第七章 天地不仁(3)
3
午後になると、気温はぐんぐん上昇する。容赦のない日差しに
下草のうえに伸びた木と岩の影を辿りつつ、人々は南へ向かっていた。熱を含んだ重い風が、彼等の手足に絡みつき、歩みを鈍らせる。
デオと
屈強な若い男の数は減り、人数は半分程度になっていた。彼等の周囲を、武器を持たない人々が歩いている。小さな子どもを連れた女達、くたびれ顔の老人や怪我人達だ。何百人いるかは分からない。互いに肩を貸し、支え合い、歩ける者が歩けない者を背負っている。
地主の支配から逃げ、または追われ、或いは身内を賊に殺されて帰る場所を失くした人々が、彼等の武器と食糧をたよって身を寄せていた。行く当てのない人々だ。デオの隣には、あの足を傷めた男がいた。
デオは、ファルスの母を背負って歩きながら考えた。
『何が間違っていたのだ?』
足を止めて彼女をそっと背負いなおす。焼けた大地に素足がめり込みそうに感じる。痩せて突き出た彼女の腰骨が、背中に当たって痛い。
しかし、そんなことはどうでもよい。脳内で同じ問いをもてあそんだ。
『何故、こんなことになったのだ……?』
奴隷を解放し、貴族からこの国を取りもどす。王の
機会や目標に誤りがあったとは思われない。死んだ仲間達の生命に賭けて、《
『
デオはやや西へ傾いた陽を仰ぎ、まぶしさに眼を細めた。逆光にふちどられた岩山は、血を流しているようだ。菩提樹の陰にたたずむ男の姿が脳裡に現れた。藍色の夜を背景に、月光を反射する銀の髪。怯えていた少年の表情がよみがえり、デオは苦笑した。
『あれは、偶然だ』
その偶然が、ファルスを連れ去った。少年がいなくなった途端に、無垢の聖女は辱められた……。
デオは、自分が疲れていることに気づいた。疲れ、度重なる失敗に困惑している。否定したはずの神話が、今になって心に重く
《神》とは何だ?
「デオ」
足の悪い男が、彼の注意を促した。顎を振って木立の向こうを示す。デオは眼を
道は登り坂にさしかかっていた。生い茂る木の葉の隙間から地平線がみえる。耕された畑の間を流れる細い水路は、うねうねと曲がり、蛇の鱗さながら輝いている。家が数軒、寄り添うように並んでいた。
デオは、男の意図を察して足を止めた。耳元で聞こえていたサティワナの息遣いがふいに途絶え、首にまわされた腕に力がこめられた。彼女の緊張が伝わる……。
デオはちらりと彼女の赤毛を見遣り、投げやりに訊ねた。
「食糧は、まだあるか?」
数人の男達が、そろって頷き返す。
「なら、放っておけ」
デオは素っ気なく応えると、彼女に負担をかけないよう慎重に背負いなおし、また歩き始めた。
足の悪い男は、しばらくその場に佇んでいた。首を傾げ、何が
道は緩やかな斜面を登り、ひらけた場所に達した。木々の梢に懸かる太陽を見上げて、男は呼んだ。
「デオ」
デオも額に片手をかざした。
「ああ、そうだな。休もう」
ついて来た人々が、一様に安堵の吐息を漏らした。荷物を下ろしてすわる者、木陰にうずくまる者、家族が追いつくのを待って、ひとところに集まる者……。みな、追い詰められて疲弊した気持ちを解き放つ。
デオは、やわらかな羊歯の茂みにファルスの母を横たえ、傍らに腰を下ろした。ほっと息をつく。
暑さの厳しいこの地方では、人々は午後は休む習慣だった。陽が沈み夜が地表の熱を和らげるまでは、動かない方がよい。デオは、今日の移動はここまでにしようと考えた。
サティワナは眼を閉じている。彼女を挟んで、足の悪い男が坐った。地面に置いたデオの刀が、光を反射して煌いた。
デオは両膝を立てた上に腕をあずけ、周囲を見渡した。水はけの良い台地に、丈の短い草が生えている。木漏れ日が緑の絨毯に金の環を描き、濃い緑の茂みには、小指の先ほどの大きさの赤い実がなっていた。
幼い子どもが二人はしゃぎながら駆けてきて、男達の笑いを誘った。どんな状況でも子どもは元気だ。
デオは苦笑しつつ腰に結んだ帯の端で首を拭った。じっとりと汗ばんだ項に砂がこびりついている。そうしながら、
黄色い腰帯を巻いた若い男が、子連れの女性に話しかけている。未だ少年の面影のぬけない若者に、女達はぎこちなく微笑み返している。
腰の曲がった老婆を労わる男がいた。眼差しは、亡くした母親を偲ぶかのように優しい。
翁と並んでしゃがみ、噛み煙草を分け合っている者がいた。傷だらけの手で煙草を刻みながら、笑顔で話し込んでいる。
デオの視界の端で、男達が火を熾していた。女達が、熱した石を使ってチャパティ(薄焼きパン)を焼き始める。香ばしい匂いが漂った。
デオは汗を拭う手を止め、灰色がかった青い目を
解放された
何故?
『俺達のせいかもしれないな……』
眼を眇めたまま、デオは漠然と考えた。心の何処かでわかっていたことだった。
武器を持ち、復讐を誓い、徒党を組む。彼等のむきだしの殺意が、知らず知らずのうちに、味方であるはずの人々をも遠ざけていたのかもしれない。
民族の名を奪われて、《
――だからと言って、全ての人間が、相手を殺したいと望むわけではない。憎み、罵倒し、復讐を誓うことと、実際に手を下すことは、別の問題だ。
壁がある理由を、デオは考えていなかった。ただ叫び続けて来た。
敵を忘れるな。憎み方を忘れるな。
奴等から受けた仕打ちを忘れる者は、呪われろ! ……。
デオは嘆息した。憎悪に届かないからといって、皆がみな
同時に、熱いかたまりが喉を塞いだ。
『ファルスは、どうしているだろう……』
小さな身体と心に数え切れない傷を負った少年。彼と《
本当は、そうではなかったのかもしれない。
『彼等のため』と唱え、『自由のため』と謳いながら、最も大切なところで、自分は少年を置き去りにして来たのかもしれない。他の方法が、あったかもしれない。
……やっと、そう思えた。
残酷なほど蒼い天を仰ぎ、デオは眼を閉じた。かたまりが喉を焼き、後悔がぎりぎり胸を締めつける。うめき声を圧し殺した。
敵や味方ではない、復讐ではない。決して見失ってはならないものが、他にあったはずなのに。
いつから、忘れてしまったのだろう。
低い囁きを耳にして振り返ると、足を傷めた男が、ファルスの母に話しかけていた。声を出せない彼女のわずかな視線の変化を読み取って、微笑んでいる。
デオは眼を
「お前、サティワナと話が出来るのか?」
思わず声がうわずった。男は無言で肩をすくめた。『通じているかどうかは分からないが、話しかけている』らしい。サティワナの瞳は、晴れた空を穏やかに映している。
デオは男の行為を無駄な努力だとは考えなかった。溜息とともに疲労を吐いて、訊ねた。
「お前、名前は?」
そう言えば、彼の名を聞いていなかった。彼だけではない。仲間のうち、互いの名を知る者が、どれくらいいるだろう。
男は数秒考えたのち、皮肉をこめて呟いた。
「オレ達は、《
一瞬、デオは言葉に詰まった。男のあわい水色の瞳を眺め、うすく嗤った。
しばらくすると、ひとりの女が、ダル(豆のスープ)を持ってきてくれた。デオと男にそれぞれ木の椀を手渡す。女は身を屈め、サティワナにも声をかけようとした。そこで、はっと息を呑んだ。
男達は怪訝に思い、顔を見合わせた。
サティワナは浅い息をしていた。紅に染まり始めた日差しの中、改めてその顔を覗き込んだ男は、彼女の首筋に掌を当てがい、デオを振り向いた。彼の頬はこわばっていた。
ぞっとする声音で、男は言った。
「熱病だ……」
デオは黙っていた。
もはや、神を呪う言葉さえ出てこなかった。
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