第三章 熱砂の果て(6)


            6


 日干し煉瓦の壁で四角く区切られた庭の中央にたたずみ、鷹は、からっぽの空を仰いだ。

 鳩ととびと鷹の三人分なので、洗濯物の量は多くない。しかし、一枚ずつひろげる度に手をとめて考えこむので、ひるちかくになっても作業は終わっていない。そんな彼女を尻目に、子どもたちは庭の片隅で遊んでいた。

 鷹は、手にした娘の服をながめて嘆息した。もう、何度目の溜息かわからない。オダと鷲が旅立ってから、家は急にひろくなった。『火が消えた』とは、このことを言うのだろう。――鷹にとって。

 父が行った際にあれほど泣き叫んだ鳶は、ひと眠りするとケロリとして、普段と変わらない笑顔を見せた。食欲が落ちることもなく、毎日、無邪気に遊んでいる。幼児のきりかえの早さが鷹には羨ましく、憎らしく感じられた。まるで、最初から父親などいなかったようだ。

 いや、違う。

 壁から壁へわたした物干し用の紐に服をかけ、鷹は再度ため息をついた。――鳶だって、寂しいに決まっている。彼女なりに周囲の大人たちに気を遣っているのだ。心配してくれている友達と、母親に……。

 『どうしてこうなのだろう、わたしは』 鷹は、おのれが情けなくなって項垂れた。


 おもえば幼い頃からシジンに頼り、彼の意見に従ってきた。故郷を棄てたときも……人生を左右する重大な決定を他人にまかせ、招いた結果を受け容れられず、『もう一人の自分』に押しつけた。

 鷲に出会ったのちも過去と向き合うことを恐れ、問題を解決する為にみずから行動を起したことはなかった。素直だったからでも、従順だったからでもない。

 その方が、楽だったからだ。

 自分を大切にしてくれる人になら、裏切られることはない。全てを他人に任せておけば、責任を負わなくて済む……。しかし、たとえ夫婦や家族でも、他者の分まで人生を背負える者はいない。運命は自分できりひらかなければならないのに、好意に甘え、逃げ続けた。

 今でさえ。

 『お前の責任は、今の俺の責任』 そう言って、鷲は出掛けた。彼が背負う必要はないのに。

 何故、止めなかったのだろう。


 ――ぎしり。胸が軋む。

 鷹は、御柳タマリスクの樹皮で編まれた洗濯かごを抱きかかえた。胸が割れそうに痛い。捨てたはずの過去、手放したはずの人生に、未だに束縛されている。

 王女の責任を放棄しなければ、《鷹》になることはなく、鷲に出会うこともなかった。今の暮らしはなく、鳶も生まれていない。けれども、彼女レイを守るためにシジンは片腕を切断され、テス=ナアヤは殺されて、故国は内乱に陥ったのだ。

 ぐるぐると因果は巡る。シジンを想い、鷲を想い、娘を想う。結局はおのれひとりの問題なのだと、彼女は気づいていた。

 今さらミナスティア国には帰れない。王女には戻れない。戦火の中へ鳶を連れて行けない。シジンを忘れられない。犯した罪をなかったことには出来ない……。

 『ない』・『ない』と言い続けている。本音は、変わることを望んでいるのだ。自分は一切変わらずに、状況が変化してくれることを。誰かが変えてくれることを。

 鷲は、そんな彼女の気持ちを理解していた。だから、旅立ったのだ。

 ぎしり――。


 息苦しくなって、鷹は喘いだ。片手で喉元を押さえる。何という我が儘……何という傲慢だろう。

 力がないなら、何もしなくていいのか。『出来ない』と勝手に限界を定めたのも、逃げることを『選んだ』のも、己ではないのか。物事が思い通りにならなかったと、泣きごとを言う資格などない。

 幼児とびですら自分の気持ちは自分で支えているのに、己の心の問題さえ、ひとりで解決できないのか。現在のために過去を放棄して顧みず、恨まれる覚悟すら抱けないとは……。誰が責めているわけでも、誰の所為でもない、我と我が身のことなのに。

 そんなに自分がかわいいのか。我が子より、かけがえのない人より。


 鷹は眼をかたく閉じ、苦痛に耐えなければならなかった。息をころし、胸がひび割れる痛みをやり過ごす。瞼の裏が熱く、涙があふれそうだった。

 こんなことを考えていては駄目だ。やらなければならないことがある。目の前のこと一つ、役割一つ果たせないでいて、どうするのだ。

 それでも、祈らずにいられない。

『鷲さん、ごめんなさい……』



            *



 オダと鷲が発って三日後、雉とマナが、薬草を大量に採集して帰って来た。仲間の家に立ち寄った雉は、鳩から話をきいて眼を瞠った。


「え? 鷲がミナスティア国へ?」


 鳩は慍然うんぜんとうなずき、庭にいる鷹を目で示した。日向ではとびが、友達のキノとロンティ、エイルとともに遊んでいる。

 ミトラの淹れてくれた乳茶チャイを口へ運び、雉はマナと顔を見合わせた。マナも柳眉をくもらせている。


「トグリーニ族はともかく……。鷲のやつ、ミナスティア国へ行ってどうするんだ? 内乱で、熱病が流行っているんだろ?」

「直接、調べてくる。なんて言ってたわ」


 鳩は肩をすくめ、雉は呆れ声になった。


「えー、せっかちな奴だなあ。ひとりで行くことないだろう。トグルの返事を待つか、ルツに相談してからでも、良かったろうに」


 マナは神妙に肯いた。今の雉と鷲は能力ちからを自由に使えないが、マナなら《星の子》に念話で報せることも、遠距離を『跳んで』伝えることも可能だ。

 鳩はかるく唇を尖らせた。


「シジンさんを捜すつもりみたい」

「シジンを? アテがあるのか?」

「知らないわよ。とにかく、鷲お兄ちゃんが行ってから、ずっとあんな調子なの」


 鳩は眉間に皺をよせ、大袈裟に嘆息した。それで雉も口を噤み、同情のまなざしを鷹へと向けた。


 このところ、鷹はすっかりしずんでいた。心ここにあらずといった風情で何をするにも時間がかかり、中途半端に終わっている。一緒に刺繍をつくっているミトラが、心配して様子をみに来てくれたのだ。

 ミトラは、砂の山を築いて笑声をあげている子ども達から鷹の背へ視線を移し、かぶりを振った。


「あんなに落ち込んでいる鷹さんを観るのは、初めてです。テュメンが力をかして下さればいいのですが……」

「いくらトグルでも、ミナスティア国は遠すぎるよ」


 雉は小声で応えた。八年間をトグリーニ族のもとで過ごしてきたミトラにとって、トグルは今でも王だ。

 それに――雉は考えた。――たしかトグリーニ達〈ふるき民〉は、エルゾ山脈の南へは行けないはずだ。適応していないとか何とか、ルツは言っていた。ここは、近隣のニーナイ国とナカツイ王国が、ミナスティア国を援助するべきだろう。

 鷹の落ち込みように関しては、雉も同意見だった。レイの記憶が戻り、〈黒の山〉で鷲に置き去りにされたときも、ここまで沈んではいなかった(もっとも、当時のレイは鷲のことを憶えていなかった)。シジンと鷲の両方を失いかねない状況だからか……。


『あれ? おれ、何か忘れている?』


 雉は瞬きをくりかえした。今、思考の片隅をちくりと刺すものがあったのだが、捉える前に煙の如く消えてしまった。首を傾げて思考をさかのぼるが、思い出せない。まあ大したことではないだろう。

 マナは、長い黒髪を揺らして雉と鳩をかえりみた。


「私、ルツに報せてきましょう。ナカツイ王国が国境を封鎖するという連絡はずいぶん前にあったけれど、鷲が向かったのは予想外だわ」

「お願いできるかい? 戻ったばかりで、悪いけど」

「帰るついでだから、大丈夫よ。鷹を労わってあげて」


 マナはにこりと微笑むと、薬草を入れた布袋を背負い、そのまま戸口へと歩き出した。後ろ姿が陽射しに融け、ゆらぎ、瞬く間に消える――。

 ミトラは驚いて眼をまるくしたが、雉と鳩は慣れているので動じなかった。この地から〈黒の山〉までは、マナが『跳ん』でも片道で三日以上かかる。

 戸口から庭へ目を遣った鳩は、鷹が立ちつくしている様をみて、息を吐いた。



 鷹は、空になった籠を抱いて項垂れている。あまりに永い間そうしているので、鳩は彼女に近づき、思い切って声をかけた。


「お姉ちゃん、大丈夫?」


 鷹は、はっと振り向いた。みひらかれた褐色の瞳が、泣きだしそうに揺れている。ずり落ちかけた籠を抱きなおし、ぎくしゃくと微笑んだ。


「大丈夫よ。ありがとう……」


 鳩は甚だ不審そうに鷹のかわいた唇を見返した。

 鷹は、磨いた黒曜石のような彼女の瞳を直視できず、途方に暮れた少女さながら瞼を伏せた。その仕草をみて、鳩は眼をすがめた。

 鳩は、鷹の性格をよく知っていた。おとなしいと言えば聞えはよいが、鷲や隼がいなければ己の行動に自信をもてない女性なのだ。鷲にはかなり強引なところがあるので、そういう女性の方が合うと言えば、そうなのだろうが。

 どうして、鷲は彼女を置いて行ったのだろう。――鳩は納得していなかった。幼い子どもと二人きりで、いつまで耐えられると思っているのだろう。鳩に彼女を支えることを期待したのかもしれないが……。

 陽光はじりじりと女達を照らしている。鳩は風のない庭の真中に立ち、内心で首を傾げた。自分が母子のために出来ることは、何もないと思える――。


お母さんファーマ! はと!」


 はずむ声に呼ばれて二人が振り向くと、とびが頬に白い砂をつけ、足下に這い寄っていた。新緑色の瞳は、きらきら輝いている。キノはエイルを抱き、始原の力に満ちた子ども達は、きゃっきゃと笑っていた。

 鳶は、鳩に両手を伸ばした。


「はと! だっこ!」

「いいわよ。おいで、鳶」


 亡き姉と同じ名の童女を、鳩は高く抱き上げた。幼児特有のあまい香りと、ふわふわした柔らかさと、ぬくもりが伝わる。鳶の歓声が空に響いた。


「鳩、あたしも!」

「ちょっと待ってね。はい、ロンティ」

「わーい!」


 鳶を下ろし、今度はロンティを抱き上げる(重いので、鳶ほど高く、というわけにはいかなかったが)。鳶は拗ねる風もなく、にこにこ笑いながら鳩の脚にしがみついた。最近の彼女は、母親の沈んでいる気配を察しているらしく、鷹よりも鳩やラーダ(オダの父)に甘えることが多かった。

 鷹は項垂れ、籠のなかへ視線を戻した。

 ミトラがやってきてエイルを抱き上げ、そっと鷹を促した。


「お疲れさま。昼食にしましょう」

「そうね……。これを片付けてから、戻るわ」

「先に、何か作っているわね」

「ええ。ありがとう」


 会話の途中から、鷹の意識は己の内側へ戻っていた。鳩は彼女を観ていたが、何も言わないことにして踵を返した。片腕に鳶を抱き、もう片方の手をロンティと繋いで家へ入る。

 雉は立ち上がり、ミトラ達の手伝いをするべく台所へ向かった。


 鷹は鳩たちを見送って、みたび溜息をついた。唇を結んで顔を上げ、干した衣服の皺をのばす。そうしながら、口の中で呟いた。

『鷲さん。早く、帰って来て……』


 いつの間にか、シジンとミナスティア国のことが、どうでも良くなりつつある。鷲の本来の目的さえ。

 ――そんな自分が、鷹は最も嫌だった。





~第四章へ~

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