第三章 熱砂の果て(2)
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夏の最初の雨が降ると、一斉に
まるい額の仔羊や脚のながい仔馬たちが駆け回り、母馬たちは、やわらかな若草を食べて乳を出す。その乳を使って、各ユルテ(移動式住居)では新しい
朝。隼はタオとともに、作りたての
遠く天山山脈の雪峰が、うっすらと蒼い空に浮かんでいる。ゆるやかに隆起する丘から吹き降ろす風は、夏とはいえ冷たい。隼は、ゆるくまとめた銀髪をなびかせつつ、風の中に羊と夏草と馬乳の匂いを嗅いだ。
「何だ?」
羊の声につづき人々のどよめきが聞えたので、隼はそちらに向き直った。
タオが、にっこりと微笑む。
「トゥグス兄者(オルクト氏族長)が、羊を一頭提供してくれたのだ。これからボードグ(羊肉料理)を作るのだろう(注*)」
「
「左様」
「それは、悪いな」
昨日は、キイ帝国から
「なんの。兄上が頼んで行ったのだから、ハヤブサ殿が気に病むことはない。
「そうか?」
などと言っていると、当のオルクト・トゥグス・バガトル氏族長が、幅のある頑丈な身体を左右に揺らし、のっそりとやって来た。少し後ろに、シルカス・アラル・バガトル氏族長の姿もある。
トグル同様、アラルは決して華奢な男ではないのだが、オルクト氏族長と並ぶと実際以上に痩せて見える。トゥグスが臙脂色の、アラルは黒に近い紺色の
隼は、逆光に眼を細めて彼等を迎えた。
「おはよう、トゥグス、アラル」
「おはようございます、
数か月ぶりに再会した途端、『族長妃』などと呼ばれて丁重に扱われ、隼は面くらった。慣れるとは思えないのだが、彼女を見るオルクト氏族長の眼差しは、この上なく優しい。
「ご気分は如何ですかな? いや、ますますお美しい。儂も、もうひと頑張りしてみようかという気になります」
「マタ、作るノですか?」
アラルが呆れ声で
女好きなオルクト氏族長には、四人の妻がいる。子どもを五人授かったが、無事に育ったのは末の娘が一人だけだった。しかし、実は他にも非公式な子どもが複数いるのではと噂されている。
一方のアラルは、幼馴染の娘と結婚して一児を授かっている。他に妻はおらず、身持ちの堅さは昔から有名だ。
アラルは言い返そうとする盟友には構わず、隼へ丁寧に一礼した。苦手な交易語で話し掛ける。
「……おはようゴザイます、ハヤブサ殿。盟主はオ目覚メですか?」
「あれ?」
隼は、ぱちんと瞬きをした。先刻 彼等を見たときにも、奇妙に感じたのだ。
「一緒じゃないのか?」
彼女がこう言った途端、アラルは黒曜石の瞳を大きくみひらいた。オルクト氏族長も驚いている。
タオは三人の顔を見比べた。彼女が首を振るたびに、編んだ黒髪とその先の黄金の飾りが揺れる。兄と同じ鮮やかな新緑色の双眸を、隼へ向けた
隼は首を傾けた。強風にあおられて顔にかかる髪を掻き上げ、訊き返す。
「ユルテには帰っていないぞ。アラル、知らないのか?」
「ご冗談を――」
「また天幕に泊まったのかな」
平然と呟いて、天幕の方向を眺める。アラルとタオは、彼女をまじまじと見詰めた。風が止み、取り残されたような沈黙が場を支配する。
隼は二人の表情に気づき、きょとんとした。
「どうかしたのか?」
「イエ。あの……天幕にはイラッシャラなかった、です」
「そうか」
「ハヤブサ殿。貴女が兄上を信じて下さっているのは嬉しいが、その――」
『これが当たり前になるというのは、如何なものか……』
『もし、兄上が――そんなに器用な人なら苦労はないのだが! ハヤブサ殿が妊娠中なのをよいことに、外に女を作っていたら、どうなさるのだ? 不届きな長老や氏族長が、側室をあてがいなどしたら』
そう考えたアラルとタオだったが、流石に口ごもった。
勝手に気を揉んでいる二人の考えを推し量り、オルクト氏族長が太い声で笑いだした。周囲の邪念を想像もしていない隼の態度に、感心している。
「
「兄者」
アラルは黙し、タオは困惑気味に眉根を寄せた。隼はひとり、「夜遊び……?」と呟いている。
オルクト氏族長は、ふっふと口髭を吹き、太鼓腹をゆらして
「永年、我が部族にはろくな族長妃がいなかったのです、ハヤブサ殿。我が叔母ながらエゲテイ・ゴア(トグルとタオの母)は、とても留守を任せられる状態ではなかった……。なあタオ、お前が儂の親父のユルテへ預けられていたのは、その所為であったろう」
隼はタオをかえりみて、タオは肯いた。オルクト氏族長は微笑みつつ、神妙に続けた。
「メルゲン・バガトル(トグルとタオの父)亡き後、ディオは母親を庇護せねばならなかった……。若く健康でしっかりした族長妃が
隼は、トグルが似たようなことを言っていたと思い出し、曖昧に頷いた。実感には乏しいが、オルクト氏族長が言うならそうなのだろう。自分が役に立てているのなら、嬉しいと思う……。
オルクト氏族長は、くるりと身体の向きをかえ、大声で呼んだ。
「セム・サートル! ここへ来い!」
白いユルテの向こうから、明るい金赤毛の青年が駆けて来た。ボードグ作りを手伝っていたらしい。羊の毛のついた
「盟主を見かけなかったか?」
オルクト氏族長が訊き、サートルは硬い口調で答えた。
「いいえ、今朝は」
「昨日は一緒だったのだろう?」
「
サートルは、夏空のごとき青い眸で、ちらりとシルカス・アラル氏族長を見遣った。
「シルカス公とともに帰って来て、日没前に天幕で別れました。てっきり、盟主はユルテへお帰りかと」
アラルより先に、隼が肩をすくめて言った。
「トグルのことだ。仕事を思い出して、帰るのが面倒になったんじゃないか……。きっと、その辺をジュベと散歩でもしているんだろ」
我慢しかねたタオとアラルが、同時に喋り始めた。
「ハヤブサ殿。そういう問題ではない」
「盟主の居場所ヲ知る者がイナイ、とイウことが問題ナノです。コウシテいる間に、もし――」
「……何の騒ぎだ?」
低く平坦な声を聞いて、二人は口を閉ざした。
ジュベの鞍には枝を落した
トグルもそこから運んで来たに違いない。仮面のような無表情は相変わらずだが、こめかみを汗が流れている。夜の闇で染めたジュベの毛皮はぬれて輝き、脇腹は大きく波打っていた。
オルクト氏族長が声をあげて笑った。
「お前、それを採りに行っていたのか」
「
トグルは簡潔に応えると、馬を降り、鞍から木を外し始めた。アラルとタオが顔を見合わせる。トグルは作業を終えると、丸太の先端をセム・サートルに突き出した。地底を這うような声で、ぶっきらぼうに告げる。
「
「オルガ?」
それ以上説明する気はないらしい。トグルは無言で手綱を引き、馬首をめぐらせようとした。
オルクト氏族長が苦笑まじりに説明する。
「『馬追い杖』のことだ。牡馬を去勢する際や、馬群から調教する馬を選ぶときに使う。男なら必ず一本持っている、〈草原の民〉の象徴だ」
サートルは、やや呆然と木を眺めた。
オルクト氏族長は鷹揚に付け加えた。
「後で、儂のを見せてやろう」
「は。ありがとうございます」
サートルは、さっと頬を引き締めた。
タオは不審げに兄を見遣った。
「オルガなど作らせて、どうするのだ? 兄上」
愛馬とともに立ち去りかけていたトグルは、面倒そうに妹を見下ろした。
「馬を選ばせる……。今年のウラクに出てもらう」
「ウラクに?」
タオの口が、ぽかんと開いた。
ウラクは、
寡黙な背中で一本だけの辮髪が揺れている。その先でにぶく輝く黄金の留め具に向かって、オルクト氏族長は声を投げかけた。
「おい、ディオ。これからボードグを作る。お前も来ないか?」
「
トグルはぼそりと答え、そのまま行ってしまった。ジュベを休ませるのだろう。隼は、黙って彼を見送った。
トグルがアラルやサートルに何も言わずに出掛けたのは、二人を思い遣ってのことだろう。彼が動けば、否応なくアラル達はついて行かなければならない。一人で出来る作業に彼等の手を借りるのは、悪いと考えたのかもしれない。
気持ちを表現するのが苦手なトグルの、彼流の優しさだと、隼は解釈したが……。夜の草原には、狼などが
オルクト氏族長が、にやにや
「我が従弟ながら、奴は口下手でいかん。貴公も困るだろう? サートル」
そう言って振り返る。セム・サートルは困惑顔で、身長の倍もある丸太を支えていた。
オルクト氏族長は嘆息した。鼻から息を抜いたので、豊かな口髭が揺れた。続けて質問する。
「ところで、貴公は奴から何を学ぶつもりだ?」
サートルは咄嗟に答えられなかった。見ようによっては反抗的ともとれる眼差しで、彼を見る。
ふ、ふ、と、オルクト氏族長は、厚い胸を揺らして笑った。
「奴の無愛想は筋金入りだからな。教えてくれるのを待っていては、何も得られぬぞ」
「…………」
「そもそも、貴公の主人(ヴィニガ)は何を期待しているのだ? 兵士の訓練法か、軍馬の養い方か? そんなものなら、キイ帝国にも立派なものがあるだろう。
サートルは困って眉根を寄せた。タオとアラルは青年を見守っている。
オルクト氏族長は、力強い声で歌うように続けた。
「我々の遣り方は草原の遣り方であって、他で通用することではない。物見遊山のつもりなら、こちらもそのように扱おう。……草原へ来たのなら、草原に学べ。ここの人間になることだ」
将来を
『草原へ来たのなら、草原に学べ……』
隼は口の中で呟いた。眼を細め、トグルの行った方角を確かめる。アラルとタオも神妙な表情になっていた。
「料理に戻ろう、トゥグス・バガトル」
隼は声をかけた。身体の中心に宿る力を意識しながら。
オルクト氏族長は微笑み、恭しく一礼した。
**
二日後も、草原はよく晴れていた。
大地を揺らして馬が駆ける。黒、白、藍色、砂、鹿毛といった色の大群が流れるさまは、実に壮観だ。その群を、隼とタオは並んで眺めていた。
トグルは天頂の蒼の
「ほら、サートル、頑張れ! 置いて行かれるぞ!」
タオの明るい歓声に、隼は視線を戻した。赤毛の青年は、トグルに借りた馬にまたがって群を追いかけていた。
トグルに 「気に入った牡馬を与えよう」 と言われたのだが、問題は、自分で捕まえなくてはならないことだった。馬上で平衡を保ちつつ、
噂を聞きつけて、遊牧民が集まっていた。キイ帝国の
オルクト氏族長とシルカス・アラル氏族長も、騎乗して彼を見守っていた。
「くそっ」
赤みがかった鹿毛の馬を狙ってはもう少しのところでかわされ続け、サートルは苛々していた。目前を、まるで嘲笑うように馬達は向きを変えて走り去る。また、どっと笑いが起こる。
サートルは眼に流れこむ汗を手の甲で拭い、辺りを見回した。
だが、助けられるのはもっと嫌だ。
サートルは真新しいオルガを掲げた。
「*****、**?」
アラルは、ふと隣のオルクト氏族長に話し掛け、二人は南の地平線に目を向けた。
丘の上のトグルも、動きに気づいた。
南の空はるかに、ヒンズークシュ(タサム山脈)の山並みが霞んでいる。緩やかな傾斜を伴って広がる緑の野に、陽炎がたちのぼる。ゆらめく白い空気の中に、影が観えた。
トグルは眼を細めた。
蝋燭の火焔さながら
影は、駆け足で近づく
オルクト氏族長の頬から笑みが消えた。
トグルは動かない。
「……何だ?」
隼は、アラルとオルクト氏族長の動きをみて呟いた。
タオが
トグルは、おもむろに
駱駝は迷うことなく馬と羊の群れを抜け、隼とその隣に佇むタオを目指した。完全に立ち止まる前に、小柄な人影が飛び降りる。ぶわりと灰色の外套がひろがり、風が夕焼け色の髪をかき上げる。ジョルメ若長老とタオが、駱駝の手綱を捉えた。
「オダ!」
「お久しぶりです、隼さん」
オダは真っすぐ隼に駆け寄った。砂にまみれて白くなった頬に微笑が浮かぶ。
オルクト氏族長が胸をそらし、声をあげて笑った。
「久しぶりだのう、使者どの! また逢えるとは思わなかったぞ」
「それは、こちらの台詞です」
オルクト氏族長は、大きく両腕をひろげてオダを抱き締めた。〈砂漠の民〉の青年の背をばんばんと叩き、豪放に笑う。
馬追いを中断させられたサートルは、瞬きを繰り返している。見物人の一部が不思議そうに近づいて彼等を囲んだ。タオが彼等に手を振って、ユルテへ戻るよう合図する。
オダは照れながら辺りを見回し、離れた処に佇んでいるトグルに気づいた。オルクト氏族長の腕を解き、改めてそちらへ頭を下げる。
トグルは無表情だ。
「盟主」
「動きがあったようですな、
アラルは慎重に、オルクト氏族長は自分の口髭を撫でながら、したり顔で声をかけた。
トグルは手綱を引いてジュベの首をめぐらせ、天幕へと歩き出した。「仕事だ」と言わんばかりに。
アラルとトゥグスは顔を見合わせると、互いの瞳のなかで笑み交わした。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
作者注:『ボードグ』は、さばいた羊の腹に焼いた石を詰めて、内側から蒸し焼きにする料理です。
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