第五章 中間生の刻(5)

*子どもが虐待される描写があります。


            5


 勢いよく水が降って来た。

 うつらうつらしていたファルスは、その冷たさに目を醒まし、吸い込んだ水にせた。咳きこみながら周囲を見ると、夕陽を浴びて半身を闇に浸している男達がいた。

 相変わらず、自分は縛られている。いよいよ殺されるのだろうかと考えた時、聞き慣れた声がした。


「待て!」


 急速に濃くなる宵闇の向こうから、駆けて来る男達がいた。ゆるやかに巻いた金髪の男が、人垣を掻きわけて少年の傍らに立った。

 隻腕の護衛だ。


「待ってくれ。まだ、子どもだ……」

「子どもだからだ」


 息を弾ませる彼に、護衛の一人が迷いなく応えた。空になった桶を手にしている。

 火傷のある護衛がすすみ出て、苦々しい声を搾り出した。


「こんな歳から盗賊タグーになる奴があるか。根性を叩き直してやる」

「待ってくれ」


 隻腕の男は溜息を呑んだ。仲間の肩に触れ、なだめようとする。


「子どもが賊になるには理由があるだろう……。困った挙句とは、考えてやれないか」

「お優しいことだな」


 火傷の男は、フン、と鼻を鳴らした。

 ファルスは辺りの空気の冷たさに気づいた。男達が嘲笑をうかべている。少年は前髪から滴り落ちる水を払うこともせず、息を詰めて遣り取りを見守った。

 火傷の男が皮肉をこめて言う。


「『裁きは神が下されるのだから、人はそれに任せておけ』 と言うのか、シジン。神官様は、お優しいな……。生憎、神々の裁きを待っていられる余裕は、俺達にはないんだよ」


 それでファルスにも、自分を庇っている男が神官で、シジンという名だと判った。彼の立場が悪化していることが感じられた。


「俺達が困っていないと言うのか?」


 火傷の男の藍色の瞳は、濃い紫色に見えた。ぎりぎりと歯を鳴らし、男は少年を指差した。


「こいつに比べて、飢えていないと言うのか。苦しんでいないと?」

「…………」

「俺達は、他人のものを盗んじゃいない。殺してはいない。土を耕し、種を蒔き、まっとうに働いて飯を喰っている。病人の分もだ。俺達が困っていないと?」


「そうだ」 という相槌を、ファルスは聞いた。男達が頷いている。

 シジンは黙っていた。

 火傷の護衛は、彼からファルスに視線を落とし、吐き捨てた。


「困ったから盗んでもいい。苦しいから、他人を傷つけても、殺してもいいというなら。この世に罪人はいないんだよ!」


 ファルスは、ごくりと唾を飲みこんだ。この言葉を先鋒として、周りの敵意が一気に高まるのが感じられた。

 ふいに、耳元で声がした。


「あやまれ……」


 そう聞えた。おしころした囁きは、隻腕の男が少年に話しかけているものだった。


「謝ってしまえ……早く。殺されたくなかったら」


 ファルスは大きく目をみひらいた。シジンは彼に背を向けて男達と相対あいたいしている。厚い肩と傷痕だらけの頬を仰ぎ、少年は動揺した。

『あやまれだと? ?』


「こいつのしたことを、庇うつもりはない」


 神官の声はうつくしかった。追い詰められてなお張りがあり、淀んだ空気を震わせて夜空に響く。片方だけの腕をひろげ、懸命に訴えた。


「罪には正当な罰を与えるべきだという、お前達の気持ちは解る……。だが、どうか、考えてくれないか」


 男達はみな不満げだったが、一応、神官の言葉に耳を傾けていた。シジンは、一人ひとりの顔をみた。


「俺達が正当だと思う秩序が、他人の犠牲の上にあるのだとしたら。誰かを、不当に虐げてきたのだとしたら? ……苦しんでいる時、手を差し伸べる者がいるかどうかで、容易に人は変わる」


 シジンは少年を顧みて眉根を寄せた。


「まして子どもは……。最初に手を差し伸べたのが盗賊でなかったなら、こうはならなかったと考えられないか。いま一度、機会を与えてやるわけにいかないか」


 ファルスの中に、火が点いた。


 「最初に手を差し伸べたのが盗賊でなかったなら」 だと? 知った風なことを!

 手を離したのは、お前達じゃないか。母を火に投げ込んだのは。

 きさま等が、オレ達の名を奪ったのだ。何もせず、安穏と暮していた連中が、今さら何を言う。


「綺麗ごとを言うな!」 


 男達も口々に喚き始めた。火傷の男のかすれた声は、特に耳に残った。

 男はシジンに歩み寄り、焼け爛れた頬を向けて唸った。拳を握り、それを少年に突きつける。


「綺麗ごとを言うな、シジン! どんな事情があろうと、盗賊になる道を選んだのはこいつだ。人に助けを求めるのでなく奪うことを選んだ奴に、何故手を差し伸べてやらなきゃならない? 殺された者に、やり直す機会はないんだ。俺達は、同情垂れ流しで万民を救ってやれる、神様じゃねえんだよ!」


『神などいない』

 思わず……

 むきだしのエセルの憎しみにそう応じかけ、シジンは息を呑んだ。――そうだ。

 ひたひたと心を浸す哀しみの中で、考える。『俺のなかに《神》はいない。エセルのなかにも』

 ここにいるのは、《人》だけだ……。


「……本人に決めさせては如何か?」


 騒ぎを聞きつけたのだろう。地主が、杖を突く音を響かせながら、両脇に女達を従えてやって来た。右側にいるのは、昼間ファルスが見かけたシータだ。胸に幼子を抱いている。うすい青の瞳が印象的だった。

 護衛の男達が場をゆずり、シジンは一礼した。

 地主は神官に礼を返すと、にぶく輝く眼でファルスを見下ろした。ざらざらと耳障りな声で続ける。


「エセルのげんはもっともだ。仲間を殺されて、黙って引き下がることは出来ない。しかし、神官ティーマ殿の仰ることにも一理ある……。結局、どんな情けも受ける側にその資格がなければ、無用の長物ではないか?」

「私がひきとります」


 ファルスは驚いて神官を見上げた。『今、こいつは何と言った?』

 シジンは硬い口調でくりかえした。


「お許しを頂ければ……私が、この子を育てます」

「シジン……」


 火傷の男が忌々しげに舌打ちした。何故そこまで、と思っているのは明らかだった。

 地主は白毛の混じった髭を揺らし、陰気に嗤った。


「本当に、よいお覚悟だが……本人が承知しますかな?」


 太い木杖の先で、少年を示した。

 全員の視線が、ファルスに集中した。


「…………」


 ファルスは、柱に縛られたまま彼等を見返した。ねじあげられて縛られた両腕は、既に感覚を失っている。紫紺の空を背景に佇む男達の憎しみに満ちた眼差しにも、慣れ始めていた。

 怒りと軽蔑と冷淡な残酷さが、少年を囲んでいた。

 唯一異質だったのは、隻腕の男の表情だった。祈るように少年を見詰めている。また低い声が聞えた気がした。「あやまれ」 と言うのだろう。「謝ってくれ。頼むから……」

『誰が』と、ファルスは思った。

 誰が……何を、謝れと言うのだ。


 オレ達から名を奪い、奴隷にしたのは誰だ。母を《火の聖女サティワナ》におとしめたのは。

 オレに手を差し伸べてくれたのがデオならば、デオを盗賊にしたのはお前達だ。気まぐれに救うふりをして、またはずかしめるつもりか。


 父を助けず母を殺そうとした村人達を、ファルスは憎んだ。自分を縛り、痛めつけた男達を。シジンの深海色の瞳は、少年の憎悪を掻きたてた。

 優しさは。

 ――他人を憐れみ思い遣れるのは、なのだ。苦しみの渦中に立っていない、生きる余裕のある者だけが、他者に慈悲をほどこすことが出来る。

 シジンのふるまいは、少年の心に残っていた最後の自尊心を、踏みにじった。


 ファルスは、最も近い場所に立っていたシジンの顔めがけて、唾を吹きかけた。


「…………!」


 咄嗟にシジンは避けたが、すぐに、その顔は言い表しようのない悲しみに染まった。火傷の男が息を呑む。

 次の瞬間、ファルスはエセルに力の限り頬を殴られ、呻き声を呑みこんだ。脳を揺さぶる衝撃とともに、左耳が燃えあがる。口の中に血の味が拡がる。


「吊るせ!」


 誰かが声をあげた。男達が拳を振り上げる。


「見せしめだ!」


 シジンは、彼等を止められなかった。



          *



 ファルスはぐるぐる巻きに縛られて、村外れの菩提樹に吊るされた。足の下に井戸がある。暗緑色の水面が少年を映し、恐怖を喚び起こした。

 村人達が、遠まきに眺めている。

 火傷の護衛は、腰に両手を当てて得意げに言った。


「俺がガキの頃、悪さをするとこうして吊るされたんだ」


 ファルスは言い返せなかった。

 男は皮肉っぽく唇を歪めた。


「おい、小僧。たっぷり反省しろよ。そうしたら下ろしてやるからな」


 どうだか、と少年は思った。死ぬまで放置されてもおかしくはない。本気かどうか判らない台詞に応じる気持ちにはなれなかった。

 エセルの隣に立つシジンには、少年の空色の瞳に宿る反抗心がうかがえた。とてもではないが、彼の意図が伝わるとは思えない。

『こんな遣り方が、通用するわけがない』 黒々とした絶望が胸を塞いだ。

『エセル。お前とこの子は別人だ。お前が反省したからといって、この子もそうとは限らない……』


「シジン」


 エセルが肩に手を置いた。シジンは頷き、その場を離れながら少年をみた。

 結局、ここまでなのだろうか。

 何故、あんなことを言ったのだろう。少年をひきとると言った時の自分の気持ちが、シジンには解らなかった。単純な憐れみではないつもりだったが、本人に拒絶されては仕方がない。

『俺は、この子をレイの――この国の、身代わりにしようとしたのかもしれないな……』


「シジン」

 エセルが促す。シジンは唇を噛んでうなずいた。



『デオ……』

 子ども達の投げた小石が、ファルスのこめかみに命中した。わっと歓声があがる。


「こら。お前達は、もう寝る時間だろ。帰れ!」


 エセルに追い立てられ、子ども達は慌てて駆け去った。その中には、ナンの欠片をくれようとした幼子も混じっていた。

 血の流れる生暖かい感触が頬を伝い、ファルスは唇を噛んだ。塩の味がする。

 涙と同じ味だった。

『デオ。母さん……』

 ファルスは項垂れた。

 白い月光が、彼の影を地上に落としていた。





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