第七章 天地不仁(2)
2
「
太い声に驚いて、木々の梢から小鳥たちが飛び立った。若葉色の眸をみひらく鷲を、ファルスは黙って見上げた。
二人は木陰に並んで腰を下ろし、干しナツメヤシを
二人と一頭は、デオ達のいた場所を探して森の中を彷徨っていた。その間に、ファルスは
この国で行われている人身御供の実態を聞かされた鷲は、言葉をうしない、少年の顔を凝視した。
「なんだよ、それ。どうして、そんなことをするんだ?」
「どうして、って……」
異国人の率直な問いに、ファルスは絶句した。それは、かれ自身がこれまで何度もくり返した言葉だった。
『どうして』
――思い出すたびに、身の内で浄化されない感情がずるりと
邪気のない碧眼を見返せず、ファルスは項垂れた。
「それは……そうすれば、神さまがお喜びになるから」
「莫迦莫迦しい」
鷲はあっさり言い捨てた。横を向き、ぺっと唾を吐き捨てる。
ファルスは意外に感じて面を上げた。
「人を殺したら神が喜ぶなんて、んな莫迦な話があるかよ」
「え……だって」
男の言葉は、少年の胸に、すとん、と収まった。あまりに素直だったので、ファルスはかえって驚いた。彼の容姿が、かのルドガー神を思い起こさせるからかもしれない。
何故ここまで言い切れるのだろう?
「だって……マハ・カーラ(ルドガー神の尊称)は犠牲を、
「それは、
男の呆れた口調は変わらなかった。手にしたナツメヤシの欠片を、ぴらぴらと振った。
「俺達がナンを食べるのと同じで、神々も飯は喰うだろうが、人間を、それも女を限定して喰うなんて聞いたことがないぞ。だいたい――」
ファルスに責任はないのだが、きょとんとしている少年を、鷲はじろりと睨みつけた。
「解釈がおかしくないか。スウェリ(ルドガー神の妻)は火の中に身を投げたが、ルドガーの方は生きていて、死体を抱いて嘆き悲しんだんだろ。くだらん意地をはる
神々を呼び捨てにするだけでなく、『親父』・『亭主』などと言う男を、ファルスは生まれて初めて見た。
鷲は忌々しげに舌打ちした。
「スウェリが身投げする前に、親父とルドガーには出来ることがあったはずだ。和解するなり、無視するなり、諦めるなり」
「…………」
「スウェリもスウェリだ。父親の反対をおし切って結婚したんなら、割り切れよ。自殺なんかされた日には、遺された者はたまったもんじゃないだろうが。その程度のことが想像できなかったのか?」
偉大な神々の物語さえ、この男が話すと、近所の痴話喧嘩のように聞こえてくる。
本人は至って真面目だった。鷲は少年から視線を逸らし、ぎりぎりと奥歯を噛み鳴らした。
「人ってのは、所詮、
「…………」
「俺に言わせりゃ、神話のスウェリは
神々を、『頭が悪い』と言い切った……。
もはやファルスは驚くのを通り越して呆れていたが、男の話は止まらなかった。やりきれないと首を振る。
「神々がそうしたからって、何で人間が同じ事をしなきゃならないんだよ。そんなくだらん話を人殺しの言い訳にするなんて、どういう了見だ」
男は急に声を落とした。張りのある声は
「今は離れているが、俺にも女房と子どもがいる。俺が何年も帰れなくなったり、このまま死んじまったりしても、あいつに悪いと思いこそすれ、死んで欲しいなんてこれっぽっちも思わない」
「……思わないのか?」
「それが、愛情か?」
ぎん、と底光りのする眸で鷲は少年を見据えた。ファルスはどきりとした。
鷲は、言葉の一つ一つが己の胸を貫くのを感じたが、構わずに言った。
「相手を苦しめたり、殺したりするのが愛情か? 所有とか、支配って奴じゃないのか。待っていて欲しいと願いはするが、強制はしない。俺が死んだら、いい相手をみつけて幸せになって欲しいと思うだけだ。お前の親父だって、そうじゃないのか」
「…………」
「俺が死んだ後で、誰かが女房と子どもを殺そうなんてしてみろ。たたるぞ、俺は。今のお前の状況を、親父が喜んでいると思うのか?」
これは意外だった。ファルスは、初めて気づいた。
父が、どう思うか。
病に罹った父と自分を、村の大人達は引き離した。嫌がる母を縛り、焼き殺そうとした。他人の苦しみに無頓着な幸福そうな連中を恨むことに気を取られ、死んだ父のことは少年の頭からすっかり抜け落ちていた。
死者は何も語らない。生者からどんな扱いを受けようと、応じることはない。
それでも……父の笑顔は、かろうじて少年の心の隅に残っていた。その眼差しを想い、ファルスはしばし考えた。
『なんていうか――』
鷲は、少年の細い肩を見下ろした。口の中にこみ上げてくるものを、苦労して呑み下す。
『気持ち悪い』
『こいつは、俺だ……』
ぼさぼさの緋色の髪、骨と皮ばかりに痩せた傷だらけの身体。本来の目標をみうしない、誰彼かまわず撒き散らされ、自身の心まで傷つけている嘆きと憎悪。底なしの絶望と敵意に
あの洞窟の奥から彼の前に現れた子どもは、長い髪の下から碧の瞳で彼を睨んだ。果ての無い荒野におきざりにされた少年だ。
鷲は片手で顔を覆った。指の隙間から観えるファルスの姿はかつての自分を彷彿とさせ、彼はうめき声を呑み込んだ。
無論、そんなはずはない。鷲はファルスではなく、二人の経験が重なることはない。頭では理解している。
それでも。
ファルスは彼だった……。永遠に満たされない飢えと憤りを抱いて闇の底にうずくまる、鷲のなかの子どもだった。
己の声が頭の中で反響するのを、鷲は聞いた。
《今のお前の状況を、喜んでいると思うのか?》
鷹と鳶(娘)が……。
彼等の答えは解っていた。鷲自身、しばらく忘れていた感情だ。その中に『ほんとうに望む人物』が含まれることは永遠にないことも……諦めとともに理解し始めていた。
目の前の子どもに何と話しかけようかと、鷲は考えた。
「……お前の言いたいことは、だいたい解った」
まだ躊躇いの残る口調で、鷲は言った。物思いに沈んでいたファルスが、視線を上げる。鷲は顔を覆っていた手を離し、表情を見せて続けた。
「奴隷とか貴族とか、人身御供とか……俺もおかしいと思う。勝手な理屈で殺されかけたお前の母親は、気の毒だ。お前も、デオって奴も」
「…………」
「けどなぁ。酷い目に遭わされたからって、お前が同じことをやっていい理由には、ならないんじゃないか? 母親を殺そうとした連中は、もう死んでいるんだろ。関係のない奴等を苦しめていいのか?」
ファルスは口を開けたが、言葉をみつけられなかった。
鷲は彼に横顔を向け、ゆるやかに首をもたげる
「デオって奴が言うことも解る……。でも、世の中で起きていることを、全部知っている奴なんていないだろ。知っていても、どうすることも出来ない――どうしたらいいか判らない奴の方が、多いんだぜ。お前だって、
「…………」
「北で戦争が起きていたことも、〈草原の民〉が滅びかけていることも、知らないはずだ……。『知らなかった』、『想像しなかったのが悪い』なんて、いきなり責められて殺されるんじゃ、理不尽極まりないだろうが」
聞いている少年の顔が次第に傾いて、己の膝と向かい合う。その様子を見守りながら、鷲はそっと囁いた。
「お前が受けた仕打ちは、確かに酷い……酷すぎる。でも、お前が他の連中に対してしたことも、同じくらい酷くないか? 奴等にだって、家族がいたはずだ」
ファルスの脳裏に、ふと、ナンの欠片をさしだす小さな掌が浮かんだ。恐れも疑いもなく彼を見ていた、幼い藍の瞳。若い頃の母に似た金髪の女性の、恐怖に怯えた顔……。
鷲は溜息を呑むと、立ち上がり、少年の側を離れた。
少年は混乱していた。今まで、こんな風に言われたことはなかった。ずっとデオが正しいと思っていたのだ。自分達の気持ちを理解してくれるのは、デオだけだと。
火傷の男とも、隻腕の神官とも、鷲は違った。
ファルスは、ごくりと唾を飲み下した。
「お前に何がわかる」
鷲はかすれた声を聞き取ると、動作を止めた。
ファルスは、ちょっと口調を和らげた。
「お前が正しいとは、限らない……」
鷲は少年に背中を向けたまま、首を傾げて考えた。やがて、顔だけで振り返り、静かに応えた。
「ああ、そうだな。確かに、俺はわかっちゃいないんだろう。何が正しいか正しくないかなんてことも……正直に言えば、どうでもいい」
「…………」
「俺には、
ぞんざいなわりに、男の口調は物憂げだった。ひとり言のように続けた。
「正しいことをしていても、苦しい時は、何処かに無理がある。それは、やり方だったり、
「…………」
「お前達の神は、正しいのかもしれない。お前とデオのやっていることも、間違っちゃいないのかもしれない……。だがな、俺には、お前が苦しそうに見える」
鷲は一度言葉を切り、眼を伏せた。銀の睫毛が、明るい若葉色の瞳に影を落とした。
「誰かを苦しませる神なら、俺はいらない。正しくても、
鷲は軽く息を吐くと、駱駝の鞍に荷物を乗せた。手綱を手に歩き出す。
ファルスは暫く迷っていたが、おもむろに立ち上がり、後について行った。
「どうする?」
大きく枝を広げた木の下に立って、鷲は傍らの少年に話し掛けた。ファルスの細い肩に、木漏れ日が碧の影を投げかけている。
岩窟の近く。鷲がデオ達を見かけた森まで戻って来たのだが、盗賊たちは既に去った後だった。血と泥に染まった黄色い帯が、一本、茂みに引っかかっていた。腰をかがめてそれを拾い上げる鷲に、ファルスは言った。
「カナストーラ(ミナスティア国の首都)へ行く」
生きた彫刻のごとき端正な男の風貌を、少年は見上げた。
「デオは、あそこに向かうと言っていたんだ。国を取り戻すと。きっと、母さんも一緒にいる……」
「わかった」
『悪い癖だよな』と思いながら、鷲は頷いた。――鷹といい、オダといい。リー・ヴィニガ、トグル、シジン……。
『俺は、どうしても、こういう奴を放っておけないらしい』
鷲は肩をすくめ、
「乗れよ。一緒に行こう」
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