第八章 勝利なき戦い(2)


           2


 南の空に現れた白い影は、みる間に風をはらんで膨張し、高い雲の峰へと成長した。嵐が来るのだろう。かすかに潮の香りがする。

 ゆらゆらとゆらめく陽炎の中を、デオは、ファルスの母(サティワナ)を背負って歩いていた。


 乾いた大地に裸足が触れるたび、針で刺されるような痛みが走る。汗が塩となって肌に貼りつき、細かな傷に沁みた。デオは、背中の女性を出来るだけ揺らさないよう気遣いながら歩き続けた。

 サティワナは発熱している。背中からも、力なく肩にかけられた腕からも、融けそうな熱が伝わった。耳元でヒューヒューと喘ぐ息は、細い喉を切り裂きそうだ。時折、彼女は苦しげな咳をした。夜になると咳はいっそう酷くなって、彼女の顔色を紫に変えた。痩せた薄い胸を突きやぶり、血の色をした小鳥が飛び出しそうだ。

 照りつける太陽とともにそれらは彼を苦しめたが、デオは彼女を下ろそうとは思わなかった。下ろせば死んでしまう。


 病が伝染するのは速かった。共に歩む者の殆どが、熱を出している。デオもその一人だ。

 彼等は憑かれたように南へ向かっていた。カナストーラ(旧首都)を目指して。まるで、そこへ行けば救いが得られると信じているかのように。

 そんなアテは、全くない。



 デオは足を止めて彼女を背負い直すと、声をたてずに嗤った。

 叛乱は失敗に終わるのだろうと、彼は悟り始めていた。王都に着いても、彼等に国を建て直すちからはない。所詮、烏合の衆だったのだ。目標はあっても結束を維持できず、批判はしても築くことは出来ない。与えられた範囲で満足していればよかったものを、身の程をわきまえず、立場に見合わぬものを求めた者に相応しい末路だ。

 後方で、病み疲れた者が一人……また一人と倒れる。母親に手を引かれた幼子から、笑う余裕は消えうせた。

 サティワナが咳をする。肋骨の浮きでた彼女の胸とデオの背中の間で、熱が融け、境界がわからなくなる。自分が彼女を運んでいるのか、彼女が自分を歩かせているのか。

 生きようとしているのか、死のうとしているのか。

 デオには、もう、わからなかった。


 足元の石を避けようとして、デオはぐらりと傾いた。足を傷めた男が駆け寄る。ずり落ちかけたサティワナを支え、手を貸そうとして躊躇った。


「デオ」

「……いい。俺が背負う」


 デオは片膝を地面に着いて立ち上がろうとしながら、熱に濁る息を吐きだした。うす水色の瞳に宿る虚無に気づき、男は息を呑んだ。


「離れていろ。うつるぞ」


 掠れた声で囁いて、デオは歯をくいしばった。膝のところから脚が折れそうに感じる。全身の骨が軋み、悲鳴をあげた。

 サティワナは軽い、日に日に軽くなっている。デオが弱っているのだ。

 それでも、彼女を背負うのは自分だと彼は思っていた。故郷を失い、多くの仲間を喪い、ファルスまで見失った己に唯一残された権利だと。この務めを放棄するつもりはない。あらい息を吐いて立ち上がった。


 そのさまを、足の悪い男は、黙って見守っていた。

 河のほとりで拾った時から、いつ死んでもおかしくない女だった。捨てられても仕方のない命だ。なのに……全身の火傷をこえ、傷口の感染をのりこえ、息子とはぐれ、むごい仕打ちにも耐え、彼女は生きている。この苦痛を終わらせるのは、もはや死しかないのだろう。


 何がぎりぎりの線上で、彼女をとどめているのだろう。

 何故、デオはこの母子に執着するのだろう。


 男にはわからなかったが、彼女と共に歩み続ける指導者を、止める気にはならなかった。たとえ行く先にあるものが、死であっても。



 後方で、また人の倒れる音がした。呻き声、助けを求めるか細い声が、彼等を呼ぶ。運命を呪う呪詛とともにそれらはいつまでも耳に残ったが、誰も振り返ろうとはしなかった。

 振り返ることが出来ない……。


 岩山の縁をのろのろと辿り、森を抜けると、急に視界が広がった。潮の香りがいっそう強くなる。

 人々は、大地と結んでいた視線を上げて足を止めた。デオが溜息をつく。


 王都カナストーラ。


 南東に向かってひらけた斜面に、ほとんど密林に埋もれて都市の残骸が散らばっていた。

 この地方に特徴的な、赤みがかった日干し煉瓦の階段があった。その先には、半分崩れた白い石の柱が一本ぽつんと立っている。王宮か、神殿か……屋根を失い、壁だけになった建物が見える。蔦の絡んだ大木に守られて、ひっそりと佇んでいる。

 デオは茫然と、足の悪い男は眉根を寄せて、それらを眺めた。


 剥いだ木の皮を重ね椰子の葉でおおった低い屋根が、廃墟を囲んでいた。数え切れない。やせ細り、飢えと絶望にくぼんだまなこを異様に光らせた人々が、ある者は膝を抱え、ある者は地面に横たわって彼等を見上げている。王都に住んでいた人々か、余所から辿りついた難民かは、判らない。

 いずれにせよ、デオ達の先客だった。


「奴等がいないだけ、ましと思うか?」


 男が訊ねると、デオは歯をむきだして嗤った。しかし、目は笑っていない。

 不思議なほど何の感慨もわかなかった。喜びにせよ落胆にせよ、感じるには、彼等は疲れすぎていた。

 食料を求めて、数人の難民が這うように彼等の足元へ近づいてくる。


「行こう」


 デオはサティワナを背負い直し、坂道を下り始めた。男は少し迷ったが、後についていった。



 くさむらのなかに転がる煉瓦の破片が増えていった。硝子や陶器を埋め込んだものもある。鮮やかな紅や碧の色彩が眼をひいた。ところどころ、黒く煤けた材木が転がっている。戦乱の跡だ。

 デオは、でこぼこに乱れた煉瓦の道を通りぬけ、例の廃墟へ向かった。仲間があとに続く。ゆっくり階段を登っていくと、木立の向こうに海が観えた。

 かがやく青。


 昇って間もない若い朝日を浴びてきらめく水面を眺め、人々は、ほっと息をついた。

 デオは、サティワナにも見えるよう身体を傾けながら、波の音を聞いた。ゆるやかに、繰り返す。絶えることなく……。

 石の柱は、建物の一部が海に向かって突き出したところに建っていた。崩れかけたそこをぐるりと迂回し、散乱する岩と木の根を越えて進むと、またひらけた場所に出た。


 崩れかけた石造りの壁が、涼しげな影を作っている。木の葉や果物、鹿や猿や小鳥の彫刻が、その表面を飾っていた。黄金の木漏れ日が、土と落ち葉でおおわれた床に複雑な模様を描く。倒れた柱に木の根が絡みついている。

 どこかで鳥の声がした。波の音と潮風が、土のにおいと交じり合う。

 尻尾の青い蜥蜴トカゲが一匹、デオの視界を横切って、森へと消えた。



 人々は散らばり、各々木陰に腰を下ろした。

 デオは、壁に開いた四角い窓の下にファルスの母を横たえた。海から吹き上げる風が、優しく彼女の髪を撫でる。サティワナは、ほうっと息を吐いて眼を閉じた。

 足の悪い男が、皮袋の口を開け、残りわずかな水を彼女の口に含ませた。同じ袋を差しだして言う。


「デオ。あんたも休んだ方がいい」

「ああ」


 デオは溜息をつき、苦笑した。彼女が案じるように彼を見ていることに気付いたのだ。

 力をこめたら砕けそうな手に掌を重ね、デオは息だけで呟いた。


「頑張れよ。ファルスには、きっと逢える」


 青い瞳が頷いた。

 デオは腰を下ろし、天を仰いだ。ここで終わりなのだろう……と感じた。闘いの結末。理想の跡が、この廃墟なのだ。

 待とう、と思った。


 敵か、死か、ファルスか……訪れるものを。





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