終章 飛鳥相与還

最終話〜飛鳥 あいともに還る




 草原に、また勿忘草わすれなぐさの花が咲いた。

 二頭の駱駝ラクダを連れた男が四人、天山山脈の北に姿を現した。銀髪の男がふたり、金赤毛の男がひとり、黒髪の男がひとりだ。駱駝の一方には、たかが幼い娘を抱いて乗っていた。

 空は青く晴れ、刷毛で描いたような白い雲が浮いている。翠色のほそながい草の葉が、風を受けてきらめく。

 その風に両腕を伸ばして、鷲は、思い切り欠伸をした。


「いやあ。それにしても、国だった!」


 ミナスティア国の情勢が落ち着き、シジンとファルス達が何とかやっていけるようになるのに、半年かかった。それまで彼等は滞在し、ニーナイ国と〈黒の山〉を経由して戻ってきたのだ。

 オダと鳩は、ニーナイ国のシェル城下に留まった。オダは神官でなく、国を結ぶ外交官となる道を歩み始めた。鳩は彼と共に、自分の生き方を探している。

 《星の子》は〈黒の山〉にいる。熱病の流行が沈静化したので、ナカツイ王国は国境の封鎖をといた。


 鷲は、鷹ととびに今回の旅の顛末てんまつを話し終えたところだった。


「ニーナイ国も暑かったろう」


 トグルが愉快そうに言う。鷲は顔をしかめた。


「乾いている分だけマシだ。ミナスティアは、暑いわ蒸れるわ雨は降るわ。挙句の果てに、海水でにされただろ。身体にカビどころか、キノコが生えてくるんじゃないかと思ったぜ」


 彼等の衣服と靴は黴だらけになり、剣と帯鈎バックルは錆びてしまった。井戸を掘り、真水を得るところから全てを始めなければならなかった。塩害で、多くの森の木も枯れた。わずかに残った植物と遺跡の上で、人々は新しい暮らしを始めている。

 今は、トグルもセム・サートルも、ニーナイ国で入手した木綿と麻の衣に、巡礼者の長衣チャパンを羽織っていた。


「お前の場合、水虫だろー?」


 トグルより先に雉が言い返した。鷹がくすくす笑い出す。鷲は大袈裟にうろたえた。


「な、なんで判った?」

「あのな……。どうしてそう、下品で不潔でアヤシイ方向に話を落ち着けるんだよ。振ったこっちが困るだろうが」

「俺、下品で不潔でアヤシイ男だもん」

「……否定して欲しいのか、肯定して欲しいのか。どっちだ?」

「いやん、わかってるくせに。雉ったら」

髭面ひげづらで言うな。気持ち悪い」

「きもちわるーい!」


 娘に繰り返されて、鷲はよろめいた。鳶は父の表情を面白がり、きゃっきゃっと笑う。

 つられて、サートルとトグルも笑った。



 乾いた透明な風が、花弁と草の葉を散らして彼等の間をとおり過ぎた。どこかで雲雀が鳴いている。


「お前達、ここで暮らすつもりはないか?」


 トグルがおもむろに訊ねた。言葉は全員に向いていたが、鷲と雉を誘っていることは明白だ。二人は顔を見合わせた。

 トグルはフフッと低い声を転がして笑った。


夏祭りナーダムの間だけでなく……という意味だ。ユルテ(移動式住居)を持ち、馬と羊を飼う気はないか? 援助はするぞ」


 雉と鷹は、そろって鷲を見た。断る理由のない話だが、鷲は片目を閉じ、ぼりぼり頭を掻いた。


「う~ん」


 トグルは会話を楽しんでいる。


「どうした?」

「ミナスティア国は暑かったけど、こっちの冬は寒いからなあ」


 雉は呆れた。


「お前、まだ動きまわるつもりなのかよ?」

「だって、俺、海の向こうを見てねえもん」


 あっけらかんと鷲は言った。真っ青な空を見上げて、


「キイ帝国にも、行っていない場所がある。草原の北も、見たことがない。ヒルディア国にも行ってみたい」


 雉の口が、あんぐりと開いた。

 トグルは笑いを含んだ声で言った。


「……渡り鳥のように過ごし易い土地を求めて動くのもよかろうが、ここの暮らしも捨てたものではないぞ。馬といれば、楽しみは沢山ある」


 サートルは期待をこめて肯いた。青年は、オルガ(馬追い杖)を使いこなすことを諦めてはいなかった。

 鷹は不安げに夫を見た。頭を掻いていた鷲は、その眼差しに気づくと、片方の眉を跳ね上げて笑った。


「冗談だよ。今は、もっとやりたいことがあるからな」


 そう言うと、腕を伸ばしてひょいと娘を抱き上げた。腋を支え、頭上高く掲げる。あの違和感は、もうない。

 鷲は、娘の柔らかい頬に髭面を押しあてた。


「鳶が大きくなったら、一緒に行こう。な」


 鷹はほっと微笑み、鳶は無邪気な笑声をあげた。


 トグルは雉を顧みた。


「お前はどうする?」


 肩をすくめ、雉は苦笑した。


「独りでいても、何も変わらなかったけれど……ここにいれば、その内、いいこともあるだろうよ」

「決まりだな」


 トグルは満足げに呟いた。



 彼等の行く手に、白い夏のユルテ(移動式)が数軒あらわれた。羊の群れが、ゆったり草をんでいる。栗色の雌馬が一頭つながれていて、脚の長い仔馬が周りを跳びはねていた。

 馬のいななきが聞こえた。神矢ジュベ葦毛ボルテが主人をみつけたのだ。耳をぴんと立てて首を振り、足と尾を高くあげて駆けて来る。その後ろに鹿毛コアイ栗毛ゼルドゥの姿もあったので、トグルはほっと息を吐いた。


 騒ぎを聞きつけたのだろう。一軒のユルテの扉が、音を立てて開いた。凛とした女声が響く。


神矢ジュベ、どうした?」


 胸に赤ん坊を抱き、紺色の長衣デールを着た女性が、彼等に気づいて動作を止めた。ゆるく編んだ白銀の髪が風になびく。

 タオがユルテから出て、怪訝そうに声をかけた。


「ハヤブサ殿? 如何された……」


 彼女も、一行をみつけて言葉を呑んだ。


 男達は互いの顔を見た。悪戯めいた笑みが髭だらけの頬に浮かぶ。

 鷲は、鳶を一旦立たせると、鷹が駱駝から降りるのに手をかした。改めて娘を抱き上げる。鷹は、懐かしい友に晴れやかに微笑みかけた。

 トグルは歩調を変えず、ゆっくりそちらへ歩いて行く。

 隼は赤ん坊を抱き直すと、タオと顔を見合わせて哂った。眩しげに眼を細め、彼等が近づくのを待つ。


「おかえり……。無事で良かった」


 トグルに隼が言ったのはこれだけだった。トグルは頷いて彼女を見詰めた。


「わあ! 赤ちゃん、可愛い! 男の子? 女の子?」


 鳶が瞳をきらきら輝かせる。隼は、我が子をトグルに渡しながら微笑んだ。


「男の子だ。ラディースレンという。いらっしゃい、鳶。鷹も、元気そうで何より」

「ラディースレン……」


 トグルは息子を受け取ると、小さな顔を見下ろした。彼と同じ黒髪の赤子は、深い緑の瞳で父を見た。

 隼は鷲に微笑み、雉とサートルに安堵と感謝のこもった眼差しを向けた。

 タオが弾んだ声で一同を促した。


「さあ、入られよ。今年のアイラグ(馬乳酒)は美味いぞ」


 オルクト氏族長が、悠然とやって来た。シルカス・アラル・バガトルの姿もある。

 トグルは大切に息子を抱き、隼と並んで歩いた。

 ふいに、鳶が、父のかたぐるまの上で天を指した。


「あ。みてみて!」


 一羽のイヌワシが、大きな環を描いて飛んでいた。



               ◇◆◇



 彼等が本営オルドウへ帰還した年、キイ帝国では遂にオン・デリク大公が皇帝に禅譲ぜんじょうをせまり、王朝の簒奪さんだつを謀った。

 リー・ヴィニガ女将軍をはじめとする三将軍とカイワンは、オン大公に叛旗を翻し、内乱が勃発した。


 報せを受けたトグルは溜息をひとつつくと、国境の警護のために軍を率いて長城まで出陣した。彼の傍らには、不敵な風貌の銀の長髪の男と、キイ帝国出身の赤毛の青年兵がいたという。

 戦火が草原へ波及することはなく、オン大公はたおされた。将軍たちはワンとなり、皇帝の下、領国を治めた。

 以後、キイ帝国と草原は永く平和を保ち、ニーナイ国とともに栄えたという。



 トグル・ディオ・バガトルがその生涯を終えたのは、十四年後だ。

 本来の病が、《古老》の能力による再生の限界を超えたのだろう。亡くなる半年前より、彼は、十日に一日、八日に一日、と眠って過ごす日が増えていった。身体の回復に時間がかかるようになったのだ。

 隼たちは落ち着いて事態を受け入れた。彼が以前のような病による苦痛を感じていないのは幸いだった。

 その日、トグルは仲間たちに囲まれ、眠りながら逝った。


 遺言により遺体は草原に埋められたが、陵墓クルガンは造られず、地はならされて場所は秘された。氏族会によってジョルメが次の族長に選出され、名を継いだ。部族の盟主は、オルクト・トゥグス・バガトルが後任を務めた。

 仲間たちの嘆きは深かったが、隼と鷲、鷹、雉の四人は草原にとどまり、ラディースレンと鳶の成長と、〈草原の民〉の行く末をみまもった。


 《星の子》は、《古老》の能力で元の世界に帰ったとも、〈黒の山〉に残りつづけたとも伝えられる。



 メルゲンとディオ、二人のトグルの陵墓クルガンは、草原にはない。


 そして、鳥たちが何処へ飛び去ったのか、誰も知らない。







~『飛鳥』・完~


長い話にお付き合いくださいまして、ありがとうございました。本編は完結です。

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