第五章 中間生の刻(3)


            3


『どうやら、道に迷ったらしいな』


 鷲は、のんびり旅を続けていた。

 方向感覚には自信があったのだ。エルゾ山脈から南へ真っすぐ進んで砂漠を突っきれば、ミナスティア国の首都カナストーラに到着するはずだった。ところが、行けども行けども集落がなく、人に出会わない。うら寂しい荒野を進むうち、いつの間にか岩山に入りこんでいた。

 カナストーラは、海辺のはずだ。


『ま。迷っちまったものは、仕方がないか』


 肩をすくめたものの歩調は変えず、進む方向も変更しなかった。そのうち何処かへ辿り着くだろう。

 ――こういうことで深く悩まないのは、彼の長所と言えた。もっとも、もっと早くから悩んでいれば、見当はずれの場所へ来ることはなかったろうが。

 鷲は、南北に連なる断崖を左手に観ながら進んだ。ねむたい目をした駱駝ラクダが後に従う。鞍に着けられた木鈴が、からりと鳴る。

 前方には、ときを超えた光景がひろがっていた。


 天に接して延々とつづく地平線が、突然とぎれて急峻な崖となり、やがてなだらかな下り坂になる。鬱蒼とした森に吸いこまれた後、再び隆起する。ひたすらその繰り返しだ。

 エルゾ山脈や天山山脈と異なり、この地方の山々は数え切れない水平な地層の積み重なりだった。堆積した時間にし潰された巨大な岩盤が、あちらこちらに顔をのぞかせている。

 黄色い太陽が、彼等の影をかわいた大地に灼きつける。濃厚な蒼空にわきおこる雲は、刻々と姿を変える。また雨になるのだろう、極端な気候と風景にも慣れてきた。


 西向きの断崖に、無数の石窟が並んでいる。いにしえの修行者たちが掘ったものだ。岩を削って柱とし、窓を穿うがいて装飾を施す建築法は、〈黒の山カーラ〉の神殿を思い出させた。

 戦乱の跡か、岩のところどころにすすがこびりついている。彫りだす途中で放棄された神像や、折れた柱が目をひいた。窟の大半は土砂に埋もれている。芒果マンゴーや葡萄、尾の長いサルや孔雀、腰を曲げた天女などの彫刻が、ここが聖地であったことを示していた。

 鷲は黙々と歩き続けた。

 日が暮れると雨が降りはじめた。にごった水が地表をおおい、低地を求めて流れだす。遠くで雷が鳴った。

 雨季だから仕方がないとはいえ、連日の驟雨スコールと熱気には、いい加減うんざりした。


 鷲は、駱駝ラクダを連れて窟の一つに入った。

 ひろって来た小枝を重ね、火をおこす。吹きこんで来た生ぬるい風が炎を揺らし、ゆらゆら影を揺らめかせた。駱駝の瞳の表面で、まるい虹の輪をつくる。紅の光に黒い岩壁が照らされ、艶やかに輝いた。

 なかは意外に広く、長身の鷲の遥か頭上に天井があった。おびただしい数の彫刻が壁面を埋めている。影が幾重にも重なり、最奥は闇に通じて見通せない。足下には砂が積もっていた。

 鷲は、岩窟内を探索する気にはなれなかった。入り口付近に焚いた火のそばに腰を下ろし、胡坐を組む。相棒も、四本の脚を折ってうずくまった。


 鷲は、革袋からナンを出して駱駝に与え、自身もかじりながら彫刻をながめた。描かれているのは神話だ。頭の中から古びた知識をひっぱり出す。

 巨大な蓮の花の上に、ウィシュヌ神が横たわり、かれを護る七頭の蛇が周りに円を描いていた。慈悲と調和をつかさどる大神には神妃がよりそい、頭と同じくらい大きな丸い乳房を突きだして微笑んでいる。胸元にかかる首飾りや腰に巻かれた布は、隠す意図を持たない。ふくらみを強調し、大らかに万物を受け入れる地母神の力を表している。

 性の禁忌は存在しない。神々は、必ずそれぞれの配偶者と腕をからめ、口づけを交わしていた。


 鷲は、炎の動きにあわせてぐるっと首を巡らせた。


 天井には日輪と月が描かれていた。枯れることのない菩提樹の枝が伸び、天女達は蠱惑的な笑みをうかべてこちらを見下ろしている。

 世界の中心にそびえる山から七つの聖河が流れ下り、その中にルドガー神が立っていた。筋骨隆々とした裸の男神の高く結いあげた髪から河の女神が顕現しているのは、〈黒の山マハ・カイラス〉と聖河ガンガーの象徴だ。

 三叉槍ピカーナをかまえた雷神と、ウィシュヌ神が向かい合う。雷撃をはなつ第三の眼をみひらいて嘆くルドガー神が腕に抱いているのは、人の身でありながらかれの妃となったスウェリだろう。夫の為に命を絶った、《火の聖女》――


 うねり、からみ、隆起する、情熱に満ちた生命の乱舞。息をつかせぬ神々の物語に、しかし、鷲は殆ど関心がなかった。堅い岩盤をどうやって削ったのか、ということの方が気になるのだ。左右対称な天井の曲線や、垂直な柱にこめられた技術に。

 やすりで磨かれた岩の表面に、絵の具の跡が残っていた。鷲は手近な壁に顔を寄せ、瞳を凝らした。

 弁柄ベンガラの赤があった。黄土、緑土、白土、煤の黒……。かつては青金石ラピスラズリや紅玉で色鮮やかに飾られていたのだろう。絵の具は落ち、ギョクや黄金は剥ぎ取られている。時の女神だけでなく、人の手がこの地を破壊したのだ。


 鷲は溜息をついた。

 これを築くには、きっと、大勢の絵師や彫刻師が、何十年もかけたことだろう。空想のその姿は養父デファに重なった。


『デファは、何を考えていたのだろう?』


 鷲は煙草を噛みながら、ぼんやり考えた。駱駝はいびきをかいている。

 あの女(母)に崖から突き落とされた後、彼には数年分の記憶がなかった。森のなかで独りきり、どうやって生きてきたのか判らない。記憶は、川の中――濃緑の木漏れ日の下で、絵師の腕に捕らえられた瞬間から始まっている。痩せて骨の在りかがはっきりと判る腕、日焼けした肌の温もりと力強さ。


『考えてみれば、変な男だったよな』

 ふと、鷲は思った。


 デファは独身だった。ユアン(鷲の前妻)とグーズ(はと)の姉妹をひきとっていたが、他に家族がいた様子はない。もしかして、姉妹の実の父親だったのだろうか? そんな話を聴いた憶えはないが。


「…………?」

 鷲は首を傾げた。今さらどうでも良いはずだが、妙に心に懸かった。


 毎日毎日、デファは岩と向き合っていた。天女を描き、のみをあて、顔料で彩色する。磨いたギョクを嵌め、惜しげもなく金を塗る。他の土地へ出かけることはなく、酒などで気晴らしをすることもない。

 終わりの無い仕事だった。

 


『駄目なんだよ。ジオウ

 弱々しい呟きが耳のなかに聞こえた。絵師フワジャの苦い顔が浮かんだ。

『駄目なんだ、俺は。どうすればいいのか、判らない……』

 何の話だ? 

 小さくなった焚火の向こうに、背を丸めてうずくまる男がいた。

 ――デファ?

『…………』

 応えはない。



 養父は、殆ど一人前の友人としてジオウを扱ってくれた。鷲にはそれでちょうど良かったが、ユアンにとっては厳しかった。鳶は幼い妹の世話はもちろんのこと、掃除に洗濯、料理に家畜の世話、絵師の仕事の準備まで手伝わなければならなかった。不手際があればデファは彼女を怒鳴り、手をあげることすらあった。

 鳶は(彼女を想うと、鷲はいまも生命が枯れそうな心地になる……)いつもデファを恐れていた。何故? と鷲が訊ねると、養父は何ともいえない表情を見せた。哀しげな、困りきった顔を。


 鷲は眉間に皺を刻んだ。掴めそうで掴めないもどかしさに、苦虫を噛み潰す。


「…………!」


 突然、気がついた。鷲は大きく眼をみひらき、息を呑んだ。身体の中心から冷気とともに震えが拡がった。肩を通り過ぎ、目の奥に留まって熱になる。胸にぽっかり開いた孔に、どっと風が吹きこんだ。果ての無い虚空へ吸いこまれそうに感じる。

 孔は養父に通じていた。


 ――友人としてではなく、他に接し方を知らなかったのだ。子どもを育てたことはなく、親になる方法も分からない。女性を愛したことはなく、まして女児の扱い方など見当もつかない。

 聖地に住んで清貧に暮した男すら、おのが魂の渇きをどうすることも出来なかったのだ。


『デファ』


 声にすれば血を含んだだろう。鷲はつよく奥歯を噛みしめた。切なさに涙があふれそうになる。


『デファ。やっと、俺はわかった……』


 何が欠けているのか、自分は。殺されかけ、拾われて、何故それだけで終らなかったのか。

 何故、鳶を傷つけてしまったのか。不条理な苦しみに、繰り返し、くりかえし、翻弄されたのか――いるのか。

 今も。

 鷲は、己のうちに巣食う闇のあまりの深さに愕然とした。ぎりぎりと胸を抉る痛みにうめくと、眠っていた駱駝が頭を上げ、不思議そうに鼻を鳴らした。長い睫毛が頬にふれたので、鷲は苦笑した。手を伸ばし、ゆるやかに湾曲した首を撫でる。

 過去は変えられない。

 養父デファの皮肉な微笑は、彼の脳裡に残っていた。鳶の優しく儚げな眼差しとともに。

 ……弱く、もろく、情けない男だった。臆病で、不器用な自分を変える勇気を求めるより、世を捨てて生命のない彫像と向きあうことを選んだ男だった。

 それでも、誰かを愛したかったのだ。寄る辺なく打ち捨てられた小さな生命を、助けたいと思うほど。


『デファ。あんたは、俺の英雄だった。俺たちの。

 これからも、それは変わらない』


 鷲は外套の襟を合わせて横になった。赤子さながら身を縮め、相棒のもつれた毛に寄りかかる。

 眠ろう。

 どうせまた、あの夢をみるのだろうが……それにも彼はれはじめていた。



          **



 翌朝。窟を出た鷲は、木陰に動くものをみつけて眼をすがめた。

 森は乳白色の霧にしずんでいる。明けきらない朝の光が、細かな水滴に反射して煌いている。木々は忘れられた亡霊のごとく茫洋と佇んでいた。下草はさらに濃い霧の底だ。

 どこかでサルが啼いていた。鳥の羽ばたきも聞える。しっとりと水をふくんだ苔の上を蛇が音も無くすべり、灰色の栗鼠リスが枝から枝へと駆け去った。

 砂漠と違い、森は生の気配に満ちている。しかし、これは見慣れた動物ではない。

 鷲は、音を立てないよう注意しつつ岩場を離れた。駱駝ラクダの手綱を引き、よく見える場所をもとめて濡れた羊歯シダの葉を掻きわける。迂闊に近寄るつもりはなかった。何処であれ、己の姿の特異さを知らない彼ではない。

 乳粥をおもわせる灰白色の闇に、褐色の肌と黄色い帯が漂っていた。やはり、人だ。何人いるのだろう?

 木々の根元に膝を抱えてうずくまる子どもたち。横たわっている女もいる。みな裸足で、骨と皮ばかりに痩せていた。着の身着のままといった風情で、馬や駱駝のような家畜を連れてはいない。

 あの雨のなか、野宿していたのだろうか。どんな事情で?

 鷲は眉根を寄せ、『難民』という言葉を思いついた。ナカツイ王国からの使者が言っていたではないか、内乱が起きて難民が流れこんでいると――。

 鷲はひとりで首を振り、考えを打ち消した。ここは国境から離れている。


「デオ!」


 自問自答していた鷲は、鋭い声にどきりとした。咄嗟に身をかがめて木の幹に隠れると、駱駝の手綱を引き寄せた。男の声が繰りかえす。


「デオ」

「いたか?」

「いや……」


 十歩ほど離れた場所に、緋色の髪の男が立っていた。背中に何か負っている。デオというのは、この男らしい。――鷲は親近感を覚えた。『デオ』……養父の名にも、懐かしい友の名にも似ている。それで、彼に注目した。

 霧の向こうから、数人の男達が現れた。シジンより肌の色が濃い。髪も紅く、小柄で、いっけんニーナイ国の民に似ている。

 鷲は息を殺して、彼等の会話に耳を澄ませた。独特の訛りがあるが、理解できないことはない……。


「どうするつもりだ?」


 デオは、柔らかな草の上にファルスの母を降ろした。男達の身体には不満と疲労が溜まっている。彼も限界に近かった。

 ぐったりと瞼を閉じているサティワナを見下ろして、デオは溜息を呑みこんだ。

 結局、ファルスは戻って来なかった。追いつけなかったのではなく、捕らえられたのだろう。我ながら奇妙だと思うが、デオはどうしても少年を置いて行く気になれなかった。かすれた声で仲間に告げる。


「ここで待っていてくれ」


 不審げな眼差しが、彼に集中した。本当に、どうしたと言うのだ。


「戻って、あいつを助け出す」

「デオ」


 彼の刀を預かっていた男が、苛々と首を振った。


「殺されに戻るようなものだぞ」

「どうせ、もう死んでいる」


 誰かが呟いた。デオは慍然ムッとして言い返した。


「生きているかもしれない……」

「足手まといだ」


 地を這う声に、男達は黙りこんだ。殺気をおびた灰青色の瞳が、互いを威嚇する。



『おいおい。いきなり物騒な話だなあ……』


 鷲は駱駝の木鈴に手をそえて音を消しながら、片方の眉を跳ねあげた。外套の袖で鼻をこすり、欠伸をかみころす。駱駝は、勝手に草を食べている。

 男達はみな若く、引き締まった無駄のない体つきをしていた。浅黒い肌とぎらぎらした瞳の輝きが、飢えた野犬の群を想わせる。彼等の腰に提げられたむき出しの刀剣が陽光を反射し、鈍いそのきらめきに鷲は眼を細めた。護身用かもしれないが、難民にしては不自然だ。

 首領格の男が唸る。


「奴等と同じ場所に堕ちろと言うのか」

「あんたは指導者アナンダーだ」


 男達は、互いの息がかかりそうなほど顔を近づけた。


「俺達を、何処へ連れて行くつもりだ?」


 デオは訊ねた男を睨み据えた。場の緊張が高まる。

 風が流れた。木々の梢がさわさわと揺れて灰白色の闇を掻き、一人またひとりと人影を吐き出した。

 鷲は息を呑んだ。

 森の向こうから、金色の太陽がすがたを現す。無数の光の柱が天から降ってきて、雨上がりの森を照らした。その柱の間を、赤ん坊を抱いた女が男に手を引かれてやって来た。項垂れたまま立ち止まり、疲労のこもった息を吐く。

 杖を突く老人が現れた。幼い子どもと女達が。負傷した男が二人、互いの肩にもたれて歩いている。血と泥に汚れた衣服が目を引いた。足を引きずる男の腰に、黄色い帯が揺れている。何が入っているのか大きな袋を背負っている男もいた。

 疲れ、打ちひしがれた人々の様子に、鷲は眉を曇らせた。いったい何があったのだ?

 シジンは何処にいるのだろう。


 デオは唇を噛んだ。仲間たちの言葉が耳の奥で木霊する。


『俺達は、何処へ行くのだ?』


 ――その問いは、彼の胸をいた。判っている、カナストーラだ。《名のある者》を倒し、国を取り戻す。自由を……。その為の戦いのはずだった。

 地主達は追って来るだろう。奴等の食糧を奪い、奴隷を解放したのだから。働き手を失えば、農村は成り立たなくなる。租税を集められなくなれば、貴族の暮らしは崩壊する。

 ここまでは、意図した通りだった。

 仲間は増えた……だが、志を同じうする者ばかりではなかった。戦えない者が増えた……女や子ども、病人や負傷者は、負担になる。どうすればいい?


 デオはサティワナを見下ろした。自力で移動できない彼女は、この状況で襲われれば間違いなく殺されてしまうだろう。ファルスは……。

 彼女が面を上げた。肩で息をしながら、片方だけの瞳でデオをみつめる。熱をふくむ吐息が耳朶に触れた気がして、デオは息を呑んだ。


 足手まといになる連中は置いていくべきだ。本来の目的を犠牲にするわけにはいかない。

 目的?

 ファルスのような子どもの為に、戦ってきたのではないのか。為政者の勝手な思惑にふりまわされ、虐げられた人々の為に。

 《火の聖女サティワナ》のために。


「…………」

 デオは口内にこみあげる苦渋を呑み下した。ひび割れた唇を舐めると、血と砂の味がした。


 既存のものを否定するのは簡単だった。うばい、殺し、破壊するだけなら迷う必要はない。勢いに乗ってやってきた。

 だが、この先は?

 病者はあふれている。病を治すために必要な知識や技術は、自分達にはない。法も、思想も、宗教も。

 この手にあるのは、怒りと憎しみと血に汚れた武器だ。己より幸福な者に対する際限のない妬みと絶望だった。奪った食糧が尽きた時は、どうするのだ。


『俺達は、何処へ行こうとしている……?』

 デオは慄然とした。


「デオ」


 彼の顔色の悪さを気遣って、男が呼んだ。デオは身辺に思考をひきもどした。仲間をかえりみた瞬間、サティワナの眼差しが視界の隅に残った。今は亡き姉に似た――。

 くらい胸の奥底で、情念の炎がちろちろと紅い舌を伸ばす。


「……俺は戻る」


 呟くと、男達の動きが止まった。デオは彼等を見据え、有無を言わさぬ口調で続けた。


「文句のある奴は、ここに残れ。見殺しにすれば、俺達は貴族と同じ場所に堕ちる」


 この言葉に、彼等の何割かははっと顔を見合わせ、何割かは項垂れて視線を外した。

 デオは仲間の手から自分の刀を受けとると、かるく振って踵を返し、朝日に向かって歩き出した。数人の仲間が後に続く。



 鷲は腕組みをして木にもたれ、この会話を聴いていた。首を傾げ、状況について考える。やがて外套の頭巾をかぶり直すと、十分そこを離れてから、おもむろに駱駝に跨った。脇腹を蹴って走り出す。

 東を目差して。





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