第八章 勝利なき戦い

第八章 勝利なき戦い(1)


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 弓弦を放たれた矢は力なく跳ねあがり、青空に丸い弧を描いて、切り株の手前にぽとりと落ちた。

 少年の頭上で、男が明るい笑声をあげる。とっとっと踊るような足取りで、落ちた矢を拾いに行く。

 ファルスは弓を片手に提げたまま、長身の男の背をぼうっと眺めた。


「ほら、もういっぺん」


 男が戻ってきて矢を差しだす。腕をつつむ外套の袖を視線でたどり、その上の銀髪にふちどられた白い顔を仰ぎながら、ファルスは戸惑いを隠せなかった。無言で受けとり、おざなりに弓につがえて的に向ける。

 突然、二の腕を掴まれ、少年はどきりとした。


「……まだだ。よく狙え」


 耳元で、低い声が囁いた。

 ファルスは鼓動を速めながら、鏃の先端から切り株に剣のきっさきで刻まれた×印へとつながる風の軌跡を、脳裡に描いた。慣れない姿勢をとらされた腕がふるえ始める。的も揺れて見えた。

 男はなかなか手を離してくれなかった。我慢しているうちに、ようやく震えがおさまった。

 風が止む。木の葉の囁きが途絶え、時の空白が訪れる。

 男がそっと囁いた。


「放て」


 矢は今度は勢いよく空を切り、切り株の、的から少し外れたところに、鈍い音を立てて突き刺さった。


「よし!」


 途端に男が歓声をあげ、大袈裟に背を叩いたので、ファルスは噎せた。


「出来たな、それでいい。今の感じをおぼえておけよ」


 刺さった矢を抜いて、男は満足げに笑った。ファルスは腕をさすりながら彼を見上げた。

 鷲は、にやりと唇の端をつり上げるいつもの微笑を見せると、顎を振って少年を促した。手には的の切り株を提げている。

 駱駝ラクダは我関せずという顔で、まぐまぐ草をんでいる。鷲はその傍らに腰を下ろし、獲って来た山鳥の羽をむしり始めた。慣れた手つきだ。

 ファルスは呟いた。


「どうして、こんなことを?」

「どうしてって」


 昨夜の焚き火から火種を拾い、鷲は唇を尖らせた。


「焦るなよ。めし、喰ってから行こうぜ」

「そうじゃなくて……」


 確かに、腹は空いているのだが。

 鷲は、集めておいた枝を折って新しい火にくべた。ファルスは、彼がわざと話をはぐらかしているのではないか、という気になった。影のない碧眼は、ときに驚くほど思慮深い。


「お前はこれから、母親を助けて暮らすんだろ?」


 鷲は、短剣の先に羽をむしった鳥を刺し、肉を炙りながら訊ねた。

 ファルスは頷いた。


「だったら、狩りくらい出来なきゃ喰って行けないだろうが。狩りとか釣りとか、俺に分かることなら教えてやる」


 そう言うと、焼けた肉を少年の前に突き出した。有無を言わさぬ口調だった。


「喰え。お前は痩せすぎだ」


 ファルスは短剣ごとその肉を受け取った。融けた脂が滴り落ち、足元で音を立てる。香ばしい匂いが漂い、口の中に唾があふれた。躊躇いつつかじりつく。

 父とともに畑を耕した日々は、もうずいぶん昔に思える。戻る村はなくなった。畑は荒れ放題になっているだろう。

 人里を離れて暮らす術を、ファルスは知らなかった。デオ達も、奪ったもので暮らしていた。

 塩を振っただけの簡単な味付けだが、肉は美味うまかった。噛み締めるほどに温もりが身に沁みる。こんな生き方があったのかと感じた……。


がらじゃねえけどな』

 鷲は秘かに嘆息した。

自分てめーで喰っていけるように、してやらなくちゃいかんだろう』


 まずは少年の体格に合う弓と矢を作ろう。罠の作り方も、知っておいた方がいい。森の中で獣の足跡をたどる方法、罠の仕掛け方。捕らえた獣の毛皮を傷つけずに剥ぐことが出来れば、かねになる。

 食べられる草とそうでないものの見分け方。木の実や根を採り、火を熾し、調理する方法。魚を釣る方法、籠や桶などの道具を作り、わずかでも金銭を得る方法。――今の鷲に教えられる事柄で少年の役に立つのは、こんなところだった。


『もうひとつ、教えなきゃいけないらしい』

 身も心も傷ついた少年。彼が痩せているのは食べ物の所為だけではないと、鷲は察していた。

『だあ~、柄じゃねえ!』 心の底から思ったが、仕方がない。自分もそうやって生きてきたのだ。

 ファルスが食べ終わるのを待って、鷲は腰を上げた。手には、まだ羽をむしっていない山鳥と野兎を一羽ずつ提げている。


「いくぞ。ついて来い」




「い、嫌だ」


 鷲が駱駝と少年を従えて森を抜け、近くの村を目指していると分かった時、ファルスは立ち止まった。

 鷲は、じろりと彼を見下ろした。ファルスは敵意と恐怖の入りまじった表情で、首を振る。

 鷲は溜息を呑むと、外套の頭巾を目深にかぶり、目立つ髪をおおった。


「そこで待っていろよ」


 ぼそりと言い、一人と一頭を置いて歩き出した。一番ちかい農家を目指す。ファルスは駱駝の手綱を握りしめ、佇んだ。

 どこかで牛が啼いている。

 鷲は、粗末な塀を長い脚で軽々とまたぎ越え、戸口へと近づいた。腰には長剣を佩いているが、警戒している風はない。無造作に扉を叩いた。

 反応のない家から、鷲はひょいひょいと上体を揺らす独特の歩き方で戻ってきた。少年に肩をすくめて見せ、次へ向かう。ファルスはごくりと唾を飲み、そろそろと後に従った。

 内乱が起きてからというもの、この国の治安は悪化している。逃亡した奴隷が盗賊となり、熱病が流行している状況で、見ず知らずの人間に簡単に扉をひらく者はいない。まして、鷲は異邦人だ。

 ファルスの脳裡に、悲鳴をあげる母をかこむ村人達のにごった瞳がよみがえった。稲光を反射してぎらりと輝く、デオの刀。火傷で引きつった頬を憤怒に歪めた護衛。幼子を抱いた金髪の女の藍い瞳……。


 鷲は、根気よく家々を訪問しつづけた。既に村人達は逃げ去った後なのか、空き家が多い。

 駱駝はねむたげに長い睫毛を伏せ、もぐもぐ口を動かしている。いつしか、ファルスはその足元に座り込んでいた。何処まで行く気か知らないが、ついて歩くことにくたびれた。

 どれくらい待っただろう。


「ほらよ」


 ひびわれた地面に足を投げ出していた少年に、影が差した。革袋を掴んだ腕が、ぬっとつき出される。

 ファルスが面を上げると、鷲はぽんと袋を放って寄越した。焦って受けとる少年の手に、ずしりと重みがかかった。たぷんという音と共に、甘い乳の匂いが鼻に届いた。

 鷲は駱駝の手綱に手をかけた。ファルスは茫然としていた。彼がついて来ようとしないので、鷲は振り返った。


「どうした?」

「どうして……」 

「何が?」

「どうやって?」

「何のことだ」


 ファルスは項垂れた。袋の重みが、掌から肩に伝わる。

 鷲は、苦い表情になった。


「見てのとおりだ。肉と交換で、んだよ。お前にはそれが必要だ」


 ほかに方法があるのかと言いたげな口調だった。

 ファルスは上目遣いに男を観た。彼なら、体格でも剣でもじゅうぶん他人を圧倒できるのに、と思う。

『そんな目で、俺を見るなよな……』 鷲は鼻から息を抜くと、ぶっきらぼうに言った。


「人にお願いするのが、そんなに嫌か? 頭を下げるくらい、何かを失うわけじゃないだろう」


 ファルスは唇を噛んだ。血と砂の味が口の中にひろがる。


「頼んだって、奴等は助けてくれなかった」

「そうか?」


 鷲は、ひょいと片方の眉を跳ね上げた。胸の前で腕を組み、重心を右脚に移す。

 ファルスは、ますます項垂れた。砕けそうなその肩に、鷲は慎重に問い掛けた。


「全員がそうだったのか? 違う奴はいなかったのか?」

「…………」

「助けたくても、出来ない時だってあるだろう。頼む前に、自分でやれることはなかったのか?」

「知った風な口を利くな!」


 素朴な問いだが、繰り返されることにカッとして少年は言い返した。鷲は怯むことなく彼を見詰めている。透明な碧眼に、ファルスは怒りを叩き付けた。


「お前に何が分かる! 自分のことしか考えていないくせに。誰も、自分を犠牲にしてまで、他人を助けてくれやしないんだよ!」

「……お前なら出来るのか」


 鷲は静かに言った。感情の窺えない表情と平板な声だったが、ファルスはおし黙った。

 瞼を伏せ、鷲は陰鬱に囁いた。


「お前なら、出来たのか。自分に出来ることなら、他人も出来て当然なのか?」


『柄じゃねえなァ』 何度目かの言い訳を、鷲は己にしなければならなかった。やっていられない。こういうのは、雉かルツに任せたかった。

 己を例外にした屁理屈ほど、気分の悪いものはない。言えば言うほど矛盾する言葉の空しさを、鷲は痛感していた。それでも伝えなければならないと思う理由が、この少年に解るだろうか。

 案の定、ファルスは敵意をこめて彼を睨み、吐き捨てた。


「お前には、分からない」

「へえ、そうか」


 だんだん莫迦莫迦しくなってきたぞ……。


「お前みたいにずっと幸せで、頭が良くて。強くて、何でも出来て……」

「ああ、そうなんだろうな」


 口調は棒読みだった。冷めた声に気づいて、ファルスは口を閉じた。


『俺が? しあわせ?』

 鷲は嗤いたくなった。暢気な風来坊に見えることには自信があったが、ここまで正直に言われると可笑しかった。

『まったく。俺は、何をやっているんだ……』

 本当に幸せなら、こんなところで時間を潰しちゃいねえよ。――胸の奥で、言い返す。

 頭のいい人間なら、他人の国まで出かけて、生意気な子どもの相手などしていない。強いなら、悪夢にうなされたりはしない。何でも出来る……のなら、トグル達は、もっと何とかなっただろう。


 鷲は眼を細めてファルスを見下ろした。自分で築いた幻影の壁に囲まれて膝を抱えている子どもに、何と言おうかと考える。手負いの狐さながら毛を逆立てて唸るこの少年の何がそうさせるのか、理解している。

 自分もそうだったから。

 ……過去を語るつもりはなかった。所詮、違う人間だ。説教くさく他人の経験を語ったところで、益はない。不幸比べをするつもりはない。他人が勝手に決めた『不幸の基準』に、己を当てはめてやる義理はない。


 投げつけた言葉の不毛さに気づいたのか、ファルスは項垂れた。


 鷲は亡き養父を思った。ファルスに教えようとしているのは、全てデファから学んだことだ。彼がいなければ、言葉も喋れないままだった。文字も、絵を描くことも。

 教えてもらったのは、それだけではない。噛みつこうが引っ掻こうが、絵師は決して手を離さなかった。それがどんなに難しいことだったのか、今なら理解できる。

 確かに、ファルスに比べれば、自分は幸せだったのだ。あのまま母のところに居たら、殺されていたに違いない。生きながらえたとして、どんな人間になったろう。女衒ぜげん美人局つつもたせか、盗賊か。

 デファに拾われたのは、幸運だった。

 しかし、その恩を返したい相手は、もういない。


 ぐるぐると巡る環を、鷲は痛感させられた。胸に残る傷から音もなく湧き続ける透明な哀しみを感じながら、囁いた。


「お陰で、よく解ったよ。お前が苦しくて堪らないのは、内乱のせいでも、母親を殺されかけたせいでもない」


 ほっと息を吐いた。


「お前自身が、他人の苦しさを、ぜんぜん理解していないからだ。それだけだよ」


』 と、つけ加えようかと思ったが、やめた。

 それは、ファルスという鏡に映し出された、己の姿に他ならない……。

 疲労を感じた鷲は、ゆっくり頭を振って踵を返した。


 ファルスは項垂れたまま、彼が立ち去る気配を感じていた。今度こそ、捨てられる、と思った。


『全員がそうだったのか?』


 ――そうではない、ということは分かっていた。デオがいた。鷲も。二人とも、頼まれたから少年を助けてくれたわけではない。隻腕の神官も、あの幼児も。

 自分は、ろくに彼等にお礼を言っていない。言わせてもらえないまま、ここにいる。

 少年の頭の冷静な部分は、彼の正しさを理解していた。父も母も、人殺しや盗賊行為がいいことだとは言っていなかった。

 だが……。

 ファルスは泣きたくなった。


 デオが。デオだけが、あのとき自分を救ってくれたのだ。母を助け、食べ物を分けてくれた。少年を庇護し、優しく扱ってくれた。目標を与え、闘うことを教えてくれた。

 そのデオが間違っていたと言うのか。他人から名を奪い、奴隷に貶め、母を殺そうとした連中が正しくて。何もしようとせず、出来なかった奴等をゆるして、

 命がけで戻って来てくれた彼を、裏切れと言うのか……。


 鷲は、駱駝ラクダの手綱を掴んで振り向いた。のんびりと呼ぶ。


「何してる? 来い」

「…………」

「日が暮れる前に、寝る場所を探そう。行くぞ」


 ファルスは、ぐいと目元をこすって彼の後を追いかけた。小走りに追いつき、長い影を踏んで歩きながら男の横顔を見上げる。

 鷲は、とん、と少年の背を叩くと、あとは黙って歩き続けた。母が膝に触れた時のように、叩かれたところから、じわりと温もりがひろがった。

 ファルスは気づいた。

 鷲は、デオとは違う。この男の傍は安心する。


 だから、甘えてしまうのだ。





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