第四章 藁で作った狗(5)

*多少の流血の描写があります。



            5


 タサム山脈の峠をこえると、日差しはそうと判るほど暖かくなった。

 草原からは遙か遠くに望んでいた〈黒の山マハ・カイラス〉が、近づいていた。濃い青空に、斜めにかしいだ地層と雪をかぶった稜線が浮かびあがる。見晴らしはよいが、遮るもののない強風にあおられ、時折転倒しそうになる。

 隊商カールヴァーンはこれまで殆ど人のいない道を歩いて来た。今では、高地から下ってくる人々と頻繁にすれ違うようになった。毛長牛ヤクの毛織りの長衣チャパンをまとい、紅い髪をギョクで飾ったキイ帝国の人々だ。数珠を手繰り、聖言を唱えながら歩くニーナイ国の巡礼者もいる。隊商の男達は、彼等に出会うと脇に寄って道をゆずった。オダとトグル達もそれに倣う。

 驢馬ロバの背に大きな荷を載せた商人とすれ違う。かつては見られなかった光景だ。立ち止まって見送るオダに、トグルがぼそりと説明した。


「岩塩だ。ナカツイ王国や草原に運んで行く」


 トグルは髭が伸び、黒髪には砂が降りかかっていた。彼の後に黒馬ジュベ鹿毛コアイが従い、サートルとジョルメが続いた。

 毛皮の帽子と革の長靴グトゥル、黒い外套と長衣デール、黄金の柄飾りのついた長剣――典型的な〈草原の民〉の装束だ。旅人は彼等に気づくとみな一様に頬をこわばらせたが、トグル達は頓着とんちゃくしなかった。


 オダは澄んだ空気をふかく吸い込んだ。喉から肺へながれた冷たい風が、手足の隅々に満ちる。

 南向きの斜面に夏草が生えている。紫の竜胆リンドウ、仔羊の毛のような綿帽子をかぶった唐飛廉トウヒレン金鳳花キンポウゲ耳菜草ミミナグサの可憐な花が咲きほこる根元を、透明な雪融け水がかろやかな音をたてて流れている。

 淡い霧と化した雲が視界をよこぎると、岩壁を削って造られた下りの道が現れた。蒼い水をたたえた湖と日干し煉瓦の家々が、盆地の奥に並んでいる。シェルの城下街だ。

 隊商の男達が歓声をあげた。目的地を前に、彼等の歩みは力を増した。




 太陽が西へ傾いた頃、オダ達はシェル城下にたどり着いた。

 噂を聞きつけたニーナイ国の人々が、街の入り口に集まっていた。隊商の長は街の代表者と挨拶を交わし、郊外に宿営する許可を得た。隊長は、ここまで護衛してくれた草原の男達に礼を述べ、彼等の任を解いた。トグル達は役目を果たして安堵した様子で、少し離れたところに集まり、野営の支度を始めた。


「あの、トグル、さん」


 オダが妙な敬称をつけたので、トグルは火をおこす手を止め、怪訝そうに彼を見た。ジョルメとセム・サートルは湖へ水汲みに行き、他の男達は簡易の天幕を張っている。

 オダは、隊商の駱駝ラクダの群れと日干し煉瓦の城壁を交互に眺めた。


「行かないのですか? 鷲さんの家へ」


 トグルは武装した部下たちを見遣り、単調に答えた。


「『送る』という約束だ。街に入る許可は得ていない」

「そんな、」


 国境の緩衝地としてこの地の平和を約束してくれたのは、他ならぬトグルではないか。交易の自由も。――『水くさいことを仰らないで下さい』と言いかけて、オダは気づいた。『水くさい』という言葉の意味を、彼は知っているのだろうか?

 ここは自分が気を利かせるべきだったと思い、オダは頬を赤らめた。


「報せて来ますので、どうぞお待ちください」


 そう言うと、トグルが止める間もあらばこそ、いそいそと駆けて行った。トグルは、水汲みから帰って来たジョルメと顔を見合わせ、困惑気味に眉根を寄せた。



 きっと、みんな驚くぞ――と思いながら鷲の家に駆けこんだオダは、眼をまるくして立ち止まった。居間で我が家のごとく寛いでいる《星の子》に、遭遇したからだ。

 マナとラーダ(神官・オダの父)を後ろに従え、鷹ととびと鳩、雉とともにお茶を飲んでいたルツは、オダを観ると優雅に微笑んだ。


「おかえりなさい、オダ。全員、無事に到着したようね」

「えっ? わっ、ええ……ルツさん?」


「オダ!」

 挨拶もそこそこに、鳩はオダの両腕を掴み、がくがくと揺さぶった。


「トグルが来てくれたって、本当? どこっ?」

「ええと……街の外に。他の人と、一緒に」

「ばかっ! どーしてすぐに来てもらわないのよっ!」


 鳩は噛みつかんばかりに叫ぶと、表へ出た。きょろきょろと辺りを見回し、すぐに東を目指して駆けて行く。

 ラーダは、呆気にとられている息子の肩を叩いた。


「私も行って来よう」

「オダ、おかえりなさい。疲れたでしょう」


 鷹がようやくねぎらいの言葉をかけてくれ、汗を拭くための手拭いと乳茶チャイを出してくれた。オダは礼を言って顔を拭いた。

「ありがとう、鷹……。どうして《星の子》が?」


 鷹の代わりに、雉が答えた。


「鷲がミナスティア国へ行ってしまったからね。マナが報せてくれたんだ」

「あら。ディオ(トグルの本名)の到着に間に合うよう、急いで降りて来たのよ」


 にこにこと微笑むルツの後ろで、マナは居心地悪そうに苦笑している。この上なく美しいが、この上なく不吉なようにも感じられて、オダは何とも言えなかった。――それは、トグルにとってもそうだったらしい。


 トグルは若長老ジョルメとセム・サートルを連れ、ラーダと鳩の案内でやってきた。武器をラーダに預けたトグルは、《星の子》のすがたを観ると不審げに眉をひそめた。礼を忘れず、帽子を脱いで挨拶する。

 鷹は涙ぐんで彼を迎えた。トグルは彼女を安心させるように頷くと、単刀直入に訊ねた。


「ワシは帰っているか?」

「まだよ……。ミナスティアに着いたかどうか」


 トグルはかぶりを振って勧められた椅子に腰を下ろした。ジョルメとサートルはあるじと同席することを遠慮し、壁際に控える。大柄な鷲に合わせた居間は近隣の家より広く造られているのだが、多人数が入ると流石にせまく感じられた。

 トグルは胡乱げな眼差しをルツにあてた。


お久しぶりですセンバイノー、《星の子》……。貴女がいらっしゃると、この騒動も仕組まれたものかと疑いたくなります」

「ご挨拶ね、ディオ。私は何もしていないわよ。ロウがとび出して行ってくれたお陰で、あなたを呼びだす手間が省けてよかった、とは思っているけれど」


 トグルは眉間に皺を刻み、おし黙った。眼尻のつり上がった碧眼がするどさを増す。

 オダは、ごくりと唾を呑んだ。

 ルツは動じることなく、壁際のセム・サートルに声をかけた。


「あなたも来てくれて嬉しいわ、サートル。お父さんは、お元気?」

「は。最近は、だいぶ弱って参りました」


 サートルは簡潔にこたえ、薄い唇をむすんだ。彼もこの状況に当惑しているのだ。

 ルツはふふっと哂い、黒曜石の瞳を悪戯っぽく煌めかせた。


「会いたいわ。来て頂戴、というのは無理でしょうから、私が行こうかしら」


 セム兄弟の父親はよわい七十を超えている。不老のルツはそれを知っていて提案したのだが、サートルは恐縮するばかりだった。

 雉はぎこちなさの残る口調でトグルに話し掛けた。


「元気そうで良かった。隼は順調か?」

「……ああ」


 己の考えに沈んでいたトグルは、少し意外そうに瞬きをした。

 ルツがさらりと言う。


「赤ちゃんが産まれたら、見せて頂戴ね」

御意ラー


 ぼそぼそと答えるトグル。無愛想は《星の子》の前でも変わらないが、産まれてくる我が子の話になると目つきの鋭さが和らぐのが、オダには判った。

 雉は椅子に坐り直し、乳茶チャイを一口飲んで続けた。


「それで……トグルが来たのは、やはりミナスティア国のことでかい?」


 オダに問う。トグルが自分から話し出すはずはないと思い至り、オダは頷いた。


「はい」

「生憎、鷲からの連絡はないんだよ」


 雉は肩をすくめた。鷹は膝の上に娘を坐らせ、不安げに眉を曇らせている。ルツは両手にお茶の入った器を持ち、満足そうに湯気を頬に当てている。

 トグルは胸の前で腕を組み、長い脚を組むと、その姿勢のまま雉を見た。相変わらず目の醒めるような緑の瞳だと、雉は思った。


「ひとの生き方に口出ししたくはないが……。あの男ワシ他人事ひとごとに首を突っこむ習癖は、どうにかならぬのか」


 低い声には呆れた響きが含まれていた。呆れ、半ば諦めている。

 雉はオダと顔を見合わせ、互いに似た表情をみいだした。


「あいつの場合、他人事だと思っていないからなあ……」

「軽率だ」


 ひとことで、トグルは斬り捨てた。小気味よいほどバッサリと。


「善意であればよいというものではなかろう。俺の場合は特別だ。奴のやり方がどこでも通用するわけではない」


『もっともだ』と、オダは思った。ただし、それをはっきり言えるのはトグルだけだろう、とも。

 ルツは瞼を伏せ、お茶に唇を浸した。話に関心があるのかないのか、玲瓏とした美貌からは読み取れない。

 雉は肩をすくめる仕草を繰り返した。


「お前はどうするんだ?」

「ミナスティア国へ行く。ワシを連れ戻す」


 ぼそりと言う。トグルの答えは常に簡潔だ。


「連れ戻すって……。お前がか?」


 雉の口がぽかんと開け放たれた。頻りにルツを顧みる。〈黒の山カーラ〉の巫女は平然としていたが、うすく瞼を持ち上げてトグルをみた。

 トグルは雉の反応にうんざりして唇を歪めた。低い声が凄みを帯びる。


「……まさか、忘れたわけではなかろうな」


 そう言うと組んでいた腕をほどき、卓上に左手をのせた。もう一方の手を懐に入れ、そこでとびがいることを思い出す。ちらりと鷹を見遣り、幼女が母の胸に顔を埋めているのを確かめると、懐から何かを取り出した。無言でそれを振り上げる。

 銀色の光が一同の視界に閃き、どすっという音と共にトグルの左手に叩きつけられた。弾みで茶器と菓子が音をたてて跳ねたが、誰も文句は言わなかった。

 鳩が両手で口をおおい、鷹は娘の頭を抱き寄せた。

 トグルの左手には、鉄製の径路剣アキナケスが垂直に刺さっていた。

 オダは眼を瞠り、雉は息を呑んだ。壁際のジョルメとサートルが、さっと緊張する。マナとラーダは痛まし気に面を曇らせた。

 ルツはお茶を飲む動作を止めたが、表情は変えなかった。


 己の手を釘刺しにしたトグルは、一瞬顔をしかめたのち、ゆっくり剣を抜き取った。腱が浮きでた手の甲に菱形の孔が残る。みるみる赤い液体が流れ出し、机に円を描いた。まろやかなお茶の芳香を生々しいにおいが打ち消した。

 トグルは血のしたたる手を持ちあげ、裏返した。掌を上に向け、貫通した孔を眺める。やがて、出血が止まった。桃色の皮膚が盛りあがり、端から傷口を塞いでいく。明けの明星のように澄んだ光を発して、傷痕が消える。

 トグルは関節のめだつ長い指を順に折り曲げ、動きに支障のないことを確かめた。手の甲にも傷はない。


 ルツは一連の現象を見届けると、何事もなかったように器に唇をつけた。

 雉は凝然と眼をみひらいて、トグルの手を凝視みつめている。オダも、ようやく事情を理解した。

 ――病に冒されて死にかけていたトグルを救ったのは、鷲と雉だ。二人の能力を和して、彼の生命を支えている。

 今のトグルは、斬れども斬れず突けども突けない《星の子》同然の身体となっている。鷲か雉が死ねば、トグルも死ぬことになる……。


 トグルは正面から雉を見据えた。


「お前達は、俺の生命を握っている。今死なれては、俺が困る」


 自分達がしたことの結果を目の当たりにした雉は、蒼白になっていた。と口籠る。


「えっ? まあ、そうなんだけど……って、お前、そんな風だったっけ?」

「とぼけるな」


 トグルの仮面のような表情は変わらないが、双眸に宿る殺気がつよくなった。


「源はワシの能力だが、再生の術をかけているのはお前だ」

「いや、でも、こんなはずは……。ああ?」


 雉がトグルと《星の子》を交互に指さしたので、トグルはぎりりと奥歯を噛み鳴らした。


「……忘れているではないか!」

「ごめん。って、おれじゃない! 問題は鷲だ。あいつは絶対に忘れている!」

「止めなかったのか?」

「おれが留守のうちに行ったんだよ……。止めても行ったんじゃないか、あいつのことだから」

「…………!」


 トグルがこれほど感情を露わにするのは珍しい、とオダは思った。雉の態度に忿いかり、鷲の無責任さに苛立ち、文句を言おうと立ち上がった長身が、ぐらりとかしいだ。呆然とこの遣り取りを観ていた一同は、一斉に慌てた。


「トグル!」





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