第六章 炎の道
第六章 炎の道(1)
1
「あなたにミナスティア国へ行って貰いたいのよ、ディオ。私の
《星の子》の言葉を聴いたトグルは、わずかに眼を細めたが、それ以上、体も表情も動かさなかった。
オダは、そんなトグルと涼しい顔のルツを交互にみて、ごくりと唾を飲んだ。
トグル達がシェル城下の街へ到着して三日目。この間、〈黒の山〉の巫女たちは、キイ帝国からやってきた
あるじ不在の鷲の家で、南西につくられた葡萄棚の下の露台にあつまり、彼等は食事をしていた。ルツとマナ、トグルと若長老ジョルメ、セム・サートルと雉、ラーダとオダ、鷹と鳶と鳩に、手伝いに来たミトラとエイル、キノとロンティもいて、実に賑やかだ。十五人分の食事のために、トグルは羊を一頭提供した。キノの両親が魚を分けてくれ、鷹と鳩はナン(薄焼きパン)を大量に焼きあげた。干し葡萄と羊肉入りの
子ども達には、なんといっても
ルツの向かいに胡坐を組んだトグルは、淡々と問い返した。
「もとよりワシを捜しに行くつもりですが……名代たれ、とは」
「ニーナイ国を通過する大義名分をあげましょう、と言っているのよ、トグル・ディオ・バガトル。
雉は不安げにトグルを見遣ったが、彼の仮面のような無表情は変わらなかった。
ルツは乳茶をひとくち飲んで続けた。
「私は
「……それが条件ですか」
ちょっとそこのナンが焼けたから裏返して、と頼むような気軽さに、トグルの低い声がいっそう低くなった。碧眼が翳り、やや憮然としているようにオダには見えた。
「他国の
「ミナスティア王家は滅びたのよ。
ルツはきっぱり告げた。雉とミトラは鷹を気遣ったが、《星の子》は遠慮しなかった。
「
「…………」
「誰かが仲裁し、新しい国の体制を築く手助けをしなければ……。知識と経験と政治力をもつ、あなた以上の中立者がいる? ディオ」
「貴女ではいけませんか」
「言ったでしょう、私は〈草原の民〉と同じで、かの地に適応していない。マナもよ」
トグルは胸の前で腕を組み、眼を閉じて考えこんだ。セム・サートルとジョルメが顔を見合わせる。
雉がそっと口添えした。
「おれも行くよ。政治は判らないけれど」
トグルは横目で彼を見た。雉は肩をすくめた。
「鷲とおれが揃っている方が、お前は安心だろう。熱病が相手なら、出来ることがあるかもしれない」
雉はやわらかく微笑んだ。晴れ晴れとまではいかないが、自らを繋ぎとめていたものを断ち切った表情だ。
ルツは彼をみつめた。冬の夜空のように澄んだ眼差しを受け、雉は頭を掻いた。
「おれには世界を変えられないから、そういうことは鷲とトグルに任せるよ。でも……欲張って千の望みを掲げ、その全部が叶えられないからと投げだしていたら、何も残らないだろ?」
トグルは、ぴくりと片方の眉を動かした。雉は、自嘲気味に唇をゆがめた。
「ひとつだって、一に満たなくたって、これは奇跡なんだ……」
トグルは不審げに眼を細めたが、やはり黙っていた。
オダ達には意味の分からない会話だったが、ルツはふふと微笑んだ。新雪のように白い頬に、ほんのりと紅が差す。
「先に行っていて頂戴。すでに、ナカツイ王国には支援を要請したわ」
「え?」
眼をみひらくオダに、《星の子》は平然と告げた。
「エツイン=ゴルにね。あのひと、今はもう立派な御用商人よ」
雉は、「まったく、人が悪いよな」 と言いかけて言葉を呑んだ。もしかして、ルツは全て知っていたのかもしれない……。
トグルも思うところがあったのだろう、眉根を寄せ、葡萄酒の入った陶製の器を手に取った。あおるように飲み干し、部下に声をかける。
「ジョルメ、聴いているな」
「
「草原から、何が出せる?」
トグル腹心の若長老は、やや吊り目の黒い瞳をくるりと動かし、きびきびと答えた。
「岩塩です。今の季節なら羊毛、駱駝の毛、
「嬉しいわ。塩は絶対に必要よ、人間にも家畜にも」
乳茶の碗を両手につつみ、《星の子》は微笑んだ。
「住むところを失った人々に、毛布は有難いでしょう。食糧はもちろん、蒸留酒があれば消毒に使えるわ」
「ユルテ(移動式住居)も何張か欲しいな。あれ、病人の治療をするのに、便利なんだよ」
すっかりやる気になった雉が注文をつけ、マナと頷き交わした。
「薬をたくさん持って行こう。ちょうど、用意したのがあるんだ」
「
ジョルメが几帳面に頷くと、ラーダが続けて言った。
「ニーナイ国からは麦と米、豆などの基本的な食糧と、食器、衣類などが提供可能です。人手は交渉次第かと」
ラーダは、もの言いたげに沈黙しているトグルに説明した。
「私が《星の子》とともにリタへ向かい、話をつけます。キイ帝国の
〈黒の山〉とナカツイ王国、〈草原の民〉とニーナイ国、キイ帝国の
鷹は褐色の瞳をきらめかせ、息を詰めて聴き入っている。
トグルは冷静な態度を変えることなく、《星の子》に向き直った。
「……貴女は大丈夫なのですか? 我われと同じなら、リタ(ニーナイ国の首都)でも影響は免れない」
「ええ、私はリタが限界。マナはここに残ってもらうわ」
ルツは長い睫毛を伏せ、銀鈴のような声を抑えた。
「あなたが今の状態でなければ、止めているのよ、ディオ……。エルゾ山脈より南は、生きづらい世界。鷹や鳩のように『変化した者』にとっても」
あらゆる迷いと苦しみを鎮めて静寂を守る聖湖マナサロワールのように深い眼差しをトグルにあて、《星の子》は囁いた。
「気をつけて。カナストーラ(ミナスティア国の首都)に嵐が来るわ。高潮も……。確かめていらっしゃい、『変わる』ということの意味を」
トグルは無言で身を屈め、一礼した。
「それでは盟主、私は他の者を連れ、至急
ジョルメが提案し、トグルは重々しく頷いた。ルツは満足げに
ジョルメは続けてキイ帝国の青年兵に声をかけた。
「セム・サートル、盟主の護衛を頼んだぞ」
「は」
サートルは四角い顎を引き、ごく短く答えた。あらためてトグルに頭を下げる。
オダが勢いこんで片手を挙げた。
「ぼっ、僕も行きます! ミナスティアへ。ご一緒させて下さいっ」
トグルは青年を一瞥したものの、何も言わなかった。ラーダは息子の気持ちを承知して頷いた。
雉は、手にした
「鷹ちゃんは、どうする?」
鳶を膝に抱き上げて手についたあぶらを拭っていた鷹は、雉の問いに視線を上げた。
「わたし?」
「そう。鷲とシジンを捜しに、一緒に来るかい?」
トグルも興味をひかれたらしく、食事の手を止めて彼女をみた。一同の視線が集中する。
ミナスティア国の元王女は、項垂れた。
――記憶を取り戻した時から、レイは己を責め続けていた。
彼女のために、シジンは片方の腕を失った。テス=ナアヤをはじめ大勢の仲間が命を落とし、鷲は幼い我が子を置いて旅立った。彼等を想うたびに胸が
トグルを迎えて軋みはいっそう強くなった。彼に比べ、自分は何と卑怯だったことだろう。
怯むことなくトグルを送り出した隼――説明されたわけではなく観たわけでもなかったが、彼女が躊躇わなかったであろうことを、鷹は欠片も疑わなかった。どんなに離れていても互いの心の在り方を疑わない二人を観て、己を省みれば、胸を裂かれる心地がした。
記憶をなくしていた鷹には、彼への恋心が全てだった。鷲は亡き
『わたしは、鷲さんに何をしてあげられただろう……』
沈黙が場をひたした。彼女の傷心を知る鳩とミトラも、声をかけられない。重苦しい空気を怪訝に感じた鳶が、母を振り向いた。
「ふぁーま(母さん)?」
長い髪に隠れた顔を、首を傾げて覗きこむ。
「ふぁーま、あのね。だいじょーぶ?」
泣きたい気持ちが胸にあふれて、鷹は娘を抱き寄せた。栗色の髪を撫で、小さな頭を胸に押しあてる。鳶はなぜ母が急に泣き出したのかが判らず、きょとんと緑の眼を瞬かせた。
雉はオダと顔を見合わせ、それからトグルを見遣った。草原の男の幼子をみる眼は、この上なく優しい。
やがて、鷹は面を上げ、手の甲で涙を拭いた。
「雉さん。トグル、オダ。わたしは、ここに残るわ」
娘の表情を確認して、鷹はぎこちなく微笑んだ。褐色の瞳はまだ濡れていたが、努めて明るい声音で言う。
「鳶と一緒に待っているって、約束したのだから。鷲さんと」
「……うん。それがいいよ。早く帰れって、
雉はうなずき、くしゃっと鳶の髪をかき撫でた。童女は嬉しそうに雉を見上げた。
ルツはラーダと視線を交わし、平静に食事を再開した。かつて国を捨てたレイ王女がミナスティアへ戻るのは、シジン=ティーマと鷲の希望ではないだろう。鷹の決断を歓迎こそすれ、反対する理由はない。
鷹にはトグルの表情は読めなかったが、緑柱石の瞳は肯いているようだった。その奥の、隼は。
それでいいのだと……。
その時、
「あたしが行くわ」
話の成り行きを見守っていた鳩が、突然立ち上がった。自分の胸に片手をあて、宣言する。
「鳶と鷹お姉ちゃんの代わりに、あたしが、鷲お兄ちゃんを探しに行く!」
鷹とオダは、驚いて彼女をみた。雉も普段ほそい眼をみひらく。
トグルは飲みかけていた
サートルとジョルメが、互いを見る。
鳩は一同の反応にうろたえた。
「何よ。いけない?」
「ううん。でも……」
鷹は言いよどみ、ラーダを見た。神官は『仕様が無い』という風に肩をすくめた。
雉はトグルを気遣った。安全とは言えない旅だ、オダと自分が武器を持たない以上、トグルの気苦労が増えるだけではなかろうか。何しろ、相手は鳩だ。
オダが抗議の声をあげた。
「お前、冗談も休み休み言えよ」
鳩は唇を尖らせ、片手を腰にあてて胸を反らした。
「どうして、オダが反対するのよ。鷹お姉ちゃんに声をかけたんなら、あたしが行ったっていいでしょ? 雉お兄ちゃん」
「……まあ、それはそうだけどさ」
「鷹とお前は、全然違うだろ」
「ちょっと! どういう意味よ、それ」
言い争いを始めるオダと鳩を、セム・サートルは半ば呆れて眺めていた。俄然、場が賑やかになったので、鳶はきらきら瞳を輝かせた。
二人の掛け合いがいつまで経っても終わりそうにないので、雉はトグルに判断を仰いだ。
「どうする?」
「……好きにしろ……」
抵抗する気力を失った声だったが、鳩は歓声をあげた。
「やったー! ありがとう、トグル! 仕度しなくっちゃ」
いそいそと身をひるがえす彼女を、雉は苦笑しながら見送った。その隣で、トグルは深々と嘆息した。
*
男たちの仕度に時間はかからなかった。水と食料を補充している間に、鳩の準備もととのった。少女は編んだ長い黒髪を首の後ろで一つにまとめ、
問題は、誰が彼女と一緒に馬に
トグルの
きゃんきゃん騒ぐ二人を尻目に、トグルは黙々と愛馬の背に荷物をくくり付けている。ラーダは、その広い肩に声をかけた。手には彼の剣が握られている。
「トグル殿……」
両手で恭しく捧げられた剣を、トグルは無表情に見下ろした。群青に染めた牛革の鞘に、
神官は改めて頭を下げた。
「
なめらかに口上を述べる神官を、トグルはじっと見詰めた。かわいた真冬の荒野を見据えているような昏い瞳を見返して、ラーダは微笑んだ。言い出さなければ彼は武器を置いて行ったのではと思えるほど、真摯な眼差しだった。
トグルは瞼を伏せて言葉を探していたが……結局、何も言わずに帽子を脱いだ。丁寧に一礼する。
頭ひとつ以上背の高い男が、こちらの目線より低く
それは、トグルも同じだろう。
サートルとジョルメが姿勢を正し、
「道中、お気をつけて」
トグルは無言で剣を受けとり、腰に佩いた。
ミトラがエイルを抱いて見送っている。ルツと、鳶を連れた鷹、マナもいる。トグルは彼女たちへ会釈すると、帽子をかぶりなおして黒馬に跨った。ラーダは数歩後ろに下がり、彼等に道を開けた。
鳩とオダは口喧嘩を続けていた。仲が良い所以と知っているので、誰も心配していなかったが……。雉は、馬上からトグルに肩をすくめて見せた。
トグルは、ハァ、と嘆息した。
「だいたい、オダはねえ――」
台詞の途中で蹄の音に気づいた鳩は、眼をまるくした。冷たく輝く
『え?』
鳩の足が、ふわりと宙に持ち上がった。
無造作に片腕で抱き上げられ、鳩の身が
鳩は呼吸を止めた。
「行くぞ」
トグルは、呆気にとられているオダに声をかけ、
骨張った男の手が自分の腰を支えている。編んだ黒髪が頬に触れ、息遣いが間近に聞こえて、鳩は全身が心臓になったように感じた。
「いってらっしゃーい!」
鳶の甲高い声が、雲ひとつない青空に、のびのびと響く。
鷹は娘と手を繋ぎ、今は顔を上げて彼等を見送っていた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
鳩: 『トグルと一緒だなんて。どきどき』
オダ: 「こら、鳩。どさくさ紛れに族長にくっつくな。離れろって」
トグル:「……これは何の罰ゲームですか、《星の子》」←面倒くさい。
ルツ: 「おほほほほ。頑張ってね」
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