第四章 藁で作った狗

第四章 藁で作った狗(1)

*悪夢の中ですが、多少の流血の描写があります。



           1


 濃厚な緑のにおいに包まれて、彼は目覚めた。

 すぐには自分の居場所が判らず、瞬きをくりかえす。視線の先、木々の重なり合った梢の隙間から青空がのぞいている。真っ赤な羽の小鳥がそこをよこぎり、仲間をよぶサルの吼え声が後を追って響いた。肩の下には、やわらかな羊歯シダの葉が重なっている。

 彼は仰向けに寝転んだまま片手を持ちあげた。顔の前に掌をかざし、しげしげと眺める。日焼けした肌の下を流れる静脈が、失われた文字のようにみえた。じっと凝視みつめていると、男の声がした。


「ロウ! どこにいる?」


 おぼえのある声に身を起こす。木の枝を掻きわけて、赤毛がのぞいた。


「やっぱりここか」

「デファ」


 懐かしさが胸にこみ上げる。別れてどれくらい経つだろう、養父は、こけた頬に例によって皮肉っぽい笑みを貼りつけた。


「探したぞ。帰ろう。まだ仕事が残っている」


 濃い緑の木陰のなかで、歯のしろさが目に沁みた。黙って手をのばすと、デファの大きな手がそれを包んだ。褐色の骨張った手、ざらざらとした働く者の手だ。立つと彼の目線は養父の胸の高さにあった。筋肉の在り処がはっきり判る腕を眺めながら、彼はついていった。

 二人は大した困難もなく森を抜け、切りたった岩壁が向かい合う場所へ出た。いかづちの神が剣を振り下ろして割った断崖が、天へと垂直にそびえている。

 彼がぽかんと口を開けていると、デファが笑った。


「どうした。初めて観たような顔をして」


 はじめて観たのだ……。

 口の中で反論を呑む。そんなはずはなかった。ほぼ毎日、ここから天を仰ぎ、登り、彫り、描いていたのだから。

 しかし、こうだったろうか? 本当に、こんなにも天高く、険しかったろうか。思い出せない……。


「行くぞ、ロウ」


 絵師は戸惑う少年にかまわず先へ行く。手が離れたので、彼は慌てて後を追った。養父の背は痩せて小さく、ややかがめて歩くさまは淋しげだ。初めて気づくその姿に、彼はそっと息を呑んだ。


 森の木々は幾重にも枝を重ねて谷を守っている。木立ちをぬけると、岩壁に架けられた足場が現れた。丸太を組んで繋ぎ合わせ、ところどころに板を渡したやぐらは、身を剥いだ魚の骨を思わせる。

 黄色い肌と明るい赤毛。キイ帝国民の特徴をもつ男達が、麻の粗末な衣をまとい、崖のそこかしこで作業をしていた。岩を削り、磨き、描きだした神々に、砕いたギョクの粉とにかわと漆喰を用いて彩色を施す。あるいは胡坐を組んだ男神であり、あるいは天を舞う女神たちだ。服装も仕草も少年には馴染みのない、名も知らぬ神々だった。

 それでも、信仰は解る。

 毎日毎日、雨の日も風の日も、男達は櫓に登り、険しい断崖に向かい、飽かず描き続けていた。仰げば首が痛くなり、頂上は雲に届くとさえ思われる。崖いちめんに何代もかけてびっしりと刻まれた情熱が、観るものを圧倒する。地上に神の国をむかえようと――


 佇む彼の目に、足場へ向かう養父の姿が映った。山を割り岩を砕く巨大な力の前ではいかにも小さく、吹けば飛びそうだ。

 ぐらり、やぐらが揺れる。


「…………!」


 危ない! と警告を発するまもなく、ガラガラと音をたてて丸太が倒れかかり、彼は両腕で頭を庇わなければならなかった。妖艶な微笑みを浮かべた女神の頬に亀裂がはしり、衆生に差しのべられた手が折れる。砕けた石砂と顔料がもろともに降りかかる。墜ちたへきが岩上を転がり、作業の足場を支える板が、ばしんと地を叩いた。

 デファが、叫び声をあげて落下する。


 こんなはずはない。こんなことが、起きていいはずがない。


 小さな頭蓋骨の片隅で、誰かが悲鳴をあげている。――無視して、彼は駆け出した。

 絵師のいた場所に近寄ると、辺りの風景が変わっていた。

 東の空、黒い森の向こう。金色の朝の光を背景に、燃えている緋い炎が見える。焦げた木のにおい、潰れた下草のにおいに交じって、生々しい血のにおい、肉の焼けるにおいがした。

 炎の破片を宿した煤が、風に乗って通り過ぎる。黒と赤の熱い霧が晴れると、神の顔を彫刻した巨大な岩に片手と頭だけを残して下敷きになった絵師の姿が現れた。

 彼は目をみはり、よろめいた。


 とろり――粘りけのある鮮やかな血液が、岩の下から流れ出し、大地に染みをひろげていく。

 とろり。

 穏やかな、万物にそそぐ慈悲の微笑をたたえた神の背後から。

 とろり。


 瑞々しい露を宿した草の葉の上にひろがって、少年の裸足へと影を伸ばす。慌てて後退する彼の目に、養父の青い瞳が映った。細波さざなみひとつない湖の水面みなもさながら晴れた空を映す、澄んだ瞳が……。

 赤と、黒と、青と、においと音がまじり合い、渦を巻いて彼を包んだ。少年は、がくがく震えながらその場に跪いた。


『お前が悪いんだ!』


 あの女の声が聞える。

 彼は両手で耳を覆った。視線は養父の死に顔から離れない。


『お前が悪い! お前のせいだ!』


 女が繰り返す。理不尽な事項をすべて彼に負わせ、罪を糾弾する。存在を否定する。

 違うと、彼は言いたかった。違う――こうではない。こうではなかったはずだ。

 しかし、一片の迷い、一瞬の疑問が、問い返す。

 本当に、そうか? 


『お 前 な ん か 死 ん で し ま え』



               *



 小さな即席の天幕のなかで、鷲は目覚めた。瞼を開けると当時に、はね起きる。

 体じゅうに、びっしり汗をかいている。全力で走った後のように鼓動が速く、息があがっていた。こめかみが痛い。脈打つ血管の音が聞える。『まいったな』額を手の甲でぬぐい、鷲は舌打ちした。


『今度は、デファかよ……』


 胸に残るありったけの想いを吐き出そうと、嘆息した。

 上着の襟をはだけ、くつろげる。腕を伸ばし、天幕の入り口の蔽いをよけた。ひやりとした風とともに蒼白い朝の光がさしこむ。紫の空をきりとる砂漠の稜線は、昨日と変わりない。

 ほっと息をつく。

 もともと鷲は滅多に夢をみない。観ても記憶に残らないので気にすることもなかったのだが、最近のこれは、こたえた。『あの時』――幼い娘を抱いて突然記憶がよみがえったとき以来、観る夢・覚えている夢が、全て悪夢なのだ。


 鳶(鷲の前妻)が殺された場面を、何度も観た。血まみれの鵙(隼の姉)の姿も……。懐かしい養父デファは殺され、圧倒的に多いのは、幼い自分が殺されそうになる夢だった。毎回、その場に居合わせた生々しさで動悸を打ち、冷や汗をかいて覚醒する。今さらだが、どれだけ死に近い場所で生きてきたのかを、鷲は思い知った。

 夜毎、あの女が現れる。指さし、糾弾する。灰色がかった青い瞳が。繰り返す呪詛が。


 《お前なんか死んでしまえ》


 全て、彼が悪いのだと……。

 鷲は苦虫を噛み潰した。唇を舐めると、血と砂の味がした。片方の膝を立て、よりかかる。冗談ではなかった。

 デファが死んだのは、キイ帝国の兵士が攻めて来たからだ。当時のあの国の政情がどうだったかは知らないが、国境の僻地にこもって神像を描いていた彼等には、何か宗教上の事情があったのだろう。

 母親に棄てられて言葉すら失っていた少年をデファがひろったのは、単なる偶然のはずだ。トワソウの姉妹に出会ったのも。

 もず(隼の姉)と鳶が殺されてしまったのは、ケイを匿っていたからだ。彼を狙うナカツイ王国の村人に追われた……。雉だって、盗賊に襲われなければ能力ちからが現れることなどなく、平穏に暮らせただろう。


 ――望んで異端となる者はいない。故意に他人を傷つけ、憎まれたいとおもう者はない。

 選択がまねく結果の全てを予想できる者はいない……誰もが懸命に、その時、その時の精一杯を懸けて幸福を求めている。銀髪碧眼であることも、能力があることも、願ったわけではない。

 全てを自分の責任にされてはたまらなかった。


 《お前が悪いんだ!》


 眉根を寄せ、鷲は溜息を呑んだ。ゆっくり首を横に振り、迷子さながら膝を抱える。頬に長髪がほつれかかり、唾を飲む動作に痛みが伴った。

 レイと暮らしてきたからではないが、鷲は、誰の記憶にもそれほど信頼を置いてはいなかった。人は所詮、おのれの立場からしか物事を判断できない。記憶は常に変容し、都合よく歪められ、本人にも事実が判らなくなる。

 真実は、人の数だけ存在する。

 何もかもを憶えておくことなど出来ないのだ……。歪め、解釈をほどこし、忘れることで人は生きていけるとさえ言える。

 だから鷲は、おのれの記憶さえまともに信じるつもりはなかった。それなのに、いかりが消えないことが嫌だった。

 あの女への。


 鷲は、強く奥歯を噛みしめた。眸は地平線をふちどる光の柵をみすえている。夜明けの風ははがね色の髪に沁み、肩を冷やした。

 記憶の母を――あれが母親だと認めたくなかったが――鷲は憎んだ。ひとりの人間、それも女性に対して、かつておぼえたことのない烈しさで。大人になり、子を持つ年齢に達するまで忘れていたのが、信じられない。

 否。忘れなければ、生きてこられなかったのだ……。

 鷲は唇を噛み、にじんだ血を舐めた。心底、己を嫌悪した。

 実父を憶えていない分、憎しみは、母と自分自身に向けられた。どす黒く渦を巻き、他の感情をおしのけて心を占めてしまう。子どもがこんな想いを抱いて生きられたとは思えない。今でさえ、苦しい。

 幼かった自分を憐れんだ。

 頑是がんぜ無く、己に向けられた憎悪の意味など解らなかった。それを、あの女は殴り、飢えさせ、容赦なく崖下へ蹴り落とした。

 消えることのない呪詛を添えて。


 他人なら、間違いなく止めている。ゆるす理由はどこにもない。

 しかし――。

 愾り、憎めば憎むほど、痛感するのだ。真にもとめるものの正体を。


「…………」


 泣きたい気持ちが胸にあふれて、鷲は視線を落とした。靴が砂に描いた模様を眺める。傷ついた唇から、ふるえる長い吐息が漏れた。

 幼児の記憶がどれほど確かか知らないが、何度想いかえしても、いくら記憶を手繰っても、他の姿で現れてくれない以上、やはり、あれが母なのだろう。

 あいつが

 認めたくなくても、この世でただ一人の、自分を産んだ母親なのだ――。


 鷲は、声をたてずに嘲った。嗤わずにいられなかった。

 どうあって欲しかったのだ。デファのような父親か、鳶(前妻)のような娘か? 憶えていたところで、棄てられた事実は変わらないではないか。我が子を殺した親だということは。

 いったい、どんな幻想を抱いていた。

 幼子を抱く、鷹のような?

 己がまっとうな親ですらないのに?


 微笑む養父も、幸福だった頃の鳶(前妻)も、鷹も、今の彼の夢には現れてくれなかった。闇の中で膝を抱える内面から、優しい人々は姿を消してしまった。どこまでが夢でどこからが現実なのか、判らない。何が事実で、何が手前勝手にねじ曲げた真実なのか。

 鳶(娘)に逢いたかった……愾りにも哀しみにも染まらない、まっさらな笑顔を見たいと思った。たとえ、そのたびに呪いに身をかれるのだとしても。


『俺は、逃げているだけだな……』

 鷲は眼を閉じ、肩を抱く腕に力をこめた。



 日が完全に昇り、藍色の夜が西の地平に消え去ってから、鷲は天幕を出た。長身をやっと覆う羊布デーブルの下から這い出て、伸びをする。砂まじりの風が長髪をかき上げ、外套の裾をはためかせた。

 今日も良く晴れている。黄金の砂丘の波と青空が眩しい。そのひろさが彼には必要だった。遮るもののない視界がすさんだ心を慰める。


「行こうか。なあ」


 座っていた駱駝ラクダに声をかけ、たわんだ首を撫でた。相棒は鼻を鳴らし、口を動かすのを止めて立ち上がった。鞍につけられた木鈴が、カランと乾いた音をたてる。背中に積もっていた赤い砂がパラパラと落ち、風に吹かれて舞い上がる。

 鷲は、天幕を巻いて鞍に括りつけた。水を入れた革袋に口をつけ、駱駝にも分け与えてから、焼きしめたナンを齧る。食欲は相変わらずなかったが、食べなければ身が持たない。数口飲みこむと、のこりは袋に戻した。

 道のりは長い。ミナスティアの国境に辿り着くには、まだ数日かかるだろう。

 悪夢が消え去るのには、どれくらいかかるのか、見当がつかなかった。

 行かなければならない……。

 鷲は手をかざし、太陽の位置と、大地に伸びる己の影の向きを確認した。


 ――今の自分の状況をシジンが観たら、何と言うだろう?


 駱駝の手綱を引きながらふと頭を過ぎった考えに、鷲は唇を歪めた。外套を羽織りなおし、肩をすくめる。

 シジンが命懸けで守った王女は、棄てた国のことを忘れられず、罪悪感を拭えない。自分は蘇った過去の亡霊に心を乱されて、幼い我が子の側に居られない。

 『忘れてくれ』 と言っていた。忘れて幸せになれという神官の願いのどちらにも、自分達は反している。

『莫迦だな……』 鷲は思った。まったく、救いようのない莫迦だ。

 何と言うかだと? 決まっている。シジンは怒るだろう。


 俺が、奴に腹を立てているのと同じ理由で……。





―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

*「藁で作ったいぬ」=芻狗すうく: 古代中国で神前に供えられた わら細工の犬のこと。

  老子『道徳教』第五章 「天地不仁、以萬物為芻狗(天地はいつくしみならず、万物を以って芻狗すうくと為す)」から。


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