第四章 藁で作った狗(5)
*多少の流血の描写があります。
5
タサム山脈の峠をこえると、日差しはそうと判るほど暖かくなった。
草原からは遙か遠くに望んでいた〈
「岩塩だ。ナカツイ王国や草原に運んで行く」
トグルは髭が伸び、黒髪には砂が降りかかっていた。彼の後に
毛皮の帽子と革の
オダは澄んだ空気をふかく吸い込んだ。喉から肺へながれた冷たい風が、手足の隅々に満ちる。
南向きの斜面に夏草が生えている。紫の
淡い霧と化した雲が視界をよこぎると、岩壁を削って造られた下りの道が現れた。蒼い水をたたえた湖と日干し煉瓦の家々が、盆地の奥に並んでいる。シェルの城下街だ。
隊商の男達が歓声をあげた。目的地を前に、彼等の歩みは力を増した。
太陽が西へ傾いた頃、オダ達はシェル城下にたどり着いた。
噂を聞きつけたニーナイ国の人々が、街の入り口に集まっていた。隊商の長は街の代表者と挨拶を交わし、郊外に宿営する許可を得た。隊長は、ここまで護衛してくれた草原の男達に礼を述べ、彼等の任を解いた。トグル達は役目を果たして安堵した様子で、少し離れたところに集まり、野営の支度を始めた。
「あの、トグル、さん」
オダが妙な敬称をつけたので、トグルは火を
オダは、隊商の
「行かないのですか? 鷲さんの家へ」
トグルは武装した部下たちを見遣り、単調に答えた。
「『送る』という約束だ。街に入る許可は得ていない」
「そんな、」
国境の緩衝地としてこの地の平和を約束してくれたのは、他ならぬトグルではないか。交易の自由も。――『水くさいことを仰らないで下さい』と言いかけて、オダは気づいた。『水くさい』という言葉の意味を、彼は知っているのだろうか?
ここは自分が気を利かせるべきだったと思い、オダは頬を赤らめた。
「報せて来ますので、どうぞお待ちください」
そう言うと、トグルが止める間もあらばこそ、いそいそと駆けて行った。トグルは、水汲みから帰って来たジョルメと顔を見合わせ、困惑気味に眉根を寄せた。
きっと、みんな驚くぞ――と思いながら鷲の家に駆けこんだオダは、眼をまるくして立ち止まった。居間で我が家のごとく寛いでいる《星の子》に、遭遇したからだ。
マナとラーダ(神官・オダの父)を後ろに従え、鷹と
「おかえりなさい、オダ。全員、無事に到着したようね」
「えっ? わっ、ええ……ルツさん?」
「オダ!」
挨拶もそこそこに、鳩はオダの両腕を掴み、がくがくと揺さぶった。
「トグルが来てくれたって、本当? どこっ?」
「ええと……街の外に。他の人と、一緒に」
「ばかっ! どーしてすぐに来てもらわないのよっ!」
鳩は噛みつかんばかりに叫ぶと、表へ出た。きょろきょろと辺りを見回し、すぐに東を目指して駆けて行く。
ラーダは、呆気にとられている息子の肩を叩いた。
「私も行って来よう」
「オダ、おかえりなさい。疲れたでしょう」
鷹がようやくねぎらいの言葉をかけてくれ、汗を拭くための手拭いと
「ありがとう、鷹……。どうして《星の子》が?」
鷹の代わりに、雉が答えた。
「鷲がミナスティア国へ行ってしまったからね。マナが報せてくれたんだ」
「あら。ディオ(トグルの本名)の到着に間に合うよう、急いで降りて来たのよ」
にこにこと微笑むルツの後ろで、マナは居心地悪そうに苦笑している。この上なく美しいが、この上なく不吉なようにも感じられて、オダは何とも言えなかった。――それは、トグルにとってもそうだったらしい。
トグルは若長老ジョルメとセム・サートルを連れ、ラーダと鳩の案内でやってきた。武器をラーダに預けたトグルは、《星の子》のすがたを観ると不審げに眉をひそめた。礼を忘れず、帽子を脱いで挨拶する。
鷹は涙ぐんで彼を迎えた。トグルは彼女を安心させるように頷くと、単刀直入に訊ねた。
「ワシは帰っているか?」
「まだよ……。ミナスティアに着いたかどうか」
トグルは
トグルは胡乱げな眼差しをルツにあてた。
「
「ご挨拶ね、ディオ。私は何もしていないわよ。
トグルは眉間に皺を刻み、おし黙った。眼尻のつり上がった碧眼がするどさを増す。
オダは、ごくりと唾を呑んだ。
ルツは動じることなく、壁際のセム・サートルに声をかけた。
「あなたも来てくれて嬉しいわ、サートル。お父さんは、お元気?」
「は。最近は、だいぶ弱って参りました」
サートルは簡潔にこたえ、薄い唇をむすんだ。彼もこの状況に当惑しているのだ。
ルツはふふっと哂い、黒曜石の瞳を悪戯っぽく煌めかせた。
「会いたいわ。来て頂戴、というのは無理でしょうから、私が行こうかしら」
セム兄弟の父親は
雉はぎこちなさの残る口調でトグルに話し掛けた。
「元気そうで良かった。隼は順調か?」
「……ああ」
己の考えに沈んでいたトグルは、少し意外そうに瞬きをした。
ルツがさらりと言う。
「赤ちゃんが産まれたら、見せて頂戴ね」
「
ぼそぼそと答えるトグル。無愛想は《星の子》の前でも変わらないが、産まれてくる我が子の話になると目つきの鋭さが和らぐのが、オダには判った。
雉は椅子に坐り直し、
「それで……トグルが来たのは、やはりミナスティア国のことでかい?」
オダに問う。トグルが自分から話し出すはずはないと思い至り、オダは頷いた。
「はい」
「生憎、鷲からの連絡はないんだよ」
雉は肩をすくめた。鷹は膝の上に娘を坐らせ、不安げに眉を曇らせている。ルツは両手にお茶の入った器を持ち、満足そうに湯気を頬に当てている。
トグルは胸の前で腕を組み、長い脚を組むと、その姿勢のまま雉を見た。相変わらず目の醒めるような緑の瞳だと、雉は思った。
「ひとの生き方に口出ししたくはないが……。
低い声には呆れた響きが含まれていた。呆れ、半ば諦めている。
雉はオダと顔を見合わせ、互いに似た表情をみいだした。
「あいつの場合、他人事だと思っていないからなあ……」
「軽率だ」
ひとことで、トグルは斬り捨てた。小気味よいほどバッサリと。
「善意であればよいというものではなかろう。俺の場合は特別だ。奴のやり方がどこでも通用するわけではない」
『もっともだ』と、オダは思った。ただし、それをはっきり言えるのはトグルだけだろう、とも。
ルツは瞼を伏せ、お茶に唇を浸した。話に関心があるのかないのか、玲瓏とした美貌からは読み取れない。
雉は肩をすくめる仕草を繰り返した。
「お前はどうするんだ?」
「ミナスティア国へ行く。ワシを連れ戻す」
ぼそりと言う。トグルの答えは常に簡潔だ。
「連れ戻すって……。お前がか?」
雉の口がぽかんと開け放たれた。頻りにルツを顧みる。〈
トグルは雉の反応にうんざりして唇を歪めた。低い声が凄みを帯びる。
「……まさか、忘れたわけではなかろうな」
そう言うと組んでいた腕をほどき、卓上に左手をのせた。もう一方の手を懐に入れ、そこで
銀色の光が一同の視界に閃き、どすっという音と共にトグルの左手に叩きつけられた。弾みで茶器と菓子が音をたてて跳ねたが、誰も文句は言わなかった。
鳩が両手で口をおおい、鷹は娘の頭を抱き寄せた。
トグルの左手には、鉄製の
オダは眼を瞠り、雉は息を呑んだ。壁際のジョルメとサートルが、さっと緊張する。マナとラーダは痛まし気に面を曇らせた。
ルツはお茶を飲む動作を止めたが、表情は変えなかった。
己の手を釘刺しにしたトグルは、一瞬顔をしかめたのち、ゆっくり剣を抜き取った。腱が浮きでた手の甲に菱形の孔が残る。みるみる赤い液体が流れ出し、机に円を描いた。まろやかなお茶の芳香を生々しいにおいが打ち消した。
トグルは血のしたたる手を持ちあげ、裏返した。掌を上に向け、貫通した孔を眺める。やがて、出血が止まった。桃色の皮膚が盛りあがり、端から傷口を塞いでいく。明けの明星のように澄んだ光を発して、傷痕が消える。
トグルは関節のめだつ長い指を順に折り曲げ、動きに支障のないことを確かめた。手の甲にも傷はない。
ルツは一連の現象を見届けると、何事もなかったように器に唇をつけた。
雉は凝然と眼をみひらいて、トグルの手を
――病に冒されて死にかけていたトグルを救ったのは、鷲と雉だ。二人の能力を和して、彼の生命を支えている。
今のトグルは、斬れども斬れず突けども突けない《星の子》同然の身体となっている。鷲か雉が死ねば、トグルも死ぬことになる……。
トグルは正面から雉を見据えた。
「お前達は、俺の生命を握っている。今死なれては、俺が困る」
自分達がしたことの結果を目の当たりにした雉は、蒼白になっていた。わたわたと口籠る。
「えっ? まあ、そうなんだけど……って、お前、そんな風だったっけ?」
「とぼけるな」
トグルの仮面のような表情は変わらないが、双眸に宿る殺気が
「源はワシの能力だが、再生の術をかけているのはお前だ」
「いや、でも、こんなはずは……。ああ?」
雉がトグルと《星の子》を交互に指さしたので、トグルはぎりりと奥歯を噛み鳴らした。
「……忘れているではないか!」
「ごめん。って、おれじゃない! 問題は鷲だ。あいつは絶対に忘れている!」
「止めなかったのか?」
「おれが留守のうちに行ったんだよ……。止めても行ったんじゃないか、
「…………!」
トグルがこれほど感情を露わにするのは珍しい、とオダは思った。雉の態度に
「トグル!」
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