第五章 中間生の刻(6)
6
縄が体にくいこみ、呼吸を詰まらせる。喉はからからに渇いている。体重のかかる背骨が折れそうに軋んだ。身動きする度に枝がたわみ、木の葉が嗤い、少年に冷汗を流させた。
『今度こそ、死ぬ』 と思った。
どのくらいの時間、そうしていただろう。空腹は胃を締めつけていたが、それも感じなくなっていた。
白い羽根のような三日月が南天にさしかかった頃、ファルスは眼下に人影をみつけた。
蒼い影を地表に伸ばし、彼は静かに佇んでいた。頭から外套をかぶっているので、顔はみえない。傍らの
ファルスは眼を閉じた。その耳に、やけにのんびりとした男の声が届いた。
「おーい」
場違いなほど、のほほんとしている。呼びかけられた理由が判らずファルスが黙っていると、くりかえした。
「おーい。お前、何をやっているんだ?」
護衛とも、神官とも、デオとも、雰囲気が違う。ファルスは血と汗で貼りつく瞼をこじあけた。
少年の足の下で、男は左右を眺めている。顔を上げ、また声をかけてきた。
「誰もいないのか? 待ってろ。今、下ろしてやるからな」
『え……?』
ファルスは耳を疑った。
男は
ごしごしという音がして、がくん、と少年の身が傾いた。思わず息を殺す。
男は慎重に縄を引き、少年をそっと地上に下ろしてくれた。痺れた足が大地に触れた途端、ファルスはその場に
「大丈夫か? おい」
男が急いで駆け寄って来る。声のでない少年の傍らに膝をつき、身を屈めた。なめした革と駱駝のにおいがした。
「ひどいなあ……。一体、どのくらい上にいた?」
飄々とした口調で問いながら、男は少年の戒めを切ってくれた。無造作に扱っている剣も、ファルスの観た事のない形だ。
ファルスは戸惑いつつ礼を言おうと顔を上げ、息を呑んだ。
『ルドガーだ……』
男は外套の襟をはだけ、面を晒していた。紺色の夜を背に、銀色の髪が月光をあびて輝いている。眉も睫毛も、口元をおおう髭まで銀色だった。
彫りのふかい真っ白な顔、高い鼻梁、切れ長の涼しげな目元は明らかに異民族のものだ。喋っている言葉は少年と同じだが、聞き慣れない訛りがあった。
こんな姿の人間を、少年は見たことがなかった(誰もいないだろう)。思い当たったのは神話に登場するルドガー神の
「ほれ。起き上がれるか?」
男は、呆然としている少年の様子には頓着せず、革の袋をさし出した。受け取ると、ちゃぽんと水音がした。
地面に坐って身を支える少年を、男は心配そうに覗きこんできた。間近に観ると、邪気のない瞳は澄んだ若葉色をしていた。
「随分、痛めつけられたみたいだな。何があった?」
なめらかな指が額と肩の傷を撫でたので、少年はびくっと身を縮ませた。
男は片方の眉を持ち上げ、喉の奥で低い笑声を転がした。
「大丈夫、何もしねえよ。喰うか? 元気が出る」
そう言って裏返した掌には、干した果物が載っていた。おそるおそる手に取る少年ににやりと笑いかけると、立ち上がり、菩提樹を見上げた。
長身だった。
豊かな髪が腰まで流れおちるのを、ファルスはぽかんと仰ぎみた。噂に聞く《
男は
ファルスは、護衛の男達が戻って来ないかと気が気ではなかったが、とりあえず礼を言うことにした。
「あの……ありがとう」
「何だ。喋れるのか」
男は振り返り、ぱあっと微笑んだ。あまりの華やかさに、少年は怖気づいた。いったい、この場違いな暢気さは何だ?
男は桶をみつけると、駱駝の為に水を汲みながら、歌うように言った。
「良かった。言葉が通じないんじゃねえかと心配していた。こっちの言うことも解るな?」
ファルスは、おずおず頷いた。男は
「俺はロウ。鷲で通ってる」
「ワシ?」
「お前は? 何て呼べばいい?」
一瞬、ファルスは名乗るのを躊躇した。《
「……ファルス」
「ファルス。いい名だな」
これだけだった。
男は、再び少年の傍らにしゃがみこんだ。
「ファルス。ちょっと訊きたいことがあるんだ」
「何……?」
「ここは何処だ?」
人なつっこく微笑む男の顔を、ファルスはまじまじと凝視した。
男は、照れかくしに頭を掻いて肩をすくめた。
「実は、人を探しているんだが、道に迷っちまった」
「…………」
「見ての通り、俺は、この国の者じゃない。今じゃもう何処の国の者だとも言いにくいんだが……。ニーナイ国に縁があって、カナストーラを目差している」
ファルスは安堵した。今は、異国人の方が安心できる。かわいた声で答えた。
「カナストーラなら、南だ」
男は、嬉しげに頷いた。ファルスは、干果のお陰で口内に湧いた唾液を飲みこんだ。
「……この村の名は知らないけれど。オレ達も、南へ向かっている」
「そうか。そりゃ、都合がいい。ついでに、もう一つ教えてくれ」
駱駝は桶に鼻を突っこんで水を飲んでいる。ごふごふという鼻息を珍しがって眺めるファルスの脳に、男の言葉はさらりと飛びこんだ。
「シジン=ティーマって奴を探しているんだが、聞いたことはないか?」
無防備だったファルスの頭蓋内を、音を立てて血が流れた。
『シジン=ティーマ』
少年の眼前に、記憶が鮮明によみがえった。
紫の夜に散った炎の粉、鮮血、油と煤のにおい。憎しみに満ちた藍色の瞳と、爛れた頬の傷。デオの叫び声。
神官の静かな眼差しは、ファルスの網膜に灼きついていた。
忘れることはない。
「ファルス?」
動かなくなった少年を訝しんで、男が首を傾げる。ファルスは彼を
ルドガー神の化身のような男……おそらく、何も知らずに自分を助けてくれたのだろう。奴等との関わりは何だ? 何故、
ファルスが口を開け、応えようとした時だった。
「おい、貴様!」
しわがれた声に、二人と一頭は同時に振り向いた。月明かりのなか、村へと続く道をこちらへ駆けて来る一団の人影が見えた。ちろちろと松明の炎が揺れている。
咄嗟に、ファルスは男の陰に身を隠した。
「貴様! 何をやっている?」
「ファルス?」
叫んでいるのは、火傷の護衛だ。彼等と少年の態度を見比べて、銀の男は眉をひそめた。
そして、
「鷲?」
驚く声があがった。間違えようのない、神官のものだ。
鷲が再びそちらを向く。銀の長髪と外套がひるがえり、夜風をふくんでひろがった。男達が息を呑む。
ファルスは後退りをして、その場を離れようとした。
「鷲! 何故、ここに?」
「どうした? ファルス。何処へ行く? ……おう、シジン。久しぶりだな」
「ファルス!」
どうやって逃れようと焦る少年の耳に、もう一つ聞きなれた声が届き、はっとした。夜目に黄色い帯が浮かんでいる。呼ぶ影が。
盗賊に気づいて、シジン達の足が止まった。
「デオ!」
「ファルス!」
「……ええと」
鷲は混乱していた。眉間に皺を刻み、大急ぎで考える。
――どうやら、ファルスとシジンの仲は、あんまり良くないらしい。状況からみて、小僧を木に吊るしていたのはシジン達か? あいつがそういうことをするとは思えないが。
でもって、こっちは俺が森で見かけた連中だ。デオと言ったっけ……ファルスを知っているらしい。ファルスの方も奴等の所へ行きたがっている。ということは、小僧の味方なんだろう。
んで。デオとシジンの仲は、よろしくないらしい……。
鷲は、ぼりぼり首の後ろを掻いた。
シジンに逢えたのは嬉しいが、この場合、ファルスを助けた俺の立場は。――などと考えているうちに、男達は井戸の周りに集まり、互いを威嚇しはじめた。
デオ達が剣を抜き、護衛の男達が弓矢をかまえる。徐々に高まる緊張のなか、途方に暮れているシジンとファルスの表情に、鷲は気づいた。
『かなり
鷲は片方の眼を閉じた。内心で舌打ちしつつ、肩をすくめる。
『ま。来ちまったものは、仕方がない』
さて、どうしよう?
鷲は剣を握りなおし、ぺろりと唇を舐めた。
『こいつは、何者だ?』
エセル=ナアヤは、悩んでいた。
シジンが掲げる松明の下で弓をかまえ、道の向こうの盗賊たちを牽制しながら、視線は菩提樹の下に佇む男に引き寄せられていた。濃紺の夜のなか、蒼白い月光に照らされて、そこだけぼうっと明るくみえる。
輝いているのは、男の長髪だ。仕草にあわせて揺れる銀色の髪が肩をおおい、背を流れ、腰に達する。白い
『何者だ?』エセルは悩みつつ、隣の神官を顧みた。
『ファルス』
アナンダー・デオは、ほっとしていた。
はぐれていた少年。もう殺されてしまっただろうという予測を振り切り、引き返して来た甲斐があった。彼の自分に対する信用も、これで繋がれた。見捨てていたら二度と会えなかったろう。
サティワナが待っているのだ。何としても連れ帰らなければならない。
だが……。
護衛と睨み合いながら、デオも鷲を気にしていた。『こいつは、何だ?』
『デオ、良かった。戻って来てくれた』
嬉しかった。忘れていた涙が溢れ出しそうになり、少年は瞬きをくり返した。捨てて行かれても仕方が無いと思っていたのだ。諦めかけていただけに、彼の行為が嬉しかった。
デオは自分を見捨てない。必ず助けに来てくれる。――信仰に似た感情が、少年の胸に湧き起こる。次の瞬間、さあっと蒼ざめた。
『母はどうしているだろう? 無事だろうか? デオが留守の間に何か起きたら、どうしよう?』
己の失態が胸に迫った。デオだけでなく、母まで自分は危険に晒してしまったのだ。早く帰らなければならない……しかし。
目の前にそびえ立つ男の背を見上げ、ファルスは困惑した。外套の陰からエセル達の表情をうかがう。自分が動けば、奴等は一斉にデオ達を攻撃するだろう。これでは、迂闊に近寄れない。
そして、ワシと名乗った、この男――『いったい、何者?』
*
「鷲……」
松明を掲げて呼びかけたものの、シジンは言葉を失っていた。頭の芯が、ぐらぐらと揺れる。記憶が怒涛の勢いでおし寄せ、彼を呑みこんだ。
異民族の中で、憎しみだけを糧として耐えた二年間。切断された腕の痛みと、王女の悲鳴。親友の苦痛のうめき。片手で抱いた剣に映る、己の
〈草原の王〉を殺そうとして阻まれ、取り押えられたとき、捻じ曲げられた身体の痛み。果てのない虚無を宿した
轟音をあげて流れおちる雪崩れに逆らい、天へ昇る光の龍――。
冬の夜空よりも冷たい闇色の髪をなびかせた、〈黒の山〉の巫女。夜の女神さながら運命を見据える、慈悲ぶかく容赦のない眼差し。
懐かしい褐色の瞳から、零れた涙……。王女の腕に抱かれた赤子の、けがれの無い寝顔。
『これから、どうするんだ?』
あの男に託したのだ。
『全ての生き物には、生きる才能が備わっている』
言葉を信じて。
きっと、
シジンの困惑は、怒りへ変化した。
「何故、貴様がここにいる? 鷲!」
「何故って言われても――」
鷲は片手で剣を提げ、少年を庇って立ち、ぼりぼり頭を掻いた。相変わらず、苛々するほどのんびりした口調だ。
「それが、話せば長いんだよ。後にしないか。な?」
「…………!」
するどく息を吸いこんだシジンの襟首を、エセルがぐいと引っぱった。
「シジン!」
飛びかかってきた盗賊の刃が、彼の服を切り裂いた。エセルが弓に矢をつがえ、次々と放つ。暗闇の向こうから呻き声が起こった。
シジンは舌打ちしつつ凶刃を避けると、松明を振って敵を退け、鷲を探した。
「鷲!」
鷲は、先刻と同じ場所にいた。賊は彼にも襲い掛かっていた。驚いた
鷲は片手で少年を庇いつつ、もう片方の腕で賊と剣を交えていた。
「デオ!」
叫んで駆け出そうとする少年を、ぐいと引き戻す。
矢が鷲の頬をかすめたので、シジンは、ぎくりとしてエセルを振り向いた。護衛達には、子どもと異国人に構っている余裕はない。木立と月明りの間に見え隠れする人影を懸命に探していた。
矢を引き絞る音、弓弦の鳴る音が風を切る。殺さなければ殺される。
シジンの背を冷たい汗が流れた。今更のように状況の複雑さに眩暈を覚える。一本だけの腕に松明を掲げ、彼は叫んだ。
「鷲、避けろ! 危ない!」
「よけろって……あのなあ、シジン。簡単に言うが、」
ぼやきながら、鷲は駱駝の
もし、過去にも《
「…………!」
突然ひらめいた考えに、シジンは息を呑んだ。
かつて、やはり超常の能力をもつ者がいて、戦士として戦ったのだとしたら。トグリーニ部族とタァハル部族の戦いの時のように。彼等の功績が称えられ、神々の
『能力を使わないでくれ』 鷲の無事を祈りつつ、シジンは願った。
雪崩を一瞬で凍らせた光の龍をおぼえている。偉大な力の
勝手だと承知していて、シジンは祈らずにいられなかった。
『やめてくれ。人の世は、人に返してくれ……』
そんなことを願わなくとも、今の鷲に能力はなかったのだが。
『――違う』 気づいて、彼は愕然とした。
鷲は、天人ではない。化身などではない。レイが《神の民》ではないのと同じだ。
人を神と呼ぶのも化け物と呼ぶのも、人間だ。人が人を、勝手な都合で、神にも化け物にもしてきたのだ。
『俺達が』
その考えは、
『こういう時、一番いいのは……』
鷲は、皆まで考えなかった。
彼は駱駝の手綱を引き寄せると、背に庇っていた少年の身体を、ひょいと抱えた。ファルスが悲鳴を呑むのを無視して鞍に放りあげる。切りかかる男の剣を払い、自分もそこに跳びのった。
三十六計逃げるに如かず!
ぎらぎら光る刃と血のにおいと怒号に囲まれ、すっかり興奮した駱駝は、鼻を鳴らし、首を振って一目散に駆けだした。慌てて避ける男達の間をぬけ、南へと走り去る。
デオは舌打ちして仲間に声をかけた。
「退け! 行くぞ!」
「待て!」
黄色い帯を翻して逃走する盗賊を、エセル達は追いかけた。弓を構え、剣を振り、怒声をぶつける。後を追いながら、シジンは己の
『奴隷は、俺達だ……』
自然と歩調はゆるみ、遅れた。間もなく、彼はその場に取り残された。エセルの声が遠くなる。
『俺達も、奴隷なのだ』 その想いは、彼の頭蓋内で渦を巻いた。
貴族といい、奴隷といい、神官という、どれも定められた身分に過ぎない。滅びた権威、失われた過去に囚われている。
神話は消え、化身は現れず、王の権威は地に墜ちた。王族が絶え、神々もこの地を去ったのに、貴族と神官だけが残っているなど、ばかばかしい。
『俺は
王女を攫い、国を捨てた。結果、王家の血を途絶えさせ、貴族の地位を失墜させ、故国を滅亡に追いやった。あの盗賊達の行為と自分がしたことの、何処が違うというのだ。どちらも暴力に変わりは無い。
シジンの足が止まった。
心の中で迷宮のごとく高くそびえていた壁が崩れ、視界が晴れる。だが、そこに現れたものは醜悪だった。
我が身かわいさに真実を告げられずにいる己の姿に気づいた時、シジンは掲げていた松明を下ろした。
「シジン?」
エセルが
「どうした、大丈夫か? くそっ、見失った。あの白い奴は何者だ? お前、知っているのか」
「エセル」
シジンは、ごくりと唾を飲みこんだ。あらためて、彼の焼け爛れた頬の傷を観る。自分の声がどこか遠く聞こえた。
「エセル=ナアヤ。俺は、話さなければならないことがある……」
~第六章へ~
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