第二章 自由の戦士
第二章 自由の戦士(1)
*冒頭、子どもが虐待される描写があります(三分の一、夢の中の回想です)。苦手な方はご注意下さい。
1
「お前が悪いんだ!」
甲高い声とともに、頭に衝撃がはしった。
殴られた勢いで彼はよろめき、土の壁にぶつかった。体勢を立てなおす前に腕を掴まれ、引き起こされる。濁った水色の瞳が、幼い顔を映した。
「お前が! お前がいるから、あたしはこんな暮らしをしなきゃならない。自由に動けないのは、お前のせいだ!」
「…………」
「何だ、その目は」
ばしん。
そらせなかっただけなのに。表情をうかがっただけなのに、平手がとぶ。頬が熱くなった。『
「気に入らない。反抗しようっての? 育ててやっているのに。産んでやった親に向かって、その目は何だ!」
ばしん。
声に含まれた怒りは、悲壮さを帯びた。次第に早口になり、叩く手の勢いが増す。頭をかばって挙げた腕は、払いのけられてしまった。肩を掴まれ乱暴に揺さぶられる。
世界が揺れた。
「お前が! お前なんか、産まなきゃ良かった! 全部、お前が悪いんだ!」
「…………」
「何とか言え、この餓鬼! お前のせいであたしは!」
ばしん。
「産むんじゃなかったよ、ほんとに! 産まれてきやがって! 誰のせいで、こんな! 誰のせいだと思ってるんだ!」
涙が零れた。とうに
「……ファーマ。ファーマ、ごめんなさい」
振り下ろされる手に、悲鳴のような声に向かって、彼は呟いた。頭に、また衝撃がはしる。
「泣くな! うるさい!」
ばしん。
「ああ、うっとうしい! 泣けば済むと思いやがって! 可愛げのない子だ。纏わりつくんじゃないよ!」
突きとばされて尻餅をつき、彼はうずくまった。それ以上母の怒りを買わないよう、身を縮める。
夏だというのに、日の当たらない部屋は寒かった。体じゅうが痛かった。声をあげて泣きたかった。でも、慰めてくれる温かな手は、ここにはない。
『ごめんなさい、ファーマ。おこらないで』
餓えていた。ひもじかった、心も身体も。どうしたら、許してもらえるんだろう?
ごめんなさい……。
「痩せたんじゃないか?」
数日ごとに母の許を訪れる男の声に、膝を抱えていた彼は、ほんの少し身じろぎした。父ではない。余計な注意をひかないよう、息をひそめる。
母が苛々と答えた。
「まったく、みすぼらしいったらないよ。汚くて、人前に出せやしない」
汚い……。
彼の目に、膝頭にかかる伸び放題の髪が映った。垢と土埃にまみれ擦り切れた、灰色の髪だ。陽射しに弱い肌はあちらこちら剥がれ、腕にこびりついている。『みんなとちがう。ぼくは、きたない……』
「捨てちまえよ」
何気ない男の声が、彼の胸を貫いた。碧眼をみひらく。
流石の母親も、息を呑んだ。
「でも」
「これ以上大きくなられても困るだろう。客が寄りつかなくなる」
「…………」
「お前が出来ないんなら、俺がやるぜ」
母の返事は聞こえなかった。聞きたくなかった。
幼い記憶は断片化して散らばり、全てを掻き集めることは出来ない。欠片に宿る母の顔は、怒りに歪んでいた。
母は、彼を森の奥に連れて行った。おびえ、足を突っぱってその場に留まろうとする彼を、彼女はあっさり崖縁に追い詰めた。必死にしがみつく小さな手を、よどんだ水色の瞳が見下ろした。
『化け者! お前なんか、死んでしまえ!』
無声の呪詛が、彼の手から力を奪う。腹部ににぶい衝撃が加わり、痩せた身体は、ぼろきれのように斜面を落ちた。そこで意識が途絶えた。
――冗談事じゃないぞ、これは。
「あーま(お父さん)! きゃははははっ!」
「ぐえ……」
寝ていたところを娘に跳びのられて、鷲はうめいた。遠慮を知らない幼子は、どすんと彼の腹にお尻を乗せ、胸をばしばし叩いてくる。鼓膜が破れそうな大声だ。
「あーま! おっき(起きて)!」
「……わかった。起きる、鳶。起きるから、下りてくれ」
「きゃはははははっ!」
無邪気に笑う娘を抱きあげ、鷲は嘆息した。ほぼ毎朝のことなのだが、子どもが成長するにつれ威力が増す。しかも、何故か、こちらの急所を直撃するのだ。
鷲は、絨毯と布をかさねた寝台の上で、蹴られた脇腹をおさえた。急に起こされたので、身体がまだ目覚めない。加えて、気分的に疲弊していた。
伸びた髪を掻きあげ、息を吐く。頭の芯が鉛を詰められたように重い。二日酔いにならない限り、滅多にないことだ。
理由は判っている。夢だ。このところ、毎晩みているのだ。
あの場面を。
鷲は寝台に胡坐を組み、ぼんやり視線をめぐらせた。窓から射しこむ朝の光が、部屋をななめに横切って床の絨毯を仕切っている。壁越しにきこえる荷車の車輪のきしむ音や、驢馬の蹄が石畳をたたく音、小鳥のさえずりが、やけに耳に響く。宙をひらひらと舞う埃さえ眩しくて、彼は眼をこすった。
まるで、こちらの方が夢の中のようだ……。
「鷲さん?」
彼が出て来ないので、鷹が様子をみに来た。やわらかな声に鷲がふりかえると、鷹は、いつもの癖で軽く首を傾げていた。
「どうしたの。頭痛?」
「いや。何でもない……」
鷲は胡坐をといて首を振り、頭蓋骨の裏に貼りつく違和感を払おうとしてみたが、あまり変わらなかった。
情けない表情で頬をかく彼を、鷹は怪訝そうに眺めていたが……彼が何も言わないので、鳶を抱いて踵を返した。
「大丈夫なら、起きて。ナンが焼けているわ。オダとキノ達も来ているから」
「ん……」
鷲は苦虫を噛み潰した。口の中が、砂でも含んだようにざらついている。納得できなかった。自分で自分が解らない。
何故、今さら夢にみなければならないのだ。あの女を。
《 お 前 な ん か 死 ん で し ま え 》
――無声の呪詛が、くりかえす。薄い油膜を貼った水色の瞳と、
物心がついたばかりの頃の出来事だ。最近まで、綺麗に忘れていたではないか。二十年間、殆ど思い出さなかったのに。
思い出したくもなかったのに。
……何故?
*
「おはようございます、鷲さん」
「……おはよう、オダ。早いな」
「どうしたの? お兄ちゃん」
居間にはオダとキノ、ロンティ兄妹がいて、食卓を囲んでいた。鷲は鳩には答えず、娘を膝に抱いている鷹から、オダに視線を向けた。
南向きの窓を背にすわる青年は、金色の陽光にふちどられていた。今の鷲には、わずかな光も眩しい。食欲をかきたてる焼きたてのナンの香りも、
オダは普段の調子で話しかけた。
「明日、草原へ向けて発ちます。それで、鷲さんに話をしておこうと」
「あんまっ(ご飯)」
鷲は、ごきげんな鳶の頭ごしに腕を伸ばし、鷹からナンを受け取ると、片方の眉を持ち上げた。
「イリ(トグリーニ族の縄張りの草原)へか」
「ええ、トグル・ディオ・バガトルの処へです。早い方がいいと思って。鷲さんは、どうします?」
オダは、黙然と乳茶を口へはこぶ彼の様子を訝しんだ。寝起きとはいえ、いつもより反応が鈍い。
「……悪いが、オダ。今回は一人で行ってくれ」
オダは微笑んだ。鳶は、乳茶にひたしたナンをしゃぶり、ぴこぴこ足を揺らしている。
「鳶から鷲さんを取りあげようなんて思っていませんから、ご心配なく。
鷲は再び頭を振った。まとめていない銀灰色の長髪が、肩の上で揺れる。彼の風貌を特徴づける深い眼窩の上縁をかざる眉が、翳りをおびている。
オダは首を傾げた。
「鷲さん」
「ああ、うん」
「どうかしたんですか? 身体の具合でも」
「大丈夫だ。……俺は、ミナスティア国が気になっているんだよ」
鷹は娘に
オダは生真面目に頷いた。
「僕も、国境を封鎖されて逃げ場を失った人々が心配です。トグル・ディオ・バガトルに相談しようと思います。出来ることがあれば――」
鷲が心ここにあらず、といった風情なので、オダは眉をひそめた。
「鷲さん。父は、貴方に〈
「いや。行くならミナスティアだ」
この答えを聴いたオダの頬に、さっと緊張が走った。鳩も食事を止め、男達を見た。
「あんまっ、おいちっ」
鷹は、桃に手をのばす娘の額に、そっと片手をあてた。隣で食事を終えた兄妹に、囁きかける。
「鳶。『ごちそうさま』したら、お庭で遊んでいらっしゃい。……キノ、ロンティ。お願い出来る?」
「うん、いいよ。鳶、おいで」
赤毛の兄弟は、特に不審がることなく鳶を抱いて行った。鷹は微笑んで見送ったが、鷲の横顔に視線をもどすと、笑みは消えた。
鷲は真顔のままだ。
オダは、ごくりと唾を飲み、声を落とした。
「本気で言っているんですか?」
「もちろん」
「内乱中ですよ?」
「俺達が、そう言っているだけだ」
ぶっきらぼうな返事に、オダは瞬きをくり返した。鷲は、己に言い聞かせるように続けた。
「ミナスティア国で内乱が起こり、難民があふれていると言ったのは、ナカツイ王国の使者だ。そのせいで
「…………」
「あそこがどんな国で、どういう連中がいて、いま何を必要としているのか……。俺は確かめたい。自分の目で」
鷲は、組んだ脚の上に両手を置き、それを見下ろした。鷹は頬をこわばらせている。鳩は三人の顔をみくらべた。
オダは眉根を寄せ、躊躇いながら反論を試みた。
「鷲さんの仰ることは解ります。でも――」
「オダ」
鷲は、あわく苦笑して青年の言葉を遮った。
「俺は、同じ過ちを繰り返したくないんだ」
オダは、また考え込んだ。
鷹の顔がみるみる蒼ざめていくのを見かね、鳩は口を挿んだ。
「お兄ちゃん。内乱は、トグルがして来たような戦争とは違うわ。同じ国の人間同士で殺し合っているんでしょ? そんなところへ、お兄ちゃんや鳶が行くのは、あたしは反対よ」
勝気な鳩も不安をかくせず、鷹とオダを交互にみた。仕草に合わせて、黒髪に編みこまれた飾り紐が揺れる。
鷹は何も言わなかった。同意の言葉も、反論も。
「あーま(父さん)! ふぁーま(母さん)!」
笑声を連れて、子どもたちが帰って来た。鳶を抱いたキノと、ロンティは、食卓の下にもぐりこんだ。小さな竜巻のような勢いに、鳩は毒気を抜かれ、オダは目を丸くする。
鷲は長身をかがめ、子ども達を覗きこんだ。
「何をやっているんだ? お前達」
「かくれんぼ。ロンティが鬼!」
「あーま!」
鳶は食卓の下から這い出て、父の膝に両手をのせた。鷲の苦笑が強くなる。
「後でな」
「やーん。あーま!」
鷹が、いいきかせようとする。
「鳶。アーマ(お父さん)は大事なお話をしているんだから。お外で遊んでいらっしゃい」
「やー」
「鳶……いい子だから。」
「や! こっち!」
父の上着の裾を引っぱる、鳶。困り顔になる鷲を見て、鷹はすうと息を吸い込んだ。
「鳶! 言うことをききなさい」
「……びっ」
幼児特有の頑固さで頬を膨らませた鳶は、びくりと身体を揺らし、みる間に泣き顔になった。明るい緑の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
鷲は溜息をついた。
「ふええっ! わあーっ!」
「ああ、わかった。鳶、アーマが悪かった。一緒に遊ぼう、な? ロンティも、おいで」
「鷲さん」
鷲は、呆れる鷹に片目を閉じ、鳶をひょいと抱き上げた。途端にぱあっと笑顔になる娘を片腕に抱え、もう一方の手をロンティとつなぎ、出掛けて行く。キノがぱたぱたと後を追った。
通りをひたす陽光のなかに足を踏み出した鷲は、一瞬、地面が揺れたように感じた。石畳や家の壁、緑の木の葉に反射する光が瞼を射て、眩暈と頭痛をひき起こす。強く細めた視界の隅で、あの面影が閃いた。
ぶるんと頭を振って、幻を追い払う。幼子を抱きなおすと、背筋に悪寒がはしった。
『支離滅裂だ……』
どうしてこう、脈絡もなく思い出すのだろう。記憶だけではない。――恐怖も、悲しみも、鼓動さえ、まざまざと蘇えるのだ。あの日に戻ったごとく。
『気持ちが悪い』
胃の腑をぎゅっと掴まれ、鷲は奥歯を噛みしめた。経験のない感覚と己を制御できない不快さに、吐き気がこみあげる。呪われているようだ。何の因果で――そう思った時、
「あーまぁ?」
鳶が呼ぶ。甘い声に、ぞぞぞっと総毛立ち、鷲は呼吸を止めた。娘を凝視する。
『……冗談じゃないぞ、まったく』
結局、鷲は
「お姉ちゃん」
「……ごめんなさい、鳩ちゃん。オダ。鳶がいると、落ち着いて話が出来ないわね」
「それは構わないけど」
オダと鳩は、顔を見合わせた。鷹は、哀し気にささやいた。
「鷲さんは、シジンを心配しているのだと思うの。こんなことになってしまって……」
鳩は口を開いたが、何と言ったらよいか分からなかった。オダは彼女の表情を確認し、提案した。
「鷲さんが戻って来たら、僕らが鳶の世話を交代するよ。話し合った方がいいと思う」
鳩は神妙にうなずいた。
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