第6話 ヒンチンの定数
僕は、いつでも普通だった。
小学校では、みんなと一緒に遊び、試験は良くもなく悪くもなく、いつも平均点。宿題はいつもやっていったけど、その出来が良いとも悪いともいえないので、褒められることもなく、怒られることもなかった。そうだ、一度だけ、小学四年生くらいの時に絵で賞を取ったことがあった。佳作。まあ、そんなこともあるだろう。人並みにおめでとうと言われ、人並みに忘れ去られた。地元の中学校に進み、人並みに少し悪いことを覚え、怒られたり逃げたり。勉強はできるほうでもなく悪いほうでもなく。いじめられることもなく、賞賛されることもなかった。高校受験は人並みに大変だった。それなりに勉強したつもりだったが、ハイレベルの問題になるといまいち理解できず、適当なこと書いて当たったり当たらなかったりだった。都会の高校に通い、部活動をして、高校二年生からは大学受験の準備。そこの塾で隣の席だった女の子・・・名前はなんだったか。ネイピアといったかな。容姿端麗頭脳明晰、それでいて少しお茶目なところもあり、僕はひそかに憧れていた。でももちろんネイピアちゃんはものすごく人気者だった。何回か話したりして、話すだけで少し幸せを感じたりして、でももちろんそれっきりだった。ネイピアちゃんがどこの大学に行ったかも覚えていない。今思えば、人並みの初恋であって、人並みに成就しなかった、とそういうことだと思う。並の大学に入って、理系に進み、人並みに勉強して人並みに遊んだ。大学三年生の秋ごろ、大学院には進まず就職しようと決めた。そして、中小企業に内定を貰い、務めることになった。「無限積」という会社だ。似た名前の会社に無限和というのがあって、テレビCMでもおなじみの大企業があるが、まあその子会社みたいなもんだ。でも、これから成長しそうということで、なかなか期待の持てる会社だった。
普通、普通、普通、できていたけれども、たくさんの落ちこぼれていった人たちを見てきたから、普通を保てているということはそれなりに幸せなんだろう、と思っていた。有名になってバリバリ活躍している人たちも、大変そうだ。僕は人並みの苦労をして、人並みの幸せを掴んでいる。そんなに悪いことではない。その会社の同僚に、二進数っていう女の子がいた。なんだか積極的な子だった。一緒に食事に行ったりしているうちに仲良くなって、職場恋愛からの結婚。生活はもちろんそこまで豊かではないけれども、幸せな家庭を築いていた。
それで、死ぬまでもう普通から抜け出すことはない、そう思っていたが、1935年のことだった。突然黒ずくめの男が訪ねてきた。
トントン・・・
「はい、どちら様でしょう?」
「私は確率論と測度論を研究している。あなたとお話したい」
突然の意味不明な訪問客に僕はびっくりしたが、面倒なことにかかわりたくないので、お引き取り願うことにした。
「あの、すみませんが、この後用事が入っていますので・・・」
「あなたに拒否する権利はない」
高圧的に話すその男は僕の制止を振り切って家に入ってきた。
「なんなんですか!あなたは!」
「実に興味深い。あなたの生活はこの国の平均的な層の代表である」
「どういうことですか」
「国民の生活は平等であれば平等であるほどよいだろう?そして、あなたの生活は一般庶民として、理想的だ」
「だからどうしたっていうんです」
「あなたの家庭をモデルとして、全国民をあなたの家庭に近づけるように上に提言することにする。そのために、あなたの家庭はこれから私たちの監視下に入る。もちろん拒否は許されない」
「そんな横暴な!あなたに何の権力があるっていうんです?」
「それを聞きたいか?」
「まさか・・・?」
「連分数だよ」
「れん・・・ぶんすう?」
「あなたに多くを知る必要はない。それに、あなたはこれから普段通りの生活をすればよい。これから先何も変わらないんだ」
「なんでもいい!もう帰ってくれ!」
「そうだね・・・、帰ることにするよ。ふふ、これからこの国は幸せになる。みんなが平等に暮せるようになるのだ。・・・あ、そうそう、君の初恋の人・・・ネイピアとか言ったっけ?あの子はちょっと規格外だったな。どうも発散気質があるので、この国から追放させてもらった」
「ネイピア・・・!」
「君にはもう関係ない人だろ?奥様・・・二進数とかいったかな?よろしくやってくれたまえ。ここまで「普通」の人というのも珍しいな・・・恐れ入ったよ。は、は・・・」
「もう帰ってくれ!!」
それから、僕はなんだかすっきりしない心持ちを抱き続けたまま、生活を続けた。生活自体は何も変わらなかったが、周りから気づかないうちに一人、一人、と消えていった。国民たちは何も言わずに生活している。みなが平等に暮し、笑い、仕事をして、恋をして、勉強をして、遊び、そして老けて、死んでゆく。ただそれだけの人生。
僕はずっと自分の意味を考えていた。もっとも普通の人?なんだそれは。普通に度合いもなにもあるか?人はだれでも個性があるものだ。だからこそ人々には役割が備わり、生きる意味がある。この国に残った人間の中に、何かに役に立つ者がいるというのか?
「あなたの生活は一般庶民として、理想的だ」
なにが理想的だ。これでは何も進まない。この国はこのまま停滞という終焉を迎えることになるだろう。妻を連れて逃げよう、個性が躍る人々の世界へ・・・。
定義:ヒンチンの定数
測度0の例外を除くほとんどすべての実数を正則に連分数展開したときの係数の幾何平均の収束値で、その値は
2.68545200106530...
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