第六章 炎の道(3)
3
雲ひとつない青空に、朝日が輝く。どこかで小鳥のさえずる声がする。眠りから覚めたばかりの木々の梢で、光は跳ね、きらきらと風に舞った。
小川の辺で、鷲は、
靴を脱ぎ、
ファルスは木陰にうずくまり、無邪気なその仕草を眺めていた。
「なあ。そんな顔、するなよ。悪かったって」
鷲は、手拭をしぼって振り返り、少年の硬い表情に気づいた。片手を腰に当て、重心をゆらりと右脚に傾ける。本当に大柄だ。
ファルスは、じろりと彼をねめつけた。
「あの状況でこっちが傷つかずに済ませるには、仕方なかったんだ。お前の仲間とはぐれちまったことは、悪いと思ってる」
少年の表情がほぐれないので、鷲は大袈裟に溜息をついた。ぼさぼさの長髪を掻きあげ、掻きむしり、ぼやく。
「どーしたらいいのかなあ……ったく」
「……お前は何者だ?」
ファルスは警戒しつつ低く訊ねた。
「何故、神官を知っている?」
「シジンは俺の
鷲は、ぼりぼり首の後ろを掻き、苦い口調で答えた。
少年の眼がまるく見開かれる。明るい
「ダチ?」
『何だ、それは』 ファルスは眉根を寄せた。どうも、この男の言うことは解らない。悪い人間ではない、と思う。異国人であるのも本当だろう。詳しい事情を知らないのに助けてくれたことは、感謝している。しかし、
「お前は敵か? 味方か?」
この問いに、男は珍しい銀の眉をくもらせた。かるく息を吐く。
男は裸足のまま川から出て、少年の正面にしゃがみこんだ。しぼった手拭を彼の前にさし出し、ゆっくりと囁いた。
「なあ。どう言えばいい? 敵とか味方とか言われても、俺には、さっぱり判らない。何がお前の敵で、味方なんだ?」
一語一語を区切って言う。沈んだ声は、少年の胸に静かに沁みた。
「俺は俺だとしか、言いようがないんだよ」
「…………」
「お前こそ、何故、あんなところに居た? 木に吊るされていたのは、どういうわけだ。シジン達と何があった? 俺は、何も教えて貰っていない」
ファルスは男を睨みつづけた。古代の彫像めいた
――彼の言う通りだ。
少年は、傷の痛みに堪えて片腕を伸ばし、手拭を受けとった。
「オレ達は、奴隷だ」
「奴隷?」
ファルスは目線を下げ、自分の痩せた膝頭にうなずいた。乾いてひび割れた唇を、そろそろと舐める。
「この国では《
鷲は眉間の皺を深くした。細い眼をさらに細め、項垂れる少年の首を眺める。
ファルスはかすれた声で囁いた。
「
「戦っているって――」
こんな子どもがか?
そう言いたげな男の顔をちらりと見て、少年は横を向いた。唇を噛む。
鷲は絶句していた。鷹の声を想いだす。
『ミナスティア国には、三つの民がいたわ』
旅立つ前、彼女は、そう教えてくれた。
『トグル達と同じ〈草原の民〉の血をひくわたし達と、シジンのような貴族と、奴隷たち……。わたしがここにいるから、今は二つね。奴隷は、あの地方の先住民だった。オダ達ニーナイ国の人々と、同じ姿をしているわ』
それ以上のことは話したがらなかった。故郷を捨てて長く経つ彼女には判らないことも多いのだろうと、鷲は思っていた。
目前の小柄な少年は、赤褐色の毛髪と日焼けした肌の色といい、空色の瞳といい……確かに昔のオダに似ていた。
『まいったな』 片目を閉じ、後ろ頭に手を当てて、鷲は苦虫を噛み潰した。ややこしい状況だ。これでは、安易にこの少年を連れて、シジンのところへ戻れない。
それにしても、判らないのだ。
「どうして、木に吊るされたんだ?」
吊るされていた、だけではない。――鷲は、痛ましげにファルスを眺めた。殴られた頬は腫れあがり、内出血のせいで紫色になっている。唇にも髪にも耳たぶにも、乾いた血と砂がこびりついている。顎から首筋にかけては、掌大の火傷の痕があった。縄に縛られ、こすられた腕と手首の皮膚はすりむけ、赤い筋肉が露出している……。ほかにも、体じゅうに数えきれない細かな傷があった。誰かに、さんざん痛めつけられたのだろう。
少年にとっては敵でも、シジンがそんなことをするとは思えない。否、鷲は思いたくなかった。
「オレ達が、
「盗賊?」
『また、わけが判らないぞ……』 そう思いかけた鷲を、ファルスは真っすぐ見据えた。瞳に青い火焔が燃えあがった。
「違う! 奴等がそう呼んでいるだけだ。奴等はオレの母を殺そうとした! デオは、オレ達の為に闘っているんだ!」
息を呑む鷲の前で、少年の瞳が揺れた。不安げに木立の向こうを顧みて、うわ言のように繰り返した。
「戻らないと。デオのところに母さんがいるんだ。早く、戻らないと……」
鷲は無言で立ち上り、口の中に溜まった苦渋を呑み下した。
自由をもとめて貴族に戦いを挑んだ奴隷たち。彼等の蜂起は、支配層の人間にとっては反乱であり、武装した集団は盗賊だ。女や子ども、老人といった弱い者は捕らえられ、見せしめにされたのかもしれない。
『なんてこった』
鷲は舌打ちした。酸味をおびた嫌なものが、喉の奥からこみ上げる。予想より遥かに深刻な事態だった。『俺が言うことじゃないが……シジンは何をしていたんだ。まったく』
鷲は片手を腰に当て、傷だらけの少年を見下ろした。
思えば、トグリーニ族のときは気楽だった。トグルは敵にまわせば
これは内乱だ。同じ国の人間同士が殺し合っている。戦っているのは民衆で、殺されているのは訓練された兵士ではない、最も弱い、女や子ども達だ。
鷲の脳裡に、先日の疲弊した老人と女達の姿が浮かんだ。
茫然とした気持ちで、鷲は周囲を見渡した。いっけん森は他の土地より豊かに観える。鳥が飛び、
けれども、人の心は荒廃している。王家が滅びると、ここまで国は荒れるのか。どちらの味方をしても、ただでは終らない気がした。
ファルスは膝を抱えている。出会った頃のオダより幼い少年の肩は、折れそうに細かった。
『母さん、か……』 鷲は考えた。困ったことだが、彼には理解できなかった。
――そうだ。俺には解らない。
今、『あの女』に会えば、問答無用で殺そうとするだろう。己の
母を慕う子の気持ちは、俺には解らない。知らないところでどんな目に遭っていようと、案じる気持ちはない。いっそ、死んでいてくれとさえ思う。
いや。解らないのは、子に慕われる親がどんなものか、という方か……。がっぽり欠けている。
内なる空洞の大きさに、鷲は溜息をついた。やりきれない。ずっと、自分には何かが欠けていると思っていたのだ。トグルにも。
『地獄の番犬』を自称し、『戦争の天才』と謳われた友の心の闇に、彼は気づいていた。鷲が鳶(前妻)を死なせ、トグルがあの戦争を引き起こすきっかけとなった部分だ。――同じ闇が二人を繋いでいる。
欠点という程度の生易しいものではなかった。魂の底までとどく深い亀裂に気づいても、埋める
ファルスの気持ちは理解できない。想像するしかない。
『だから、俺は鳶(娘)を置いて来れたのかもしれない……』
鷲は嘆息した。幼子がどうしているだろうかと考える。逢いたいと思い、泣いていなければいいと思う。しかし、娘の気持ちを、自分は考えていなかった。
今頃、どうしているだろう。
『……もしかしたら。愛情なんて奴も、俺は、判った気になっていただけかもしれないな』
鷲は、
「行こうぜ。まずは、お前の仲間を探そう」
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