四章 太刀天籟
南西の広場や兵舎に集っていた魔法使いたちが、音色に誘われるように押し寄せてくる。
エヴァンとカルティナの二人は、壁上で見張り番を務めていた魔法使いを一瞥すると、合図もなく同じ方向へと駆け出した。
「敵襲、敵襲! 巨人どもは瀑布近辺で静止! 各員、配置につく可!」
エヴァンは三種ある角笛の中から、最も細い一本を選んで吹き鳴らした。
一際高い音色が、敵襲を報せる音色を穿ち天に突きぬけた。
小隊を招集するための音色だ。
すると足音が分かれ、方々からマントをはためかせた人々が集まってくる。
仲間の数が十を超えたところで、エヴァンは近場にいた門衛の男の一人に目配せした。
男は、もう一方の門衛に向かって頷き、壁に杭止めしてあった鎖を手に取った。門外の吊り橋が重く唸りながら、堀の上へ架け渡される。
やや遅れて鋼鉄の東門が、戦火の訪れを告げるが如く耳障りな音で鳴き、その重い口を開いた。
エヴァン小隊の面々は、互いの動きを阻害することなく、統制のとれた動きでアオスゴルを跳びだす。
ヨトゥミリス相手に籠城は悪手だ。
魔法は、使い手から離れれば離れるほど威力が減退する。
比較的小型のヨトゥミリスであれば、身体が柔らかく体力も少ない。防壁からの遠距離魔法で充分に対処可能だ。
しかし中型・大型クラスにもなれば、魔力を帯びた外殻が全身を覆い、魔法に対しても、物理攻撃に対しても高い防御力を有するようになる。遠距離魔法によるダメージはほとんど期待できず、必然的にアオスゴルへの接近を許してしまうことになりかねない。
畢竟、突撃部隊が不可欠となるのだ。
エヴァンの指揮する小隊は、その突撃部隊だった。
接近戦を仕かけるために過酷な訓練を潜り抜けた、エキスパート集団である。
アオスゴルには彼らの他に、マディラト大尉率いる後衛部隊とドゥエタス少将率いる守護部隊がある。後衛部隊は壁上からの支援を主とし、守護部隊はヨトゥミリスが最接近してきた場合の切り札として、壁内、あるいは堀の外側に設けられた斜堤の陰に陣形を組んで奇襲を仕かける。
エヴァンはまだ踏み込まず、部下たちにも突撃指令は出さなかった。河の中に足を突っ込んだ巨人族の動向を窺いながら、ハンドサインで小隊の陣形を横へ、横へと拡げ、いつでも相手を包囲できるよう部隊を展開する。
アオスゴル近辺から瀑布までは、およそ八分の一マイルの距離。
森の中で育ち、培われたエヴァンの超人的な視力は、敵の詳細を分析した。
数は五体だ。
うち三体が小型、中型・大型はそれぞれ一体ずつ。中型のサイズはおよそ三十フィート。同型では平均的なサイズ。しかし大型はおよそ八十フィートもあり、同型でもかなり巨大と言えた。
小型は蒼褪めた肌をぶるぶると震わせている。
対して、中型・大型は魔力を帯びた紺青の外殻で全身を覆っていた。その下では、はち切れんばかりの筋肉が脈動する。外殻の薄くなった関節部からは不定期に霧めいた蒸気が放出され、濡れそぼった肉体には陽光を反射した暗澹たる美しさがあった。
唇のない剥きだした牙の蠢きや、醜い蛾のように横へ広がった鼻をひくつかせる様子までエヴァンにははっきりと見えていた。
凍てついた白銀の双眸と目が合った。
「ゴアアアアアァッ!」
と同時に、瀑布の霧のマントをはためかせながら、大型が咆哮した。激流のくだる轟音すらも穿つそれは、大地が恐れをなしたようにぴしぴしと音をたてるほどの大音声だった。
四体の巨人が動き出したのは、その時だった。
小型は、その矮躯――人族より遥かに大きいが――を活かし、腕まで使った猿めいた動きで流れの中を突っ切り上陸する。
たちまち豆粒の体躯が膨れ上がった。
常人が、振り乱された黒い舌の動きを視認できるようにまで、たった三呼吸ほどしかかからなかった。
だが、人族も一方的に嬲り殺される木人ではない。
三十名で構成されるエヴァン小隊は、今や全員が集結完了した。塁壁の上には遠距離魔法に秀でた後衛部隊の魔法使いたちが列をなしている。
「各自、強化魔法展開ッ! 小型は後衛部隊に任せ、我々は中型を討つ!」
三十数名の部下に号令を飛ばし、兵長階級の魔法使いたちは経験に基づき、さらに詳細な指示を部下へ飛ばした。
間を置かずエヴァンの詠唱が紡がれる!
「神風よ、吹け。汝は舟。穢れた者の息を避け、我を運ぶ大いなる箱舟。汝は牙。巌の肌を裂き、鉄の骨を砕く強靭なる刃也」
小隊長は自らが発した号令とは異なる魔法を展開した。肉体の基礎能力を向上させる強化魔法ではなく、風に由来する魔法だ。
ただしこれは、属性魔法を行使する上で一般的に用いられる、直接攻撃の〝攻撃式〟とは異なる。対象を限定しそれに力を付与する〝付与式〟と呼ばれる魔法の一形態。風の力を借りて自身のスピードを飛躍させるだけなく、空中での姿勢制御、果ては風の太刀による攻撃までを行える間接的な強化魔法であった。
極限られた者だけが行使できる稀有な力だ。
壁内の守護隊長であるドゥエタス少将でさえ、付与式を操ることはできない。
ところがエヴァン小隊に限って言えば、風の付与式を行使できる者が、もう一人だけいた。
引きつった歪な笑みを浮かべ、真っ先に隊の中を跳びだした人影。
それはすれ違いざまに繰り出された小型の振り下ろしを、なびく絹のカーテンにも似た優雅さでかいくぐった。股へと滑りこめば、風の槍の一閃で腱を斬り裂いた。中型を目指し跳躍する。
鮮血を吸い戦場の中に踊る修羅だ。
〝赫の踊り子〟。
カルティナ兵長こそが、エヴァン小隊のもう一振りの魔剣であった。
とはいえ、これから対峙すべきは小型でなく中型。その後は大型も屠らねばならない。如何に巨人と優雅におどる彼女でも、一人で中型・大型を相手取ることなどできるはずもなかった。
ならばもう一振りの魔剣を抜くまでだ。
エヴァンは地を蹴った。
その身体が、たちまち
腕の周囲に風の糸が絡み、編みあわされた。
碧に色づいた太刀へと。
間もなく第一の風の斬撃が、外殻をなぞった。
「ゴアァ……?」
甲高い摩擦音とともに、外殻に小さな亀裂が生まれた。
たったそれだけのこと――ではない。
やや遅れて二の太刀を浴びせたカルティナなどは、ヨトゥミリスの外殻にかすり傷一つ与えることはできなかった。そこに続いた魔法使いたちも結果は同じ。五人がかりでようやく亀裂を拡げることができると言った程度だ。ここに集った三十人の魔法使いが束をなしても、無傷の外殻に傷をつけるなど到底不可能だった。
エヴァンは精密な魔法の操作性と並外れた魔力によって、触れたものすべてを断ち切る――〝
その心の甘さから、カルティナと同じように出世の道を断たれた〝はみだし者〟であり、本来ならば枢区の魔法使いとして、新人の育成や最高意思決定機関〝元枢会〟の親衛隊を任されていてもおかしくない実力者であった。
小隊長は真っ直ぐに突き出された巨人族の拳を、螺旋を描いてかいくぐり、手首の上へと降り立った。
その時、すでに風の太刀は振り下ろされていた。
次に碧の魔法使いが踏み出した時、天籟の音が骨肉を断った。滑り落ちるように手首が離れ、赤黒の血が滝のように噴き出した。
「ゴアアアガァッ……!」
後方では小型たちへの一斉射撃の音が
塁壁の上には無数の光の輪が連なり、そこから大いなる神が指を伸ばすように、稲妻が迸っていた。
撃たれた小型は、口だけでなく鼻や耳、さらには目からも黒い煙を立ち昇らせた。一体がそのまま動かなくなりうつ伏せに倒れた。他二体は牙こそ剥きだしていたが、痙攣が烈しく前進することすらままならないようだった。
瀑布の方角からは大型が歩み寄ってくる。
極めて鈍重だが、一歩が大きすぎるために侮れない速度だ。今や大型の巨躯は、中型を討つべく立ち回る魔法使いたちを、その巨樹にも見紛う影の中に収めんとしていた。
猶予はもう残りわずか。
大型の足があと四度も地を踏み鳴らせば、乱戦は必至である!
魔法使いたちのこめかみを汗が伝った。
「杖を掲げよ!」
その時、焦燥に我を失いかけた魔法使いの耳に、咆哮が轟いた。
中型の腕を滑るように駆けていたエヴァンの怒号だった。
逆光に翳ったシルエットは、自らもトネリコの杖を掲げていた。
それが魔法使いたちを、ふと我に返らせた。
心が奮い立った。
彼らもまた、高く杖を掲げた。
「「おおおおおおおぉぉぉ!」」
鬨の声が戦場に満ちる!
大型の一歩が踏み出される度、魔法使いたちはむしろ敏捷さを増した。肉体強化を施した身体が、方々で宙を舞った。その手から次々と各々の得意とする魔法が放出された!
足首、膝裏、腰、腹、肘裏、腋。巨人族の様々な部位が、外殻の隙間からズタズタに引き裂かれていった。
さらに切断面をピンポイントで狙撃する壁からの後方支援が、絶えず中型の痛覚を刺激した。
それでも中型は怯まなかった。肉体のありとあらゆる部位を振り抜き、魔法使いたちを叩き飛ばした。
エヴァンは腕にしがみつき、かろうじて耐えた。
カルティナはそのスピードと軽やかな身のこなしで傷一つ負うことはなかった。
しかし、肉体強化で立ち回る仲間たちの中には、血の塊を吐きだし塁壁にまで叩きつけられる者もあった。攻撃式の使い手たちは、肉体強化と属性魔法のイメージを同時に結び付けなければならない。咄嗟の状況判断に僅かな遅れを生じていた。
エヴァンは、くの字姿勢で弾き飛ばされた仲間たちを一瞥し、昨夜の惨劇を思い起こした。苦い感情に、相貌が歪んだ。
愛する者たちが血の池へ沈んでゆくのはもう見たくなかった。花束やカードが朽ちてゆくのを見るのも、うんざりだ。
一瞬の隙をつき、エヴァンは再び駆けだした。碧色のローブが編まれ、全身を覆った。一歩が外殻を踏む度、その身体は光へ至ろうとでもするように速度を増していった。
そしてついに、〝太刀天籟〟が、巨人族の肘を蹴りつけた。
天籟が唸れば、碧の身体は螺旋をえがき宙を踊った。その高さは今や、ヨトゥミリスの肩部にまで達していた。
碧のローブが解れ、杖を中心に編みあわされる。
使い手の三倍にも至ろうかという大太刀に!
「逝ね」
囁きとともに杖が突き出され、獣のごとき風の唸りが天を侵した。杖の先から伸びた大太刀が、寸分違わず外殻の隙間へと滑りこみ、巨人族の頸を貫いた。
たちまち手首を断った時とは比べ物にならない血液が噴きだした。赫の雨が地上へと降り注いだ。さながらスヴァルタールヘダの背に担がれたムステオヘダ火山が大噴火を起こしたかのような壮絶な最期であった。
口からはごぼごぼと血の泡が湧いた。
霜の目が濁り、ついにくずおれた。皮一枚繋がった頭が上向き、それきり動かなくなった。
亡骸の肩へと降り立ったエヴァンは、深く息を吐き残心すると、すぐさま次の指示を飛ばした。
「対象を大型へと変更! 中型の死体は投擲物となる恐れがある。決して奴を近づけるなッ!」
そうは言ったものの、大型はすでに、その剛腕を目いっぱい伸ばせば、中型の亡骸に指先が触れそうなほどの距離にいた。
それでも、もはや魔法使いたちは諦念に心をあずけはしなかった。勝鬨を上げ、強いて己を奮い立たせた。
無数のマントが翻った。
しかしエヴァンは、それを目の当たりにしながら、すぐ動きだせずにいた。
今、彼は屈強な男を三人も背負っているような重みに苛まれていた。
中型のとどめを刺す際の一撃で、大きく魔力を消耗したためであった。
魔法は物理法則を無視した強大な力だが、それゆえにリスクも大きいのだ。
魔法を用いるために必要な魔力とは、言わば生命の根幹をなすエネルギーである。体力と同じように、充分な休息をとれば回復もするが、消耗し続ければ心身ともに負荷が生じる。軽度であれば倦怠感や多少の痛みを感じる程度ですむものの、重度であれば精神錯乱や実際に肉体が損傷することもあり得る。
中型討伐時点で疲労を感じるほどの消耗となれば、先の一撃は決してやすい代償とは言えなかった。
それでもエヴァンは、亡骸から地面へと降り立っても、決して踵までは返そうとはしない。
仲間たちも少なからず消耗している。中型に弾き飛ばされた者たちでさえも、血の唾を吐き出し、ふらついた足で戦線に復帰を果たしている。自分だけが休んでいるわけにはいかない。
ところが、エヴァンは地を蹴る寸前で踏みとどまった。
大型が霜の目を見開き、片脚を大きく地面から引き上げたからだ。
仲間たちも咄嗟に踵を返した。一部は、もう一方の足へとよじ登り、指を蹴って、さらに上を目指した。あるいは持ち上がった足の上にいた者が、危険を承知で外殻の隙間から指の付け根を断とうとした。
だが、あまりにも巨大な大型の指を断つのは、生半可な魔法では不可能だった。
「ゴアアアアアアアアッ!」
振り下ろされる足裏から放射状に風が逃げ惑い、暴風と化した。
ヨトゥミリスから離れようとしなかった者たちは、それだけで空中へと投げ出され錐もみ回転して吹っ飛んだ。
さらに大型の足が地面へ叩きつけられると、大地は波の如くめくれあがり、凄まじい砂埃を巻き起こした。中型の死体が衝撃でたおれ、なお濃さを増した。
目を奪われた魔法使いたちは、接近を躊躇した。
そこへ土埃の中からぬっと拳が現れる。
多くはかろうじてそれを躱した。だが何人かは、衝撃波で瀑布へと続く激流の中へ呑みこまれた。回避できなかった者も二人いた。無論、二人は汚らしい染みとなって死んだ。
拳を避け、ヨトゥミリスの左側へと回りこんだエヴァンは、惨劇を前に唇を噛みしめた。
即座に大型の足を刈り取るイメージを構築するが、煙が濃すぎて足の位置が判別できない。もくもくと膨れ上がる土埃を前に、舌を打ち鳴らすしかなかった。
そこへ頬を赤く濡らした女性兵長が降り立った。
「ここはわたくしにお任せくださいませ」
そう言ってにっこりと微笑んだカルティナは、付与式を解除し、巨大な碧の扇を生み出した。それがたちまち手を離れ、ひとりでにヨトゥミリスへと飛翔する。
突如、土埃の中で扇が弾けた。
砂埃が解れた糸のごとく隙間をあらわにし、中から碧色の巨大な蝶が飛びだした。さらに使い手が指を弾くと、蝶は百を超える小さな群れへと分裂した。今度こそ砂埃は霧散し、空の青に融けていった。
直接的なダメージはない。大型は突然の出来事に当惑し、きょろきょろと辺りを見回しているだけだ。
だが、この一撃で敵を隠すものはなくなった。女性兵長の活躍を前に、魔法使いの士気も回復した。
停滞していたマントが一斉に羽搏いた。空中に残像の線が引かれてゆく。
大型はそれらを撃ち落とさんと、遮二無二腕を振るった。
ところが、その腕が二度と地面を叩きつけることはなかった。土埃の発生を避けるべく、魔法使いたちは巧みに大型を誘導していたのだ。
その間に、カルティナはすぐさま付与式を構築し直した。
先の一撃は、攻撃式によるものだった。
付与式は攻防、機動力をもカバーできる利便性の高い魔法形態である反面、一撃当たりの威力が制限される弱点をもっている。使い手を中心に魔法が展開されるため、射程を拡大するのも苦手だ。広域に膨れ上がった土埃を払うには、付与式から攻撃式に魔法を展開し直す必要があった。
女性兵長に頷いたエヴァンは、突如、彼女の相貌に疲労の色が滲んだのに気付いた。先程まではなかった隈が、薄らと目の下を縁どっているのが判る。付与式から攻撃式、さらに付与式をかけ直したのだから、魔力の消耗はエヴァン以上かもしれなかった。
それでもカルティナは、疲労を感じさせぬ闘志に目を剥いた。巨体へ向き直れば、一方の口端を吊りあげ歪な笑みを浮かべた。次の瞬間には、碧の龍となって跳びだしていた。
そのあとを追う形で、エヴァンもまた大型へと挑んだ。鋭い碧の太刀が編み出され、瞬時に脹脛にまで肉薄した。
碧の残光が閃いた。外殻が削り取られ、破片が散らばった。
死肉を求めつどうネズミめいて、魔法使いたちが傷口へと集まった。拳や蹴り、魔法の武具が叩きつけられた。傷口は徐々に拡がり血をしぶき、大型を痛みに唸らせた。
エヴァンはさらに上を目指して跳んだ。
その時だった。
後衛部隊から『敵襲』を報せる笛の音が届いたのは。
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