第二章 自由の戦士(6)
6
水たまりに映る空は、昨夜の嵐を忘れたように晴れていた。水面を白い雲が泳いでいる。
シジンは地上の空をさけつつ、凹凸の多い道を歩いていた。
いたんだ革靴は、とうに棄てた。素足は蛭に吸われて傷ついている。
河を渡ってミナスティア国に入ったシジンは、数日間、森のなかを彷徨っていた。
道は南北に延びている。南へ向かって進むと、路傍に畑があらわれた。雨季の種蒔きに備えて作られた畦が、整然と並んでいる。牛糞を壁に貼った民家も出現した。
菩提樹が、井戸の上に枝をひろげて影をつくっている。太い根が地表にあらわれ、石積みを持ち上げている。一匹の痩せた野良犬が、周囲の土を嗅ぎまわっていた。
木の幹にべっとり塗りつけられた赤い染料が目をひいた。流れる血を思わせる鮮やかさだ。豊穣を司るルドガー神(暴風神)か妻のスウェリを祀っているのだろう。
シジンは足を止め、しばし眺めた。
民衆の素朴な信仰の証だ。神官なら、立ち寄って祈りを捧げても不自然ではない。だが、今の彼は、その行為に疑問を感じていた。
自分は神々を裏切り、国を棄てた。内乱のきっかけをつくって国土を荒廃させた者が、いまさら何を祈ろうというのか。こんな自分が祈ったところで、聞き届けてくれるのだろうか。
否。――本当に、神はいるのか?
祈っても、王女は連れ去られ、友は片脚を切断された。彼の罪なら、彼一人を罰すればよいのに……。
シジンはここへ至る森のなかで、荒廃した村をいくつも観た。住人は逃げたか、悉く殺されていた。吊るされている幼い少女の死体さえあった。
全てを失ったと思えるのに、シジンはまだ、あの老人ほど虚心に神を待つ気持ちになれなかった。かつて己が説いていた神話に対する疑問は、胸にくすぶりつづけている。隠された罠に気づいたときの衝撃と絶望は。
……それでも何処かに神はいると、自分は信じたいのだろうか。
物欲しげに木の根を嗅いでいた野良犬が、すりきれた尻尾をはたはた振りながら、井戸の向こうに消えた。
シジンは、己の心に残る虚栄に気づいた。神々の存在を疑うなど……所詮、
彼は菩提樹から目を背け、歩き出した。
ミナスティア国の農村は、地主を中心にまとまっている。貴族階級の地主が農奴を支配し、その村を更に上位の貴族や神官が支配している。村外れに住むのは、奴隷階級の小作人だ。――今は、どうなっているのか知らないが。
次第に畑が増え、家の数が増えていく。不思議なほど静かだった。先刻の野良犬以外に、動くものがない。風が木々の梢を揺らし、木の葉が擦れあう以外に、音もない。村全体が息をひそめているようだ。
シジンは怪訝に思った。これまでに観た廃村の風景が脳裡をよぎり、迷った末、手近な家の扉を叩いた。
返事は無い。
シジンは片方だけの手を腰にあてて考えた。王が
『何があった?』
灰色の不安が染みのように広がって心を浸す。罪悪感とないまぜになった寂寥がこみ上げ、彼は苦虫を噛み潰した。
ここにいても、住人の行方を確かめる術はない。先へ行こう。
シジンは、己を励まして歩き出した。南へ、カナストーラを目差す。かつて国の首都であり、彼の故郷だった。いつからか、見届けようという気になっていた。何があったのか、何が起きているのか――それが自分の責務だと感じていた。
亡き友への……王女への。逝った者たちへの、唯一の
黙々と足を運ぶシジンの前に、濃緑の森と向かい合って建つ屋敷が現れた。
石を積んで土台にした高い土塀が、ぐるりと周囲をかこんでいる。彼の身長の倍はあろうか。上に藁葺きの屋根が乗っていて、そこから垂れる雫が陽射しに輝いていた。これまで見掛けた小作人の家とは規模が違う。地主の館だろう。
シジンは、道の対岸の森との距離を目で測りつつ、土塀を眺めた。
ぬかるんだ道には、水溜りと無数の足跡と、数本の
シジンは眼を細め、耳を澄まして気配を探った。
半分開いた門扉の向こうから、こっこっこっと
人がいる。
シジンは道の真中に立ち、門に向き直った。
野生の獣さながら身構える。肌が薄くなり、音と空気の流れが、にわかに鋭く感じられる。
シジンは意を決して、足を踏み出した。
門に近づくと、
数人の男達が屋敷の前に佇んでいる。シジンは、彼等に声をかけようと息を吸い込んだ。
と、
「動くな」
彼の喉下に、刃が突きつけられた。
*
シジンは動作を止め、幅広な剣のきっ先を見下ろした。一撃で彼の腕を斬り落とした北方遊牧民のものに比べると、厚さも、重さもない。払いのけることは容易だったが、その気は起きなかった。顎に触れるか触れないかに差し出された刃に映る自分の
「何者だ?」
彼の態度が静かなので、不審を覚えたのだろう。剣を持つ男の声に戸惑いが交じった。
男は剣先を動かさずに彼の顔を覗きこみ、頭巾を剥いだ。南国の陽光が眼を射る。思わず顔をしかめるシジンの前に、こちらをしげしげと観る金赤毛の男がいた。
男の髪は癖毛で、耳の上にかかっていた。首の後でひとつに括られている。目尻の切れ上がった一重の鋭い眸が印象的だ。日焼けした面の半分をおおう爛れた傷が目についた。まだ新しい。皮膚がはがれ、血がにじんでいる。
シジンは黙ってその傷を観察した。
彼に敵意がないと判断した男は、剣を下ろしながら訊いた。
「キイ帝国の人間か?」
『貴族だ……』彼の言葉で、シジンは判った。目だけを動かして相手の全身を眺める。粗末な綿の衣を着ていたが、男の発音はミナスティア国の貴族階級のものだった。かつてそうだった、と言うべきか。
シジンは微かに首を横に振った。男が眼を眇める。彼と同じ藍の瞳だ。下ろされかけた剣先が、胸元で止まった。
「この国の者か?」
「そうだ……」
シジンはかすれた声で答えた。
男はさらに眼を細めると、彼の頭のてっぺんから足先まで、無遠慮に眺めすかした。特に、髪と肌の色を――理由は、シジンには解っていた。
ミナスティア国の王族は、北方の〈草原の民〉と同じ血を引いている。〈旧き民〉は、黒髪と黒い瞳、黄色い肌をしている。
先住民は、ニーナイ国民にちかい褐色の肌と赤茶色の髪、水色の瞳をもち、殆どが奴隷だ(故に、ミナスティア王家はニーナイ国を軽んじていた)。彼等を支配する貴族は――神話では〈神の民〉との混血で、王族ほどではないが色のうすい肌と、濃い青の瞳を持つ。髪は黄金にちかい赤毛で、その外見はキイ帝国の民に似る。
姿だけで、生まれと身分が判るようになっているのだ。
人生も。
「
男は剣を完全に下げた。呟く声に驚きが交じった。
「王族とともに絶えたと聞いた。生き残りがいたのか……」
シジンは苦い気持ちで肯いた。足を踏みだして敷地に入り、辺りを見渡す。一目で、変事が生じたのだと判る。
雨でゆるんだ庭は踏み荒らされ、倒れた篝火や松明の破片が散らばっていた。割れた陶器、泥にまみれた穀物、引き裂かれた布。屋敷の壁と土塀には血痕が散り、朝の光になまなましく照らされていた。
シジンは、壁にのこる刀傷をみて眉根を寄せた。
「何があった?」
「
男は自分の頬の傷にふれ、痛そうに顔をしかめながら答えた。他にも武器を帯びた者が数人、土塀の側に立っている。
シジンは首を傾げた。
「タグー?」
「逃亡した
シジンは眉間の皺を深くした。廃墟と化した村の光景が脳裡にうかぶ。吊るされた娘の影が、記憶のなかで重く揺れた。
男は、ぎりりと奥歯を噛み鳴らし、唸るように言った。
「連中、義賊をきどって、地主の館を夜討ちしては食糧を奪っているんだ。逃げ出して仲間に加わる奴隷が、後を絶たない。こんなご時世じゃ、無理もないがな……。来いよ」
男は剣を鞘におさめると、シジンを促して歩き出した。屋敷の西へ向かう。
シジンは少し躊躇ってから、彼について行った。
顔に火傷を負った男を気遣い、仲間達が声をかける。男は片手を挙げて応えながら、すたすたと庭を横切り、目差す建物にたどり着いた。入り口を蔽う
続いて入ったシジンは、しばらく何も見えなかった。瞳が暗さに
むきだしの柱が屋根を支えている。倉庫として使っていたのだろう、間仕切りの壁はなく、入り口と同じ筵が掛けられて視界を遮っていた。四角い影が重なる間で、人影が動いている。
シジンは息を呑んだ。
「熱病だ。おっと。それ以上、近づかない方がいい」
男は
むきだしの地面に藁と筵を敷いた寝床に、人々が横たわり、喘いでいた。奴隷の容姿をもつ者たちだ。十数人もいるだろうか、男、女、子どもの姿もある。うめく声、水をもとめる声が、シジンの耳に響いた。看護をする女達が数人いて、身体を拭いたり麦粥を食べさせたりしている。
「これでも、マシな方なんだ」
シジンの抗議のこもった視線を受けて、男は肩をすくめた。
「ここの地主は気前がいい。病人の為に屋敷の一部を開けて、食糧を出してくれたんだからな。他の村は、どうなっていることやら」
『それで、小作人の家が空だったのか……』 シジンは納得した。男は彼の隣に並んで立ち、忌々しげに言った。
「タグーは、そんなことは知ったことじゃないらしい。昨夜の嵐に乗じて門を破り、食糧を奪って行った。殺された奴もいる」
「…………」
「こいつらに喰わせる食糧が、もう、ここにはない」
男はそう吐き捨てると、踵を返して表へ出た。シジンは彼に従った。
男は、庭の中ほどで足を止め、雨上がりの澄んだ空気を深く吸い込んだ。
「……地主は?」
男の背に、シジンは話し掛けた。彼が振り返り、傷のない方の片眉を持ち上げる。
「あん?」
「地主は、無事なのか?」
「ああ」
男は嗤った。傷のせいで、やや引き攣った嘲笑になった。
「無事も無事。襲撃の間、酒をしまう穴にもぐりこんで、ガタガタ震えていたらしい。ぴんぴんしてるぜ」
「そうか……」
「護衛を増やして、奪われた物を取り戻す算段をしている」
男はシジンの身体をざっと眺めた。神官職にしては発達した筋肉と、頬や首筋にのこる無数の傷痕をみて、にやりと唇を歪める。
「お前も戦うつもりなら、居場所はあるぜ」
シジンは、じっと相手の顔を見た。男は、曖昧に苦笑した。
「何だよ」
「……お前は、それでいいのか?」
「何がだ?」
質問の意味が判らなかったらしく、男は首を傾げた。やや
「やられっぱなしってわけにはいかないだろ。国や王がどうなろうと、喰わせて、喰っていかなきゃならんのだから」
『喰っていく……』頷きかけて、シジンは気づいた。少し驚いて瞬きをする。
「お前、家族がいるのか?」
「いちゃ、おかしいか。妻も子もいるぜ、ちっこいのが二匹」
男は、今度は朗らかに笑った。
シジンは彼を自分より若いと思っていたのだ。呆然としかけて思い出す。自分の年齢では、妻子がいない方が珍しいのだと。
三年……。離れていた間に、故郷はすっかり変わっていた。熱病が流行り、奴隷が反乱を起し、貴族の権威は地に落ちた。王も神官も絶えている。
だが、それが何だと言うのだ。
定められた人生など、どこにもない。
「そうだ」
考えこんでいたシジンは、男の声で我にかえった。彼は神妙な眼差しでこちらを見ていた。
「お前、
シジンは、彼を見詰めた。
『神はいるのか?』――幾度となく繰り返した問いが、胸を過ぎる。そういう意味ではないと理解していた。
どんな罪を犯そうと、神の存在を疑っていようと。男が求めているのは《神官》だ。彼の行為に期待している。
シジンは、自分は神を説くことはもう出来ないと思った。だが、弔うくらい、どうということはない。国は
シジンはおもむろに頷いた。
男は、ほっとして頬をゆるめた。
「そういえば、名前をまだ聞いていなかったな。俺は、ナアヤだ。エセル=ナアヤ」
ナアヤ。
珍しい名前ではない。差し出された手を握り、シジンは思った。ここでは、姓は階級を示す。――
「……シジン=ティーマだ」
「シジン。よろしくな」
エセルは握手に力をこめた。火傷が痛々しい面の中で、皓歯が煌めいた。一瞬、亡き友の面影が重なる。
シジンは、黙然と彼を見詰めた。
~第三章へ~
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