第八章 勝利なき戦い(4)


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 南風が、二頭の駱駝ラクダの尾と、トグルと鳩の黒髪と、まとめていない鷲の銀髪をおどらせた。木々の梢がざわめき、森は不安に身を震わせる。いつの間にか、鳥の声がやんでいた。

 雉の視線の先を、灰色の雲がいくつも素早く通りすぎていった。岩山と森の境界で次から次へと湧き起こり、みる間に空全体をおおう。ぽつり、ぽつりと落ちてきた水滴が、ファルスの頬を濡らし、オダと鷲の足を止めた。

 風は止むことなく、彼等の頬を撫でる。

 トグルが気にしているのは天候ではなかった。


「何だ、この匂いは」


 独りごちる。ただの水のにおいとは違っていた。家畜や木の葉、砂のにおいには慣れている。知っているどのにおいとも違うと感じられて、草原の男は眉をひそめた。

 セム・サートルも鼻をひくつかせる。


「本当だ。何だろう?」


 雉は呟き、記憶の中を探った。鷲も空を仰ぎ、しゅんしゅん鼻を鳴らす。

 痛いような苦いような、つんとくる香りだった。ひっきりなしに吹く風の中、どの方角からもにおって来る。馴染みはないのだが、どこかで嗅いだことのあるような気もした。

 シジンには彼等のいぶかしむ理由が解らなかった。鷲に声をかける。


「どうした?」

「変なにおいがするだろう?」


 問い返されて、神官は首を傾げた。それから、彼等は知らないのだと気づく。


「ああ。これは潮風だ」

「シオ?」


 鷲と雉の声が重なった。風が、天人の珍しい銀髪をなびかせる。トグルは眉間に皺を刻んだ。

 シジンは言い換えた。


「海だ。海のにおい。嵐が来るのだろう」


 鷲とトグルは顔を見合わせた。海を観たことはない……。

 オダが身を乗り出した。


「近いんですか? 海が」


 海を見て育ったシジンは、彼等の反応を面白いと思いながら肯いた。


「カナストーラは海に面している。だが、急いだ方がいい。この様子では嵐が来る」

「どうして分かるんですか?」


 青年の晴れた空色の瞳を見返して、シジンはふと頬をゆるめた。


「ルドガー神(暴風神)は常に海からやってくる。雲を運ぶ潮風は、嵐の前触れだ」


 鷲が簡潔にまとめた。


「急いだ方がいいんなら、急ごうぜ」


 サートルが駱駝ラクダを連れてきて、鳩をせた。鷲もファルスを自分の駱駝に騎せる。エセル=ナアヤは仲間とともに牛たちを励まし、荷車はガラガラと音を立てて進み始めた。



 雨は、ぽつぽつ降り続けた。

 潮の香りを乗せたあたたかい風は、次第に強くなっていった。時に彼等の背を押し、時に頬を叩き、外套を膨らませ、正面から押し戻す。方向は一定しない。休むことなく揺さぶられながら、彼等は南を目指した。

 頭上では雲が不気味な模様を描いていた。灰色から紫色、はっとするほど眩しい金や茜色をまじえつつ、全体として重い鉛色に変わっていく。太陽は隠れ、辺りは薄暗くなった。

 木々は大きく揺れて互いの枝をぶつけ、木の葉はざわざわと鳴った。上空を吹く風が、時折、甲高い悲鳴をあげる。


「おい」


 向かい風に耐えていた護衛の一人が、仲間の腕を引いた。エセルの注意を道端の木陰に向ける。

 シジンが駆け寄り、雉もあとを追った。


「死んでいるのか?」


 天人の問いに、隻腕の神官は悄然とうつむいた。わさわさと揺れる草陰に置き捨てられた褐色の塊は、奴隷の遺体だったのだ。

 鳩は目を背けた。ファルスが見なくても済むよう、鷲は駱駝の首をめぐらせた。しかし、そんなことをしても無駄だった。


「これは……」


 続く言葉を、セム・サートルは呑みこんだ。行く手に点々と、人と動物の朽ちかけた遺骸が転がっていたのだ。まだ息のあるものもいたが、病と飢えで起きる力を奪われている。

 黒々とした不安がファルスと鷲の胸を塞いだ。この中にファルスの母やデオがいるのでは……と考える。

 シジンの顔は蒼白になっていた。先にあるものを観たくないと思う。だが、行かなければならない。

 荼毘だびしている時間の余裕はないので、仕方なく、彼等は遺体を土葬した。数人の病人を荷車に載せ、牛たちを急がせた。



 横殴りの雨がざあっと降りかかったと思うとすぐに止み、空がごおーっと鳴ることを繰り返した。次第に濃くなる潮のにおいを嗅ぎながら進むと、視界が急に開けた。

 一行は足を止めた。

 シジンは変わり果てた故郷の姿に息を呑んだ。

 道はなだらかに隆起した丘の中腹にさしかかっていた。右手に小高い丘があり、熱帯の森が表面をおおっている。山裾が腕を伸ばして弓型の湾を形作っている。


 そして、海は――

 海は、その全部で揺れていた。


 鈍色にびいろの空の下、暗緑色の水面が乱雑に隆起と陥没をくりかえし、岩に当たって砕けては白い泡を散らしている。雲間から射す光の剣に照らされて、水はときに黒く濁り、群青や碧緑色へきりょくいろを呈したが、動きとともにめまぐるしく変化して本来の色は分からない。

 風の啼き声にまじり、どろどろという地鳴りにも似た音が絶え間なく響いていた。観ていると、揺れているのがこちらなのか海なのか、判らなくなる。対岸はみえない。


 トグルが鷲の隣に並んで立ち、ぽつりと問うた。


「……あれが、海か」

「ああ、そうらしい」

「何故、あんなにたくさん水があるのだ?」


 海のあまりのおおきさともの凄まじさに圧倒されていた鷲は、こころもち眼をみひらいて相棒を顧みた。草原の男は平然としている。

 鷲は、にやりとわらった。

 潮をふくむ風がびゅおぉごおぉと音を立て、二人の外套と黒と銀の長髪をなびかせた。鳩は強風に耐えかねて駱駝を降りた。鷲はファルスを抱き下ろし、再び手を繋いだ。

 荒れる水面を眺めて、シジンが告げた。


「ここから道は下りだ。既に王都へ入っている」


『だが……』隻腕の神官は唇を噛んだ。斬られた腕の断端がズキリと痛む。


 高い木がゆさゆさと揺れるのを不安げに仰ぎながら、彼等はその下をくぐった。倒木と岩が足元に転がっている。駱駝たちは生まれて初めて聞く海鳴りに怯え、鼻息あらく首を振った。

 近づくにつれ、海は、さらに凶暴な姿を顕にした。

 大人の背丈の五倍ほどもある高波が続々と立ち上がり、岸をめがけて押し寄せる。あるものは岩に遮られ、あるものは浜辺に倒れこんで地響きとともに泡としぶきを撒き散らす。波打ち際に立つ椰子の木が衝撃を受けて折れそうにたわむ。しぶきは風に乗り、霧になって視界を覆った。

 餓えた狼の群れさながら吼えたてる暗緑色の水面を眺めるうちに、シジンは、あることに気づいた。


「堤防が壊れている。まずい、今日は大潮だ」

「何だって? シジン」


 エセルが訊き返したが、声は風と波の音にかき消された。


 陸へ目を向けた彼等は、恐ろしげに海を観ている人々に気づいた。

 女性がいた、幼い子どもと老人も。痩せた者、怪我をしている者、黄色い帯を身に着けた若者……。みな身を寄せ合い、異邦人には目もくれず、魅入られたようにたける波頭を凝視している。


 シジンは溜息を呑んだ。

 記憶のなかの華麗な王都の面影は、どこにもなかった。無慈悲な時の女神に踏み荒らされた廃墟が、木々の間からわずかに顔を覗かせている。風にふるえる木の傍に立つ白い石柱と、日干し煉瓦の階段が、かつての王宮の位置を示していた。崩れた壁を這う蔦の葉が、強風にあおられて一斉にひるがえり、その度に、濃い緑とうす灰色の面が表れては消えた。

 鷲は、トグルとファルスも、黙ってその様子を眺めた。エセル達は茫然と立ち尽くした。


 《敵》など、何処にもいなかった。


 ここにいるのは、飢え、病みつかれ、嵐の到来に怯える人々。希望の灯火を求めて彷徨った挙句にたどり着いた都の残骸にしがみつく、哀れな民衆だった。暴れ狂う波に吹き消されそうになっている。


「みんなを避難させよう。シジン!」


 雉が波音に負けじと声を張りあげた。トグルとシジン達に迫る。


「高潮が来るんだろう、洪水が! 安全な場所は?」


 トグルが頷き、シジンははっと我に返った。手を振り、人々に呼びかける。


「逃げろ! 王宮の西に神殿がある。そこまで上がれ! 急げ!」


 エセル達は牛を励まして荷車の向きをかえ、鷲とサートルは駱駝の手綱をひいて崩れた階段を昇り始めた。



 海に背を向け、彼等は一斉に丘を登った。人々がついてくる。男達は弱った病人を背負い、女達は足の遅い子どもを抱きあげ、若者は老人の手を引いた。シジンが幼いレイ王女と暮らした王宮の建物はほぼ破壊されていたが、懐かしがっている場合ではなかった。


「ファルス?」


 突然、聞きなれない声がした。名を呼ばれた少年が振り返り、他の者もそちらを見た。

 海の様子を観に来たのだろう、褐色の肌と緋色の髪をした元奴隷ネガヤーの男が、片脚を引きずりながら階段を下りて来た。異様な風体の一行を警戒しつつ、ファルスに近づいた。

 少年は、ごくりと唾を飲んだ。


「あんたは……」

「ファルス! やっぱりお前だな。待っていたんだ」

「デオは?」


 少年は男に駆け寄った。鷲は二人を見比べる。

 男は口を閉じた。その表情を見て、ファルスは息を呑んだ。


「母さんは……」


 呟くと、相手の返事を待たずに駆け出した。男も身を翻す。


「もっと登った方がいい」


 激しさを増す潮風に眼を細め、シジンが促した。


「潮が満ちて来た。ここまで波が来るかもしれない」

「行くぞ」


 海のことは海を知る者に任せた方がよいと判断したのだろう。一も二もなく、トグルは駱駝の手綱を引き寄せた。駱駝たちは恐怖に眼をみひらき、しきりに首を振っている。サートルはトグルを手伝った。

 オダは鳩の手を引き、雉はファルスの後を追いかけた。鷲が駱駝の肩を押して斜面を登り始める。

 シジンとエセル達は、まだ立ち尽くしている人々に呼びかけた。


「登れ、登れ! 波が来るぞ……!」



 ファルスは走った。息を切らせ、煉瓦の階段を半ば這って駆けのぼる。不安に後ろ髪をひかれ、風と雨に押し戻されながら、ひたすら丘の上の廃墟を目指した。

 空はいよいよ暗くなり、少年の視界をおおった。海水を含む雨が顔を叩き、目に沁みる。

 恐慌をきたした駱駝が一頭、鷲の手を離れ、途中で少年を追いこして行った。足の悪い男の呼ぶ声が聞こえたが、振り向いて確かめている余裕はない。心の中で、別の声が少年を急き立てていた。


 崩れかけた壁と木立に囲まれた場所に到着したファルスは、肩で息をついて立ち止まった。濡れた土と潮のにおいが喉を詰まらせる。ここにも身を寄せ合い、うずくまっている人々がいる。

 ファルスは、デオの黄色い帯を探した。母の赤毛を、澄んだ青い瞳を。廃墟の作る影が森と重なり、ひときわ濃くなったところに色を見つけ、息を呑んだ。

 足の悪い男の肩を支えつつ、鷲が辿りつく。少年はよろめいて壁にもたれかかった。


「母さん……」


 サティワナがいた。眼を閉じ、仰向けに寝かされている。痩せた身体は色を失い、土気色にくすんでいる。髪は雨に濡れ、火傷におおわれた頬は落ち窪んでいたが、表情は安らかだ。

 デオは彼女の隣に横たわっていた。こちらも瞼を閉じ、灰青色の瞳は見えない。憔悴が肌に焼きついている。木の葉と麻布が何枚か身体にかぶせられていた。

 ファルスはぺたんとその場に坐り込んだ。


「熱病にかかったんだ」


 男が両手をひざに当てて呼吸を整え、苦い声で言った。項垂れた少年の肩がふるえ始める。

 追いついた雉とオダも、この光景に息を呑んだ。

 男は静かに続けた。


「お前が来るのを、ずっと待っていたんだ」


 ざあっという風と共に、ばらばらと音を立てて木の葉と大粒の雨が降ってきた。

 ファルスの頭の中で、またあの問いが渦を巻いた。


『どうして。どうして。どうして……!』


 雷鳴のように容赦なく、感情は少年の胸を押し潰した。鷲が隣に立つ気配を感じたが、動くことができない。

 誰が悪いのか、何が悪いのか。何を問えばいいのか、誰を憎めばいいのか……ファルスには、もう判らなかった。


 少年の耳に、その時、かすかな声が聞こえた。


「ファルス」


 はっと顔を上げる。

 デオが眼を開け、骨と皮ばかりになった片手を持ち上げようとしている。鷲は痛ましさに眉をくもらせた。これがあの男か、と思う。

 ファルスは両膝を地に着け、にじり寄った。


「デオ」

「ファルス。無事だった、か……?」


 デオは懸命にファルスを見詰めた。少年が肯くと、弱々しく微笑み、溜息とともに囁いた。


「すまなかった」

「どうして謝るの? デオ。」


 差し伸べられた手を握りかえし、ファルスは震える声で問うた。

 デオは、かすれた声を搾り出した。


「悪かった。お前を……置いて来ちまって」

「悪くない。デオは悪いことなんてしていない!」


 少年の声に悲痛な響きが混じった。


「デオは、オレを助けてくれた! 間違えたかもしれないけど、悪くなんかない!」


 デオは泣くように嗤うように唇を歪め、ヒューッと喘いだ。遅れて到着したシジンとエセルは言葉を失くし、死にかけた男と少年を見下ろした。


 びかりと雲が光った。

 続いて天を割る雷鳴が轟き、人々の悲鳴があがった。

 雨がいっそう激しく叩きつけてきた。風は海水を含んでいる。ひとかかえほどもある大木が軋み、木の葉が暗い天を舞った。


「ワシ」


 サートルとともに駱駝を捕まえていたトグルが、低い声で呼んだ。風に吹き飛ばされそうになる声を、張りあげる。


「ワシ! 水が、上がってくる……!」

「…………!」


 鷲は眼を瞠った。

 真っ黒な海が、押し寄せていた。




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