第一章 生をつなぐ者(6)
6
日が沈むと、藍色の空がゆっくり降りてきた。遮るもののない空間を浸し、大地に接して闇に変わる。天との境界だった地平線は夜の底となり、深い海の中にいるような感覚をいだかせた。
馬や羊達が寝静まった草原では、虫たちが鳴いていた。ユルテ(移動式住居)の影で、連れあいを恋う歌をひっそりと歌う。
ユルテの中では、天窓から射しこむ月光が、蒼ざめた細い腕を伸ばして床に触れていた。
その光を遮って、人影が動いた。
寝台の上でまどろんでいた隼は、気配を察して瞼を開けた。
「帰っていたのか。トグル」
トグルは、囁く彼女を肩越しに振り向いた。細めた灯火が、頬にかかるほつれた黒髪をやわらかく照らし出す。光を反射して濃緑に沈む瞳が微笑んでいるように、隼には見えた。
「スマナイ。起こしたか……」
手袋を外して近づく彼を、隼は横たわったまま両腕をひろげて迎えた。
「起こしてくれよ。待っているんだから」
トグルは無言で身をかがめ、彼女のしなやかな腕のなかに入った。隼は彼を抱き、触れるような口づけを交わした。
「飲んでいる?」
隼が眼をまばたくと、トグルは口髭におおわれた唇の端をつりあげた。
「
「ああ」
隼は、微風のごとく微笑んだ。
夏のこの時期、〈草原の民〉のユルテでは、さかんに馬乳酒が造られる。各家庭で味がちがうので、酒好き、ふるまい好きな遊牧民たちは、互いに訪問し合って飲み比べを行う。結果、男達は、朝から晩まで、ほぼ酔っぱらって過ごすことになる。
トグルの傍には常にアラルとジョルメが従い、馬も主人が酔いつぶれれば勝手に載せて帰ってくれるので、危険はないと承知しているのだが……。隼は寝台に身を起こし、首を傾げた。
「珍しいな、お前が参加するなんて」
トグルは肯いたが、特に喋らなかった。帽子と手袋を棚に置き、寝支度をはじめる。その様子を眺めながら、隼は悪戯っぽく哂った。
「お前を連れて帰ってくれた、
「…………」
困惑している緑の眸に気づき、隼は、『あ』と開けた口を手でおおった。素直に言ったつもりだが、些か素直すぎたらしい。
「ごめん……嫌味のつもりじゃないんだ。だけど本当に、お前がこっちに戻るのは、久しぶりだから」
「…………」
「タオが随分怒っていた。お前にも、何か言ったんじゃないか?」
日中顔を合わせていても、会話は殆どない。族長の許へは、朝から晩まで、次から次へと仕事が押し寄せる。トグルは長老達と天幕で仕事をし、夜遅くなれば、そのまま泊まるのが常だった。万事に隼至上なタオは、「あれで夫のつとめを果たしていると言えるのか」と憤慨している。
最近、二人きりでいられる時間がなかったので、隼は嬉しかったのだが――
物言いたげに沈黙していたトグルが、そっと彼女を引き寄せたので、隼は、それ以上言うのをやめた。
「……タオが俺に小言を言わぬのは、後ろめたいことがある時と、腹の具合が悪い時だけだからな」
トグルは唇を離し、彼女の髪を撫でた。フッと自嘲気味に
「気にしてはいない。だが――」
隼は、額が触れ合うほど間近から自分を見下ろす、深い瞳を見詰めた。眠らない夜の森のような。そこに映る自分の顔を。
トグルは吐息混じりに囁いた。
「――その向こうにいる、お前の声を聞き逃してはいないかと、気にしている……」
「あたしは大丈夫だよ」
隼は微笑んだ。表情も言葉も乏しい彼だが、時々、こんな風に気持ちを伝えようとしてくれる。黄金にも
「タオがいろいろやってくれるから、助かっているんだ。あたしに不満はない……」
トグルは彼女の髪を梳く手を止めた。切れ長の眼が、微笑の名残のように和む。
隼は彼の腕の中から出て、ひらりと身を翻した。
「馬乳酒を造ったんだ。飲むか? お前、『うち』のはまだ飲んでいないだろ」
「……お前が造ったのか?」
戸棚から銀製の器をとり出す彼女に、トグルはかるく驚いた。馬乳を撹拌する作業は重労働だ。隼は、ふふと笑った。
「大丈夫、タオに手伝ってもらったよ。無理はしていない」
トグルは、食卓の傍らに置いた背もたれのない椅子に腰を下ろした。隼は、作法どおり杯の縁まで酒をいっぱいに入れ、両手で捧げるように持って来た。
躍動する鹿の群を象嵌した重い杯を、トグルは慎重に受け取った。白く濁った液体を、じっと観る。
例の、指先を浸して三度宙に弾く仕草を行うかと、隼は見守っていたのだが……今夜は、彼はそれを行わなかった。トグルは、大きめの器を丁寧に捧げ持ち、口髭がぬれるのを避けつつ、ゆっくり唇をつけた。ひとくち飲んで、上目遣いに彼女の表情を確かめ、再び飲み始める。向かいに座った隼は、酒杯を持つ彼の手が徐々に傾いて顔をかくし、器の底が現れるのを、焦れながら見守った。
最後の一滴まできちんと飲み終えてから、トグルは酒杯を卓に戻した。
隼は、期待をこめて訊ねた。
「美味いか?」
「ああ」
「本当に?
思わず声が弾みそうになるのを、抑制する。
トグルの表情は変わらなかったが、闇に融けるタイガ(亜寒帯の針葉樹林)のような瞳には、静かな微笑が宿っていた。
隼はうきうきと、小型の杯に別の酒を入れて戻って来た。トグルは会釈をして口をつける。今度は、半分ほど飲んだところで顔を上げた。
「……これは、グァーニィ・アイラグ(馬乳酒)だ」
「え?」
隼は、眼をまるくみひらいた。
トグルは杯を傾ける。灯火の明かりに水面を揺らして色と匂いを確かめ、淡々と告げた。
「まだ、乳の匂いが残っている……。蒸留が上手く行かなかったのか。タオはきちんと教えなかったか?」
彼女がきょとんとしているので、トグルはわずかに眼を細めた。何事かを考えたのち、杯のふちを唇にあてて呟いた。
「明日、一緒に作ろう」
「ああ」
隼は、はにかみながら頷いた。トグルは杯を傾ける。
〈草原の民〉ではない隼にとって、この地の暮らしは、知らないことばかりだ。一方、族長のトグルと妹のタオは、民族の文化の最も濃い部分の体現者であり、伝承者だ。
時折、彼等には歯痒いことばかりではなかろうか、と思う。独居生活の長いトグルは何でもするが、普通、遊牧民の男は女の仕事に手を出さないと、今では隼も知っている。だからこそ、彼が彼女を認め、ともに歩もうとしてくれるのは嬉しかった。
……『違う』と認めることは難しい。人は己を基準に物事を考え、それが正しいと思えばこそ、他人にも要求する。だが、育った文化や価値観は、深く身についたものであるほど、変えることは難しい。
『違う』と認めない限り、互いを理解することは出来ない。そして、理解がなければ共に生きることも出来ないと、二人はよく知っていた。
「……
トグルは酒を飲み干した。相変わらず囁くような声に、隼は我に返った。
彼は別のことを考えていたらしい。空になった酒杯の底に視線を落とした。
「人を、集めているのだ」
「ひと?」
隼は首を傾げた。トグルは伏せていた瞼を上げ、説明した
「タァハル(部族)とタイウルト(部族)の民を吸収し、ニーナイ国から来た者も加わり、部族の人口は増加した。
「…………」
「ニーナイ国のよいところは、取り入れようと考えている。俺の顔が利く間に……。税の負担や福祉では、みな言いたいことがあるだろう。
「それで、
隼は、ようやく彼の意図を理解した。単に
トグルは、照れているようにも困っているようにも見える、神妙な表情で肯いた。
「氏族長や長老の家系が絶える程度のことで、草原が再び戦乱に陥るようでは困る。〈外〉との交流を盛んにし、誰もが生き方を選べるようにしておきたい。
トグルは彼女に横顔を向け、懐かしいものでも見るように、薄暗いユルテの中を眺めた。柱に掛けられた灯火の炎が、油の燃える音を立てて揺らめく。
「俺が留守にしても、
酒杯を片付けていた隼は、動作を止めた。
トグルは、わずかに唇を歪めた。皮肉な影が、痩せた精悍な頬に差す。
「こんなことは、ここ数十年なかった。警護の兵も置かず、盟主が気軽に動けるなど……。数年前なら、大騒ぎになっただろう」
隼は、他人事のような口調だが、彼が何か重大なことを話していると察した。
トグルは、壁際に置いていた
「お前のお陰だ」
低い声は地に沈み、ユルテを包む
隼は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「あたしは、何も――」
トグルは、首を横に振る。月明かりを受けて藍色の艶を放つ黒髪が、肩を滑り落ちた。
「今の
隼は、トグルを見詰めた。嫌味でも何でもなく、彼が本心からそう言っていると感じる。
「俺たちは、平和がどんなものかを知らなかった。あの時死んでいたら、知らぬままだったろう……。せっかく時間を貰ったのだ。平和を維持する努力とやらを、してみたい」
フッと、トグルは哂った。淋しげで優しい苦笑だった。
隼は胸を塞ぐ感情に支配され、声を発することが出来なかった。
『平和を知らない』人生がどんなものか、隼は想像したことがない。彼女も鷲も、オダ達も、平穏な暮らしを争いによって破壊された経験をもつが、そちら(戦争)は人生の主ではない。
だが、そういう暮らしを送って来た者達が、ここには居る。
確かに――寒々とした気持ちで、彼女は考えた。――部族間の争いが続いた草原では、戦乱の中で生を享け、常に緊張の中で暮らし、幼くして死んだ者も多いだろう。
その子ども達は、文字通り、戦争しか知らずに一生を終えてしまったのだ……。
隼は、トグルを見詰めていた。自分はどんな顔をしているだろう、彼は不快に思わないだろうかと危惧したが、トグルは彼女の反応には構わなかった。手にした馬頭琴を眺め、いとおしむようにその首を撫でている。
やがて、彼は呟いた。
「これから生まれてくる子ども達は、平和しか知らずにいられればよいな……」
「…………」
「いい夜だ」
天窓ごしに、夜空に浮かぶ白い羽のような月を仰ぎ、トグルは囁いた。夜目にも、
トグルは馬頭琴の弓を掲げた。
「外で弾いて来る。先に、寝んでいろ」
隼は頷いた。
トグルが立つと、遮られた月の影が彼女のうえに落ちた。ユルテの扉を開ける彼の向こうに広がる紫紺の夜を、彼女は見ていた。
扉が、かすかに軋む音を立てて閉じられる。
隼は眼を伏せ、溜息を呑んだ。
ゆるやかに、馬頭琴の音が聞えて来た。
馬の駆け足を思わせる軽快な曲が多い中、今宵トグルが弾いている曲は、隼が聴いたことのない静かなものだった。馬の
遠い記憶を蘇らせ、切ない想いをかき立てる音色は、月光を浴びて眠る草原に、冴え冴えと響いた。隼の胸に、もの悲しい感情を揺り起こす。彼女のまなうらに、群青の空の下で奏でているトグルの姿が浮かんだ。
きっと、草原は、優しく彼の足を包んでいるだろう。下草の中では、名もない虫達が、声を合わせて歌うだろう。無数の星が、彼の上に蒼い光を降らせているだろう。
天空に彷徨う無数の魂が、安らぎを得られることを、彼女は願った。それは、トグルにも……。
打ち寄せる波さながら繰り返す旋律を聴きながら、いつしか、隼は眠りに落ちていた。
~第二章へ~
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます