第三章 熱砂の果て(4)
4
夜のしじまに、物悲しい狼の咆哮は、長く引きずるように伸びて消えていった。音のない余韻が耳の奥にのこる。
灯火の数が多いので、天幕の中はユルテより明るい。やわらかな陽だまり色の光が、トグルと隼の顔に影を描く。二人はしばらく見詰め合っていた。
『ミナスティア国へ行く』――トグルの言葉が軍を率いて遠征するという意味でないことを、隼は理解した。独りで行くと言ったのだ。
不思議と驚きは感じなかった。驚いていない自分が意外だった。ただ、何故、と思う。何故、鷲に続いてトグルまで、わけのわからないことを言い出すのだ。
「フェルガナ(盆地、シェル城下)で俺が倒れたときのことを、
やがて、トグルは苦い声で切り出した。隼は唾をのんで肯いた。
「ああ」
「あのとき、ワシは己の生命を
隼は相槌をうち、二人の氏族長を見上げた。忘れられるはずがない……生命が枯れるようなあの恐怖を。トグルとともに、彼女も死ぬ想いを味わったのだ。
トグルもその時のことを想い出しているのだろう、彼女の両手をつつむ掌は冷たく、かすかに汗ばんでいた。
オルクト・トゥグス・バガトルが、いたわるように話した。
「我われは、
「……違うのか?」
背筋が寒くなる心地がして、隼は囁いた。トグルは、ゆっくり
「治してくれた、確かに。だが、この病は進行する。俺が生きている限り、治し続けなければならない」
トグルは隼の剣胼胝のある利き手をもち、炊事で荒れた肌を撫でた。彼女の理解度を表情でたしかめつつ、慎重に続けた。
「俺とワシは、キジの能力を介して生命を共有している。この状態は、奴等にとっても特殊なのだ。《星の子》は、どれだけの距離と時間を維持できるのか、分からないと言っていた」
「……え?」
ようやく隼にも、問題の核心がみえてきた。呆然とする彼女に、トグルは重々しく頷いた。
「『出来るだけ離れないように』 と警告された。シェル城下と
『あの阿呆!』
隼は、ざあっと音を立てて身体から血の気がひくのを感じた。眼を瞠って立ち上がりかける彼女を、トグルの手が留める。彼は彼女の手を握り、辛そうに眉をくもらせた。
隼はするどく息を吸い込んだ。
「あたしが、」
「いけません、ハヤブサ殿」
『鷲を連れ戻してくる』という台詞は、オルクト氏族長に遮られた。重騎兵でもある氏族長は厚い胸の前で腕を組み、ゆたかな声で諫めた。
「
「幸イ、ワシ殿ハ、盟主の《
アラルは、絶句する隼を慰めるように言った。
「
『ああ』――隼は思い出した。そう言えば、鷲とトグルはそんな関係だ。
かつてトグルが
『そうか。それで、長老達が騒いでいたんだな……』隼は納得したが、トグルの苦笑は
「どうせ、奴は忘れているのだろう」
さもありなん。ノコルの契約も、《古老》の能力を使っていることも、鷲はかっぽり忘れているのに違いない。そうでなければ、こんな無茶はしないだろう。――と想えば、今度は鷲の身に何が起きたのかと気に懸かり、隼はすっかり嗤えない気分になった。
アラル達は、トグルが隠密に動くための術を考えてくれていた。
「キイ帝国ノ商人達が、にーない国へ向けて発ちたいとモウシテいます。かーるヴァーン(隊商)を護衛スル兵士達に紛れて下サレば、ふぇるがなマデはお送りデキます」
「
トグルは嘆息した。両掌でつつんだ隼の手に視線を落とし、考え込む。
話がひと段落したので、シルカス・アラル氏族長とオルクト氏族長は顔を見合わせた。隼に一礼して、天幕を後にする。アラルの腕に乗ったイヌワシは眠っているようだった。オルクト氏族長の腰に提げられた長剣が、
トグルは黙然として動かない。隼は彼の体調を案じた。
「大丈夫か……?」
距離だけでなく、二人の身に異変があれば、トグルに影響がでるはずだ。隼は、改めて事態の恐ろしさに気づいた。
トグルはフッと唇を歪めて
「
トグルは彼女に横顔を向けた。滑らかな声が苦渋に濁る。
「気懸かりは多数あるのだが……。行かせて欲しい」
彼がこんな風に自分の希望をはっきり述べるのは、珍しかった。
氏族を率いる責任のある氏族長たちに、個人の自由はなきに等しい。まして盟主は四六時中、長老達に監視されている。トグルは常に、己の言動が周囲に及ぼす影響を考えている。
隼は彼の苦悩を思い遣った。望みは叶えてやりたいが……可能なのか?
トグルは何度も前髪をかきあげた。困惑しているときの彼の癖だ。骨張った長い指が艶やかな黒髪を弄ぶ。伏せた瞼の下で、暗緑色の瞳が言葉を探して彷徨っている。
隼は訝しんだ。先刻から彼は苛立っている。忌々しくゆがめた唇から、噛み締めている歯が見える。寄せられた眉の下で、眼差しは
かすかに首を左右に振る仕草は、こう言っているようだった。
違うのだ。
本当は、そんなことはどうでもいい。本音は、別のところにある。
なのに、適当な言葉をみつけられない己に腹を立てている――。
隼は、待つことにした。
足元に視線を落としていたトグルは、やがて、ぽつりと呟いた。
「あの、莫迦。自分のしていることが判っているのか……。行って、連れ戻す」
優しい言葉だった。ぶっきらぼうな声音は、彼女の胸にすとんと収まった。鷲の行動に隼は動揺していたが、トグルも動揺している。彼女は嬉しくなり、同時に哀しくなった。
トグルは面を上げた。さまざまな事柄が押し寄せ、湧き起こる感情をどう扱えばよいか判らず、瞳が揺れている。
「それに――」
すっかり困惑した口調で、だが、明瞭に告げた。
「オダが来た。ハヤブサ。俺には、やらなければならないことがある……」
隼は彼をみつめた。
トグルは不器用なうえ、無口だ。いつも、想いの一、二割を言葉にしてくれればよい方だ。残りは聞く側が推測しなければならない。
不完全な言葉から彼が言わんとすることを察し、隼は眉を曇らせた。紺碧の双眸がさらなる哀しみに翳る。それこそ、彼女が心のどこかで恐れつつ避けようがないと承知して、先延ばしにしてきたことだった。
――
彼女は解っていた。トグルも。これは、きっかけに過ぎない。
トグルは、彼女の視線を受けとめるのが辛くなって眼を伏せた。途方に暮れている横顔を眺めながら、隼は彼の気持ちを慮った。
謝罪だとか償いだとか……そんな言葉は、軽々しくて使えない。罪の意識などという生易しいものではない。これは、彼の魂に刻まれた傷だ。
勿論、同様の傷は、彼女にもある。
おぼろに
だが、トグルはどうだろう。
いのちは数ではない。そうでなくとも、千単位、万単位で失われた生命を数えることは出来ない。己の言葉ひとつ、示した指の方向によって消えた者を、その人生を、ひとりひとり思い遣ることは不可能だ。まして、見えない場所で涙を流した存在は……。
無数の癒えない傷が、トグルの心に刻まれている。死してなお輪廻を超えて存在する、魂にまで届くふかい傷だ。そこから生じる闇が彼を蝕んでいる。
戦いが終っても闇は消えず、むしろ時を経るに従い、過去は重さを増していく。
生きている限り忘れられない。赦されはしない。
冷たい闇は隼をもつつみ、圧倒した。
「…………」
溜息を呑む。彼女は、とうに気づいていた。
出会ったときから、トグルの顔貌をおおう異様なまでの無表情。他人と己の心の裏まで見通す昏い眼差しと、突き放して一顧だにしない冷徹さ。
傷つく自分を認めることが出来ない程、彼は傷つき、虐げられて来たのだ。
戦争によって……。
トグルの冷静さも、不器用さも、彼が望んだわけではない。言葉を棄て、無表情の仮面をかぶり、己の心の声を無視して――そうならなければ生きられなかったのだ。
二人の違いは、トグルが草原に生まれ、隼が生まれなかっただけのこと。彼のせいではないと隼は思いたかった。
人は、誰も、生まれる国や時代を選べない。草原の外に生まれただけの彼女が何を言えるというのだろう。
どんなに望んでも、トグルは彼自身であることから逃れられないのだ。
隼は眼を閉じた。『トグル』――呼びかけようとした言葉を呑む。『お前がいなくなったら、草原はどうなる』
既に、答えは解っている。
その為に、自分達は、ともに歩んで来たのだから……。
隼はもう一度、深く、深く嘆息した。想いの全てを吐き出すように。瞼の向こうに、成す術を失っている彼の気配を感じた。彼女の嘆きにも己の心にも、抗う術をなくした彼を。
トグルは息だけで囁いた。
「すまない……」
隼は、ゆっくり首を横に振った。唇は微笑んでいたが、まだ彼を
狼の唄がきこえる。
震えながら夜に伸びる旋律は、馬頭琴を思わせた。遠い銀の月の、冴え冴えとした輝きにとどく。滑らかな響きは、彼女の重なり合った心の襞の奥に満ちた。
いつからトグルがそう考えていたのか、隼には判らない。いつから漠然と予想していたのか、自分でも判らない。
判っていたのは、必ず、この日が来るということ。
そして……。
隼は眼を閉じたまま、かすれた声で囁いた。
「お前は、わかっていない……」
その言葉は、トグルの胸に一本の矢となって突き刺さった。うめくように繰り返す。
「すまない。本当に――」
「本当に、わかっていない」
声に力をこめて遮り、隼は瞼をもち上げた。澄んだ紺碧の瞳が、正面からトグルを映す。『離れたくないよ』とも『行かないでくれ』とも言わず、彼女は吐息まじりに告げた。
「あたしは、お前の、そういうところが好きなんだよ……」
トグルは無言で、彼女をそっと引き寄せた。唇を重ね、抱き締める。
ひろい肩に頬をおし当て、隼は眼を閉じた。
戦場でたたかう者の食事は、平穏な日々を過ごす者のそれより、何倍も味が濃い。空の蒼さや太陽の輝きは、残酷なほど鮮やかだ。草の葉に降りる露の煌きは、夕暮れまでないと思えば、この上なく美しい。
トグルは、ずっと、そんな世界で生きてきたのだ。
彼にとって、世界はあまりにも脆く、美しすぎ、眩しすぎる。このままでは、ここに居られない……。
隼の胸に引き裂かれるような痛みが走った。誰にも、彼女にさえ、彼を癒せないと知る故に。
彼を癒せるのは、彼自身だ。
「ハヤブサ……」
トグルが呼ぶ。声にならない吐息が耳朶に触れ、抱き締める腕に力がこもった。
身を委ねながら、隼は考えた。
恋は、彼女にとって己を見定めることだった。愛は、相手をあるがまま受け容れることで、どちらも苦難の連続だった。そして、仲間であり、夫婦であるということは、
同じ方向を目指して、生きるということ――。
『トグル。お前は、それを教えてくれるんだな……』
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