第三章 熱砂の果て
第三章 熱砂の果て(1)
1
日が暮れると、近隣の村びとたちが地主の屋敷に集まって来た。森に隠れている盗賊を恐れているのだ。一度破られたとはいえ、護衛がいて塀があるのとないのとでは、安心感が違うのだろう。
庭のあちらこちらで、
紹介された地主は、壮年の痩せた男だった。シジンは、
一応、彼はシジンを歓迎すると言ってくれた。ミナスティア国では、
エセル=ナアヤの態度は、ずっと気さくだった。
「シジン、こっちだ」
エセル=ナアヤは彼を連れ、風に散る火の粉を避けて庭を横切ると、敷地の一隅へ向かった。
家畜小屋の北に、離れがあった。護衛たちの宿所らしく、武器を持った男達が出入りしている。エセルは、仲間と挨拶を交わして中に入った。彼がシジンに屋敷の構造を説明していると、足元に小さな影がふたつ駆け寄ってきた。
傷を負ったエセルの頬に、微笑が浮かんだ。
「お父さん、おかえりー!」
「おう。いい子にしていたか? お母さんは?」
「あっち!」
並んで同じ方向を指さす子ども達。シジンは思わず微笑んだ。
恐怖に疲れきった女達の顔、怒りに歪んだ男の顔。そんなものばかり観てきたシジンの心を、子ども達は明るく照らしてくれた。見慣れない
エセルは、幼い方を抱き上げた。
「こいつはラーマ、こっちがアル。俺の息子たちだ。お前達、神官さまだぞ。失礼のないようにな」
「へえー!」
好奇心たっぷりに声をあげる彼等に、シジンはにこりと笑い返した。エセルがアルの頭を撫でる。
柱の影から、やわらかな声がかけられた。
「エセル」
「ああ、シータ。客だ。何か、食べるものはないか?」
エセルの妻は、夫を気遣う表情で近づいたが、シジンを見て眼を丸くした。
シジンは会釈をして、彼女の様子をうかがった。
若い女だった。エセルより、更に若い。背は夫と同程度で、女性にしては高い方だろう。ほっそりとした優美な肢体を、紫に染めた綿の布で包んでいる。真っすぐな髪が、頬骨のはった顔の両側から燈色の滝となって肩へ流れ、光の加減によって金色に見えた。青い眸はエセルやシジンより明るく、晴れた日の波打ち際を思わせた。底の方で、驚きと警戒が揺れている。
『シータ』は、平和と慈悲を司るウィシュヌ神の妻の名だ。信徒であることを示す印が額に描かれていた。彼女も貴族だったのだろう、耳朶の端に下がる雫形の赤い石が、かつての暮らしを偲ばせる。
――いったい、ここには何人の元貴族がいるのだろう……?
シジンはエセルに向き直った。
「いや、食事はいらない。子ども達の分を減らしては、申し訳ない」
エセルは真顔になって彼に言った。
「確かに余裕はないが、こういう時はお互い様だ。お前は、俺達の頼みを聞いて、弔いをしてくれた。礼をするのは当然だ。シータ」
「はい」
シータは硬い表情でうなずき、踵を返した。
こう言われては、断れない……。
子ども達は興味津々にこちらを見詰めている。シジンは勧められた椅子に坐ると、広い部屋のあちらこちらに、女性と子ども達が身を寄せ合っていることに気づいた。皆、護衛たちの家族なのだろう。衝立で空間を仕切り、生活の場としているらしい。痛ましいと思う気持ちの片隅で、彼は安堵した。
どんなに国が荒廃していても、堅実に生き続けようとする人々が、ここにいる。
やがて、シータが器にダル(豆のスープ)を入れて運んできた。シジンは恐縮しながらそれを受け取った。頬を撫でる湯気があたたかく、優しい。
シジンは礼を言い、慎重にダルを口に運んだ。久しぶりに人らしい食事だ。喉を流れ胸に落ちるぬくもりが、心地よい。
「お前、ここに居てくれないか」
エセルはしげしげと彼を眺め、期待も
「お前がいてくれたら、頼もしいんだがなあ……」
シジンは片頬で苦笑した。
「片腕では、戦力にならないぞ」
「知識は力だ。お前には、外の国を観てきた経験もある。立派な武器になるだろう」
シジンは黙って食事をつづけた。簡単に答えることは出来ない。
――詳しい事情は
第三王女(レイ)がキイ帝国との政略結婚のために旅立つと、王制に反対する貴族たちが王太子を殺害した(ここまではシジンも予想し、噂で聞いて知っていた)。その後、
貴族の支配が弱まったのを機に、逃亡奴隷たちの一部が暴動を起こした。反体制派が扇動したのだと言われている。暴動は
「津波……?」
シジンは初耳だった。地主は苦々しく頷いた。
「東海の対岸、旧ヒルディア王国側で地震が起きた。一年前だ。津波はヒルディアとナカツイ王国と、我が国の海岸を襲った。カナストーラ(ミナスティア国の王都)も巻きこまれた」
シジンは絶句した。昔から
話を聴くかぎり、ここの地主とエセル=ナアヤたちは体制維持派だ。 地主もシジンに期待するようなことを提案した。「王家が絶えた今、国をまとめるのは神官族がいい。王都を追われて居場所を失った貴族達も、徒党を組んで暴れている奴隷達も、納得するだろう」、と。
果たしてそうだろうか? シジンは懐疑的だった。
『神話』によって
そして、ことは起きた。彼の予想を超えた規模と残酷さで……。
奴隷たちは目醒めたのだ、自分達をおおっていた
しかし、荒れ果てたこの国を、どうすればいいのだろう――。
シジンが物思いにしずんでいるので、エセルは首を傾げた。
「カナストーラへ行くのか?」
無邪気な子ども達に、シジンは曖昧に笑ってみせた。そうしながら、頷く。
シータがナンを出してくれる。ますます恐縮する彼に、エセルは真摯にくり返した。
「王都は廃墟になったと聞くぞ。それでも行くのか?」
『見届けなければ……』 と思ったが、シジンは黙っていた。己の立場をうまく説明出来ない。
王家を途絶えさせたのは、自分たちだ。国を支えるべき神官の所業のせいで、貴族の権威は地に墜ちた。盗賊が
全てが自分の責任だなどと、どんな顔で言えばいい。
「どうした? シジン」
胸を塞がれて食事が止まってしまった彼を、エセルは親切に気遣ってくれる。
シジンは自嘲気味に唇を歪め、首を振った。とてもではないが、彼等を真っすぐ見られない。
エセル達が望む国と、《
「……同国人と戦うことは、どうだ」
「ええ?」
ややあってシジンが洩らした問いに、エセルはつり上がった細い眼をみひらいた。シジンは、彼の頬の傷を見詰めた。
「同じ国の人間と戦うことを、どう思う?」
「同じって――」
エセルは眉間に皺を刻んだ。呆れたらしい。
「おいおい。奴等は
シジンは瞼を伏せた。掌に包んだ椀の中のダルを見る。底の木目が透けている。ぬるくなった水面を、わずかに揺らした。
シータは、彼と夫の顔を交互に見た。揺れる耳飾りが、血の雫を思わせる。
「そりゃあ、戦いたくはないさ。誰も、殺したいわけじゃない」
エセルは組んだ両腕を食卓にのせ、傷を負った側の頬をシジンに向けると、歯切れわるく答えた。
「奴等の不満も、分からないわけじゃない。俺達だって、産まれた時から《ナアヤ》だからな……仕事も、住む場所も、結婚相手も決められている。それで上手くいかなければ、文句のひとつも言いたくなるだろう。……俺は、船乗りになりたかった」
エセルは心配している妻に、肩をすくめてみせた。子ども達に穏やかに笑いかける。
「でもなあ。不満だからと言って、
エセルはやりきれないと言う風に溜息をついた。
「世間には、どうしたって解り合えない相手がいる。こちらが話し合いを望んでも、問答無用で武器を突きつけてくる連中だ。……こっちが生きていること自体が気に入らないという輩に、黙って殺されるわけにはいかない」
『そうだな……』爛れた傷を眺めながら、シジンは胸の中で肯いた。
解り合えない相手、存在自体が気に入らない相手。彼等にとって、貴族はそうだ。それ程の憎しみを積み上げて来たのだと、認めることは難しい。
問答無用で言い分を容れなかったのは、こちらの方だ。生まれで人を
シジンは溜息を呑んだ。
誰もが、己を理解されたいと望んでいる。理解を示さない相手に、何故こちらが譲歩しなければならないのかと。そう思った瞬間から、怒りの連鎖が始まる。最後には、解けない命題に辿り着くのだ。
《人は、己を殺そうとする相手を殺してまで、生きることが許されるのか?》
シジンは、ふと、ニーナイ国にいた頃を思い出した。〈砂漠の民〉と〈草原の民〉、キイ帝国の関係を。
孤高の狼を思わせる、あの男の風貌を。
蒼天に染めた外套を翻し、風のなかに立つ草原の王。部族を統一し、武力によって敵を圧倒し、〈
平易な
彼なら何と言うだろうかと、考えた――。
「俺は、」
エセルが呟いた。シジンが見ると、彼は膝に乗せた息子の頭に手をおいていた。
「こいつらが大人になるまでに、平和な国にしてやりたい。俺達は無理でも、子ども達には安心して眠れる夜を渡したい」
「…………」
「いつか、そういう日が来ると願うのは……愚かなことか?」
もう一人の息子を抱いたシータも、項垂れている。
シジンは首を横に振った。
『今頃、どうしているだろうか』 母子を眺め、シジンは考えた。――ルドガー神を彷彿とさせる銀髪の男は。王女の腕に抱かれていた赤ん坊は。
幸せに暮しているといい。もう二度と、会うことはないだろうが。
偽善でも、自己満足でも構わない。彼女がこんな想いを知らずにいられることを、シジンは心から祈った。
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