第八章 勝利なき戦い(5)

*暴風雨(サイクロン)と高潮、土砂災害の描写があります。



           5


「雪崩の速さだ」と、後にトグルは語った。

「砂嵐より速かった」と、オダは言った。

 雉は「悪夢を見ているようだった」と表現した。


 泡立ちながら烈しく揺れていた海が、突如、牙をむいて襲いかかって来た。手前に生えていた木の根元が浸ったと思うと、一瞬後には幹の半分まで漬かる勢いだった。

 鷲はデオを肩に担ぎ、大声で叫んだ。


「逃げろ!」


 エセルも動いた。サティワナを抱き上げ、驚くファルスを叱咤する。


「聖女は敬うべきものだ! 波にさらわれてたまるか!」

 少年の腕を掴み、引きずるように立たせた。

「走れ!」


 シジンは足の悪い男に肩をかし、鳩は赤ん坊を抱いた女性と手を繋いだ。オダは腰の曲がった翁を支え、雉は子ども達の背を押して丘の斜面を登った。

 トグルは駱駝の尻を叩き、勝手に逃げさせた。サートルはトグルと力を合わせ、波にさらわれそうになった女性を引き上げた。

 人々は急いで森の中へ逃げ込んだ。


 暗緑色の濁った水は一気に坂をのぼり、彼等の足元へ達した。くさむらが消え、日干し煉瓦の階段が没した。木々は生えている地面ごと波に削られて沈んでいった。

 あの石柱が傾いてゆっくり視界の外へ消えていくさまを、シジンは声もなく見送った。

 時の女神にも戦乱にも耐えた石の壁が、暴風にいとも容易く突き崩され、ばらばらと落ちていく。なかには人頭大の石もあった。蔦と木々に守られた壁はしばらく耐えていたが、やがて半分崩れ落ちた。


 ファルスは母を抱いて木陰にうずくまり、がたがた震えていた。鷲はデオを足元に横たえると、腕を伸ばして母子を抱きしめた。

 雉は子ども達を庇いながら、トグルの言葉を思い出していた。『天に仁はなく、地にいつくしみはない』――あれは、こういうことかと。

 人も馬も、草も木も、天地は区別をしない。誰も特別扱いなどせず、人の都合に合わせはしない。殺すときは殺し、奪うときは奪う。

 人だけが……生物だけが仁(愛情)を持ち、親や子を慈しむ。仁故に憎み、慈しみ故に殺し合う。

 そのトグルは強風に身をさらし、地獄に通ずるくらい海面を見下ろしていた。



「また来るぞ!」


 波の動きを警戒していたシジンが、険しい声で叫んだ。鷲は舌打ちし、エセルは逃げ場を探して周囲を見渡した。


「森の奥へ入れ! 離れれば、波は届かない」


 鷲はファルスの母をエセルに託し、デオをシジンと足の悪い男に委ねた。ファルスの背を押して先に逃げるよう促すと、低く言った。


「トグル、ちょっと借りるぞ」


 トグルはがくりと片方の膝を着き、忌々しげに呻いた。


「……お前、今、ここでやるか」

「鳩、オダ! トグルを連れて行け。早く!」

「はいっ!」


 雉にも鷲が能力を使って波の上昇をおしとどめようとしていることが分かった。立てなくなったトグルを、鳩とオダが両脇から支える。オダは、トグルが小さく呟くのを聞いた。


「スマナイ……」

「なに言っているんですかっ。逃げますよ!」

「おう、早く行け! 長くはもたんぞ!」


 雉は、鷲の身体がうす青い光に縁どられるのを観た。かざした両手の下で抑えられた波頭が苦し気にのたうち、ぐるぐると渦を巻いて周囲のものをなぎ倒す。闇を裂く雷光に照らしだされた鷲は、雷神の化身のようだった。

 森の一部が切り取られ、そのまま滑って落ちていく。巻き込まれそうになった男の腕をサートルが捕らえ、エセルの仲間が二人を引き上げた。

 鷲は、仲間たちが安全な場所へ逃げるまで、そこに留まっていた。



 人々はしっかり根を張った大木の下に集まり、押し寄せる波を固唾を呑んで見守った。その瞳は藍色だったり碧だったり、黒、或いは空色をしていたが、恐怖に変わりはなかった。

 鳩は、何度も立ち上がろうとするトグルの胸にすがりついて彼を留めた。草原の男は切れ長の眼をおおきくみひらいて、波と対峙する鷲の背を観ていた。

 風が喚き、雷が轟き、人の声は聞こえない。

 天の闇と地の闇が溶け合い、何も見えなくなる。


 そして、時が止まった。



 雨は降り、風は叫び、海は吼え続けていたが、人の耳が聞きとれる音量の限界を超えたかのごとく、ふいに静寂が訪れた。潮と泥と草木のにおいが濃厚にまじり合った大気から、怒りが消える。

 雲はときどき蒼く光っていたが、雷鳴は遠のいた。

 全てを呑む勢いで駆け上がってきた波が、ぶつぶつと怨みの泡を吐いた。黒い水面を叩く雨音が小さくなる。

 やがて、雨が止み、風の中から水滴が消えた。波しぶきが収まり、平穏が戻って来る。


 サートルは、木陰から顔を覗かせた。鳩もトグルから手を離す。

 海はまだところどころ白い牙をむいていたが、頬に当たる風の力は和らいだ。大地の震えがおさまり、木の葉のざわめきは遠のいた。


 雲は、現れた時と同様、急速に東へ流れて行った。薄紙を剥ぐように闇が薄らいでいく。星が一つ、ふたつと雲間から現れ、澄んだ光を放った。

 母の胸にしがみついていた幼子が、泣きぬれた面を上げる。男達は守るべき者の傍から離れて動き出した。ひとり、また一人と……森を出て、星明りの下に佇んだ。

 水は、ゆっくり退いて行った。視界をおおう霧が晴れ、大気に明澄さが戻ってくる。東の空が白み始め、王宮の残骸と階段が目視できるようになった。


 シジンは嘆息した。

 石柱の立っていた場所はごっそり削られ、敷石ごと地面が消えていた。日干し煉瓦の階段は残っていたが、こちらも半分は土がむき出しになっている。背の低い草花は倒され、土砂の下敷きになっていた。

 陸の形が変わっていた。ゆるやかだった湾はえぐられ、浜辺に大きな岩と流木が散乱している。引き抜かれた大木が曲がった根を風にさらし、折れた石柱とともに無造作に置き捨てられていた。

 朝日が、煉瓦にこびりついた海草と漂着した瓦礫を静かに照らした。


 シジンが足音に気づいて振り返ると、エセルが来て隣に並んだ。サートルとオダが、足元に転がる石を避けながら近づいてくる。

 みな、光を目指して……。


 穏やかな波音が聞こえた。闇色だった海は、緑灰色から藍色へ、群青から鮮やかな蒼へと色を変えた。

 頭上を小さな影が過ぎった。鳥達がさえずり始める。木の葉から垂れる雫が、あけぼのの光をうけて煌いた。


 嵐は去った。



               *



「悪かったなあ、トグル。大丈夫か?」


 彼等が避難している場所にやってきた鷲は、開口一番、親友を気遣った。同時に力が注がれるのを感じ、トグルは苦笑して頷いた。

 鳩は、ほうと溜息をついた。


 二頭の駱駝は、荷車を牽いた牛たちとともに神殿の内庭にいた。荷物も、乗っていた病人たちも無事だった。ここも廃墟となっていて、人々は壁や木の根元に集まり、無事を確かめ合っていた。

 エセルが仲間たちと濡れた材木を集めて火を熾した。薪は煙をあげてくすぶっていたが、やがて緋色の炎が周囲を明るく照らした。水と食料を配るために、人々に声をかける。


 シジンはファルスの傍に戻った。サティワナとデオは、地主が提供した絨毯のうえに横たえられた。


「母さん」


 ファルスは母の横に跪き、そっと呼んだ。彼女はわずかに開く片方の眼で、息子を見た。

 トグルは肩で息を吐いて鷲を見遣り、鷲は雉と目線を交わした。雉は、ファルスの背に片手を当てた。


「ファルス。きみの力を少し借りるよ」

「え?」


 訝しむ少年の右手をとり、雉は、その手でサティワナの喉に触れた。右眼にも。他人には、ファルスが母を撫でたように観えただろう。事実、それだけだった。

 数秒のち、ファルスは耳を疑うことになった。


「ファルス……」


 少年は息を呑んで母を凝視みつめた。

 忌まわしいあの日から絶えて聞くことのなかった母の声が、戻っていた。火傷に塞がれていた右眼も、細く開いている。透明な涙があとからあとから湧き出て頬をぬらした。

 母は痩せた両腕を伸ばし、もう一度、息子を呼んだ。


「ファルス」

「母さん!」


 ファルスは母をしっかりと抱きしめた。雉は小さく安堵の息を吐き、彼女に言った。


「時間の経った傷だから、完全には消えないだろうけど……目立たないくらいには治ると思うよ。薬を持ってきたから、気長に治していこう」


 母子はやや茫然と、この白い肌の優男やさおとこを観た。二人には雉の行為の意味が解ったのだ。夢のような話だが……。

 雉は無言で肩をすくめた。ファルスが鷲を仰ぐと、鷲は「ん?」と首を傾げたのち、我関せずと視線を逸らした。


「デオ。母さんが、」


 呼びかけたファルスは、再び息を呑んだ。デオは息をしていなかった。

 デオを看ていた足の悪い男は、首を横に振った。飢えと熱病で衰弱した身体に、嵐がこたえたのだろう。


「どうして……」

 ファルスは肩を落とした。


 ――何故、生きてきたのだろう。

 父と一緒に死んでいれば、母は苦しまずに済んだ。《火の聖女》がなければ。神々がいなければ。

 奴隷ネガヤーに産まれていなければ、デオ達の苦しみはなかった。多くの人間を殺し、奪い奪われ、憎み憎まれて生きることなどなかった。

 熱病に罹らなければ。

 辿りついたカナストーラは、廃墟に過ぎなかった。それさえ、海は一夜で呑んでしまった。


「何のために……。デオ」


 ファルスは呻いた。傷ついた身に海水が沁みる。それは少年の心の傷にすり込まれる塩でもあった。

 鷲は、少年にかける言葉がなかった。彼が担いだ時、既にデオの心臓は止まっていたのだ。


「何のために、だと?」


 それまで少年に話しかけたことのないトグルが、初めて口を利いた。低い声は、一同の胸に深く響いた。


「決まっている。お前のために、生きた」


 ファルスの脳で、何かが融けた。

 無言のまま、少年は顔を歪ませ……そして、やっと、泣いた。



 サティワナは、息子の震える背を撫でている。病みやつれた彼女を、鷲は眺めた。

 昨夜のデオとファルスの再会は、絵師との別れを思い出させた。そして、今は――鷲の脳裏に、浅黒い肌をした女の姿が浮かんだ。

 山村に立ち寄る商人や村の男に身を売ることで暮らしていた、貧しい女。人々から蔑まれ、惚れた男にたかられ、幼い息子とともに飢えていた若い女。

 抱き締めてもらった憶えも、お腹いっぱい食べさせてもらった記憶もない。温かな想い出は残酷なそれとともにバラバラに砕け、彼の記憶から欠け落ちていた。

 今では、生きているか死んでいるかさえ判らない。それでも、おぼろに思い浮かべることは出来た。折れそうな手首をしていた。髪は脂気なくぱさぱさで、怒りに歪んだ頬はこけていた。息子を怒鳴る声には、悲鳴のような響きが含まれていた……。


 鷲が唇を歪めたことに、トグルは気づいた。怜悧な眼差しを片頬に受け、鷲は足元の小石を蹴った。


「どうした? ワシ」


 鷲はかぶりを振って天を仰いだ。紫に染まった雲の上に、明けの明星が輝いている。


「あいつも苦しかったのかもしれないな、と思っただけだ」


 呟いてから、我ながらあまりにありふれた言葉だと、声を立てずに嗤った。爽やかさとは違う苦いものが口に残る。

 これが答えだと、鷲は気づいた。あれだけ苦しみ、あての無い憎しみに我と我が身をきつつ、彷徨い続けた結果だった。

 苦しかったのかもしれない……あの女は、あの女で。心に巣食う闇に怯え、戸惑いながら、おのれの力ではどうすることも出来ず、助けを求め続けていたのかもしれない。

 幼い息子に。ただ一人の味方に。

 殴っても叫んでも、それが得られないと知った時、彼女に出来たのは、息子を殺すことだけだったのかもしれない。


 ハッと、鷲は息を吐いて嗤った。

『あわれな女だ……』 憤りが止まったと感じた。優しいゆるしには程遠いが、生ぬるい感情が胸を浸した。その水面に映る、面影は――


「トグル」


 『あいつ』が誰を指すのか判らず、トグルは首を傾げていた。鷲は自嘲気味に囁いた。


「俺達は、自分てめーが必要とする答えを手に入れるまで、どれだけ時間をかけなきゃならないんだろう」

「…………」

「手に入れてみれば、そいつはずっと足元に転がっていたものだったりするんだよな」


 鷲の言葉は漠然としていたが、漠然と、トグルは理解した。眼を細め、母子を見遣る。

 帰ろう、と鷲は思った。今なら帰れる気がした。欠けたものは埋められず、死んだ者は生き還らない。過去は消えず、傷跡は残る。

 しかし、それらを引き受けて生きて行くことは出来る。

 内面を浸す水面に映った最後の面影が鳶と鷹だったことに、鷲は安堵した。幼子の微笑がやわらかく心を照らす。甘い声が呼ぶ。


『あーまぁ(父さん)……』



「いいのか」


 ふと、トグルが話し掛けてきた。ファルスと母、デオと、疲れた表情でうずくまる人々を目で示した。


「誰も言わぬだろうから、俺が問うぞ。何故、全力を出さなかった? 俺を消せば、もっと出来ることがあったろう」

「よせやい」


 冗談めかして鷲はわらった。横顔にいつものふてぶてしさが戻ってくる。肩をすくめ、片目を閉じた。


「そうしたら、今、俺はいねえよ……。会えなくても、どんな状態でも、『生きている』と『死んでいる』は全然違う。あの時お前が生きてくれたから、俺がいるんだ。くだらんことを考えるな」


 トグルは、しばらくこの言葉について考えた。

『そうだ』と言うように雉がうなずき、焚き火の周りに集まっている人々に声をかけた。


「動ける者は手伝ってくれ。怪我人と病人の手当てをしよう」


 オダは雉について行った。サートルとシジンが動き出す。足の悪い男も。

 鳩はちらりとトグルを見遣り、それから小走りに雉を追いかけた。





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