第二章 自由の戦士(2)


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「罪悪感なのかもしれないわ……」


 頬杖を突いて考え込んでいたわしは、独りごちたたかを、怪訝そうに見遣った。鷹は目を伏せている。

 オダとはとは子ども達を連れて散歩に出掛け、夫婦は久しぶりに落ち着いた時間を手に入れていた。

 鷲は朝食を抜いていたが、まだ食欲は戻ってこない。鷹は、彼の為に干しナツメヤシと乳茶チャイを食卓に並べ、しばらく物思いに耽っていた。最初に口からこぼれたのが、この台詞だったのだ。


「シジンを心配しているのは、罪悪感からかもしれない。わたしは、あの国の為に何も出来なかったから」


 鷲の片方の眉が、ひょいと跳ねた。口は頬杖を突いた片手と髭に隠れている。

 鷹は溜息をつき、訥々とつとつと続けた。


「わたしが《鷹》として生きていた間、シジンとナアヤは、タァハル族に囚われて苦しんでいた。二人に申し訳ないと思う……。でも、それだけじゃない」


 鷲は、彼女が考えをまとめようとしていると察し、黙っていた。頬杖をとき、椅子の上で半跏はんかを組んで、足首を両手でつかむ。靴は履いていない。――およそ真面目に人の話を聴く態度ではないが、彼にとってこういう話が面白いはずがないと、鷹は理解していた。


「トグルやリー姫将軍を……オダを観ていると。わたしは、凄く大切なことから、ずっと逃げて来たように思うの」


 鷹は項垂れ、胸の前ですんなりとした指をからめた。鷲は、その仕草を頭痛に耐えながら眺めていた。


 とびから離れて気分の悪さはいくぶん治ったが、別の問題が、すっかり彼を不機嫌にさせていた。『冗談ではない』――呪われているのか。自分で自分に腹が立つのだ。何が哀しくて――。

 鷹は彼の懊悩を知る由もない。鷲の方も言う気になれなかった。『呪いだと? 莫迦げている。あの女が、そんな御大層な力を持っていたはずがない』 彼女の言葉に耳を傾ける余裕まで、失っているわけではいない。


「わたしは《レイ》よ……レイは王女だった。シジンは《神官ティーマ》で、貴族だった。わたし達には、あの国で果たさなければならない責任があった」


 鷹は、己の想いの淵から言葉を掬いあげようと努力した。


「トグルのように……リー姫将軍のように。その責任からわたし達は逃げて、わたしは自分自身レイからも逃げてしまった。今も逃げているわ。シジンはミナスティアへ帰ったのに、わたしはここで、何をしているのかと思う」


 鷲はすうっと眼を細めた。眼光が鋭さを増す。

 鷹は眼を閉じ、静かに息を吸い込んだ。溜めていた息と言葉をときはなつ。細い声は、強風に耐えるアレナリア(ナデシコ)の花のごとく震えた。


「わたしは弱かった。今なら、そう言えるの。トグルみたいに、自分の責任を果たせるほど強くはなかったんだって。強くなければならなかったのに……。でも、どうしたらいいか判らないのよ」

「トグルやヴィニガを『強い』なんて言ったら、奴等に失礼だろ」


 鷲が呟き、鷹は、はっと息を呑んだ。視線を向けると、彼は曖昧に苦笑していた。


「鷲さん」

「わるい。お前の言いたいことは解るんだ。だけど俺は、誰かを『強い』とか『弱い』とか言うのが、あまり好きじゃない」


 鷲はゆっくり首を横に振った。ズキズキとこめかみが痛む。己の声が響かないよう、慎重に話した。


「トグルに訊けば、別の言い方をするだろう。あいつはお前を『弱い』と言ったことはないし、俺もそう思ったことはない……。お前が『弱い』なら、俺はどうだ? 鳩は、雉は?」


 鷲は冗談めかして言い、おどけて眉を動かしたが、鷹の表情は晴れなかった。


「誰でも、強いところもあれば、弱いところもあるだろう。一面だけを観て決めるのは失礼だし、他人と比べることじゃない。……それに、逃げるのが悪いことだとは、俺は思っていない」


 こめかみを刺すような痛みが走る。鷲は片眼を閉じてそれをやり過ごした。


「……お前達は逃げた。逆に言えば、トグルやヴィニガは、逃げてほかの道を探そうとしなかった。……全てを捨てて新しい生き方を探すことも、与えられた責任を果たすことも、どちらも大変だろ? 比べられるのか? お前達がとどまれば、あの国が何とかなったのか?」

「…………」

「レイは《鷹》に逃げこんだとお前は言うが、俺は、《鷹》が逃げていたとは思わない……。そんなことを言ったら、俺なんか、生まれてからずっと逃げ続けている」


 自嘲気味に肩をすくめる鷲を、鷹は半ば茫然と見詰めた。奥に太陽の化石を封じ込めた琥珀のような瞳を見返し、鷲は濁った声を絞り出した。


「お前が言っているのはな、鷹、空想だ。俺やオダがミナスティア国のことで気を揉んでいるのと同じで、空想に意味はない。お前はトグルじゃないし、あいつになる必要もないんだ。……お前が『弱い』のだとしたら、そこだよ。過去は過去だ。今いる自分を、認めなくてどうする」

「鷲さん」

「まあ、そんな理屈はどうでもいいから。何とかしなきゃならないんだろうなあ~」


『俺だって、ひとのことを言えた義理じゃないんだが』と思ったが、鷲は、声に出すのはやめた。

 ぽりぽりぽり。

 横を向いて顎を掻く彼を、鷹は見ていたが、何も言えずに項垂れた。――彼の言うことは解る。そう言ってくれる気持ちは嬉しいし、そこにこめられた心情も理解できる。

 しかし……。

 鷹は食卓の木目を数えながら、シジンと再会した夜を思い出した。冷たい石造りの砦の小部屋に、鷲と鳶とともに入った時のことを。


 凍った谷間を吹き抜ける風が、むせび啼くような音を立てていた。藍色の闇にしずむ部屋で、窓辺にたたずむシジンの周囲には、古い火薬のにおいが漂っていた。

 卓上で揺れる小さな灯火が、壁に巨大な影を描く。

 振り向いたシジンは、彼女の幼い記憶に残る彼ではなかった。蜂蜜を流したような金髪と褐色の肌は、昔のままだったが、頬にも首筋にも、無数の細かな傷痕があった。優しく聡明な深海色の瞳は、長年の絶望と哀しみに濁っていた。

 彼の失われた片腕を思うと、鷹は涙が出そうになった。



「お前、鳶と、ここで待っていてくれ」


 鷲はさらりと言った。鷹は弾かれたように面を上げ、その台詞を予期していた自分に気づいた。当然の成り行きとして彼がそうするであろうと予想していた事実に、愕然とする。

 彼女の内心の動揺に、鷲は気づかない。仕様がないと言う風に肩をすくめた。


「俺がミナスティア国へ行って、様子をみて来るよ。ついでに、シジンを捜して来る」

「鷲さん……」

「鳶を連れて行くわけには、いかないだろ?」


 鷲の口調は平然として、若葉色の瞳は澄んでいたが、鷹は胸が軋むのを感じた。ぎしりと、音を立てて――荷車の軸がたわむごとく、彼女の裡で決まり定まっていた何かがひずんだ。


「俺も、シジンがどうしているか気になっていたんだ。それに……お前の責任は、今の俺の責任でもあるからな」


 鷲は、話は終ったとばかりに身体の向きをかえ、食卓に手を伸ばした。あまり食べる気のないナツメヤシの実を、二、三個えらんで口へ運ぶ。鈍い頭痛が続いている。菓子の甘さは慰めにならなかったが、煙草よりましだと思い、噛みしめた。

 鷹は彼を凝視みつめていた。咄嗟に言えなかったのだ。『それは違う』と……。

 『お前の責任は、今の俺の責任』――その言葉は、枯れ井戸にたまった砂の上に石を落した時のように、彼女の胸に重く響いた。空虚うつろな反響は、容易には消えなかった。言い表せない違和感が喉元にこみ上げ、苦労して呑み下す。


 鷹には言えなかった。自分とシジンの責任を、鷲が負う必要はないのだと。

 なら、誰が負えるのだ?

 ――他の誰でもない己の罪だと承知しながら、畏縮している。鷲を想い、シジンを想い、幼い娘を……今は亡きナアヤと《鳶(鷲の前妻)》を想うと、鷹は金縛りにあったような息苦しさを感じた。心が動けない。何か巨大なものの掌に乗せられ、今にも握り潰されそうに感じる。潰れそうに自分は小さく、脆い……。

 鷹は、声をあげてきたくなった。



「話は終わりましたか?」


 オダが戸口から遠慮気味に声をかけ、二人は同時に振り向いた。鷲の髭におおわれた唇に、ふてぶてしい笑みが浮かぶ。


「おう、オダ」

「あーまぁ!」


 鳩に抱かれた鳶が、両腕を伸ばす。一点の曇りもない笑顔の娘を、鷲は膝に抱きあげた。足から頭へ身体の中心を例の悪寒がはしり抜けたが、無視する。


「……鳶。いい子にしてたか?」

「まんまんあん、まんまっ!」

「いつもいい子だもんねえ、鳶は」


 鳩が微笑みかける。父の膝にちょこんと座った幼子は、食卓のナツメヤシを見つけると、真夏の木の葉色の瞳をきらきら輝かせた。早速、両手に持てるだけ握り締め、まんぐまんぐ食べ始める。裸足の小さな足が、ぴょこぴょこ跳ねた。

 鷲は呆れ声になった。


「お前、喰ってばっかりじゃないか、鳶」

「おいちっ!」

「今からそんなに喰ってたら、晩御飯が食べられなくなるぞ」

「あふぁんま、んまっ、はまま!」

「飲み込んでから喋りなさい。また喉に詰まるぞ」

「入るところが違うから、いいんだもんねえ?」


 鳩が笑って鳶の頭を撫でる。鷹は微笑もうとしたが、頬が引き攣った。胸に石が詰まっている。

 鷲は苦笑していたが、眉間の皺は消えず、眼差しは柔和というより寂しげだった。鷹は、彼にも娘にもかける言葉を失くしていた。

 オダは、そんな親子の表情をみくらべた。


「鷲さん」

「ああ、オダ。俺はやはり、ミナスティアへ行こう」


 鳩の頬から微笑が消える。少女は、鷲から鷹に視線を移した。

 神官の息子は、思案げに首を傾げた。


「一人で、ですか?」

「ああ」

「鷹と鳶は、ここに置いて行く?」

「鳩もだ。留守中、二人を頼む」


 鷲の台詞の後半は妹に向けられていたので、鳩はぎくしゃくと頷いた――未だ納得していなかったが。鷹を横目で窺うと、彼女はふかく項垂れていた。

 鳶は、もぐもぐナツメヤシを噛んでいる。鷲の大きな手が、娘のやらわかな栗色の髪をいとおしげに撫でた。

 オダは、左から右へ首を傾げる方向をかえた。雉は数日前からタサム山脈へ薬草の採集にでかけ、戻っていない。


「雉さんの帰りを待ちませんか? 一人きりでは、何が出来るとも判りませんよ」

「いつになるか分からんだろ。それに、一人なのはシジンも同じだ」


 鷹が、神官の名を聞いて顔を上げる。鷲の若葉色の瞳は、つよい意志を宿していた。


シジンあいつが一人で行ったんだ、俺に行けないことはないだろう。二人なら、出来ることがあるかもしれん……。シジンを見つけられなくても、あの国が実際にどうなっているのか、確かめて戻って来る」


 オダは暫く考えていたが、やがて、きっぱりと頷いた。空色の双眸から、迷いは消えた。


「鷲さんにお任せします。そうと決まれば、これから父の所へ行きませんか? 街の世話役にも、話しておかなければ」

「ああ、そうしよう。駱駝ラクダを一頭借りたいな。頼んで来よう」


 鷲は、膝に載せていた鳶を持ち上げた。鳩が腕をさしだして、幼子を受け取る。きょとんとしている娘の頭を、鷲は、ぽんぽんと軽く叩いた。


「いい子で待ってろよ、鳶。……鷹」


 鷲は、鷹の祈るような眼差しに気づいたが、それについては何も言わなかった。手を伸ばして彼女の肩に触れ、娘と同じように軽く叩いた。


「……後で、お前が覚えているミナスティアの話を聴かせてくれ。この中では、お前が一番、あそこの事情に詳しいからな」


 鷹は無言でうなずいた。


「よし。オダ、行こう」


 鷲は屈託のない声をかけた。青年が従う。翼のような銀髪と夕焼け色の髪をゆらして二人が出て行くのを見送り、鳩は鷹を顧みた。

 鷹は、今にも泣き出しそうな顔を戸口へ向けている。

 鳩は言葉を呑んだ。彼女の意思を理解できない鷲ではないと、承知していたからだ。そして、それ以上に……彼等が一度決めたことを容易に覆す男達ではないと、彼女達は、よく知っていた。


 鳶は、不思議そうに母を見詰めていた。









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