第六章 炎の道(5)


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 夕暮れが近づき、ユルテ(移動式住居)の外では風が啼いていたが、覆い布デーブルの中はあたたかかった。

 タオは、隼のために乳茶スーチーのおかわりを碗に注ぎ、麦粥を煮始めた。オルクト氏族長とアラルは、葡萄酒サクアの杯を片手に、茹でた羊肉を食べている。


「人がそうであるように。ものごとは、常に複数の面を持ちます」


 オルクト氏族長は半ば瞼を伏せ、満足げに囁いた。そうすると、物憂げな面差しがトグルに似ていると、隼は思った。やはり血の繋がった従兄弟いとこだ。


「何かを壁で囲う、閉じ込めるという場合は……目的を考えなければなりません」

「どういう意味だ?」

「たとえバ、」


 首を傾げる隼に、アラルが応えた。こちらは思慮深げに微笑んでいる。


「羊を囲いに入れるノハ、外カラ守る為デス。狼の群や、雪嵐カラ」


 そうだ、と隼は肯いた。タオは彼女の器に麦粥を盛りつけながら、神妙に話に耳を傾けている。

 アラルは艶やかな黒曜石の瞳に隼を映し、淡々と続けた。


「キイ帝国ノ長城チャンチェンハ、我ワレというカラ国を守る為に築かレタものデス。そうして、オン大公ハ内側から、タイウルト部族とタァハル部族を言弄げんろうシマシタ」


 葡萄酒サクアを口へと運ぶオルクト氏族長の頬に、皮肉なわらいが過ぎった。

 アラルは、椅子の背で身じろぎするイヌワシをちらりと観て、その仕草に微笑んだ。


「逆に、狼ヲ閉じこめ、猛禽を籠に入れるノハ、外にいるモノを守る為デス。危険カラ身を守る為に、私達ハ壁を築きマス。イツの時代も」


 話が回りくどくなって来たと感じて、隼は眉を曇らせた。出自に関わりなく高貴なその容貌かおを見詰め、アラルはふと頬をひきしめた。


「先祖カラ、私達ハだ、と教えラレました。周囲ヲ死に至らしめる業を持つ、故ニ、汚れた血を外と交わらせてはナラナイと……。本当に、ソウだったノデしょうか?」


 隼は黙ってアラルの視線を受けとめた。タオは眼をみはっている。

 オルクト氏族長は、フェルガナ産の葡萄酒の杯を掲げ、歌うように語った。


「キイ帝国の長城は、実はリー将軍らを閉じこめた檻かもしれぬ、ということです。実際、租税を逃れるために土地を棄てる農民を、国外へ出さない為だ、とサートルは言いました」


 真剣に聴いている女達に、オルクト氏族長は穏やかに告げた。


「《星の子》は、我らの血が汚れたわけではない、と仰って下さった。汚れたのは環境の方である、と……。ならば、祖先の制止をふりきり、草原の外へ出たミナスティア国の王族ムティワナは、どうなったのか? 我らが血の業病ゆえに忌避されたのなら、理解できる話です。だが、あの神官ティーマは何と言っていたか」


 アラルが陰鬱な声で答えた。


「ミナスティア国の王族ニ、我らのヨウナ病は、なかった……」


 隼は頬がこわばり、背筋がすうっと冷えるのを感じた。

 オルクト氏族長は、またいつもの人好きのする微笑を浮かべた。


「以来、盟主は考えておられます。祖先の言葉は、意味が違っていたのかもしれません。我らは自分達のことを、誤解していたのかもしれない」

「トゥグス」


 囁く隼に、オルクト氏族長はにっこりと笑い返した。理解者の温かな微笑を、隼は、まじまじと観た。


「私達は〈草原の民〉デス」


 気を取り直したように、アラルも口調を変えた。怜悧な眸から虚無の翳は消えている。


「草原ニ生まれ、生きる者デス。草原のコトならば、他国の誰ヨリよく知ってイルと自負していマス。しかし……本当に、ソウでしょうか? 『ソウデアル』というダケで、私達は己ヲ知っているのデショウか」


 今度はアラルがトグルの言葉を繰り返した。


盟主トグルは悩んでおられマシた。『サートルに、俺は教えラレナイ。俺達は、俺達自身を理解していナイ』……」


『あ……』と、隼は思った。トグルはいつも戸惑っているように観え、セム兄弟に殆ど言葉では説明していなかった。オダや鷲のこと、リー女将軍のことが気にかかっているのだろうと思っていたが。

 ふふっと、珍しく、アラルが声を立てて笑った。


「一を教えようと思エバ、十、知っていなければなりマセン」


 オルクト氏族長は、太鼓腹を揺らした。


「十で出来るのか、お前は。儂など、百知っていても無理だと思うぞ」


 アラルは微かに唇の隅を吊り上げたが、言い返さなかった。葡萄酒を口へ運びながら、黒曜石の瞳は涼やかに微笑んでいる。

 隼は呆気にとられた。生真面目なトグルらしい悩みだが、わっはわっはと笑うオルクト氏族長は実にたのしげだった。ひとしきりそうやって笑ったのち、神妙な口調に戻った。


「失礼、冗談はさておき。ことほどさように、教えるとは困難でしてな。まして、いつ敵となるか判らぬ者が相手では……。本営オルドゥでは衆目がはばかられ、思う事が言えません。サートルにとっても盟主と共に行けたことは良かったろうと、儂らは考えています」


 隼は首肯した。この平和――キイ帝国との停戦が永遠に続くものではないと、彼等は考えている。ずっと続いて欲しいと願ってはいるが……。


 隼の不安をものともしない力強さで、オルクト氏族長は言った。


「他を知ることで、我らは己を知るのです。ミナスティア国で起きたことは、我らの未来に起こることだと言えるでしょう。ムティワ族の現在を、おのが目で確かめたいと……ディオ自身が望んだのですから。今頃は、大喜びで走り回っているでしょうよ」


『そうだといいんだけど……』隼は、胸の奥で呟いた。

 オルクト氏族長のつよさとアラルの静けさは、彼女を慰め、励ました。勿論、タオの甲斐甲斐しさも支えてくれていたが、二人の氏族長の存在は、本当にありがたかった。

 トグルは遠くに居ても、彼の意思はここに在って、ちゃんと息づいている。


 ……死線を越えて与えられた時間を、自らの犯した罪と心の傷を見詰めることだけに費やさなければならないのだとしたら。こんなに苦しく、残酷なことはない。

 けれども、それは最初から、彼が独りで負うものではないのだ。隼がいる、アラルが。タオが、トゥグスが。ジョルメが、長老達が。

 鷲も、オダも、そのことを知っている。

 かれと共に生きる者すべてが、果たす役割を知っていた。



「ハヤブサ殿?」


 物思いに耽る彼女を気遣って、タオが声をかけてきた。隼は、草原の娘に微笑み返した。優しく、冗談めかして囁く。


「あいつが戻って来たら、二、三発、殴ってやらないといけないな」


 タオは、ようやくぎこちなく微笑んだ。オルクト氏族長も哂った。アラルは、イヌワシの背を撫でている。


『そうだ。帰って来い』

 ユルテの壁の向こうに広がる地平を想い、胎動を掌に感じながら、隼は胸の奥で呼びかけた。――トグル。あたし達は、みな変わることが出来る。望む生を生きられる。

 だから。

 必ず、無事で、帰って来い。今度こそ、静かに、一緒に暮らそう……。





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