第六章 炎の道(2)


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 ファルスと鷲を見失ったデオ達が、サティワナの待つ森に戻ったのは深夜だった。朝には乳白色の霧に包まれていた森は、今は紫紺の闇に沈んでいた。

 けものは息をひそめている。疲労で重くなった四肢に闇がまとわりつく。男達には既に物を言う気力がなかった。ぽつぽつと並ぶ焚火の紅い炎をみつけ、ほっと息がもれた。

 火のそばで、女達が膝を抱えている。木陰では老人と子ども達が。誰もが飢え、疲れきっていた。


「デオ」


 到着したばかりの指導者の許へ、男が片脚をひきずりながらやって来た。先日、ファルスの母親の世話をした男だ。戦えないので残っていたのだが、頬や肩に打撲やかすり傷を負っていた。

 彼はデオに耳打ちした。


「…………」


 デオのひとみがみひらかれる。男は、痩せて落ちくぼんだ頬を歪めた。

 デオは急いで身を翻した。一緒にいた仲間は怪訝そうに顔を見合わせると、裸足で下草を踏みわけ、焚火の間をぬって駆けだした。力なき人々は、不安な眼差しで見送った。



「何をしている?」


 月明りが届かない森の奥に人影をみつけ、デオは足を速めた。彼に気づいた一人が舌打ちする。

 四、五人の男達の足元に、ファルスの母が横たわっていた。草の上に裸の肩をさらしている。凝然とみひらかれた片方だけの瞳が、月光を反射していた。

 デオは息を呑んだ。


「貴様ら……!」


 脚の悪い男が遅れて駆けつける。男達は、気まずそうにデオから顔を背けた。


 サティワナは若かった、二十代の後半くらいか。赤褐色の髪は焼けてちぢれ、面の半分は火傷に覆われていたが、もう半分は美しい。顎から耳朶、首筋から肩へとつづく輪郭は、すっきりと整っている。麻の衣に包まれた肢体は細くたおやかだ。ファルスが毎日膿みを拭い、虫や土埃を丁寧に取り去っているお陰で、胸元の傷はずいぶん綺麗になっていた。

 戦乱の中、荒くれた男達の間にいて、力のない女性が身を守ることは難しい。まして盗賊は規律のとれた軍隊ではなく、彼女は悲鳴を上げることすら出来ない。己の身に起きたことが信じられない風情で横たわっている彼女を見た瞬間、デオの頭に血が昇った。


「出て行け!」


 彼は刀を抜き、振りかざして叫んだ。声に驚いた鳥達が、木陰から舞い上がる。


「出て行ってくれ、今すぐ! 俺が、お前達を殺さないうちに!」


 歯を噛み締め、ぎりぎりと鳴らす。濃紺の空に翼の音を響かせて、小鳥の群が渦を巻いた。


 ファルスを助けに行っていた他の男達が、ぽつぽつと辿り着いてこの状況を眺めた。皆、デオにかける声がない。翼の音が消えると、静けさが一層深くなった。

 《火の聖女サティワナ》を陵辱りょうじょくした男達は、不満げにデオを睨んでいたが、が悪いと悟ったのだろう。一人、またひとりとその場を立ち去った。踏みにじられた花のごとく、傷ついた彼女が残される。

 デオは刀を下げた。引きずりこまれそうな気持ちで、彼女の傍らに膝をつく。

『こんな、ことが、あるか……』

 サティワナはただ彼を見上げている。片方だけの青い瞳が星を映した。

 デオは刀を持っていない方の手で自分の額をおおった。部下の視線に構わず、首を振る。


 貴族なら、神官なら、どんな目に遭ってもいい。地主なら、ずたずたに引き裂かれても文句は言えまい。――そう考えてきた。その通りに殺して来た。

 しかし、彼女は違う。

 身勝手な為政者の思惑に踊らされ、己の無知も知らない民衆の手によって炎の中に突き込まれた聖女。何が清浄で何が不浄なのか、定義さえ明らかではないのに。他人の道理に無理やり従わされた、力なき女。

 無垢の聖女。

 何故、こんなことが起こらなければならない?

 ファルスに何と言って詫びればいい……。


 デオは混乱し、嵐の夜に押しよせる津波のごとき感情に呑まれていた。抗う術なく翻弄されてしまう。

 彼女だけでなく、大勢の女達が同じ目に遭い、大勢の子ども達が母や姉妹を奪われた。デオもその一人だ。これは彼女だけの災厄ではないと、嫌というほど知っている。不幸なのは、ファルスだけではない。

 だが……目の前の女性ひとり、子ども一人、自分は助けられないのか。


 激しい感情につつまれて、デオは身動きできなかった。逝った者の顔が次から次へとまなうらに浮かび、無力感と罪悪感で目が焼ける。喉が詰まり、息が出来ない。

 神がつくりものであり、神技が人の手で行われるものならば、そこに意義や斟酌しんしゃくは存在しない。背こうが従おうが、現在と未来の安寧あんねいを保障するものでないことは、火をみるより明らかだ。例外なく神は襲い、躊躇うことなく神は奪う。一つの苦しみは、他の苦痛の到来を退ける護符とはならない。

 否……これは《人》の責任だ。より弱い者をくいものにして生き延びようとする、生命のさがだ。神々は言い訳に使われているに過ぎない。

 デオの責任だった。


 デオはのろのろと面を上げた。サティワナは彼をみつめ、浅い息を吐いている。ただれた皮膚に指の跡が残っていた。蒼白い月光に、紫の血痕が浮かびあがる。首筋に、肩に、折れそうな腕に……。

 デオは刀を抜き、彼女と自分の視線が交わるところに刃先を掲げ、囁いた。


「死にたいか?」


 それが、この母子との約束だった。「いつでも殺してやる」 と言ったのは自分だ。苦痛が高まった時、それ以外に苦しみを回避できない時……死を望み、与えることを、誰が非難できるのだろう。

 サティーは変わらぬ息遣いでデオを見詰めている。澄んだ眼差しを受け止めるうち、デオは内心の昂ぶりが急速に鎮まるのを感じた。冴え冴えとした光が身を冷やす。

『違う。苦しいのは、俺だ……』 胸の奥で呟いて、デオは刃を下ろした。いつかのファルスの姿を思い出す。

 苦しんでいるのは自分だった。少年の、彼女の苦痛を見ていられず、殺すことで解決しようとしているのだ。無力感にさいなまれる自分を守る為に、他人の死を望む。己より弱い相手に刃を向けるなど、あの連中と変わらない。視界から遠ざけ、無視することで他人の苦痛を抹殺してきた連中と。

 絶望が、彼を包んだ。


 静かな顔をみつめ、デオはぼんやり考えた。『もう、解らないのかもしれないな……』

 全身を焼かれ、熱に侵され、息も絶え絶えの女。今さら一つや二つの苦痛が重なったところで、感じないのかもしれない。そうであって欲しい。この世とあの世の境界に横たわる彼女を観ていると、己のしていることの空虚さが身に沁みた。

 デオは溜息をつくと、刀を腰に戻し、腕を伸ばした。先の焦げた髪にふちどられた耳朶じだに顔を寄せ、息だけで囁く。


「生きろ……。ファルスには、必ず、会わせてやる」


 いらえはなかった。


 サティーを背負って立ち上がるデオを、男達は息を呑んで見詰めた。数歩あとずさり、道を開ける。成り行きを見守っていた脚の悪い男が、呼びかけた。


「デオ」

「行くぞ」


 デオは細い身体を負いなおした。息をひそめる部下達を、ぐるりと見渡す。


「カナストーラ(ミナスティア国の首都)へ」


 瞳の奥で、蒼白い炎が閃いた。



               **



「王女と天人テングリ……」


 地主の屋敷の一室にて。エセル=ナアヤは困惑気味に呟いた。彼の隣には地主が座り、傍らには妻のシータが立っている。

 開いた窓から、朝焼けに染まった光と風が入って来る。太陽にあたためられていない気の流れは、ひやりと感じられる。土埃のにおいの残る部屋の外では、にわとり達が乾いた声をたてていた。


 地主とエセルの向かいで、シジンは重々しく頷いた。四年前、キイ帝国へ輿入こしいれ予定だったレイ王女をさらってニーナイ国へ逃げた経緯を、打ち明けたのだ。

 タァハル部族に襲われて、シジンは王女と仲間と左腕を失った。その間に同志が王太子を弑逆しいぎゃくし、王家を滅ぼした。キイ帝国のオン・デリク大公とタァハル部族がニーナイ国を巻き込んで戦争を起し、捕虜となっていたシジンとテス=ナアヤは巻き込まれた。……そこで観た〈草原の民〉の姿と、天人テングリと呼ばれる異形の者達のこと。王女と鷲の間には子どもが生まれており、彼等に委ねてかの地を去った。

 今の彼に、神官ティーマを名乗る資格はない。神々と王権を否定し、国を荒廃させる原因を作ったのだから……。


 ――殺されても仕方がないと思っていた。自分はエセル達の憎しみを向けられる立場にいると、シジンは承知していた。

 ところが。

 話の内容をどう受け止めればよいか判らずに顔を見合わせていたエセルと地主は、そろって彼を顧みた。エセルの藍の瞳は労わるように。地主はしきりに顎鬚あごひげをこすっている。

 シータが温めた牛乳を持って来て、彼等の前に置いた。不安げに夫の横顔を眺めている。

 エセルは顔の前で両手を組み、木製の卓に肘をついた。拳の上から静かに声をかける。


「よく分からないが……。大変だったんだな」


 シジンが意外に思っていると、地主が訊いてきた。


殿と仰るのか?」


 壮年の男は、頻りにエセルと視線を交わした。


「奇妙な名前だが……異民族にあがめられているその方が、我われの次のラージャンなのか?」

「え?」


 咄嗟に言葉の意味が解らず、シジンはまばたきを繰り返した。少し考えて、唖然とする。


 鷲が、ラージャン? 

 あの男が?


 話が奇抜な方向へむかったと思い、シジンはごくりと唾を飲んだ。――考えてみれば、そういう発想があってもおかしくはない。

 現在、確認できている王族の生き残りは、レイだけだ。王太子をはじめ他の王子達がどうなったのかは、全く判らない。第三王女のレイは、王位継承の順位を考えれば玉座にすわる人物ではなく、そのつもりもないだろう。王位は、この国では男子が継ぐことになっている。

 しかし、今は非常事態だ。王女に帰国してもらうこと、或いは、彼女の夫に王になってもらうことの、何処に不都合がある?

 その考えは、真夏の椰子の梢で煌く光のごとく、シジンの心に射し込んだ。


『鷲が、ラージャン……』

 シジンは茫然としながら復唱した。生まれながらの神官ティーマとして厳格な身分制度のなかで育った彼に、その発想はなかった。

 当時の彼には、レイが最も大切だった。乳兄妹の彼女が政略結婚させられるというだけで、胸が破れそうだった。一方で、神にまつわる王権を否定したのだ。

 今では、傲慢だったと理解できる。歪んでいても不公平でも、社会はそれを支える柱がなくては容易に瓦解するからだ。現在のこの国のように。

 シジンには、王制の代わりとすべき確固たる指標がなかった。奴隷ネガヤーたちにもエセル達にも支持される国の姿など、思い浮かばない。このままでは駄目だと承知しているのだが。

 地主たちの発想は、旧い時代の価値観を踏襲している。正しいとは思えないが、元貴族には受け入れられるかもしれない。

 鷲の人柄は知っている。彼が王になってくれれば、奴隷たちにも納得できる国になるかもしれない……。


 思考の迷路に入り込んでしまったシジンに、エセルは火傷で引きれた唇の端をもちあげて問うた。


「俺には雲の上の話ばっかりで、ついていけないんだけどな、シジン。要するに、お前はラージャンの即位をたすけるために帰って来たのか?」


 シジンは正面から彼の問いをうけとめた。『そういうことになるのかもしれない』 と思いかけ、ぞっとする。何を考えているのだ、俺は。まだ凝りていないのか。

 〈草原の民〉で上手くいったからと言って、同様にことが運ぶとは限らない。あそこは王権も秩序も保たれている社会だった。鷲は部族間の戦いに能力をかしていたが、玉座に据えられたわけではない。《星の子》は国同士の仲裁を行っただけだ。

 あれは、人の築いた平和だった。

 神々の血をひく伝説をもつ王女を連れ戻し、ルドガー神の化身アヴァ・ターラとみまごう男をラージャンに据えたのでは、千年前と変わらない。神官くずれの男が、それをするのか。

 貴族が。


 頭が割れそうに痛くなり、シジンは眉間に皺を寄せた。失われた左腕の断端を右手で掴む。幻の指が存在を主張している。

 己が情けなかった。この期に及んで他人の力を当てにするのかと。


「違う。俺は、王を迎えるために戻って来たのではない……」


 曖昧にくぐもった声で、シジンは応えた。エセルの鮮やかな藍色の瞳に向き直る。

「なら、何だ?」と言いたげに、エセルは首を傾げた。二人の視線を受け止めるのが辛くなり、シジンは瞼を伏せた。


『鷲は、何故この国へやって来たのだろう?』

 レイと子どもと平和に暮していると思っていた。いったい何をしに来たのだ? まさか、自分に王位を要求する権利があると気づいたわけではあるまい。そんな権力欲とはかけ離れた男のはずだ。

 彼等は遊牧民の守護者、天人テングリだ。在り方は、欺瞞ぎまんに満ちた神々より《世捨て人サドゥ》に近い。《星の子》とともに下界の塵芥じんあいから最も離れた場所で生きていける。

 シジンは、いらいらと爪を噛んだ。ひょっこり現れた鷲の意図が、どうしても理解できない。レイを連れている様子はなかった。盗賊がそこいらじゅうに跋扈ばっこしているのに、大丈夫だろうか。


「それで。どうするんだ?」


 エセルが真顔で訊ねた。シジンは、はっと我に返った。


「行くのか? カナストーラへ」

「ああ」


 溜息とともに、シジンは続く言葉を呑んだ。地主とエセルは顔を見合わせる。

 シジンは、弱々しく微笑んだ。


「俺は、この国の行く末を見届けなければならない」


 出来ることは、それしかない。

 今のシジンには、王も貴族も奴隷も関係なかった。時流を留めることは出来ず、押し戻す力はない。また、してはならないと思う。

 元貴族の二人には、彼の考えは不満だったらしい。冷めた藍色の瞳で、シジンをしげしげと眺めた。

 エセルは溜息を呑むと、卓子テーブルに片手をついて立ち上がった。


「わかった。俺も行く」

「え?」

「見届けたいんだろ?」


 彼はシジンの顔の中心を指差した。吊り上がった眼の中で、瞳が鋭く光る。しわがれた声に力がこもった。


「お前は王女を逃がす目的を果たしたから、いいんだろうが。俺達は、そうはいかない」

「…………」

「ここは俺達の国だ。王や神官がいなくなっても、俺達は、ここで生きていかなきゃならない。盗賊どもに好き勝手させておくわけにはいかない」


 うむ、と地主は頷いた。エセルは拳を握り、挑むように白い歯をむき出した。


「『見届ける』だけなら、勝手にしろ。俺はやる。ラージャンがどんなつもりだろうと、国を建て直す」

「待ってくれ、エセル。鷲は――」

「誰かがしなきゃならないんだ!」


 力なく言いかけたシジンの台詞を、エセルは毅然とさえぎった。

 シジンは押し黙るしかなかった――そして、己の最大の誤りに気づいた。


 智恵はある、知識もある。挫折も、誤りも知っている。だが、希望がないのだ、自分には。生きる力が。

 奴隷ネガヤーたちは必死だった。子どもさえ命懸けで戦っている。エセル達も、アルやシータ達、守るべき者のために戦っている。

 両者の利害は一致せず、望みは完全にくい違う。その狭間に自分はたたずみ、世の不条理を嘆いている。創られた欺瞞に憤り、人生は不公平だと叫び続けている。己の非力を痛感して、途方に暮れているのだ。

 打たれるように、シジンは思った。『俺は、ここへ来てから何をした? 状況を変えるために、少しでも努力したのか?』

 かつて、国を変えたいと思った。王女を拉致らちし、仲間を死なせ、戦争をひき起こした。若い激情と無知ゆえの傲慢さで、数万の人々を死に追い遣った。それは、赦されることではない。罪を背負い、己を責めるだけならいくらでも出来る。死ぬことも。

 しかし、この事態を招いた責任をどうするのだ。他の者は生き続けなければならないのだ。どんなに世界が理不尽で無情でも、力は弱く、間違っていても。

 一度や二度の挫折で全てを放り出すのか。己はいっさい変わろうとせず、その為の努力もせずに、周囲が間違っていると言う。座視しているだけの者が他人の遣り方を批判するなど、おこがましい。

 思い知らされた。


「……わかった。エセル」


 頷いて、シジンも立ち上がった。エセルが意外そうに振り返る。


「一緒に行こう。出来ることを、探そう」


『俺達が目差す国は、異なっているが……』 小さな呟きを、シジンは口の中で呑み込んだ。

 彼がさし出した手を、エセルは黙って見下ろしていたが、数秒後、いきおい良くその掌を叩いた。にやりと白い歯を見せ、妻に声をかける。


「シータ、荷造ってくれ。他の連中にも声をかけるが、いいな?」

「構わぬ。女達を呼べ。残っている武器と食料を集めよう。……我らのラージャンの為に!」


 地主は、興奮気味に拳を振った。





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