれねぇ。そんなくらいなら、のたれ死んだほうがマシかもな」


 ヴァニは血の唾を吐きすてた。


 旅に出るならなにが必要だろうと考えた。

 痛みが引き、肝が引きしまった。


 大好きな祖父と過ごした家には思い出がある。祖父が遺したものは決して多くなかったけれど、家はそこにあるだけで沢山の思い出を詰めこんだ巨大な宝石箱の役割をもつものだ。里を去るとなれば、宝石箱を捨てさる覚悟をもたなければならなかった。


「ビル。あんたには感謝してる」


 これが今生の別れになると思えば、これまで口にできなかった感謝の言葉も告げられた。


 ビルには古くから恩がある。


 アントス家の二つ隣に住んでいたビルは、ヴァニより十五も年上だが、小さな頃から親交があった。里人同士の交流は不思議と密でないのだが、彼はエズともヴァニとも昔から慣れ親しんでいた。


 エズと酒を酌み交わしたり、幼いヴァニの頭をわしゃわしゃと撫でてくれたりしたものだ。エズが眠っている時、魔法の訓練に付き合ってくれたのもビルだった。時には食糧の買いだしにおもむき、拙いながらも料理をふる舞ってくれたりもした。エズが亡くなったあとは、身寄りを失くしたヴァニの面倒も買って出た。


「あんたがいてくれて助かった。あんたがいなけりゃ、俺はこうして生きてこられなかった。じいちゃんが死ぬ前だって色々世話になったよ。きっとじいちゃんも感謝してる。遺物堀の仕事だって、あんたがいなかったら二年も続けてこられなかった。こんな形で別れなくちゃいけないのは哀しいけど――」


 口にすると、改めて寂寞としたものが胸を過ぎる。祖父が亡くなった時にさえ飲み下した涙が漏れだそうとする。


 その時、声が聞こえた。


「ならば行くな」


 頸許を薄らとなぞられるようなこそばゆい感覚が胸へ落ち、消えた。


「え?」


 頭一つ分背の高いビルを見上げると、怪訝な顔に見下ろされた。


「どうした、ヴァニ? 感動的な別れの台詞は最後まで口にするもんだぜ」

「いや、あんたが引き止めたんじゃないか」


 反駁の言葉に、ビルはパイプをくわえ大きく息を吸った。それからパイプを片手に持ち直すと、紫煙の塊を吐き出した。


「お前、葉っぱはやってなかったと思ってたが、わざわざ大枚はたいて吸うようになったのか?」


「待て、なに言ってんだ? 俺は狂ってない」


「失礼な奴だな。まあ、ちっと葉っぱでイカれてるかもしれんが、まだ正気は保ってるつもりだぜ。ガキの恥ずかしい台詞をいちいち遮って楽しむ趣味もねぇ」


「あんたじゃないのか……? じゃあ、誰が行くなって言ったんだ?」


 訊ねるとビルはさも面倒そうに肩をすくめ、天を仰いだ。


「ジイさんじゃねぇのか」

「じいちゃんは七年前に逝っただろ」


 二人は首を傾げ、合図もなく穴の中から這い出した。そして縁に座りこんで虚空を見つめた。


 陽は雲に隠されてこそいるものの、まだ眩い光を地上に投げかけている。生者を恨み、妬み、嫉む死者の残滓――ゴーストが出るのは夜だと言われているはずだ。まさかそんなものが現れるはずもない。


「やっぱりお前の気が狂ったんだ、ヴァニ。普段葉っぱを吸ってねぇから、俺の吐いた煙を吸って頭がイカれたに違いねぇさ」


「あんた、家に来る度に吸ってたじゃねぇか。小さい頃は、たしかに随分おかしくなったよ。壁に向かって小便してさ。じいちゃんにこっぴどく叱られた。でも、もう慣れたぜ。今更幻聴なんざ聞こえねぇよ」

 

 二人は唸って穴を見下ろした。穴と言ってもまだ浅く、底のほうでも精々七フィート程度しか地上との差はないだろう。これが縦穴になるまであと何日かかるだろうか。土の具合をたしかめながら慎重に掘り進めなければならないので、年はまたぐことになるだろう。


 いや、自分がこれの完成を目にすることは――。


「なあ、あそこになんかねぇか?」


 感傷的になりかけたところに、ビルが欠伸のような間の抜けた声をだした。底を指さし、充血した目をこすっている。


 ヴァニは嘆息した。

 幻覚だ。


 うんざりしたが、もっともらしいことを言う気にはなれなかった。どうせ「煙に慣れてるから幻覚なんざ見ねぇ」と、むきになるのは分かり切っていた。ヴァニは渋々、穴の底を見下ろした。


「ん……?」


 ところが意外なことに、そこには光を反射しちらちらと目を射るなにかがあった。辺りにはヴァニの吐瀉物がまき散らされているものの、水気はほとんど土に滲みて乾いていた。


 二人は顔を見合わせると、穴へ降り立ち、光るものを観察した。


 遠目に見れば眩く見えたそれは、近くで見ると、月のない夜の闇のような漆黒をしていた。こちらに向かってゆっくり手を伸ばしてくるようにも、奥行きがないようにも感じられる真の黒だ。


 光沢をもちながら、光すべてを吸収してしまうような奇異な物体。

 それは、彼らにとって見慣れたものだった。


「遺物みてぇだな」

「ああ、そうみたいだ」


 いよいよエブンジュナを去ろうと決意したにもかかわらず、遺物堀としての営みがそうさせるのか、ヴァニはスコップを探していた。普段は、仕事をサボりがちな――今もサボタージュ中であるが――ビルも背中に吊るしたスコップを手に取った。


 ヴァニが大つるはしとスコップとを見つけ出すと、二人は頷き合って遺物の周囲を掘り始めた。


 すぐに硬い感触が返ってくる。

 ベルトに吊るした刷毛を手に、土を払った。ビルも同じように刷毛を手に取り、土を払う。遺物の漆黒が面積を増した。


 さらに辺りを掘ると、またすぐに硬い感触があった。土の下にはつるりとした遺物の姿。


 そんなことを繰り返しているうち、遺物がほんの僅かに弧を描いているのが見て取れるようになってきた。


 やがて二人は同じ答えに辿り着いた。

 もしこれが球状の形体を持つ遺物なら――。


「おいおい、こいつはもしかして」

「とんでもなくでかい遺物なんじゃないか……?」

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