第三章 熱砂の果て(3)


            3


 隼の造った馬乳酒クミスは少し酸っぱかったが、夏らしい爽やかな飲み物だとオダは思った。乳製品中心の遊牧民の食事も、羊と草の匂いも、タオの怒鳴り声さえ懐かしい。危険な独り旅を終えた喜びと安堵感で、自然と笑みがこぼれた。

 半年ぶりに逢う隼は、オダには眩しいくらい美しかった。身ごもっているからだろう、険しい顎や肩の輪郭が以前よりまるみを帯びている。皓い肌はなまめかしく、産毛は銀色の光をまとい、愛されている自信とゆたかさに輝いて観えた。凛とした佇まいと怜悧な眼差しは変わらない。

 しかし、懐かしがってばかりはいられない。

 駱駝ラクダに餌と水を与え、衣の埃を落として人心地つけば、使者の仕事に戻らなければならない。氏族長と長老達が天幕で待っているのだ。


 オダは隼に挨拶を終え、セム・サートルと自己紹介を済ませると、さっそく天幕へ向かった。

 入り口を蔽う布をくぐり、ずらり並んだ長老と氏族長達に迎えられたオダは、ごくりと唾を飲んだ。緊張した雰囲気に気圧される。隼も、ここでは威厳が増して見える。

 玉座に坐ったトグルは、言うまでもなかった。


「……遅かったな」


 トグルは隼が隣に立つのを待ってから、じろりとオダを眺めた。

 盟主の背後の壁には、黒地に黄金の鷲獅子グリフォンを縫い取りした部族旗がかかっている。椅子の背の上では、イヌワシが鋭利な眼光をこちらへ当てている。

 トグルの口調は相変わらず素っ気ない。


「何の用だ? ……どうせ、ろくでもないことだろうが」

「お言葉ですね。少しは喜んで下さいよ」


 オダは言い返しながら、笑いを噛み殺すのに苦労しなければならなかった。無愛想これに極まれり、といったトグルだが、これが彼流の親しみをこめた言い回しだと理解できない彼ではない。むしろ、変わっていないと思えて嬉しかった。

 隼は、美しい紺碧の眸に微笑をたたえている。オルクト氏族長の口元が、吹き出しそうにひくひくと引き攣った。

 周囲の反応に気づいたトグルは、一瞬、自嘲するかのように唇を歪め、すぐ無表情に戻った。


「使者殿」


 ジョルメ若長老がすすみ出て、丁寧に一礼した。黒い瞳は、かつてと同じく挑戦的な印象をオダに与えた。


「我等トグリーニ一同、貴殿のご来訪を歓迎いたします。夏祭りナーダムに盟友のご訪問をいただけたことは、望外の光栄」


 オダに続いて天幕に入って来たセム・サートルは、居住まいを正した。

 ジョルメは二人の客人に視線をはしらせ、慎重に続けた。


「しかし、南方の不穏な噂も耳にしております。砂漠を越えていらした貴殿に、まずは情勢を伺いたく存じます」

「私はその為に来たのです。ご挨拶が遅れ、申し訳ありません」


 オダは口調を改め、頬杖を突いているトグルに向き直った。隼の瞳から微笑が消え、長老達は頬をひきしめた。オルクト氏族長は胸の前で腕をくみ、首を一方へ傾けた。

 トグルは表情を変えず、単調に促した。


「……続けろ」

「はい。『不穏な』と仰ったのは、ミナスティア国のことかと」


 オルクト氏族長が大きく首肯する。オダは続けた。


「ニーナイ国にも内乱の噂は届いています。港を訪れる舟は途絶え、オアシスを辿ってくる商隊カールヴァーンは激減しました。先日、ついにナカツイ王国から国境を封鎖する連絡がありました」


 トグルは無言で眼を細めた。新緑色の瞳の翳が濃くなる。隼はタオと顔を見合わせた。

 ジョルメの口調は、相変わらず慎重だ。怜悧な漆黒の瞳が射るようにオダを見据えた。


「貴殿の話を疑うわけではないのですが……。ナカツイ王国が国境を封鎖する、とは」


 オダは肩をすくめた。


「そんなことをしたら困るだろう、と仰るのでしょう? ええ、勿論……我々も、ナカツイ王国も困っています。難民の流入を防ぐために仕方がないのだそうです。今、鷲さんが状況の確認に向かっていますが――」


 天幕の中に、沈黙が舞い下りた。


 オダが鷲の名を出した途端、ジョルメ若長老は口を閉じ、隣の最高長老と視線を交わした。他の長老達も、動揺したように頭を揺らしている。

 オダは言葉を切り、隼を顧みた。

 隼は、オダの話の内容よりも長老達の態度をいぶかしんでいた。首を傾げ、トグルを見る。トグルは頬杖をつき、眼を閉じていた。

 タオが不安気に一同を見渡す。その隣のアラルは沈痛な面持ちだ。

 トグルの椅子の上のイヌワシが、片方の翼を開いて欠伸を噛み殺した。


「……行ったのか?」


 オルクト氏族長が、顎鬚を指先で弄びながら問うた。それは質問というより確認に近い口調だったので、オダは首を傾げた。先刻、自分はそう言ったではないか?


「ミナスティア国へ? 独りでか」

「はい」


 オルクト氏族長は当惑したようにアラルを見遣った。

 シルカス・アラル氏族長は、眉間に皺を刻んでオダを観ていた。澄んだ黒曜石の眸が、判断を求めて彼等の盟主を映す。

 トグルは頬杖を突き、脚を組んだ姿勢で眼を閉じている。眠っているか彫像になったかのごとく、肩に流れる辮髪は動かない。

 「ワシ殿が……」、「自由戦士ノコルが……」という囁きが、風にそよぐ草の葉のように天幕のなかでさわさわ鳴った。


「行かせたのか」


 ジョルメ若長老がやや呆然と呟く。オダは不安になってきた。


「あの……族長?」

「トグル」


 オダの声と、隼の声が重なった。

 トグルは、やっと、面倒そうに眼を開けた。半分閉じられた瞼の隙間から、底光りのする緑柱石ベリルの瞳が覗く。彼の呟きは、隣にいた隼にしか聞えなかった。


「……あの、莫迦」



               *



「僕、何かまずいことを言ったでしょうか?」


 オダの報告を聴き終えると、トグルは人払いを命じ、長老達とオルクト、シルカス両氏族長とともに天幕にこもってしまった。オダは、タオのユルテ(移動式住居)に案内された。セム・サートルと隼も一緒だ。

 不安げに問うオダに、隼は微かな苦笑をかえした。彼女にもトグルの考えを全て理解することは出来ない。何かあれば話してくれるだろうと信じるだけだ。


 夏でも草原の夜は肌寒い。ヤナギの木枠に毛氈フェルトを巻きつけた壁と大地の隙間から、乾いた冷気が入ってくる。彼等はユルテの中心の炉をかこみ、乳茶スーチーの入った鍋からのぼる湯気を眺めていた。

 タオが、鍋に岩塩の欠片を入れてかき混ぜる。ニーナイ国や〈黒の山〉の牛酪バターを入れた甘い乳茶チャイとは異なり、草原の乳茶スーチーは塩味だ。


「貴様が『まずい』わけではないが、」


 乳茶を陶製の椀に注ぎながら、タオは困惑を隠せない口調で言った。兄に似て真っすぐな眉がきつく寄せられている。オダの成長にも戸惑っていた。


「話の内容がまずかろう。ミナスティア国の内乱が、ナカツイ王国とニーナイ国へ悪影響をおよぼし、我らと聖山ケルカン(〈黒の山〉のこと)の力を必要とする事態となれば」

「別に、援助を求めに来たわけではありません」


 オダはやや慍然ムッとして言い返した。いつまでも子ども扱いされるのは嫌だった。

 タオはじろりと彼をねめつけた。


「軍勢を出して頂きたいとか、我々の為に何かして下さいと、頼みに来たわけではありません。報告です」


 隼は黙って切れ長の眼を伏せた。銀色の睫毛が白皙の頬に翳をおとしている。南から湧き起こった不吉な影が、雨雲のように大陸をおおうのを感じていた。今、草原に達しようとしている……。


「〈黒の山〉へは、ナカツイ王国から連絡が行っていると思います」


 憂いを帯びた隼の様子に、オダは言いよどんだ。


「本当は、鷲さんに〈黒の山〉へ行って欲しかったのですが、断られてしまいました」

「……だろうね、あいつのことだから」


 隼が微笑のなごり程度に唇の端を吊り上げたので、オダは少しほっとした。タオも心配そうに彼女を見詰めている。

 隼は、己に言い聞かせるように続けた。


「鷲と鷹は、シジンのことを忘れないだろう。内乱と聞いて心配するのは、無理もないよ」

「それはそうですが……」


 沈鬱な隼の横顔とこちらを睨んでいるタオを見て、オダは口ごもった。今さらだが、鷲を止めるべきではなかったかと考える。自分がミナスティア国へ行くべきだったかと。

 鷲と鷹はシジンの身を案じ、隼は鷲の身を案じている。村に残った鷹と鳶は、今頃どうしているだろう……。


「使者殿、宜しいか」


 扉の向こうから、声がした。

 主のタオが立ち上がり、隼の後ろを迂回して戸口へ向かった。彼女が扉を開けると、吹き込んできた夜風が鍋からのぼる湯気を揺らし、視界が白く霞んだ。甘い乳の匂いの向こうに、穏やかに微笑む老人がいた。

 最高長老トクシンは、長衣デールの袖に包まれた腕を組んで眼前にかかげ、一礼した。


「ユルテの用意が出来ました。どうぞお休みください」

「あ、はい。ありがとうございます。でも……」


 オダは腰を浮かせかけ、隼とタオを振り向いた。長老は、彼の遠慮をやわらかく受け流した。


「本来なら歓迎の宴を開くところですが、申し訳ありません。今宵はゆっくりお休み頂き、明日改めて」

「承知しました。どうぞお構いなく」

「おやすみ、オダ。サートルも」

「は」

「また明日……」


 挨拶を交わす彼等の足元を、長老の従者が松明で照らした。隼とタオは、夜のとばりの向こうに消えていく彼等の後ろ姿を見送った。


 隼の横顔は、いつになく淋しげだ。玲瓏とした氷の彫刻を思わせる輪郭が、灯火の明りに透けている。

 兄と長老達に疎外された気分になっていたタオは、小声で話し掛けた。


「ハヤブサ殿……」

「ああ、タオ。あたしも、そろそろ休むよ」


 隼は、義妹をかえりみて微笑んだ。美しいがどこか疲れた微笑に、タオは胸を締めつけられた。ひと呼吸ためらってから頷く。


「送ろうか?」

「いや、いいよ。おやすみ、タオ」

「おやすみなさい」


 隼は静かにユルテを出て行った。細い背を見送り、タオは苦々しく考えた。『兄上も、少しは考えれば良いのに……』 隼贔屓ひいきの彼女は、どうしてもトグルの評価がからくなる。鷲は、隼にとって父とも兄とも言える存在だ。内乱で治安の悪化したミナスティア国へ彼が独りで行ったなどと聞かされて、平気なはずがない。

『オダもオダだ。妻子もちのワシ殿に危険を冒させ、おのれは安全な草原へなど……よくも顔を出せたな』 憤然と考えて、タオはさらに嫌な気分になった。これでは八つ当たりだ。

 解っている。一番悔しいのは、何も出来ない自分だ。状況を変えられず、期待されてもいない。立場もない。己の無力が、最も口惜しいのだ。

 タオは閉じた扉に寄りかかり、溜息を吐いた。



 隼はすぐにはユルテに帰らず、本営オルドゥの中を歩き回っていた。何かが奇妙だと感じた。考えを整理したい。


 戦争が終結した半年前、鷲と鷹は、幼い娘のためにシェル城下に留まった。オダと鳩と雉とともに平穏に暮していた鷲が、ミナスティア国内乱の報せを聞いてシジンを思い出したのは理解できる。

 ことあれば、いつも真っ先にとびだして行く男だ。かつてトグルと戦ったときも、リー女将軍(ヴィニガ姫)の信用を得たときもそうだった。鷹がレイ王女に戻って記憶を失ったときも……トグルとタイウルト部族の戦いのときも。隼たちは常に彼の後を追いかけるか、はらはらしながら帰りを待っていた。今回の行動も彼らしいと思えば、限りなく鷲らしい。

 だが――隼は首を傾げた。


 いつも先頭をきって駆けていく、鷲。彼の考えが読めなくて腹をたてたことは何度もある。しかし、隼は彼を無謀だと思ったことはない。

 鷲は、どんな時も将来のことをちゃんと考えていた。己の能力で出来ることと出来ないことを見極めており、出来ないことには手を出さない思慮ぶかさがあった。勝算のない賭けは行わないのだ。鳶(鷲の前妻)と鵙(隼の姉)を死なせてしまった経験から、彼が決して仲間を危険に晒すような真似はしないことを、隼は熟知していた。

 それなのに……今頃になって、頼まれたわけでもないシジンの為に。幼い娘と妻をおいて危地へ赴く彼の意図が、隼には解せなかった。


 鷲は雉のような博愛主義者ではない。むしろかなり利己的な人間のはずだ。

 何を考えている?

 彼ひとりで、一国の内乱に対して何か出来るとは思えない。〈黒の山カーラ〉に行って《星の子》の援助を取りつけた方が、よほど実際的ではないか。ラーダ達もそれを望んでいたのに。

 或いは、隼やオダの思いつかない有効な手段が、ほかにあるのだろうか……。


 隼は思考の行き詰まりを感じ、ふうっと息を吐いた。夜風がひやりと頬を撫でて通り過ぎる。雲が流れ、蒼白い月の光が足元に届く。

 群青の空に、綺麗な半月が懸かっていた。よく切れる刀ですっぱり切ったような上弦の月を眺めながら、隼は天幕の前へやって来た。入り口をおおう布の隙間から、金色の明りが漏れている。

 隼は、窺うようにそれを見詰めた。


 トクシン(最高長老)がオダを迎えに来たということは、長老会は終ったのだろう。トグルは残っているだろうか。彼の邪魔をするのは本意ではない。わざわざ隼たちを除いて天幕にこもったのは、彼等だけで話し合いたかったからだろう。

 声をかけるべきか、黙って立ち去るべきか。隼は、迷いながら佇んでいた。

 と、


「……***、**。*****」


 ぼそぼそと漏れる低い声を耳にして、彼女は呼吸を止めた。早口で話しているのが、トグルだと判ったからだ。やや苛立っているように聞える。オルクト氏族長の声がなだめている。

 会話はいつまでも続くかと思われた。『明日にした方が良いのかもしれないな』と踵を返しかけた時、布がさっと跳ね除けられ、彼女はオルクト氏族長と顔を付き合わせることになった。


「これは」


 氏族長も驚いた。普段ほそい眼をまるく見開いて隼を凝視みつめ、苦笑する。

 トグルとアラルが、部屋のなかで振り返る。

 アラルはしずかな眼差しを彼女にあて、軽く一礼した。腕にぶ厚い皮手袋をはめ、あのイヌワシを乗せている。

 トグルは玉座にすわらず、アラルの前に立っていた。辮髪をほどき、蒼い長衣デールの襟元をくつろげている。

 オルクト氏族長は大きな身体をずらし、身振りで隼を招き入れた。いつになく真剣な表情で、トグルに言う。


「儂は承知したがな、ディオ。族長妃トグラーナにお話しろ。納得して下さるかどうか」

「…………?」


 隼は首を傾げて二人をみた。

 アラルは眉を曇らせ、申し訳なさそうに彼女を見返した。漆黒の瞳にひかえめな気遣いがうかがえる。

 トグルは彼女を一瞥したが、すぐ視線をそらし、俯いた。孤高の狼のような横顔を、隼は見上げた。


「邪魔だったか?」


 小声で問うと、トグルははっと面を上げた。シルカス氏族長の頬が優しくゆるむ。


「イイエ。もう、終りマシタ」

「そうか?」

「……アラル」

御意ラー


 トグルに促されたアラルは、再び丁重に一礼して壁際に下がった。腕にとまったイヌワシも一緒に。

 隼は、改めてトグルをみた。

 トグルは無表情に彼女を見詰めていたが、身振りで盟主の椅子へと促した。隼は躊躇ったが、彼はかまわず彼女を坐らせた。


「ハヤブサ」


 トグルは隼が腰を下ろすのに合わせて視線を下げると、彼女のまえに跪いた。奥につよい意志を宿す緑柱石ベリルの瞳を、隼はていた。

 トグルは彼女の手をとり、淡々と告げた。


「俺は、ミナスティア国へ行く」


 隼は、心持ち眼をみひらいた。


 遠くで、仲間をよぶ狼の声が聞えた。





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