第五章 中間生の刻(2)


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 二人の間には、常に人ひとりが入れる程度の距離がある。会話をするにはいささか遠いが、それ以上近づきも離れもしない。

『考えてみれば、奇妙な仲だよな』 雉はしみじみと考えた。

 二人を結びつけたのは、隼だ。彼女と雉に共通するもず(隼の姉)への想いと言った方が正確かもしれない。

 隼は、紆余曲折の末にトグルを選んだ。いわば恋敵であり、思想も境遇も異なっている。相容れるはずがないと思うのに、こうやって彼の力を借りている。

 雉は己の屈折した感情を認めずにいられなかった。あの頃も今も、自分はトグルを嫌いで好きで、離れられないのだ――。


「俺も訊ねてよいか?」


 考え込んでいた雉は、なめらかな声で我に返った。緑柱石ベリルの瞳は、相変わらず静穏だ。


「お前達が能力を使えるようになったのは、いつだ?」


 トグルは咥えていた煙管キセルを手に取り、雉の銀髪をながめていた。

 雉は少し考えた。


「おれが十七……。ルツに会ったのが二十歳の時で、自由に使えるようになったのは、それからだ」


 トグルは、わずかに眼をすがめた。

 雉は肩をすくめた。


「暴発したんだ、最初は。それで家族を殺してしまった」

「スマン……」


 今度はトグルがあやまる番だった。そう言えば彼には話したことがなかったと、雉は首を振って続けた。


「鷲は二十四、五歳だったんじゃないかな。スーの砦でお前の軍と戦ったことがあったろう。あれが最初だ」


 トグルの双眸が、すうっと細くなった。ゆるく拳を握り、口元に当てて考える。ぼそりと呟いた。


「それだけあれば、必要なことは伝えられるか……」

「トグル」


 雉はぞっとした。彼が己に残された時間を数えていると察したのだ。


 ルツの説明によると、《古老》は本来四人いるらしい。他者の生命の力プラーナを集めて増幅できる特殊な異能のもち主だ。

 自由に能力を使えるのは、雉と鷲だけだ(隼の能力ははっきりしていない)。亡き鵙に代わる新たな《古老》が現れれば、二人の共鳴は崩れるだろう。

 彼等が密かに心配しているのは……鷲の血をひくとびか、隼とトグルの子どもが《古老》ではないかということだった。

 隼は知らないのだろう。トグルや鷲が報せるとは思えない。


 雉は、彼の冷静さに不安を覚えた。

 トグルは雉の言いたいことを察したのだろう、瞼を伏せて囁いた。


「人は必ず死ぬ。役目を終えてからお前達より先に逝けるのであれば、本望だ」


 蒼褪めている雉を観て、微かに苦笑した。


テングリが俺に中間生バルドを地上で送れと言ったのだ。苦情を述べたところで仕方がなかろう」


 雉は眼を閉じた。切り裂かれる胸の痛みに、草原の男の優しさが沁みる。彼等を慰めようとしてくれているのだ。


 生者は死んで土へ還る。鳥獣に喰われ、魚の餌となり、カビむしの力を借りて目に見えない微粒子に分解される。草木の糧となり、他の生物に取りこまれ、永遠にこの世を巡る。

 魂は、死から次の生の間をあの世で過ごす。中間生バルドと呼ばれるその期間でトグルの環を止めたのは、自分達だ。

 ――トグルは全てを知っている。もう、雉に言葉はなかった。


「……お前の《神》は、優しいのだな」


 トグルは、風に飛ばされそうになる帽子をおさえた。雲が手を伸ばせば届きそうなところに浮いている。その雲を眺めながら呟いた。


「以前から思っていた。お前達の神は優しい。祈れば願いを叶えてくれる」


 左手を見下ろして、フッと嘲う。――はお前の本意ではなかったろうに、と雉は思った。

 トグルは傷痕を探すかのように掌を観て続けた。


「俺達の天には、仁がない。日照りがあれば、吹雪がある。千頭の仔羊が育つ夏があれば、ひとばんの寒さで一万頭の牛が全滅することもある」

「…………」

「人もイヌも、天は区別をしない。生まれて数日で死んでしまう赤子がいれば、病に苦しみながら生き永らえる者もいる」


 雉は黙っていた。草原に生まれた子ども達の負った運命と、母親たちの嘆く姿は、かれの胸の深いところに刻まれていた。痛みとともに、いつまでも彼を責めるのだ。思い上がりだとしても……。


「一瞬の雪崩で、一部族が滅び去る。ジョク(シルカス族長)のような男が死に、俺のような者が生き残る」


 トグルは自嘲気味に唇を歪めた。くらい眼差しは、どこを見ているか判らない。


「俺達は祈り、それを変えようと努力する。さまざまな理由を挙げ、己を慰めようとする……。だが、死は死であり、生は生だ。それ以上でも以下でもない。俺達が祈ったくらいで、天は手を緩めはしない。そこに在るだけだ」


 トグルは蒼い風のなかに片手を差し伸べ、空を仰いだ。氷河に冷やされた風が帽子の房飾りを躍らせ、外套の襟をはためかせた。

 雉は項垂れた。


 トグルが倒れたとき、『何故』と問うたのは自分だった。家族を殺してしまったとき、鵙と鳶(鷲の前妻)が死んだとき――嘆いても、叫んでも、どうにもならなかった。

 世界は理不尽で、人生は誰にとっても不公平だ。大いなる力の前では、人は踏み潰される蟻に等しい。頭では理解しているはずなのに、問い続ける。不安に駆られ、いかり、憎しみ、殺し合い、嘆き、また殺し合う。

 ありもしない理想を求め、挫折し、傷つき、涙を流す。

 愛し、裁き、ひれ伏して許しを求めるのだ……。


 雉は己の無力を痛感していた。今も、トグルの在り方を自分達はどうしようもない。

 しかし、不思議だとも思った。〈草原の民〉はみな非常に敬虔だ。聖山を崇拝し、日夜礼拝をかかさず、オボーという道祖神も崇めている。彼も例外ではないはずだ。


「何故、祈るのだ?」


 祈りが届かないのなら、無駄ではないか。この問いに対するトグルの答えは簡潔だった。


「愚かだからだ」


 何を今さら、と言わんばかりに素っ気ない。膝の上に腕を下ろした。


「真に天が全てを見通しているのなら、礼拝などする必要はない。愚か故、天に任せられない。不安な故、礼拝の形を採る……。祈ることで己を納得させているのだ。ほかに理由が必要か?」

「…………」

「結局、俺が信じたのはだということだ」


 雉が困惑しているので、トグルはわらった。瞳に笑みはなく、そこに宿る虚無のなかに別の光があった。


「『神はいる』にせよ、『神などいない』にせよ……そう言うを信じていることに変わりはない。を信じているのだ」


 ふいに、トグルは首をかしげて雉の顔をのぞき込んだ。ほどけかけた辮髪がひろい肩を滑り落ちる。急に視線の距離が縮まったので、雉は息を呑んだ。

 トグルは挑むように彼をみつめ、囁いた。


「……お前達は、使のではないのか」


 意地悪なからかいが緑柱石の瞳を過ぎる。雉が答えられずにいると、身を離し、ふんと嗤った。


「俺はそう思ったぞ」

「やめてくれよ……」


 雉は目を逸らし、苦虫を噛み潰した。そうかもしれない。

 銀色の髪に、碧の瞳。色素のない白い肌。他人と違う姿のせいで鷲は幼くして捨てられ、隼たちは故郷を追われた。雉は制御できない能力に翻弄されて人を殺し、化け物と蔑まれた。


 おれ達は人間だ。だが、だ?


 答えを求めて大陸を彷徨った。《星の子》に《古老》の名を与えられても、安らぐことは出来なかった。

 世界は敵意に満ちていた。ずっと認めて欲しいと願っていた。彼等をあるがまま受け入れてくれたのは、少年だったオダ、記憶をなくした鷹、そして、異民族のトグル……。


 雉は唇を噛んだ。苦い想いが喉に溢れた。

 今なら理解できる。敵意など、最初から何処にもなかったのだと。そう感じられたのは、他でもない自分の中に敵意があったからだ。自己に対する恐怖が。

 許せないという思い、『いなくなってしまいたい』という願い……。自己に対する殺意は、他人に対するそれと同じだ。世界じゅうにいかりと憎しみを抱きながら、そんなことを微塵も思っていない風を装ってきたのだ。謂れなき差別を受ける無辜むこの民のように。

 人を恐れ、憎み、仲間以外を受け入れようとしなかった。他人と同じ者など存在しないはずなのに。己の心の問題から目を背け、差異を認められない狭量な自分が、他人から受け入れられるはずがなかった。


 『化け物』は、自分の心のなかにいた。

 今になって、ようやく理解出来る。


「……言っておくが。俺は《天人テングリ》を信じたつもりはないぞ」


 雉の想いを、トグルは知る由もない。かたむく日差しに頬をさらし、眼を細めた。黄金の光に縁取られる横顔をみた雉は、あらためて彼を狼だと思った。

 誇り高く、繊細で、荒々しい。寡黙で聡明な、草原の狼。


「神はやっかいだからな、特に他人の神は。まして、天は俺達に関心がない」


 トグルは苦笑し、殆ど息だけで囁いた。


「俺が信じたのは……『我々は共存できる』という、お前達の思想に過ぎん……」


 言われなくとも、それがどんなに甘い考えであるか、雉は身に沁みていた。

 信じてよいのかと訊きたかった。信じられるのか、と。

 簡単に憎しみに駆られ、何度でも過ちを繰り返す。くだらない理由で他者を疎外し、殺人を犯す。心に存在する凶暴な獣から目を背け、他者を糾弾する。この弱く、傷つき易く、脆い人間(自分)を――。

 愚問だった。

 トグルは、己の内なる猛獣から目を背けたことは、一度もないのだから……。


 雉は眼を閉じて、深く、深く嘆息した。解けたと思った。胸を塞いでいた重く堅牢なものが取り除かれ、風が入って来る。

 トグルもそれを察したのだろう。草葉の擦れあう音とともに、立ち上がる気配がした。


「トグル」


 雉は呼びかけた。トグルが足を止め、振り返る。澄んだ空を背景に風が雲をまき、黒髪を躍らせた。光の破片と花びらが、二人の間を通り過ぎる。

 風がやむのを待って、雉は訊ねた。


「お前の《神》は何処に居る? テングリは」


 振り向いた姿勢で、トグルはしばらく考えていたが……首を一方へ傾け、片手を持ち上げた。右手の人差し指が、真っすぐ雉を示した。

 骨張った指が示す方向に気づいた雉は、眼を丸くした。「おれ?」と口の動きで問い返す。

 無言でトグルは笑った。仕様の無い、と言うように。踵を返し、馬たちの方へ歩き出す。ジョルメとサートルが後を追った。


 はぐらかされた気分で、雉は眉根を寄せた。「お前の中だ」と言うのか? 考えかけて、はっとする。聴こえた気がしたのだ。


「それも、お前の執着だ」という草原の男の声が……。





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