第六章 炎の道(4)
4
隼とタオのところへ、シルカス・アラル氏族長とオルクト氏族長が、のっそりやって来た。アラルの厚い革手袋をはめた腕には、黒いイヌワシが乗っている。
隼は、ほっと息をついた。
「戻ったのか」
「
天山山脈を越えて来た翼は、ところどころ羽が傷んでいる。アラルは、いとおしげにイヌワシの背を撫でた。連絡のためにトグルを追って飛ばし、事前の打ち合わせ通り、シェル城を発つ際に返されて来たのだ。
オルクト氏族長は口髭を手でこすり、笑っているのか考えこんでいるのか判然としないふかい眼差しを隼に当てた。
「エルゾ=タハト山脈より南は、我らが足を踏み入れられない土地だ。何事も無く、帰って来られればよいが……」
「大丈夫デス。キジどのが一緒に行って下さいマス。《星の子》の
アラルが教えてくれ、隼は無言で頷いた。水晶を思わせる透明な面差しに、変化はない。
タオが彼等を促した。
「
隼は、大柄な氏族長達と肩を並べて歩き、トグルのユルテへ入った。客人をもてなすのは隼の仕事だが、お腹のせりだした彼女の代わりに、タオが炉に火を入れた。鍋に乳茶を淹れ、その上に置く。
「それにしても。よく、長老達が納得したな」
アラルは長身を屈めて木戸をくぐり、隼に控えめな微笑を返した。
「
タオが椅子をすすめ、氏族長達は腰を下ろした。華麗な刺繍を施された絹の
隼が言ったのは、
年に一度の部族の祭典であり、同盟を結ぶ全氏族の代表が集まる。例年、トグルが最も忙しい時期なのだ。アラルとオルクトに後を任せて彼が出かけてしまったので、どうなるかと案じていたのだが……。オルクト氏族長が盟主の仕事を代行し、アラルが氏族長と長老達へ説明してくれ、大した混乱なく事は済んだ。
ミナスティア国の内乱や鷲の消息について詳しく説明することは避け、〈黒の山〉へ行くと言ったのが良かったのかもしれない。
先の戦いで敗れたタイウルト部族とタァハル部族出身の民衆が、祭りに参加していた。部族長は
「儂らが留守でも支障がないようする為に
オルクト氏族長は、厚い胸を揺らして言った。タオから
「それに、我らは盟主に試されているのかもしれません」
「ためす?」
隼は首を傾げた。アラルは瞼を伏せ、干した
オルクト氏族長は、懐かしむ口調で続けた。
「昔、もう十年以上前になりますな、ディオと話したことがあるのです。我らは、草原さえあれば生きていける。族長などいなくてもよいのではないか、と」
隼は苦笑した。かつて、自分も似たようなことをトグルに言ったのだ。――『国がなくても、民族を失っても、人は生きて行ける』
『お前たち為政者が国を守ろうなどとするから、争いが起こる。民は、巻き込まれているだけだ』……。
オルクト氏族長は、うすく
「今では、誤りだと知っています。人がいて社会がある以上、治安を維持し、揉めごとを裁き、弱者を守るものが必要だ。敵に対し、時には戦わなければならない。しかし、同時に、正しいと考えています」
隼は首を傾げた。タオも椅子に座るのを忘れて聴き入っている。
鍋から立った乳白色の湯気が、甘い香りをまとい、ゆるりと渦巻いて天窓へ上る。オルクト氏族長は、眼を細めてそれを見送った。
「民族が存亡の危機に立たされた時、個人の力ではどうにもならない事態に遭遇した時……我らは、導いてくれる強力な個性を必要とします。明確な思想に裏打ちされた権力や、知識や、信仰を」
「…………」
「
「トゥグス」
隼は眼をみひらいた。美しい紺碧の瞳に、オルクト氏族長は微笑を向けた。
「なにより、儂は己が過ちをくりかえす人間だと知っています。長老達を嘆かせることは、ショッチュウだ。
オルクト氏族長は、もふもふの口髭を吹いて嘆息した。真剣なのか冗談なのか判然としない口調で続ける。
「困ったことに、人は楽をしたがる生き物でしてな、
「…………」
「一方で、儂らもそんな民を利用している」
どこからみても人の好い中年男の黒い瞳が、きらりと光ったようで、隼は息を殺した。
アラルはお茶を飲んでいる。器の中の水面に視線を落とし、考え込んでいる風情だ。タオは、何故二人がこんな話を始めたのかをいぶかしんだ。
オルクト氏族長は、慎重に言葉を選んだ。
「羊の大群を世話していては、
隼が眉根を寄せたので、オルクト氏族長は口調を変えた。
「『利用』という言い方がお気に召しませんか? なら、『助け合い』だと言い換えますか。この方が、よほど
フフフッと愉快そうに笑った。
ここまで来ると、タオにも、
オルクト氏族長は、諦めに似たしずかな声で囁いた。
「我らは美しい存在ではないのですよ、
「…………」
「人には得手不得手があるということです。努力しても、出来ることと出来ないことがある。責めたところで仕様が無い……。己の能力を生かし、他の部分は他人の力を借りるということを突き詰めれば、我らの遣り方も悪くはないはずです。しかし――」
オルクト氏族長は言葉を切り、神妙な表情で隼を見詰めた。アラルとタオを見遣り、ぎりぎりまで声を落した。
「役割というものは、他人が勝手に定めるものですかな? 確かに、
隼は息を殺していた。何か……非常に重大なことを、彼が言っていると理解した。
否。話しているのは、トグルだ。氏族長は、彼の意思を代弁している。
タオは音を立てないよう気遣いながら炉辺の椅子に腰を下ろし、背筋を伸ばした。
オルクト氏族長の太い声が一同の胸に浸透するのを待って、アラルが静かに告げた。
「私達の寿命ハ、永くナイのデス」
シルカス族の
「温暖な土地に暮ラス定住民ほど、永くハありマセン。
オルクト氏族長は、早世した自分の子ども達のことを思い出したのだろう、苦い声で後を継いだ。
「ディオの父メルゲン・バガトルが逝ったのは、四十になるかならぬか。ディオも天人の御力がなくては、三十前に死んだはずです。――どんどん、早くなっている。幼き者が、老いた者を追い越している」
憂いに沈む隼の横顔に、アラルがそっと声をかけた。
「変わらなけれバ、私達は、生き残るコトが出来マセン。盟主がニーない国と和解しタノは、先の世代を思い遣ったのデショウ」
「儂らを思い遣って下さったのだ。頭の硬い爺どもを」
オルクト氏族長は冗談めかして哂った。隼も苦笑する。『じじい』と言うには、彼等は若すぎた。
隼と出会った頃、『キイ帝国を滅ぼす』と言っていたトグルは、結局、リー女将軍を殺さなかった。オン大公の陰謀を退けるためにタイウルト、タァハル部族とは戦ったが、彼等を完全には滅ぼさなかった。――彼女の思考を読んだように、オルクト氏族長は頷いた。
「
隼は溜息をついた。初めて、小さな愚痴が唇からこぼれた。
「あいつは……本当に、考えていることの一割も教えてくれない……」
「それハ、得手不得手とイウものデス、トグラーナ」
アラルが珍しく、声をあげて笑った。
「お赦しヲ……。私達も伺ったワケではありません。推測するダケです」
「ナーダムが終わり、氏族長達が帰ってから打ち明けろという話でしてな」
オルクト氏族長は、ほっほっとフクロウが吼えるような笑声をたてて
「儂らが大した混乱なく事を収められると期待していたのでしょう。……貴女を、信じているのです」
そう言われてもあまり嬉しい気分にはなれず、隼は肩をすくめた。
タオは隼の隣で蒼ざめていた。晴天の
オルクト氏族長は、そんなタオに強い意志のこもった視線を向けた。
「……『ただ一人の男の考えで数十万の民の命が左右されるなど、異常ではないか?』」
はっきりと、彼は告げた。兄と同じ新緑色の双眸がみひらかれる。
アラルと隼は、真顔になってオルクト氏族長を観た。彼の背後にいる、トグルを。
氏族長は、厳めしく続けた。
「人は誰も、そんな責任を負えるようには出来ていません。そういうことが起きたのは、我らが王に依存していたからです」
オルクト氏族長は、ふいに哀しげに眉を寄せた。
「無論、ディオ一人に負わせはしない……。我らが選んだ
隼は言葉を失っていた。彼は、元の穏やかな微笑みをうかべた。
「我らは遊牧民です。独立してユルテを営み、ひとところに留まらない
タオの顔色は青白さを通り越して白くなっていたが、隼は動じなかった。トグルが選んだ、ただ一人の女性――毅然としたその姿を、アラルは頼もしく見詰めた。
「
オルクト氏族長は、苦々しげに唇を噛んだ。太い声は低く濁った。
「国や民族のため、王や大公のために、民がいるわけではない。族長が民のものであるならば、我らはそれを捨てることも出来るはず……。ディオは
口ごもるオルクト氏族長は、隼の目に辛そうに映った。アラルも。しかし、二人はトグルを信じている。痛みを分け合おうとしていると察せられた。
『改革』という言葉が、彼女の脳裡に浮かんだ。違う、これは『革命』だ。無血で、沈黙の内に変化を促している。古代の聖王が君子に位を譲ったように、民を治める権威を民に委ねようとしているのだ。
血の束縛から民族を解き放つ。かれ自身を――。
隼は、身体の芯に震えるような感覚をおぼえ、眼を閉じた。改めて、ゆっくり瞼を持ちあげる。
トグルは変わったのだ、本当に。民族が存在することの意義や、己に課せられた責任に縛られて、苦悩していたあの頃とは違う。それらを超えて、先へ進もうとしている。
オルクト氏族長が、独語のように言った。
「間もなく、儂らの血は絶えます。私の娘はハル・クアラへ嫁ぎますが、その先はない」
タオは項垂れたが、
オルクト氏族長は、
「寂しくはありますが、新しい時代が来るのだと思えば耐えられます。族長の血は絶えても民は残り、自ら指導者を選ぶでしょう。我らはキイ帝国とニーナイ国の民とともに、新たな民となり、個々の役割を治めるのです。――
迷いのない紺碧の瞳に、オルクト氏族長は囁いた。
「……我らをそのように変えたのは、貴女ですよ。ハヤブサ殿」
隼は、無言で彼を見返した。
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