第五章 中間生(バルド)の刻(とき)

第五章 中間生の刻(1)


           1


 むらさきの夜の底、黒い砂丘の影から黄金の光の柵がたちのぼる。それはみる間に地平線をふちどり、暁の女神ヒルダの袖を橙色に染めた。藍色の空の片隅で、明けの明星が最後のきらめきを放つ。眠っていた木々の梢で、小鳥たちがさえずり始める。

 日干し煉瓦の壁が影をおとす勝手口から、欠伸を噛みころしつつ内庭へでた鳩は、雉とトグルをみつけて息を呑んだ。

 鷲の家には、居間を含め部屋が四つある。昨夜はトグルと雉に寝室を貸し、鷹ととびは鳩の部屋で眠った。オダは自宅に帰っている。

 トグルの愛馬・神矢ジュベ鹿毛コアイは、うまやが無いので庭に繋がれていた。二人は馬たちに水を与えていたのだ。自由に外に出られないトグルの代わりに、雉が汲んで来たのだろう。なにやら小声で話している。時に微笑をうかべ、くつろいだ雰囲気だ。


 鳩の胸が、とくん、と鳴った。

 恥ずかしがる理由はない、と思う。しかし、彼女は声をかけられなかった。


 今朝のトグルは無帽だ。背のなかほどに達する黒髪は、解かれて艶やかに波うっている。濃紺の脚衣ズボンの上に羽織った白い上着は、朝日に照らされて淡い紅に染まっている。ゆるく留めた襟元から喉仏が見え、柔らかな綿の上着は、ひきしまった身体の線を強調していた。

 他人に容易に気をゆるさないトグルが、馬と接する時には表情が和らぐ。雉の話を聞きながら愛馬の首のつけ根を掻いているさまは、長年の親友とともにいるようだ。

 我知らず、鳩は息をころした。以前もこんなことがあった。


 〈黒の山カーラ〉で再会したとき、鷲とともに本営オルドゥへ身を寄せたとき……トグルはいつも鳩には優しかった。同じ〈ふるき民〉の血をひく娘だからか。世間で噂されているような、慄ろしい蛮族の頭領とは思えなかった。

 戦場でのトグルを、鳩は知らないのだ。

 彼がここにいる……。懐かしさを凌駕する緊張に、彼女は立ち尽くしていた。抱きついて甘えていた日々が、嘘のようだ(何故、あんなことが出来たのだろう?)。


 どきどきしながら佇む彼女の視線の先で、トグルが、ふいに声をあげて笑った。黒馬ジュベが大きな鼻を寄せ、首筋に息を吹きかけたのだ。

「***!」

 滑らかな声を転がして、馬の額を押しもどす。爽やかな笑顔を目にした鳩は、一瞬、呼吸を忘れた。


「…………?」


 愛馬の背を撫でていたトグルが、鳩に気づいて動きを止めた。笑みが消え、冷静な碧眼が彼女を観た。



「トグル」

 やわらかな声に、鳩はほっとして振り向いた。鷹が娘を連れてきたのだ。


「おはよう、雉さん。トグル、もう大丈夫?」

「ああ。おはよう、鷹ちゃん。鳩、鳶も」


 屈託なく応える雉のとなりで、トグルは黒馬のたてがみを掻きながら黙って頷いた。

 鷹はふわりと微笑んだ。鷲の留守でこのところ沈んでいた気持ちが、晴れたようだ。


「入って。食事にしましょう」

「ああ。今、行くよ」


「とぐりゅ(トグル)、だっこ」


 両腕をひろげてせがむ幼女を、トグルはひょいと抱き上げた。興味を示す愛馬の首を撫でてから、彼女を片腕にのせて歩き出す。彼が傍らを通ると、馬と夏草の匂いがした。

 息をころしていた鳩は、そっと溜息をついた。



            *



 「話がある」 と言っていたが、ルツとマナはひるちかくなっても現れなかった。神官父子もだ。

 街の有力者たちが集まって、キイ帝国からやってきた隊商カールヴァーンと〈黒の山カーラ〉の巫女たちを歓迎しているらしい。しばらく身体が空きそうにないと連絡があった。

 トグルは内心安堵しているようだ――ルツに構われたくないのか、騒ぎに巻き込まれたくないのか(その両方か)。雉と鷹に、ささやかな希望を申し出た。曰く「草原から連れて来た馬たちに、新鮮な草を食べさせてやりたい」と。

 それで、雉は彼とともに、神矢ジュベ鹿毛コアイを街外れの野原へ連れて行くことにした。二人と二頭の後ろから、セム・サートルとジョルメが葦毛ボルテ栗毛ゼルドゥを引いて来る。街外れの丘へ登り、日当たりのよい斜面にしげる瑞々しい青草をみると、馬たちは喜んで食事を開始した。


 トグルは馬の様子をみながら、盆地を一望できる丘の中腹に腰を下ろした。ジョルメとセム・サートルはあるじからすこし離れ、やはり馬たちを見守っている。雉はトグルの隣に坐った。

 眼前には、高原の花畑が広がっている。ごつごつした岩肌を覆い、強風と冷気に耐えて咲く、踊子草オドリコソウ武者竜胆ムシャリンドウ薄雪草ウスユキソウのなかまだ。可憐な姿で旅人の心を慰める。

 大気は澄み、山々をくっきりと描き出す。陽光が山頂の凍った雪の面で反射して、七色の煌きを放つ。


 神々の庭園をまえに、雉は子どもさながら膝を抱えていた。昨夜の光景が忘れられないのだ。

 トグルの掌に穿たれた孔が、消えた瞬間。こちらを見据えた、鮮やかな緑柱石ベリルの瞳。――いつからだろう、異能が両刃もろはの剣だと気づいたのは。

 戦場で負傷した兵士を治すたびに、心の中で何かが壊れていった。その一方、能力の限界も理解した。草原で救いを求めてきた多くの人々を、雉とルツはたすけることが出来なかったのだ。

 トグルの『不死』は、雉が自分にかけた呪いだった。彼をたすけた時、何処かで自分はホッとしたのだ。これでもう、死んでいく人々を看なくて済む。嘆き苦しむ隼を。

 違う。

 引き換えに能力をうしなって、『何も出来ない自分』に安堵したのだ。出来なければ、しなくてよい。たすけた生命が死んでいくことにも、たすけられない生命を見送ることにも、苦痛を感じなくて済む――。


 ……甘かった。碧の瞳は、まざまざと彼の姿を映し出した。つまり、自分は全ての責任をトグルに押しつけたのだ。隼に。

 雉は知らず知らずのうちに拳を固く握っていた。『話さなければならない』と。


「トグル」

 青空をわたる鳥の声を聞き流してから、雉は話しかけた。


「いつ気づいた? に」

「……半年前。本営オルドゥに戻ってすぐだ」


 トグルは今は紺の帽子と長衣デールをまとい、火を点けていない煙管キセルを手にしていた。感情のこもらない単調な声でつぶやき、記憶をたどる。


「狩りに出て、左脚を負傷した。腓骨ひこつが折れていたが、三日で治った」


 雉はひそかに呼吸を止めた。女性とみまごう優美な顔を、トグルは横目で見遣った。


「痛みはある、血も流れる。首でも落とされれば、死ぬのだろう。そんなことは、まずなかろうが」


 手袋をはめていない左手をひらひらと振り、うそぶいた。


「便利といえば、便利だな」

「……すまない」


 雉が項垂れると、トグルはゆっくり首を横に振った。


「ハヤブサには報せていない。タオにもだ。知っているのは、アラルとトゥグス、ジョルメ、トクシン(最高長老)と、《星の子》……。お前が知らなかったとは、意外だった」


 碧眼が愉快そうにわらった。

 雉は、ふかく息を吸い込んだ。鷲とルツに言いたいことは山ほどあるが、今は止めておこう。


「お前はどう思うのだ? そのう、」


 トグルは瞳から表情を消し、雉を見詰めた。

 隼より鈍い銀色の髪にふちどられた相貌は、繊細で傷つきやすい少女のようだ。酸性度の高い痩せた大地にしがみつく草や吹きすさぶ風の厳しさとは、無縁の存在にみえる。――そうした風に晒されて風化した岩石を思わせるトグルの風貌かおを、雉は見詰めかえした。


「……お前達は、出来ることをしたまでだ」


 トグルは慎重に言葉をえらんだ。真夏の新緑色の瞳が睫毛にけぶり、低い声に吐息がまじった。


「そして、俺が考えているのは……テングリ、ということだ」


 雉のふだん微笑に隠れた眸が大きく開き、あたたかな若葉色の瞳が光を反射した。影のないその明るさを、トグルはそっとうらやんだ。

 雉は、ごくりと唾を飲み下した。


「すまない。おれは、思い上がっていた」


 トグルは微かに唇の片端を吊り上げると、馬たちの方へ向き直った。その沈黙が決してこちらを拒絶しているのではなく、ひらかれたものであることを、今では雉も理解していた。

 雉は足元に視線を落とした。『そうだ。マナの言う通りだ……』


 鷲と雉の能力が、トグルをこの世に留めている。今さら、そうしたことを悔いてはいない。しかし、戦争で彼の敵になった人々が大勢殺されたという事実が、彼を傷つけていた。一方に肩入れして生命を選択したという思いが。

 それは畢竟ひっきょう、生命を選択という自惚れに過ぎない。神ならぬ者が大いなるものの司る領域に足を踏み入れたと、過大評価しているのだ。

 雉は唇を噛んだ。

 過去を思えば悔いが生まれる。後悔は、泉のように湧き続ける。己の裁量でものごとを運べば、責任は重くなる。だが、それは思い上がりと紙一重だ。

 本当は、その選択さえ大いなるものの掌の内にある。


「答えは貴方ではなく、トグルが見出すことではないかしら」――涼やかなマナの声が、脳裏に響く。トグルの生命は彼のものだ。生きるのも、答えを出すのも。



 馬たちは仲良くこうべを並べ、草をんでいる。うららかな陽射しにかがやく毛皮を眺め、ずいぶん時間が経ってから、トグルは言った。


「いや。お前がそう考えるのは、無理もない」

「え?」


 雉は改めて精悍な横顔を見上げた。今、自分は念話を行っただろうか? もごもごと弁明を試みる。


「戦わなければ、お前達の方が殺されたのだから、仕方がないだろう」

「……あれは、俺の誤りだ」


 夜に通じる深い双眸が雉を映した。まさか、彼の口からそんな言葉が出るとは思っていなかった雉は、絶句した。

 トグルは冷めた眼差しを天人テングリに当てると、長靴グトゥルの爪先と黒い大地を見下ろし、地を這う声でつぶやいた。


「戦うか、戦わないか……進むには、それしかないと思っていた。当時の俺は思いつかなかったゆえ、『誤り』と言うのは気がひけるが。それでも、あれは俺の誤りだ」


 ぎりっと奥歯を噛み鳴らす。圧し殺される声に、雉は耳を傾けた。


「武器を手にするだけが闘いではない。留まることも出来たはずだった。別の道を探すことも……」


 息だけで囁き、トグルは天を仰いだ。ほつれた黒髪が背を流れる。

 孤高な横顔だった。

 この男が内面を明らかにするなど、そうあることではない。雉には、彼が自分に語りかけているとは思えなかった。もっと巨大な何かに対峙して己の罪を問うている。遥かな天とそらの境界を探している。

 蒼穹の彼方に。

 囁きの底に、濁った苦悩が流れていた。


「解っていながら、俺達は己を止められなかったのだ。だから、あれは俺の誤りだ」


 トグルは首を傾げている雉を顧みて、またフッと嘲った。雉は迷いつつ訊ねた。


「何故、戦争が起こるんだ? 草原といい、ミナスティアといい。殺し合いを止めることは出来ないのか?」


 トグルはやや慍然うんぜんと雉を一瞥した。古代遊牧民を彷彿とさせる風貌が厳格さを増す。


「何故、俺に訊く? 理由など千差万別であろう。訊いて納得できるのか。……お前が、俺を理解できるのか?」


 厳しい言葉だった。雉は項垂れるしかなかった。

 幼い頃から戦場に身を置いて来たトグルと、平和な土地で育った自分はかけ離れている。『戦いをたのしんでいるのか』とさえ言った。あの時も、トグルはいかることなく応じてくれたが――毎度、非常に失礼なことを訊いているのかもしれない。



 トグルは、途方に暮れる雉から視線を外し、煙草を吹かした。黒馬ジュベが前脚で土を掻いているのを眺め、煙とともに呟いた。


「……戦うのは、平和が欲しいからだ」


 雉は面を上げた。トグルは虹色の雪峰を仰いでいる。口髭の下で、皓い牙が煙管キセルを噛んでいた。


「矛盾していると思うだろうが。飢えや憎しみや不安で、心に平和のない者が、それを求めて戦いを起す。結果は関係ない。勝っても敗けても、平和は訪れるからな。――今の俺達を観れば、解るだろう」


 陰鬱な声だった。こういう話をするのは、トグルにとっても己をえぐる作業なのは間違いない。


「殺すのは……。お前には、解らないかもしれないが、」

「…………!」


 鋭い悲鳴があがり、男達は一斉にふり向いた。神矢ジュベたちが騒いでいる。鼻を鳴らし土を掻き、棹立つ彼らの前に、一匹の蛇が鎌首をもたげていた。

 サートルとジョルメは、めいめい木の枝と石を拾いあげ、身構えた。

 トグルは懐から径路剣アキナケスを取り出すと、迷わずそれを投げつけた。蛇は頭部を串刺しにされ、烈しくのたうった。鹿毛コアイが頭を振り、葦毛ボルテがいななく。やがて蛇の動きがとまったので、馬たちは食事を再開した。


 雉は眼を瞠っていた。サートルは身構えをとき、ジョルメが主人の径路剣を回収した。

 トグルは昏い声で囁いた。


「殺せば、安心できるだろう……」

「……わかった」


 雉は溜息交じりに呟いて、ぞっとする冷たい感情を呑みこんだ。草原の男から目を逸らす。嫌な気分だったが、訊くのでなかったとは思わなかった。

 トグルの言葉は、一つの真実を言い当てている。嫌なもの、恐ろしいもの――都合の悪いものは『なくなってしまえ』という感情は、誰の内にも存在している。昂じれば『殺したい』という衝動に結びつく。

 雉には覚えがあった。『死にたい』という願いだ。


 生きているのが苦痛だから、不安だから……己を殺して安心したい気持ちが、彼のうちには存在していた。他人を殺して心の平穏を求める感情と、自死をもとめる感情は、同じところに根ざしている。理解できるように思った。――それは、トグルのうちに在るものとは異なるだろうが。

 同時に悟る。

 トグルは、ずっとその中で生きて来たのだ。


 谷を階段状にけずった畑で、麦の穂が揺れている。雉は、黄金の波の向こうに並ぶ家々をながめた。


「おれは今まで、故郷を追われたことは不幸なのだと思っていた。仲間を殺されて逃げなければならなかったことは」

「…………」

「だが、本当は好運だったんだな、トグル。おれ達には、逃げる場所があった」


 〈草原の民〉は、逃げられなかった。

 雉は返答を求めてふりむいたが、トグルは彼を見ていなかった。山々の頂きと天が接するところを眺める横顔は、わらっているように観えなくもなかった。





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