第四章 藁で作った狗(6)


            6


「不覚……」

「いきなり立ち上がるからだ、バカトグル。自分で貧血になる奴があるか」


 ここぞとばかりに浴びせられる雉の毒舌に耐えながら、トグルは溜息をついた。

 雉と鷲が《星の子》の忠告を忘れていたと知り、珍しく腹をたてたトグルは、立ち上がろうとして眩暈を起こしたのだ。すわやまいの再発か、鷲の離れた影響か――と雉は焦ったが、ルツは声をあげて笑いだした。

 結局、話し合いは中断した。その夜は、ルツとマナはラーダ(神官・オダの父)の家に宿泊し、トグルは鷲の家に留まることになった。


「詳しい話は、また明日ね」 ルツは部屋を去り際、謎めいた微笑とともに言い残した。


「心配しなくても、あなたはロウと再会できるわよ、ディオ。ミナスティア国で、ね……」



 天井に近いところに開けられた四角い窓から、紫の宵の空が覗いている。吹きこむ風は涼しく穏やかだ。

 トグルは、今は長衣デールを脱ぎ、柔らかな木綿の上着と脚衣ズボンを身につけている。革靴グトゥルも脱いで素足だ。意識はうしなわなかったものの立ち上がれなくなった彼を、サートルとジョルメが鷲の寝台に運んだのだ。雉は傍らの椅子に坐り、香草茶を飲んでいた。サートルとジョルメは、郊外の彼等の天幕へ戻っている。

 帽子を顔にのせる草原の男を、雉は苦笑いして眺めた。本営オルドゥからここまでは距離があり、高低差と気温差が大きい。雉と鷲の能力に支えられているとはいえ、平気なはずがない。それに、大過なく彼等を迎えられてラーダと雉はほっとしたが、トグルもかなり緊張していたのではなかろうか。


「……三十前になると、身体にこたえる」

「ぶっ!」


 小声でぼやいた言葉を聴き、雉は吹きだした。

 トグルは帽子で顔を隠している。おのれの失態に意気消沈しているようで、さらに雉の笑いを誘った。


「お前が、そんなことを言うとはな」


『黙れ。お前も、そのうち解る』とばかりに、トグルは雉をじろりとねめつけたが、何も言わずに目をおおった。

 雉はくつくつ笑いを噛みころしながら、この男の乏しい表情を以前より見分けられる自分に気づいた。さて、どちらが変わったのだろう。


「雉さん。トグル、大丈夫?」

「だいじょーぶ?」


 やわらかな声と無邪気な声。二つの響きに振り向くと、鷹がとびを連れて立っていた。雉は微笑み、トグルは帽子を持ち上げた。

 鷹は、手拭いとお茶と干し果を盆にのせて部屋に入ってきた。


「トグル、起き上がれそう?」


 トグルは返事の代わりに身を起すと、こちらを興味津々に見詰める幼女をみて眼を細めた。


「トビは大きくなったな……」


 鷹は胡坐を組む彼にお茶を手渡し、娘の頭を撫でた。


「ええ。来てくれて嬉しいわ、トグル」


 トグルは陶製の茶碗を口にはこび、うなずいた。彼に合わせた塩入りの乳茶スーチーだと気づき、緑柱石ベリルの双眸に優しい影が差す。

 『ほんとうに……』 精悍な横顔をながめ、鷹は思った。自由に動ける立場の人ではないのに、鷲とミナスティア国のためにこんな遠くまで来てくれた。その心根が嬉しい。


「トグル」


 また声をかけられて、トグルは視線を上げた。青と紅のギョクで長い黒髪を飾った娘が、部屋の入口から心配そうにこちらを見下ろしている。

 トグルは首を傾げ、隣の鷹が微笑んだので、かすかに皓い歯をのぞかせた。


「ハトも見違えた。ムスメになったな」

「…………!」


 途端に、鳩は耳たぶまで真っ赤になった。両手で頬をおおい、身を翻して壁の向こうへ消える。

 トグルは自嘲気味に呟いた。


「今日は髭を剃っていなかった」


 雉は苦笑した。とびの成長の速さは言うまでもなく、はとがもう無邪気に跳びついて来る年齢ではなくなったことを理解して、一抹の淋しさを覚えた。

 鷹は鳩の反応を微笑ましく眺めていたが、頬を引き締めた。トグルが再度お茶を口へ運ぶのを待って、小声で訊く。


「トグルは……族長をやめたいと思ったことは、ない?」

「…………?」


 トグルは動作を止め、怪訝そうに彼女を観た。鷹はやや思い詰めた風情で娘の頭を撫でている。幼児の絹糸に似た柔らかな髪がほつれているのを、しなやかな指で梳いていた。

 彼は静かに答えた。


「毎日、思っているが……。それがどうした?」

「え?」


 鷹は、ぱちんと瞬きをした。雉は興味をひかれて二人の顔を見比べた。


「やめたいのに……どうして続けているの?」

自由民アラドには関係ないからな」


 さらりと応える、トグル。鷹は眼と口をひらき、何事かを言おうとした。しかし、言葉を見つける前に、別の声が入って来た。


「族長」


 ルツとマナを家へ案内した後で、神官父子がもどって来たのだ。トグルは茶器を膝の傍らに置き、彼等に向きなおった。雉も居ずまいをただす。

 鷹は娘を抱きあげ、ラーダ達のために場所をあけた。

 ラーダは部屋に入ると、真っすぐトグルの前まで来て一礼した。


「失礼します。お身体は大丈夫ですか?」


 トグルが頷くのを見て、

「では、失礼ついでに申し上げます。どうか、出来るだけ早くこの地を離れて下さい」


 トグルは神官の顔を平静にみかえした。

 オダは父の衣の裾をかるく引いた。


父さんアーマ……」

「残念ながら、ここにいるのは私達に賛同する者だけではありません。私達の意見を容れず、貴方を傷つけようとする者がいるでしょう。貴方の身に何か起これば、この地は再び戦場となります……。どうか両国の為に、この地を離れて下さい」


 ラーダは息子の声にかまわず、悲しげに告げた。鷹が息を呑む。鳶は母の腕のなかで大人達のやりとりを面白そうに聞いていた。

 オダは、トグルが街に入るのを躊躇していた理由を理解した。平和になったとはいえ――緩衝地の協定を結んだとはいえ、互いに持ちつづけてきた敵意と憎悪が、一朝一夕に消え去るはずがない。民心を刺激するのを避けたかったのだろう。


承知したラー……。御配慮に感謝する」


 トグルが言うと、ラーダは丁寧に頭を下げた。父の後ろで、オダは苦い想いを噛みしめている。鳩は戸口から顔だけを覗かせた。

 ラーダは頭を下げたまま、抱えていたトグルの剣を恭しくさしだした。

 トグルは、神官の息子に似た頭頂の毛の流れを無表情に眺めていたが、そっと嘆息した。


「お分かりと思うが、それは『形式』だ。俺達は、その気になれば素手でもここの住人を害せる」

「…………」

「貴方がたにとって、我々は未だ『ならず者』に過ぎない。御心遣いには感謝するが、民の『安心のために』今はとっておかれよ。……去るときに、返して下さればよい」


 トグルは神官に横顔を向け、淡々と囁いた。

 ラーダは剣を捧げ、辞を低くして彼の言葉を聴いていたが、改めて深く一礼した。


「感謝します。貴方をこの地へ導いた、ウィシュヌ神(慈悲と平和の神)の幻力マーヤーに」


 トグルはちょっと戸惑ったが、頷いた。

 ラーダは彼の剣をたいせつに抱えて下がって行った。トグルは彼を見送ると、もう一度嘆息した。


 『鷲さんは、ああ言ったけれど……やっぱりトグルはつよいわ』 鷹は改めて考えた。そして、身重でありながらトグルを送り出した、これは隼のつよさでもあるのだと。


 沈黙が部屋を包んだ。

 寝台の上に胡坐を組んだトグルを囲む形で――雉、鷹、オダは、それぞれ物思いに耽っていた。幼子は母の胸で、鳩は部屋の入口から、経緯をうかがっている。

 やがて、雉がほっと息をついて微笑んだ。


「懐かしいな。これで鷲と隼がいれば完璧なんだけど……。あんな奴でも、いないと寂しいんだよなあ、まったく」


 トグルはフッと苦笑し、鷹とオダは頬を綻ばせた。とびは眠たげに眼をこすった。


「ふぁーま(母さん)?」

「積もる話は、明日にしようか」


 雉は腰を上げ、トグルを促した。


「お前は休んだ方がいい。おれも、疲れたから休むよ」

「おやすみなさい、トグル」


 鷹は娘を抱いて立ち上がった。トグルは雉の気遣いを理解してうなずいた。

 鳩は、足音を忍ばせてその場を離れた。



               *



 一人残された部屋で、トグルは音をたてずに長い息を吐いた。知らず知らずのうちに張り詰めていた気持ちをゆるめる。

 ――死を覚悟したのは、一度や二度ではなかった。

 敵の刃、母の狂気、異民族の女達。少年の怒り、民の不安、憎しみ、裏切り、病……。いつ、どこから与えられても不思議はなかった。その度に生き残ってきた。

 今の自分の生命は、鷲と雉に支えられている。死は死で、生は生であるのなら、そこに意味を探すのは虚しかった。


 トグルは眼を閉じ、ゆっくり首を横に振った。神官の言葉がよみがえる。


『貴方は、確かに多くの者を殺した。だが、それを終らせても下さった。……王よ、我われの敵は、我われ自身ではないでしょうか』


 彼は義務を果たそうとしただけだ。民族を残すという義務を。

 トグルに出来たのは、せいぜい己を変える努力をすることだけだった。奔馬のごとく手を焼くものを、周囲の手を借りつつ、懸命に捻じ伏せて来たのだ。


『トグルは……族長をやめたいと思ったことは、ない?』


 レイの問いはミナスティアと〈草原の民〉の国政の違いに由来する。生まれながら身分を固定されたかの国の王族と、氏族制は異なっている。

 族長がやめたいと願っていても、草原の自由民アラドには無関係だ。内奥うちにどんな葛藤を抱えていても、民に対する責任を果たしていれば構わない。逆に、どんなに真摯に臨んでも、仕事に支障を来たす者は族長として認められない。長老会は容赦せず、名をうばい追放するだろう。

 彼自身が生きる為に、続けてきたのだ。


 トグルは自分の膝に載せた両掌を眺めた

 殺されるなら、敵の兵士か氏族の者に……。キイ帝国の大公や皇帝ではなく、ニーナイ国の民衆に、と願っていたのだ。最も弱く偉大な民に。

 ジョク(先代のシルカス族長)のように生きる機会すら与えられなかった者達、この手で殺した者達のことを想うと、『お前にその価値はない』と言われているようだった。

 無論、死にたいわけではない。やりたいこと、やらねばならないことは沢山ある。しかし――。


 ……生きる為に、数え切れない生命を奪ってきた。女達を陵辱りょうじょくし、母を狂気に陥れ、盟約を破棄し、敵をあざむいた。友の好意と能力を利用し、天さえかたり、冒涜ぼうとくした。

 そこに高邁こうまいな理想や良心など、欠片もなかった。

 もはや、地獄エルリックの門さえ自分には閉ざされたのかと思われる。

 与えられた生命で、死を望む権利はない。裁かれる資格はない。復讐される価値もない。

 ただ、生き続けろと――。


「…………」

 終わりの無いどうどうめぐりを始めた思考をあきらめ、トグルは窓ごしに天を仰いだ。

 紺碧の夜空に、銀の星が瞬いている。透明な輝きは、隼の微笑にかさなった。


 ――逢いたかった。





~第五章へ~

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