第七章 天地不仁(2)


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火の聖女サティワナ?」


 太い声に驚いて、木々の梢から小鳥たちが飛び立った。若葉色の眸をみひらく鷲を、ファルスは黙って見上げた。

 二人は木陰に並んで腰を下ろし、干しナツメヤシをかじっていた。隣では、駱駝ラクダがのんびり草をんでいる。

 二人と一頭は、デオ達のいた場所を探して森の中を彷徨っていた。その間に、ファルスは盗賊タゴイットに加わることになった経緯を説明したのだ。デオの戦いの理由を。

 この国で行われている人身御供の実態を聞かされた鷲は、言葉をうしない、少年の顔を凝視した。


「なんだよ、それ。どうして、そんなことをするんだ?」

「どうして、って……」


 異国人の率直な問いに、ファルスは絶句した。それは、かれ自身がこれまで何度もくり返した言葉だった。


『どうして』

 ――思い出すたびに、身の内で浄化されない感情がずるりとうごめく。内面を焼き、ただれた皮膚をむき出しにする。悲鳴をあげる母の髪を這いのぼる、緋い火焔ほのお。泥をふくみ濁った聖河の流れと、どす黒いほど青い空。村人達の表情のない硝子の瞳――。

 邪気のない碧眼を見返せず、ファルスは項垂れた。


「それは……そうすれば、神さまがお喜びになるから」

「莫迦莫迦しい」


 鷲はあっさり言い捨てた。横を向き、ぺっと唾を吐き捨てる。

 ファルスは意外に感じて面を上げた。


「人を殺したら神が喜ぶなんて、んな莫迦な話があるかよ」

「え……だって」


 男の言葉は、少年の胸に、すとん、と収まった。あまりに素直だったので、ファルスはかえって驚いた。彼の容姿が、かのルドガー神を思い起こさせるからかもしれない。

 何故ここまで言い切れるのだろう?


「だって……マハ・カーラ(ルドガー神の尊称)は犠牲を、生命の力プラーナを尊ばれる」

「それは、めしのことだろう?」


 男の呆れた口調は変わらなかった。手にしたナツメヤシの欠片を、ぴらぴらと振った。


「俺達がナンを食べるのと同じで、神々も飯は喰うだろうが、人間を、それも女を限定して喰うなんて聞いたことがないぞ。だいたい――」


 ファルスに責任はないのだが、きょとんとしている少年を、鷲はじろりと睨みつけた。


「解釈がおかしくないか。スウェリ(ルドガー神の妻)は火の中に身を投げたが、ルドガーの方は生きていて、死体を抱いて嘆き悲しんだんだろ。くだらん意地をはる親父オヤジと亭主のせいでスウェリは死んだんであって、後を追ったわけじゃない。お陰で、ルドガーはあやうく世界を滅ぼすところだった。いのちはそれくらい重い、簡単に捨てるな、という教訓じゃないのか」


 神々を呼び捨てにするだけでなく、『親父』・『亭主』などと言う男を、ファルスは生まれて初めて見た。

 鷲は忌々しげに舌打ちした。


「スウェリが身投げする前に、親父とルドガーには出来ることがあったはずだ。和解するなり、無視するなり、諦めるなり」

「…………」

「スウェリもスウェリだ。父親の反対をおし切って結婚したんなら、割り切れよ。自殺なんかされた日には、遺された者はたまったもんじゃないだろうが。その程度のことが想像できなかったのか?」


 偉大な神々の物語さえ、この男が話すと、近所の痴話喧嘩のように聞こえてくる。

 本人は至って真面目だった。鷲は少年から視線を逸らし、ぎりぎりと奥歯を噛み鳴らした。


「人ってのは、所詮、自分てめーの思うようにしか生きられねえんだよ。親子だろうと夫婦だろうと、他人が変えるのは不可能だ。それを……胸くそ悪い」

「…………」

「俺に言わせりゃ、神話のスウェリは自分てめーの生命を人質にして親父と亭主を動かそうとした超絶ワガママ女で、聖女なんかじゃねえよ。頭の悪い連中だよな。阿呆らしくて同情する気になれん」


 神々を、『頭が悪い』と言い切った……。

 もはやファルスは驚くのを通り越して呆れていたが、男の話は止まらなかった。やりきれないと首を振る。


「神々がそうしたからって、何で人間が同じ事をしなきゃならないんだよ。そんなくだらん話を人殺しの言い訳にするなんて、どういう了見だ」


 男は急に声を落とした。張りのある声はびを含み、地に落ちた。


「今は離れているが、俺にも女房と子どもがいる。俺が何年も帰れなくなったり、このまま死んじまったりしても、あいつに悪いと思いこそすれ、死んで欲しいなんてこれっぽっちも思わない」

「……思わないのか?」

「それが、愛情か?」


 ぎん、と底光りのする眸で鷲は少年を見据えた。ファルスはどきりとした。

 鷲は、言葉の一つ一つが己の胸を貫くのを感じたが、構わずに言った。


「相手を苦しめたり、殺したりするのが愛情か? 所有とか、支配って奴じゃないのか。待っていて欲しいと願いはするが、強制はしない。俺が死んだら、いい相手をみつけて幸せになって欲しいと思うだけだ。お前の親父だって、そうじゃないのか」

「…………」

「俺が死んだ後で、誰かが女房と子どもを殺そうなんてしてみろ。たたるぞ、俺は。今のお前の状況を、親父が喜んでいると思うのか?」


 これは意外だった。ファルスは、初めて気づいた。

 父が、どう思うか。

 病に罹った父と自分を、村の大人達は引き離した。嫌がる母を縛り、焼き殺そうとした。他人の苦しみに無頓着な幸福そうな連中を恨むことに気を取られ、死んだ父のことは少年の頭からすっかり抜け落ちていた。

 死者は何も語らない。生者からどんな扱いを受けようと、応じることはない。

 それでも……父の笑顔は、かろうじて少年の心の隅に残っていた。その眼差しを想い、ファルスはしばし考えた。



『なんていうか――』

 鷲は、少年の細い肩を見下ろした。口の中にこみ上げてくるものを、苦労して呑み下す。

『気持ち悪い』

 不味まずい煙草をんだ後のようだった。歯が浮くほど空々しい。

『こいつは、俺だ……』


 ぼさぼさの緋色の髪、骨と皮ばかりに痩せた傷だらけの身体。本来の目標をみうしない、誰彼かまわず撒き散らされ、自身の心まで傷つけている嘆きと憎悪。底なしの絶望と敵意にこごった瞳。

 あの洞窟の奥から彼の前に現れた子どもは、長い髪の下から碧の瞳で彼を睨んだ。果ての無い荒野におきざりにされた少年だ。

 鷲は片手で顔を覆った。指の隙間から観えるファルスの姿はかつての自分を彷彿とさせ、彼はうめき声を呑み込んだ。

 無論、そんなはずはない。鷲はファルスではなく、二人の経験が重なることはない。頭では理解している。

 それでも。

 ファルスは彼だった……。永遠に満たされない飢えと憤りを抱いて闇の底にうずくまる、鷲のなかの子どもだった。

 己の声が頭の中で反響するのを、鷲は聞いた。


 《今のお前の状況を、喜んでいると思うのか?》


 養父デファが、鳶(前妻)が、鵙(隼の姉)が。トグルと隼、雉、タオが……。ルツが、鳩が、オダが。

 鷹と鳶(娘)が……。

 彼等の答えは解っていた。鷲自身、しばらく忘れていた感情だ。その中に『ほんとうに望む人物』が含まれることは永遠にないことも……諦めとともに理解し始めていた。

 目の前の子どもに何と話しかけようかと、鷲は考えた。


「……お前の言いたいことは、だいたい解った」


 まだ躊躇いの残る口調で、鷲は言った。物思いに沈んでいたファルスが、視線を上げる。鷲は顔を覆っていた手を離し、表情を見せて続けた。


「奴隷とか貴族とか、人身御供とか……俺もおかしいと思う。勝手な理屈で殺されかけたお前の母親は、気の毒だ。お前も、デオって奴も」

「…………」

「けどなぁ。酷い目に遭わされたからって、お前が同じことをやっていい理由には、ならないんじゃないか? 母親を殺そうとした連中は、もう死んでいるんだろ。関係のない奴等を苦しめていいのか?」


 ファルスは口を開けたが、言葉をみつけられなかった。

 鷲は彼に横顔を向け、ゆるやかに首をもたげる駱駝ラクダとその向こうの木立を眺め、抑えた声で続けた。


「デオって奴が言うことも解る……。でも、世の中で起きていることを、全部知っている奴なんていないだろ。知っていても、どうすることも出来ない――どうしたらいいか判らない奴の方が、多いんだぜ。お前だって、奴隷ネガヤーの歴史なんか知らなかったわけだろ?」

「…………」

「北で戦争が起きていたことも、〈草原の民〉が滅びかけていることも、知らないはずだ……。『知らなかった』、『想像しなかったのが悪い』なんて、いきなり責められて殺されるんじゃ、理不尽極まりないだろうが」


 聞いている少年の顔が次第に傾いて、己の膝と向かい合う。その様子を見守りながら、鷲はそっと囁いた。


「お前が受けた仕打ちは、確かに酷い……酷すぎる。でも、お前が他の連中に対してしたことも、同じくらい酷くないか? 奴等にだって、家族がいたはずだ」


 ファルスの脳裏に、ふと、ナンの欠片をさしだす小さな掌が浮かんだ。恐れも疑いもなく彼を見ていた、幼い藍の瞳。若い頃の母に似た金髪の女性の、恐怖に怯えた顔……。


 鷲は溜息を呑むと、立ち上がり、少年の側を離れた。駱駝ラクダの方へ歩いていく足音を追って、ファルスは面を上げた。

 少年は混乱していた。今まで、こんな風に言われたことはなかった。ずっとデオが正しいと思っていたのだ。自分達の気持ちを理解してくれるのは、デオだけだと。

 火傷の男とも、隻腕の神官とも、鷲は違った。

 ファルスは、ごくりと唾を飲み下した。


「お前に何がわかる」


 鷲はかすれた声を聞き取ると、動作を止めた。

 ファルスは、ちょっと口調を和らげた。


「お前が正しいとは、限らない……」


 鷲は少年に背中を向けたまま、首を傾げて考えた。やがて、顔だけで振り返り、静かに応えた。


「ああ、そうだな。確かに、俺はわかっちゃいないんだろう。何が正しいか正しくないかなんてことも……正直に言えば、どうでもいい」

「…………」

「俺には、自分てめー現在いま苦しいか、苦しくないか。そっちの方が重要だからだ」


 ぞんざいなわりに、男の口調は物憂げだった。ひとり言のように続けた。


「正しいことをしていても、苦しい時は、何処かに無理がある。それは、やり方だったり、自分てめーのものの考え方だったりするが……苦しいなら、変えた方がいい。無理なままだといずれ続けられなくなるし、そんな気持ちで続けることに、意味は無い」

「…………」

「お前達の神は、正しいのかもしれない。お前とデオのやっていることも、間違っちゃいないのかもしれない……。だがな、俺には、に見える」


 鷲は一度言葉を切り、眼を伏せた。銀の睫毛が、明るい若葉色の瞳に影を落とした。


「誰かを苦しませる神なら、俺はいらない。正しくても、自分てめーが苦しいことに加担するのは、俺は御免だ」


 鷲は軽く息を吐くと、駱駝の鞍に荷物を乗せた。手綱を手に歩き出す。

 ファルスは暫く迷っていたが、おもむろに立ち上がり、後について行った。



「どうする?」


 大きく枝を広げた木の下に立って、鷲は傍らの少年に話し掛けた。ファルスの細い肩に、木漏れ日が碧の影を投げかけている。

 岩窟の近く。鷲がデオ達を見かけた森まで戻って来たのだが、盗賊たちは既に去った後だった。血と泥に染まった黄色い帯が、一本、茂みに引っかかっていた。腰をかがめてそれを拾い上げる鷲に、ファルスは言った。


「カナストーラ(ミナスティア国の首都)へ行く」


 生きた彫刻のごとき端正な男の風貌を、少年は見上げた。


「デオは、あそこに向かうと言っていたんだ。国を取り戻すと。きっと、母さんも一緒にいる……」

「わかった」


『悪い癖だよな』と思いながら、鷲は頷いた。――鷹といい、オダといい。リー・ヴィニガ、トグル、シジン……。

『俺は、どうしても、こういう奴を放っておけないらしい』

 鷲は肩をすくめ、駱駝ラクダの鞍を指さした。


「乗れよ。一緒に行こう」





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