第三章 熱砂の果て(5)
5
トグルが南へ行くと聞いて、最も驚いたのは、オダだ。
「えっ……」
と言ったきり、絶句してしまった。
タオも驚いたが、自失している場合ではないと気づき、蒼ざめながらも準備を始めた。隼は落ち着いている。長老達と、オルクトをはじめとする氏族長達も、動じている風はない。
オダは遅まきながら理解した。トグルが出掛けられるのは、草原が平和になり、隼を中心に部族がまとまっているからだ。身重の彼女は
しかし、
「何故です?」
何故、鷲を――。訊ねた青年は、新緑色の双眸に睨まれて言葉を呑んだ。
「勘違いするなよ、小僧。兄上は、ワシ殿を連れ戻しに行くのだ。ミナスティア国の内乱なんぞで、我等の大切な《
答えたのはタオだ。呼び方が『小僧』に戻っている。
オダは頷いたが、全く釈然としなかった。本当にそれだけで、トグルほどの人物が自ら行かなければならないのだろうか。
「シェル城下へ戻るなら、送って行くぞ」
低い声で話しかけられ、オダはどきりとした。闇色の
黒の
『トグルート(キイ帝国での彼等の呼称)だ……』セム・サートルは、ごくりと唾を飲んだ。
立ち襟、筒袖が特徴の民族衣装デール。平時の遊牧民は青をはじめとする鮮やかで明るい色彩を好むのだが、聖なる白に対して黒は攻撃や復讐心を表す。周辺諸国を畏怖せしめた戦士の装束を、サートルは息を呑んで見詰めた。
オダには懐かしかった。王の群青の衣装も素晴らしいが、トグルはやはり黒衣だ。恐ろしくも華麗な姿に、思わず見蕩れてしまう。
トグルは片手に
「どうするのだ」
「は、はいっ。勿論――」
トグルと旅が出来るときいてオダに否やはなかったが、突然のことに狼狽えてしまう。熱い想いが胸にあふれた。
トグルは妹の手から
オダは唖然と、サートルは愕然として彼を見上げた。
トグルは相変わらず無表情だ。栗毛は既に調教されているらしく、タオが手綱と
産まれた時から馬とともに暮らし、歩き始める前に乗馬すると言われる遊牧民にとっては、何でもないことなのだろう。しかし、おのれが半日かけて成しえなかったことを目の前であっさり済まされ、セム・サートルの顔はこわばった。
トグルは、サートルの様子を意に介してはいない。栗毛の仕度がととのうと、オダを促した。
「
「え?」
「早くしろ。日没まで待たせるつもりか」
急かされて、オダは慌てて鞍によじ登った。ジョルメ若長老が彼の荷物を持ってきて、タオが手綱を渡してくれる。オダは、不満げに足踏みをする馬をなだめた。
隼は穏やかな表情で彼等の様子を見守っている。
キイ帝国のカザ(リー将軍家の本貫地、城塞都市)から訪れた総勢五十人の商人の一行は、二十頭ほどの
「トグル」
隼は、駱駝と驢馬の行列が半分ほど目前を通過するのを待って、
トグルは黙って彼女を見下ろした。
隼は、馬上の彼を真っすぐ見詰めた。風が草原のざわめきを連れ去って行く。
オダは、隼の頬がいつにも増して繊細で、白く透けそうになっていると気づいた。氷の彫刻に嵌めこんだ
「気をつけて」
ぎこちない微笑みは、今にもひび割れてしまいそうに、オダには見えた。
トグルは頷くと、アラルとオルクト氏族長とタオを順に見て、最後にもう一度、隼と視線を合わせた。手綱を引き、ジュベを歩かせ始める。オダも隼に会釈をして馬を進めた。
隼とタオは、並んで二人を見送った。
「なあ、アラル」
オルクト氏族長は、傍らの盟友に、彼等の言葉でしみじみと話し掛けた。
「
アラルはすぐには答えず、腕に乗せたイヌワシに注意を向けていた。
鳥類の王はひとの営みなどそ知らぬ顔で、黄金の瞳を草原に向けている。磨いた
アラルは腕を伸ばして彼を放った。巨大な翼が風をまき起こし、彼とオルクト氏族長の髪を躍らせる。オルクト氏族長は眼を細め、顔を庇って手を挙げた。アラルは平然と、急速に小さくなる黒い影を仰いだ。
「貴公らしからぬ言葉ですね、
地平線の彼方に消える影を見送って、アラルは答えた。
オルクト氏族長は、ぐう、と喉の奥で唸った。草原にぽつんと佇んでいる隼の背を眺める。
――と。
ふいに、隊商の列がみだれた。トグルの
『しまった、大事なことを忘れていた』という形相で駆けもどったトグルは、立ち尽くしている隼の前でジュベを降りると、人目をはばからずに彼女を抱き寄せ、耳元で囁いた。
「名付けを……頼む。ラディー、と」
隼はこぼれ落ちんばかりに眸をみひらいた。トグルは呼吸をととのえ、早口に続けた。
「男子なら、ラディースレン(神の守護者)。女子なら、オユンツェメグ(知恵の花)、と……名付けてくれ。産まれる前に戻って来るつもりだが、もし、間に合わなかったら」
ブルルと鼻を鳴らす黒馬とその向こうの青空を観ていた隼は、ふわりと微笑んだ。小声でくりかえす。
「男の子なら、ラディースレン。女の子なら、オユンツェメグ。……分かった」
トグルは彼女から身を離したが、まだ不安げだった。隼は彼の切ない碧の双眸をみつめ、その頬に片手をあてると、もう一方の手を自分の腹部に添えた。
「一緒に待っているから、早く帰って来てくれ。鷲を、たのむ」
トグルは厳粛にうなずいた。
「二、三発なぐって連れて帰る」
「お手柔らかに頼むよ……」
トグルに本気で殴られたら、鷲はただでは済まないだろう。たしなめる隼の後ろから、オルクト氏族長が笑って言った。
「よい名を考えたな、ディオ。任せろ。儂が命に代えても、
シルカス・アラル氏族長とタオも頷いている。
トグルは、いま一度隼をみつめてから身を翻し、
隼は、今度は微笑みながら手を振った。風が銀糸の髪をそっとなでて通りすぎる。
セム・サートルは、オルクト氏族長の後ろに控えていた。
草原は、決して優しいところではない。
けれども、雨が降れば勿忘草の花が咲き、仔馬が跳ねる。タルバガン(地リス)が巣穴を掘り、イヌワシが蒼天を馳せ、狼が唄う。遙か遠いタハト山脈を越えて来たナベヅルの群が雛をそだて、夜には澄んだ月光が虫達を慰める。透明な天山山脈の雪解け水は、掌できらめく。
その豊かさに、彼は魅せられていた。
あの男に。
寡黙で無表情――容易に内心を窺わせない
風に
滑るように馳せる馬の体色と、草の色。それらとともに流れる透明な風が、サートルの意識をおしながし、眩暈をおこした。
「サートル?」
シルカス・アラル氏族長が、怪訝そうに声をかける。
青年は、心を決めた。
「族長妃様、オルクト氏族長」
サートルはすばやく跪き、叩頭した。
「ご許可を頂きたく存じます」
叫ぶような声に、隼は眼をみひらいた。タオと顔を見合わせる。オルクト氏族長とアラルは、理解して
隼は呆気にとられていたが、やがて、ゆっくり微笑んだ。かるく身を屈め、青年の肩に話しかける。
「セム・ゾスタとギタは、あたし達にとても親切にしてくれた。お前には、
サートルは面を上げ、美しい草原の守護女神を観た。隼は毅然とうなずいた。
「
「は」
隼の意図を察したタオが、さっそく彼女の愛馬をひいてくる。オルクト氏族長は胸の前で腕を組み、にやにや笑って告げた。
「
サートルはタオから手綱を受け取ると、
オルクト氏族長は、片手を振って促した。
「行け。
「
力強く応えて、サートルは手綱を引いた。
空はどこまでも
隼はくるりと踵を返し、タオと氏族長達に笑いかけた。声はしなやかに天へ伸び、
「さあ。アラル、トゥグス、タオ。
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