第二章 自由の戦士(3)


          3


 日の出前。オダは、二頭の駱駝ラクダの手綱をひいて水路沿いの道を歩いていた。

 紫の天の片隅では、明けの明星が、けがれない純白の光を放っている。その真下では、黒く盛りあがった砂丘の稜線が金色に輝いて、周囲の空を染めていた。

 やがて昇る旭日の予兆に、大気がふるえている。


 オダは、徐々に暖かくなる風を羊毛の外套ごしに感じ、ひとり微笑んだ。背後で駱駝が優しく鼻を鳴らし、蹄が石畳の路面をかく。それは、青年の鼓動とともに出発のときを告げる、隊商カールヴァーンの木鐸を想いおこさせた。

 彼にとっては、久しぶりの旅だ。緊張と期待を胸に抱いていた。

 また、彼等に逢えるのだ。


 きっかけは、四年前にさかのぼる。

 砂漠に倒れていた鷹(当時は、タパティと呼んでいた)をひろい、隊商の用心棒をしていた鷲達に出会ったのは、オダが十五歳になるかならないかの頃だった。ニーナイ国の使者として〈黒の山カーラ〉へ向かい、スー砦へ、さらにキイ帝国内を旅した。鷲と雉と隼と、鳩と鷹と一緒に過ごした日々は、オダにとって宝物のような経験だった。

 ナカツイ王国の商人エツイン=ゴル、《星の子》と〈黒の山〉の人々。キイ帝国のリー将軍と、妹のヴィニガ姫、セム・ゾスタとセム・ギタ。そして、敵であった〈草原の民〉の族長トグルと、妹タオ。

 一度還り、また逢って……戦乱のなかの旅は危険が多かったが、それ以上に得たものも多かった。あの日々から、青年の胸には、消えることのない灯火がちろちろと燃え、ときに行く手をしめす松明となっていた。

 『また逢える』――その想いは、彼の心を強烈に照らし、殆ど息を止めてしまいそうだった。オダは足を止め、つめたく澄んだ朝の空気をふかく吸い、自分を落ち着けようとした。しかし、ひたひたと岸辺に打ち寄せる波か湖面を過ぎるさざなみのような感情を、完全に抑えることは難しい。

 青年は震える想いを噛みしめ、再び歩をすすめた。


 脳裏に、毅然とした紺碧ラピスラズリの瞳が現れる。白銀の睫毛にけぶる、怯みない眼差しが……奥に、きらめく星の微笑をたたえて。

 隼の女性にしては低めの声と鞭のようにしなやかな身体を、オダは想い出した。細い腕からくりだされる剣の一撃が、敵をなぎ倒す。

 トグルの星影を反射して藍色に艶めく黒髪と、透徹な緑柱石ベリルの瞳。仕草につれて翻る王の外套と、力強く大地を蹴る愛馬神矢ジュベの蹄。

 今頃、どうしているだろうか。タオは、アラルは、オルクト氏族長は……。

 過酷な運命の中で、それでも希望を失わずに生きる彼等は、青年にとって神話の神々よりも親しい英雄だった。彼等に逢うことは、生きることの厳しさに対峙することだ。届くとは思えない、同じ場所に立てるとは思わない――けれども、惹かれてやまない、少年の日の憧憬だった。


「キノ。そんな所にいたら、見えないだろ」


 内面に広がる世界に魅せられていた青年は、低い声で現実に戻った。

 湖の水をひきいれた共同の水汲み場で、鷲は、石段に腰掛けていた。父母が湖で魚を獲る漁師なため、朝の早いキノとロンティの兄妹が、彼の手元を覗き込んでいる。天人テングリの銀灰色の長髪と白い肌は、月のように淡く輝いていた。

 鷲は、水面に顔を映して髭を剃っているところだった。

 長く伸びた髭を剃るのは、忍耐の必要な作業だ。彼は痛そうに顔をしかめ、あちこち首をそらし、苦労して剃っていた。作業を見守る子ども達の瞳は、きらきらと光っている。

 オダは思わず微笑んだ。彼等を(特に鷲を)驚かせないよう、静かに声をかける。


「……おはようございます、鷲さん」


 鷲は小刀を水に突っこんで洗いながら、青年を振り向いた。左の頬にまだ髭が残っている。


「おはよう、オダ」

「遂に、観念したんですね」


 鷲は駱駝たちに場所を譲り、唇を歪めた。


「放っておこうと思っていたんだが、鳩に叱られた。これから当分、剃ってる暇はなさそうだしな」

「そうですねえ」


 鷲の髭は伸びれば見事なので、オダには羨ましいのだが、鳩は「きたない」と言って嫌うのだ。鷹は、とっくに諦めているらしい。

 オダは相槌をうって自分の顎を撫でると、旅先から帰って髭を剃る日のことを考え、うんざりした。くつくつと、己の想像に笑う。


「あのまま伸ばしていたら、帰る頃には地面に届いていますよ、鷲さん」

「それも面白いと思うんだがな」


 オダは笑いながら、持って来た革製の袋に水を詰めた。

 鷲は髭を剃り落とすと、いつも数歳若がえって見える。特に今朝は、出会った頃を彷彿ほうふつとさせ、青年の胸を熱くさせた。

 鷲は慣れた手つきで長髪をまとめ、首の後ろで結んだ。肩から胸にこぼれる束が腰にとどき、荒れた毛先が跳ねていたが、それはどうでもいいらしい。

 子ども達は、水に流れて行く銀色の切れ端をひろい、遊んでいる。

 鷲は眼を細めてオダを見上げた。青年の背後の空は、うす明るくなっている。


「仕度は出来たか?」

「ええ、大丈夫です」

「鷹がナンを焼いてくれているはずだ。行こう」


 オダは、彼に一方の駱駝の手綱を渡した。鞍には、水をいっぱいに詰めた革袋を括りつけている。

 鷲も身支度は済んでいた。丈夫な綿の上着に紺に染めた脚衣ズボンを穿き、なめしていない皮の腰帯ベルトを締め、膝下まで革の長靴を履いた格好は、彼独特のものだ。剣を提げ、仕上げに長身をおおう特製の外套を羽織れば、完璧だ。

 鷲は、駱駝の鞍を支える帯を満足げに叩いて歩き出した。子ども達が足もとをついて行く。

 朝食の準備をする女達が、水汲み用の桶を手に、家々から出て来る。四人と二頭は、彼女達に会釈をすると、夜の名残が漂う街並みを抜けて行った。



 日干し煉瓦の家の前では、鷹と鳩が彼等を待っていた。


「おかえり、お兄ちゃん、オダ。ラーダ達が来ているわよ」


 女達の表情はお世辞にも朗らかとは言えなかったが、鳩の気丈な口調は変わらなかった。

 息子と同時に家を出ていた神官ラーダ(オダの父)が、にこやかに声をかける。


「私の方が早かったな、オダ」


 オダは、黙って苦笑した。

 見送りに来てくれたキノとロンティの両親と、鷲は挨拶を交わした。鷹は硬い面持ちで、二人に食糧の袋を手渡した。


「鳶はまだ寝ているか? 鷹」

「ええ、大丈夫よ。……ナンと干しナツメヤシとお茶と、お酒も少し入れておいたわ」

「ありがとう、鷹。沢山だね」


 オダは早速、袋の中身を確かめる。鷹は、ぎこちなく微笑んだ。


「何日かかるか判らないから……。トグルと隼に、宜しく伝えてね」

「勿論」


 不敵に笑うオダの傍らで、鷲は外套をばさっと広げ、肩に担ぐようにして身につけた。オダの外套は灰色っぽい羊の毛をそのまま織ったものだが、鷲のそれは柔らかい砂色で、ふちに青い模様が織りこまれている。〈草原の民〉の物より薄く、日差しを遮るための頭巾フードが縫い付けられていた。

 キノとロンティは、夢みる瞳で彼を仰いだ。

 鷲は、狩猟用の弓と矢筒を背負い、鷹から長剣を受け取ると、それを抜き放った。白みはじめた空に刃をかざして確認する彼を、他の者は息を詰めて見守った。

 鷲が剣を鞘に収めるのを待って、ラーダが言った。


「くれぐれも、気をつけて」


 にやりと、鷲は白い歯をみせた。


「無理するのは、俺の信条じゃないからな。危険だと思ったら、とっとと帰って来るよ。……鷹、鳶を頼む」


 鷹は頷いたが、声はなかった。

 草原を経由する交易路(天山北路)の安全は、トグリーニ族に保障されている。トグル・ディオ・バガトルと彼と同盟を結んだ氏族達によって、一定の間隔で駅が置かれ、換え馬と水が用意されているという。オダにとっては馴染みの道だ、迷うことはないだろう。

 しかし、鷲の向かうミナスティアは……交易は途絶え、国境の治安は不安定だ。まして、国内の情報は無い。それを確かめる為に行くのだと言えば、それまでだったが――。鷹は、考えるのが恐ろしかった。


「日の出だ」


 オダが、駱駝の背に荷物を固定する手を止めて囁いた。



 街の中心を貫く石畳のみちは、夜明けの空を反射して、雨上がりのかたつむりが這った跡のごとく光っていた。その向こうに、低い砂丘の波が連なる。一つ一つの瘤の間に溜まっていた闇は縮み、間もなく消え去ろうとしていた。

 地平線をふちどる黄金の光の柵がひときわ強く輝き、太陽が現れた。

 ほのかに緋色を帯びていた東雲しののめの空は、暁の女神ヒルダが両腕を広げるごとく、しなやかに伸びて大地をいだいた。幾重にも重なる雲の衣は、やわらかな紅色に照り映え、夜の天蓋を押し上げる。

 天頂は、藍色からラピス・ラズリ、群青色へと変わり、やがて青玉サファイアの透明な蒼に達する頃には、東の空は紅から桃色、玉子色へと移り、最後に世界をつつむ明るい大気の層となる。

 人々の足下と家の影にとどまっていた夜は消え、木々の梢で小鳥がさえずり始めた。

 象牙色の光が、一同の頬をあたためる。


 オダは、太陽の斜めうえで名残の光をはなつ星を眺め、鷲を促した。


「行きますか、鷲さん」


 鷲は、黙ってわらい返した。

 二人は駱駝に片方の前脚を曲げさせ、それを足がかりに軽々と騎乗した。見送る人々に挨拶して、手綱を引く。


「途中まで競争ですよ」

「判った」


 上機嫌のオダに苦笑で答え、鷲は駱駝をけしかけた。昇ったばかりの太陽を目指し、二頭は走り出す。

 鷹たちは、寄り添うように並んで見送った。

 二頭は街を抜け、沙漠に入ってからも、しばらく並走していた。大きなひとこぶ駱駝の後ろ姿が、瞬く間に仔馬ほどになり、仔犬ほどになる。どこまで一緒に行くつもりだろうかと鷹たちがいぶかしみ始めた頃になって、やっと左右へ別れた。

 互いに手を挙げて合図する。オダは北へ、鷲は南へ。外套が、改めて別れを告げて翻る。

 一同は、彼等が完全に見えなくなるまで佇んでいた。


「……行ったわね」


 鳩が溜息まじりに呟いたが、誰も応えなかった。鷹のまなじりは悲しみに翳っている。鳩もラーダも、彼女を励ます言葉が見つからなかった。

 がたん、と、家の中で音がした。

 振り返る彼等の耳に、怒りをふくむ幼い声が届いた。


「あーま(父さん)! ふぁーま(母さん)!」


 鷹と鳩は、目をまるくして顔を見合わせた。鳶が起きたのだ。独りぼっちにされていた幼子は、火が点いたようにき出した。


「あーま!」

「おはよう、鳶」


 慌てて戻った母に抱き上げられた鳶は、異様な雰囲気を察したのか、素早く辺りをみまわした。声を張りあげて呼ぶ。


「あーま!」

「鳶、あのね――」

「あーま!」


 一緒に寝てくれていたアーマ(父)がいない。呼んでも来てくれない。幼女は、なだめようとする母の腕のなかで拳を振り、背を反らして啼いた。


「あーまぁ!!」

「鳶……」


 鷹は、泣きさけぶ娘を抱いて立ち尽くした。鳩も来たが、手の施しようがない。

 身をよじって懸命に抗議する我が子の姿に、鷹は胸をえぐられた。とんでもない過ちを犯してしまったように思う。

 鳶が責める。泣いて訴える。


「あーまあぁ!」


 これでいいのか? 他に方法はないのか。自分達は間違えていないのか。――そんな思いが、どっと湧き起こって脳を浸し、鷹の思考を停止させた。

 鷲は、こうなることを予想していたから、鳶が眠っている間に出発したのだ。しかし、大人の事情など理解できない幼児にとって、残酷な裏切り行為に他ならない。

 大好きな、この世でたった一人の父親を、何の権利があって奪うのだ。好きで戻った男や棄てた国の住人など、放っておけばいいではないか。平和で満ち足りて幸福な日々を、壊す理由があるのか?

 今が幸せなら、それでいいのではないか。幼い心を傷つけ、生命を懸けてまで果たさなければならない事があるのか?


「あーまぁ……!」


 何故、止めなかったのだ……。


 幼子の啼泣は、鷹の胸をぎりぎりと刺し、斬り裂いた。涙がこぼれ、鷹は彼女を抱いたまま両手で顔を覆った。くずおれそうになる気持ちを、必死に支える。

 鳩も目頭が熱くなった。


「お姉ちゃん」

「……大丈夫よ、鳶」

「ふぁーまぁ」


 鳶は、涙と涎でぐしゃぐしゃになった顔を、母の胸に押しあてた。ひくひくとしゃくりあげる背を撫で、鷹は囁いた。


「大丈夫。ごめんね……。アーマはすぐ帰って来るから、いい子にして、待っていようね」


 鳩は、鷹が鳶だけでなく自分に言い聞かせているのだと解った。鷲に呼びかけている。

『きっと、大丈夫……』

 彼女たちは、祈る思いで黄金色の地平を眺めた。





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