第三章 熱砂の果て

第三章 熱砂の果て(1)


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 日が暮れると、近隣の村びとたちが地主の屋敷に集まって来た。森に隠れている盗賊を恐れているのだ。一度破られたとはいえ、護衛がいて塀があるのとないのとでは、安心感が違うのだろう。

 庭のあちらこちらで、かがりに火が入れられる。薪にかけられた油のにおいが、土に残る雨のにおいをかき消した。緋色の炎が、腰に剣を提げた男達を照らし、黒い煙が群青の夜に染みを作った。


 紹介された地主は、壮年の痩せた男だった。シジンは、石段ガートで会った老人を思い出した。彼ほど肌は黒くなく、瞳は淀んでいる。襲撃を受けた時には貯蔵穴に隠れていたという話だったが……臆病というより油断ならない危険な繊細さを、その目は感じさせた。飢えた野犬が牙を剥きだして唸っているような印象だ。

 一応、彼はシジンを歓迎すると言ってくれた。ミナスティア国では、神官ティーマの身分は貴族のなかでは最も高く、祭祀においてはラージャンより権威をもつ。おもんぱかったものらしいが、故郷のしきたりから永く離れていたシジンには、かえって煩わしかった。

 エセル=ナアヤの態度は、ずっと気さくだった。盗賊タゴイットに殺された者と熱病で死んだ者達の弔いを終えると、地主はシジンの相手をエセルに任せたので、シジンは内心ほっとした。


「シジン、こっちだ」


 エセル=ナアヤは彼を連れ、風に散る火の粉を避けて庭を横切ると、敷地の一隅へ向かった。

 家畜小屋の北に、離れがあった。護衛たちの宿所らしく、武器を持った男達が出入りしている。エセルは、仲間と挨拶を交わして中に入った。彼がシジンに屋敷の構造を説明していると、足元に小さな影がふたつ駆け寄ってきた。

 傷を負ったエセルの頬に、微笑が浮かんだ。


「お父さん、おかえりー!」

「おう。いい子にしていたか? お母さんは?」

「あっち!」


 並んで同じ方向を指さす子ども達。シジンは思わず微笑んだ。

 恐怖に疲れきった女達の顔、怒りに歪んだ男の顔。そんなものばかり観てきたシジンの心を、子ども達は明るく照らしてくれた。見慣れない風体ふうていの彼をきょとんと見上げる瞳は、灯火の明りを反射して瑠璃色に輝いている。

 エセルは、幼い方を抱き上げた。


「こいつはラーマ、こっちがアル。俺の息子たちだ。お前達、神官さまだぞ。失礼のないようにな」

「へえー!」


 好奇心たっぷりに声をあげる彼等に、シジンはにこりと笑い返した。エセルがアルの頭を撫でる。

 柱の影から、やわらかな声がかけられた。


「エセル」

「ああ、シータ。客だ。何か、食べるものはないか?」


 エセルの妻は、夫を気遣う表情で近づいたが、シジンを見て眼を丸くした。

 シジンは会釈をして、彼女の様子をうかがった。


 若い女だった。エセルより、更に若い。背は夫と同程度で、女性にしては高い方だろう。ほっそりとした優美な肢体を、紫に染めた綿の布で包んでいる。真っすぐな髪が、頬骨のはった顔の両側から燈色の滝となって肩へ流れ、光の加減によって金色に見えた。青い眸はエセルやシジンより明るく、晴れた日の波打ち際を思わせた。底の方で、驚きと警戒が揺れている。

 『シータ』は、平和と慈悲を司るウィシュヌ神の妻の名だ。信徒であることを示す印が額に描かれていた。彼女も貴族だったのだろう、耳朶の端に下がる雫形の赤い石が、かつての暮らしを偲ばせる。

 ――いったい、ここには何人の貴族がいるのだろう……?

 シジンはエセルに向き直った。


「いや、食事はいらない。子ども達の分を減らしては、申し訳ない」


 エセルは真顔になって彼に言った。


「確かに余裕はないが、こういう時はお互い様だ。お前は、俺達の頼みを聞いて、弔いをしてくれた。礼をするのは当然だ。シータ」

「はい」


 シータは硬い表情でうなずき、踵を返した。

 こう言われては、断れない……。

 子ども達は興味津々にこちらを見詰めている。シジンは勧められた椅子に坐ると、広い部屋のあちらこちらに、女性と子ども達が身を寄せ合っていることに気づいた。皆、護衛たちの家族なのだろう。衝立で空間を仕切り、生活の場としているらしい。痛ましいと思う気持ちの片隅で、彼は安堵した。

 どんなに国が荒廃していても、堅実に生き続けようとする人々が、ここにいる。



 やがて、シータが器にダル(豆のスープ)を入れて運んできた。シジンは恐縮しながらそれを受け取った。頬を撫でる湯気があたたかく、優しい。

 シジンは礼を言い、慎重にダルを口に運んだ。久しぶりに人らしい食事だ。喉を流れ胸に落ちるぬくもりが、心地よい。


「お前、ここに居てくれないか」


 エセルはしげしげと彼を眺め、期待もあらわに言った。


「お前がいてくれたら、頼もしいんだがなあ……」


 シジンは片頬で苦笑した。


「片腕では、戦力にならないぞ」

「知識は力だ。お前には、外の国を観てきた経験もある。立派な武器になるだろう」


 シジンは黙って食事をつづけた。簡単に答えることは出来ない。


 ――詳しい事情ははばかられたが、シジンが数年国を離れていたと言うと、エセルと地主は、その間にこの地で起きたことを教えてくれた。無論、彼等の観方を通じた説明だ。

 第三王女(レイ)がキイ帝国との政略結婚のために旅立つと、王制に反対する貴族たちが王太子を殺害した(ここまではシジンも予想し、噂で聞いて知っていた)。その後、ラージャンが崩御し、貴族と民衆は、生き残りの王族を担いで体制維持を図る派と、身分制度そのものを破壊しようとする反体制派に別れて争い始めた。王都は戦場になり、王族だけでなく神官族の多くが殺された。

 貴族の支配が弱まったのを機に、逃亡奴隷たちの一部が暴動を起こした。反体制派が扇動したのだと言われている。暴動は燎原りょうげんの火のごとく地方へ拡がり、折からの旱魃かんばつと津波と熱病の流行が重なって、収拾がつかなくなっている。


「津波……?」


 シジンは初耳だった。地主は苦々しく頷いた。


「東海の対岸、旧ヒルディア王国側で地震が起きた。一年前だ。津波はヒルディアとナカツイ王国と、我が国の海岸を襲った。カナストーラ(ミナスティア国の王都)も巻きこまれた」


 シジンは絶句した。昔から東国ヒルディアは地震の多い地だが、津波をおこすほどの大地震とは……。国をまとめるために必要な人材も場所も、喪われてしまったのだと理解する。


 話を聴くかぎり、ここの地主とエセル=ナアヤたちは体制維持派だ。 地主もシジンに期待するようなことを提案した。「王家が絶えた今、国をまとめるのは神官族がいい。王都を追われて居場所を失った貴族達も、徒党を組んで暴れている奴隷達も、納得するだろう」、と。

 果たしてそうだろうか? シジンは懐疑的だった。


 『神話』によってサルナームを奪われ、奴隷にされた先住民達。彼等をその立場に貶めたのは、他ならぬ神官達だ。為政者のために民衆の信仰心を利用してきたのだと気づいた時、シジンとテス=ナアヤは国を捨てた。レイ王女を亡命させ、王太子の殺害を画策した彼等こそ、反体制派だったのだ。

 そして、ことは起きた。彼の予想を超えた規模と残酷さで……。

 奴隷たちは目醒めたのだ、自分達をおおっていた欺瞞ぎまんに、寓話ぐうわにこめられた罠に。彼等のうらみが簡単に解けるとは思えない。同じことを繰り返す気にはなれない。

 しかし、荒れ果てたこの国を、どうすればいいのだろう――。


 シジンが物思いにしずんでいるので、エセルは首を傾げた。


「カナストーラへ行くのか?」


 無邪気な子ども達に、シジンは曖昧に笑ってみせた。そうしながら、頷く。

 シータがナンを出してくれる。ますます恐縮する彼に、エセルは真摯にくり返した。


「王都は廃墟になったと聞くぞ。それでも行くのか?」


『見届けなければ……』 と思ったが、シジンは黙っていた。己の立場をうまく説明出来ない。

 王家を途絶えさせたのは、自分たちだ。国を支えるべき神官の所業のせいで、貴族の権威は地に墜ちた。盗賊が闊歩かっぽし、民は熱病に苦しみ、ミナスティアは国としての体裁を失っている。

 全てが自分の責任だなどと、どんな顔で言えばいい。


「どうした? シジン」


 胸を塞がれて食事が止まってしまった彼を、エセルは親切に気遣ってくれる。

 シジンは自嘲気味に唇を歪め、首を振った。とてもではないが、彼等を真っすぐ見られない。

 エセル達が望む国と、《名無しネガヤー》達が望む国は異なっている。今の彼は、どちらにも加われなかった。


「……同国人と戦うことは、どうだ」

「ええ?」


 ややあってシジンが洩らした問いに、エセルはつり上がった細い眼をみひらいた。シジンは、彼の頬の傷を見詰めた。


「同じ国の人間と戦うことを、どう思う?」

「同じって――」


 エセルは眉間に皺を刻んだ。呆れたらしい。


「おいおい。奴等は奴隷ネガヤーだぞ?」


 シジンは瞼を伏せた。掌に包んだ椀の中のダルを見る。底の木目が透けている。ぬるくなった水面を、わずかに揺らした。

 シータは、彼と夫の顔を交互に見た。揺れる耳飾りが、血の雫を思わせる。


「そりゃあ、戦いたくはないさ。誰も、殺したいわけじゃない」


 エセルは組んだ両腕を食卓にのせ、傷を負った側の頬をシジンに向けると、歯切れわるく答えた。


「奴等の不満も、分からないわけじゃない。俺達だって、産まれた時から《ナアヤ》だからな……仕事も、住む場所も、結婚相手も決められている。それで上手くいかなければ、文句のひとつも言いたくなるだろう。……俺は、船乗りになりたかった」


 エセルは心配している妻に、肩をすくめてみせた。子ども達に穏やかに笑いかける。


「でもなあ。不満だからと言って、他人様ひとさまを殺していい理由にはならんだろ。不公平なのを我慢して、一所懸命にはたらいて収穫した作物を、暴力で奪っていい理由はない」


 エセルはやりきれないと言う風に溜息をついた。


「世間には、どうしたって解り合えない相手がいる。こちらが話し合いを望んでも、問答無用で武器を突きつけてくる連中だ。……こっちが生きていること自体が気に入らないという輩に、黙って殺されるわけにはいかない」


『そうだな……』爛れた傷を眺めながら、シジンは胸の中で肯いた。

 解り合えない相手、存在自体が気に入らない相手。彼等にとって、貴族はそうだ。それ程の憎しみを積み上げて来たのだと、認めることは難しい。

 問答無用で言い分を容れなかったのは、こちらの方だ。生まれで人を峻別しゅんべつし、超えようのない壁を築き、傷つけて来た。何百年も。重ねた壁の高さ、傷の深さは、計り知れない……。


 シジンは溜息を呑んだ。

 誰もが、己を理解されたいと望んでいる。理解を示さない相手に、何故こちらが譲歩しなければならないのかと。そう思った瞬間から、怒りの連鎖が始まる。最後には、解けない命題に辿り着くのだ。


 《人は、己を殺そうとする相手を殺してまで、生きることが許されるのか?》


 シジンは、ふと、ニーナイ国にいた頃を思い出した。〈砂漠の民〉と〈草原の民〉、キイ帝国の関係を。

 孤高の狼を思わせる、あの男の風貌を。

 蒼天に染めた外套を翻し、風のなかに立つ草原の王。部族を統一し、武力によって敵を圧倒し、〈黒の山カーラ〉の巫女に天意を問うた男。恩讐を超えて、他国との共存の道を拓いた。

 平易なみちではなかったはずだ……これからも、ないだろう。

 彼なら何と言うだろうかと、考えた――。


「俺は、」


 エセルが呟いた。シジンが見ると、彼は膝に乗せた息子の頭に手をおいていた。


「こいつらが大人になるまでに、平和な国にしてやりたい。俺達は無理でも、子ども達には安心して眠れる夜を渡したい」

「…………」

「いつか、そういう日が来ると願うのは……愚かなことか?」


 もう一人の息子を抱いたシータも、項垂れている。

 シジンは首を横に振った。


『今頃、どうしているだろうか』 母子を眺め、シジンは考えた。――ルドガー神を彷彿とさせる銀髪の男は。王女の腕に抱かれていた赤ん坊は。

 幸せに暮しているといい。もう二度と、会うことはないだろうが。

 偽善でも、自己満足でも構わない。彼女がこんな想いを知らずにいられることを、シジンは心から祈った。





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