終章 飛鳥相与還
最終話〜飛鳥 あいともに還る
草原に、また
二頭の
空は青く晴れ、刷毛で描いたような白い雲が浮いている。翠色のほそながい草の葉が、風を受けてきらめく。
その風に両腕を伸ばして、鷲は、思い切り欠伸をした。
「いやあ。それにしても、あっつい国だった!」
ミナスティア国の情勢が落ち着き、シジンとファルス達が何とかやっていけるようになるのに、半年かかった。それまで彼等は滞在し、ニーナイ国と〈黒の山〉を経由して戻ってきたのだ。
オダと鳩は、ニーナイ国のシェル城下に留まった。オダは神官でなく、国を結ぶ外交官となる道を歩み始めた。鳩は彼と共に、自分の生き方を探している。
《星の子》は〈黒の山〉にいる。熱病の流行が沈静化したので、ナカツイ王国は国境の封鎖をといた。
鷲は、鷹と
「ニーナイ国も暑かったろう」
トグルが愉快そうに言う。鷲は顔をしかめた。
「乾いている分だけマシだ。ミナスティアは、暑いわ蒸れるわ雨は降るわ。挙句の果てに、海水でどろんどろんにされただろ。身体に
彼等の衣服と靴は黴だらけになり、剣と
今は、トグルもセム・サートルも、ニーナイ国で入手した木綿と麻の衣に、巡礼者の
「お前の場合、水虫だろー?」
トグルより先に雉が言い返した。鷹がくすくす笑い出す。鷲は大袈裟にうろたえた。
「な、なんで判った?」
「あのな……。どうしてそう、下品で不潔でアヤシイ方向に話を落ち着けるんだよ。振ったこっちが困るだろうが」
「俺、下品で不潔でアヤシイ男だもん」
「……否定して欲しいのか、肯定して欲しいのか。どっちだ?」
「いやん、わかってるくせに。雉ったら」
「
「きもちわるーい!」
娘に繰り返されて、鷲はよろめいた。鳶は父の表情を面白がり、きゃっきゃっと笑う。
つられて、サートルとトグルも笑った。
乾いた透明な風が、花弁と草の葉を散らして彼等の間をとおり過ぎた。どこかで雲雀が鳴いている。
「お前達、ここで暮らすつもりはないか?」
トグルがおもむろに訊ねた。言葉は全員に向いていたが、鷲と雉を誘っていることは明白だ。二人は顔を見合わせた。
トグルはフフッと低い声を転がして笑った。
「
雉と鷹は、そろって鷲を見た。断る理由のない話だが、鷲は片目を閉じ、ぼりぼり頭を掻いた。
「う~ん」
トグルは会話を楽しんでいる。
「どうした?」
「ミナスティア国は暑かったけど、こっちの冬は寒いからなあ」
雉は呆れた。
「お前、まだ動きまわるつもりなのかよ?」
「だって、俺、海の向こうを見てねえもん」
あっけらかんと鷲は言った。真っ青な空を見上げて、
「キイ帝国にも、行っていない場所がある。草原の北も、見たことがない。ヒルディア国にも行ってみたい」
雉の口が、あんぐりと開いた。
トグルは笑いを含んだ声で言った。
「……渡り鳥のように過ごし易い土地を求めて動くのもよかろうが、ここの暮らしも捨てたものではないぞ。馬といれば、楽しみは沢山ある」
サートルは期待をこめて肯いた。青年は、オルガ(馬追い杖)を使いこなすことを諦めてはいなかった。
鷹は不安げに夫を見た。頭を掻いていた鷲は、その眼差しに気づくと、片方の眉を跳ね上げて笑った。
「冗談だよ。今は、もっとやりたいことがあるからな」
そう言うと、腕を伸ばしてひょいと娘を抱き上げた。腋を支え、頭上高く掲げる。あの違和感は、もうない。
鷲は、娘の柔らかい頬に髭面を押しあてた。
「鳶が大きくなったら、一緒に行こう。な」
鷹はほっと微笑み、鳶は無邪気な笑声をあげた。
トグルは雉を顧みた。
「お前はどうする?」
肩をすくめ、雉は苦笑した。
「独りでいても、何も変わらなかったけれど……ここにいれば、その内、いいこともあるだろうよ」
「決まりだな」
トグルは満足げに呟いた。
彼等の行く手に、白い夏のユルテ(移動式)が数軒あらわれた。羊の群れが、ゆったり草を
馬の
騒ぎを聞きつけたのだろう。一軒のユルテの扉が、音を立てて開いた。凛とした女声が響く。
「
胸に赤ん坊を抱き、紺色の
タオがユルテから出て、怪訝そうに声をかけた。
「ハヤブサ殿? 如何された……」
彼女も、一行をみつけて言葉を呑んだ。
男達は互いの顔を見た。悪戯めいた笑みが髭だらけの頬に浮かぶ。
鷲は、鳶を一旦立たせると、鷹が駱駝から降りるのに手をかした。改めて娘を抱き上げる。鷹は、懐かしい友に晴れやかに微笑みかけた。
トグルは歩調を変えず、ゆっくりそちらへ歩いて行く。
隼は赤ん坊を抱き直すと、タオと顔を見合わせて哂った。眩しげに眼を細め、彼等が近づくのを待つ。
「おかえり……。無事で良かった」
トグルに隼が言ったのはこれだけだった。トグルは頷いて彼女を見詰めた。
「わあ! 赤ちゃん、可愛い! 男の子? 女の子?」
鳶が瞳をきらきら輝かせる。隼は、我が子をトグルに渡しながら微笑んだ。
「男の子だ。ラディースレンという。いらっしゃい、鳶。鷹も、元気そうで何より」
「ラディースレン……」
トグルは息子を受け取ると、小さな顔を見下ろした。彼と同じ黒髪の赤子は、深い緑の瞳で父を見た。
隼は鷲に微笑み、雉とサートルに安堵と感謝のこもった眼差しを向けた。
タオが弾んだ声で一同を促した。
「さあ、入られよ。今年のアイラグ(馬乳酒)は美味いぞ」
オルクト氏族長が、悠然とやって来た。シルカス・アラル・バガトルの姿もある。
トグルは大切に息子を抱き、隼と並んで歩いた。
ふいに、鳶が、父のかたぐるまの上で天を指した。
「あ。みてみて!」
一羽のイヌワシが、大きな環を描いて飛んでいた。
◇◆◇
彼等が
リー・ヴィニガ女将軍をはじめとする三将軍とカイ
報せを受けたトグルは溜息をひとつつくと、国境の警護のために軍を率いて長城まで出陣した。彼の傍らには、不敵な風貌の銀の長髪の男と、キイ帝国出身の赤毛の青年兵がいたという。
戦火が草原へ波及することはなく、オン大公は
以後、キイ帝国と草原は永く平和を保ち、ニーナイ国とともに栄えたという。
トグル・ディオ・バガトルがその生涯を終えたのは、十四年後だ。
本来の病が、《古老》の能力による再生の限界を超えたのだろう。亡くなる半年前より、彼は、十日に一日、八日に一日、と眠って過ごす日が増えていった。身体の回復に時間がかかるようになったのだ。
隼たちは落ち着いて事態を受け入れた。彼が以前のような病による苦痛を感じていないのは幸いだった。
その日、トグルは仲間たちに囲まれ、眠りながら逝った。
遺言により遺体は草原に埋められたが、
仲間たちの嘆きは深かったが、隼と鷲、鷹、雉の四人は草原にとどまり、ラディースレンと鳶の成長と、〈草原の民〉の行く末をみまもった。
《星の子》は、《古老》の能力で元の世界に帰ったとも、〈黒の山〉に残りつづけたとも伝えられる。
メルゲンとディオ、二人のトグルの
そして、鳥たちが何処へ飛び去ったのか、誰も知らない。
~『飛鳥』・完~
長い話にお付き合いくださいまして、ありがとうございました。本編は完結です。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます