第一章 生をつなぐ者(5)
幕間Ⅱに登場した、奴隷の母子の場面です。
*重度の熱傷の描写があります。苦手な方はご注意下さい。
5
むき出しの岩肌に、赤い夕陽が反射する。昼間の熱をため込んだ重い空気の中、山裾にひろがる黒い森は、息をひそめて獲物を狙う
その森の
時折、背中からずり落ちそうになる母を負いなおす。彼女は小柄だが、少年の肩には、砂をいっぱいに詰めた麻袋のように感じられた。一足ごとに、足が地面に埋もれそうだ。大人の背丈ほどの岩に片手をつき、立ち止まって前方を眺めたが、デオはずっと先に行って見えなかった。
ファルスは溜息をつき、再び歩き始めた。この生活を始めた頃の記憶を反芻する。
**
アナンダー・デオと名乗った男は、三十人ほどの仲間を率いていた。全員が男だ。彼等は、日中は森に隠れて休み、日が傾くと移動を始め、夜になると少年を置いて出掛けた。そして、夜明けには、食糧や衣類を持ち帰ってくる。
デオは、母子にそれを分け与えてくれた。出所を問う気は、ファルスにはなかった。一緒に行く気にもなれなかったが、デオの方も、少年を連れて行く気はないらしい。
それで、ファルスは、彼が自分達を救けたのは単なる気まぐれだったのだろうと考えた。他の男達は、首領が救けた手前、追い払うわけにいかないのだろう。親しく声をかけはしないが、少年がついて来ることは黙認してくれていた。
膨れあがった太陽が西の山脈に隠れ、空が紫に染まると、男達は足を止めた。木々の梢に覆いかぶさるようにそびえる岩とその下の窪地が、半分崩れた洞窟のような空間を造っている場所だ。
ファルスは、薪を集める男達を尻目に、少し離れたところに母を下ろした。充分気をつけたつもりだったが、岩に肩が触れた途端、彼女は顔を歪め、身を捩じらせた。
母の容態は、一進一退をくりかえしていた。
薬はなく、診せられる医者はいない。診せても、《
火傷は深く、あとからあとから膿汁が滲み出し、デオがくれる布をいくら取り替えても追いつかなかった。右目はふさがれ、虫がたかって異臭を放ち、四肢は萎えて起き上がれない。何より悲惨なのは、のどを焼かれて喋れないこと。苦痛を訴える声すら出せない母に、ファルスは慰める言葉がなかった。
そんな親子に、男達の視線は冷たかった。
ファルスは、無言で責められているように感じた。――『サティワナ』、『死に損なった女』、『生きていても仕方がない』……。
何故、救けたのだ?
火傷は、治るみこみがないように思われた。治っても、見るに耐えない無残な痕になる。女の身で、それに耐えて生きるのか? 声も出せない苦しみの中で、ひたすら死を待つのか?
ファルスの耳に、男達の囁きが聞えた。刻一刻と忍び寄る大いなるもの(死)の影から目を背け、内なる恐怖と嫌悪を棚上げにして二人を責める、幻聴だ。
『可哀想に』
『憐れだ。見ていられない』
『あれが、人間の生きる姿か』
『悲惨だ。気分が悪くなる』……。
それは、ファルス自身の心の声であり、苦痛と良心の叫びでもあった。頭蓋内で反響する声に、抗えなくなる。
こんな状態で生きていることに、意味があるのか? あの時死んでいた方が、良かったのではないか。
『……死なせてやれ』
『いたずらに、苦痛を長引かせるな』
もはや、帰るところはない。声を失い、惨めな姿をさらし、蔑まれながら彷徨うのか。
『息子が殺してやるのが、慈悲というものだ』
殺せ……。
殺してやれ。苦しみを終らせてやれ。
『お前の手で』
――気づくと、ファルスの手は母の細い首に添えられていた。ヒューヒューとかすかに喘ぎながら、片目が息子を映している。
青い瞳が。
ファルスの手が震えた。呼吸を止め、力をこめようとしたが、どうしても出来ない。腕が己のものでなくなったようだ。
母の眼差しは、息子を哀れんでいるようにも、嘆いているようにも見えた。殺してくれと頼んでいるようにも、殺さないでくれと懇願しているようにも。苦痛を訴えているようにも、我が子を案じているようにも……。
ファルスの手の震えは大きくなり、腕をのぼって、遂には支えられなくなった。彼は溜めていた息を吐くと、仰け反って尻餅をついた。岩の上をずるずる這って後退り、母から離れる。肩で喘ぐ彼を、澄んだ青い瞳が映していた。
目の奥が熱くなり、ファルスは顔を背けた。あふれ出しそうになる涙を瞬きで堰き止める。怒りと悲しみと、己に対する情けなさがこみ上げて、
ふとファルスは、アナンダー・デオがこちらを観ていることに気づいた。夕闇の中で、胸の前で腕を組み、岩壁にもたれて立っている。腰に結んだ黄色い帯が目をひく。いつからそこに居たのだろう。
デオは、おもむろに近付いて来た。
「……大丈夫か?」
足元の小さな岩を器用に避けながら、男は問うた。射るような眼差しとは対照的に、低い声は穏やかだ。
ファルスは急いで眼をこすり、浮かんでいた涙を消した。ごくりと唾を飲む。
「何が?」
声は、ひび割れた。
デオは地面に片方の膝を着いた。鋭い双眸が同じ高さからファルスの目を覗きこみ、節のめだつ長い指が少年の肩を掴んだ。
「話がある。いいか?」
ファルスは肩越しに母の様子をうかがった。男の口元が笑む。
「ちょっと、あんたの息子を借りる。大丈夫だ、すぐ返す」
母は片眼を大きくみひらいた。
男の手は、親密そうに少年の背に置かれている。ファルスは動けない母をひとりにすることに不安を覚えたが、彼に従った。
デオは、仲間が火を囲んでいる場所から離れ、岩陰へとファルスを案内した。少年が顧みると、母は懸命に首をもたげて二人を見送っていた。
男は煙草を噛みながら岩に背中を預け、ぼりぼり首の後ろを掻いた。
「さて。何から話そうか」
ファルスは、警戒しつつデオを眺めた。
武器は帯びていなかった。荷物のなかに大きな山刀が数本あるのは見ていたが、少なくとも、今夜のデオは身に着けていない。色褪せたような緋色の髪と、灰色にちかい薄い色の瞳。ぎりぎりまで削ぎ落とされた険しい顔立ちをしていたが、口調は落ち着いていて、声には余裕が感じられた。
男達の中でただ一人、少年にまともに話し掛けてくれる。きっと、そんなところが一目置かれているのだろう。――などと考える。ファルスはまだ、彼をろくに知らなかったのだが。
デオは白い歯をみせ、にやりと嗤った。
「何故、殺そうとしたんだ?」
あまりに単刀直入な問いに、ファルスの方が驚いた。答えるために数秒考えなければならなかった。
「……足手まといだろう?」
「奴等の誰かが、そう言ったのか?」
答えると、間髪を入れず問い返してきた。くいと顎を上げて仲間を示す。男達の談笑する声が聞えた。
ファルスは、また数秒考えた。
「いや――」
確かに、面と向かって言われたわけではない。
デオは、さらに訊ねた。
「本人が望んだのか?」
ファルスは、呼吸を止めて彼をみた。胸中で感情が泡立つ。望んでも母は訴えられないと、デオは知っているはずだが――無遠慮な問いに対する憤りよりも、好奇心が勝った。何故、彼はこんなことを言うのだろう?
デオは手を伸ばして少年の肩に触れた。ぽんぽんと軽く叩く。
「無理をするな。早まると、後悔するぞ」
少年の反応を窺い、片方の眉をもち上げる。ファルスは戸惑っていたが、ほんの少し自分のどこかが
そうだ。後悔するだろう。
殺そうと、殺すまいと……。
今である必要はない。――その考えが、張り詰めていた糸をついと引いて少年の意識を外へ向けさせた。
デオは、労わるでなく、同情するでもなく、悲しんでいる風もない。口元だけで嗤いを作り、単調に続けた。
「お前、《
ファルスは黙っていた。どんな表情をすればよいか解らなかったからだが、男は別の意味にとったらしい。少年の背に当てられた手が、親しげに上下した。
「字が読めるか?」
「…………」
「心配するな、俺も読めない。俺だけでなく、ここにいる連中は、全員、読み書きが出来ない」
「…………」
「俺も、《ネガヤー》だ」
デオの双眸を過ぎった光が、夜目にも抜き身の刃のように鋭かったのを、ファルスは見逃さなかった。
しばらく少年を見詰めた後、ふ、とデオは
「来い。教えてやろう。俺達が何者なのか……お前が何者なのか」
細かな砂粒のついた掌をファルスは眺め、それから顔を上げた。挑戦的な眼差しが応える。
「何故、お前の母親が、火に投げ込まれなければならなかったのか」
デオはさらに山道を登った。褐色の肌が闇に融け、黄色い帯が浮かんで見える。ファルスは黙ってついて行った。
「《ネガヤー》は、名を奪われた者だ」
崖の上に立ち、眼下に淀む暗い森を見下ろして、デオは独り言のように続けた。
「俺は
男の痩身を、銀の砂をまぶした夜空が縁取る。星陰で表情は判らなかったが、デオの方からは少年の顔が見えるらしい。
ファルスは項垂れ、彼の腰の帯に視線を留めた。風が黄色い布の端を揺らし、むっとする密林のにおいを運んで来る。日が沈んでなお熱に
「何百年も昔、この国は俺達のものだった。今は名のない俺達も、かつては強い民だった。そこに、北の砂漠を越えて他の民族が侵入してきた。今では〈草原の民〉と呼ばれている連中だ」
「…………」
「戦乱の末、俺達の祖先は敗れた。負けた祖先は、勝った連中の習慣により、名を奪われた」
ざりり、という音がしたので、ファルスが見ると、デオが大地を裸足でこすっているところだった。捻じ込むように踵を回す度、硬い岩の表面を砂と小石が削る。
デオは自分の足を見下ろしていて、ファルスもその動きを眺めた。痛くないのだろうか、と思う。
ざりり。
「俺達は、《
「…………」
「長い時間をかけて連中は殖えた。百年も過ぎると戦争は伝説になり、歴史は神話になった。名のある戦士は英雄になり、神々と同化して
ざりり。砂が鳴る。
肌を傷めたのだろうか。その音に交じって、デオが小さく舌打ちする音が聞えた。
「純血の連中は神を騙り、新しい民が支配者となった。お前も知っているだろう、この国の
ファルスは顔を上げた。岩をこするのを止め、男が近付いていた。
デオは、少年の顔を覗き込んだ。
「この国は、誰のものだ?」
ファルスが答えられずにいると、男は離れ、無表情に彼を眺めた。その目が別のものを映していることに、ファルスは気づいた。
押し殺した声で、早口に、デオは言った。
「ええ? ファルス。俺達のものだろう? 《神の民》は俺達で、奴等が名乗っているのは、俺達の名だ。俺達は、名を奪われたんだ」
「……だから、
「それがどうした!」
少年が問い返すと、デオは眼をむいた。灰青色の瞳が星明かりを反射する。囁きのまま、口調が激しさを増した。
デオは拳を握り、叩き付けるように言い返した。
「この国は! 畑は、森は、全て俺達のものだった。名前も、女達も! 俺達から自由を奪い、奴隷に貶めた奴等は誰だ? 奪われたものを奪い返して、何が悪い!」
デオはぎりぎりと歯を鳴らした。ファルスは絶句していた。
「ファルス。お前の母親が受けた仕打ちはどうだ」
急に静かになって、デオは囁いた。眉間に皺が刻まれ、瞳に陰が差す。
「何が
一語一語を区切って、男は吐き捨てた。
「神、さえもだ」
ファルスは、デオを
不思議だと感じた。今まで少年には穏やかに接していた男が、こうも激昂しているところを見せられると。所詮、自分は彼等のことを
何が、彼をここまで動かすのだろう。
朝
もしかしたら、デオも、身近な誰かを焼き殺されたのかもしれない……。
「どうするんだ?」
『関わるのではなかった』 という畏怖と後悔に震えそうな声を抑え、ファルスは努めて冷静に訊ねた。
デオは哂い返したが、瞳は決して笑ってはいなかった。
「俺達の仲間は国中にいる。合流して、カナストーラ(ミナスティア国の首都)を目差す。
デオの拳にこめられる力がどれ程のものか、ファルスは想像した。素手で大の男を絞め殺す力だ。それがどこから生まれるのかを、考えた。
「『名のある者』を狩る。地主を、貴族どもを殺し、
男は少年に、再び手を差し出した。
「お前には、奴等を憎む理由があるはずだ」
ファルスは、彼の掌を見詰めた。
自分たち親子を救ってくれたのは、この手だった。食糧をくれ、母を包む衣類を与えてくれたのは。それが、どういう手段で手に入れたものであろうとも。危うく母を殺してしまいそうになった自分を落ち着けてくれたのも、肩に置かれたこの手の温もりだった。
理由は、それで充分なはずだった。
もう殆ど抗うことは出来ないのだと感じながら、少年のなかの何かが抵抗を試みていた。憎む理由と言われ、考える。
本当にそうか? 『名のある者』を狩る理由があるか?
ファルスの父は地主の畑を耕し、母は屋敷の家事を担う奴隷だった。他の奴隷仲間とともに、敷地内の専用の建物に居住し、衣食を与えられていた。自由はなかったが、静かで平穏な日々だった。
それが、父の病で一変した。
高熱を発して嘔吐と下痢をくり返す父を、地主は郊外の小屋へ隔離した。母は仕事をとりあげられ、看護をするよう命じられた。一緒に暮らしていた仲間は、みな一家を避けるようになった。
父が死に、あのおぞましい行為が行われたのだ。
――理由はある。あの日の、息も止まるような怒りと悲しみを、ファルスは知っていたのだから。
しかし……。
「……考えさせてくれないか」
ファルスは、慎重に答えた。それが許される相手かどうかを知りたかった。
「もう少し、あんた達を知りたい」
「いいぜ」
デオは頷き、出していた掌をひょいと持ち上げた。気を悪くした風はない。少なくとも、そうは見えない。
「急ぐ必要はない」
ニタリと嗤い、少年の腕をぽんと叩いた。先に山を下る彼の背を、ファルスは、暫時そこに立って見送った。それから、後について斜面を下る。
岩陰に戻ると、篝火を囲み、酔って機嫌の良くなった男達が騒いでいた。母は、別れた時と同じ姿勢で横たわっている。二人が近付くと、彼女は頭をもたげた。
「悪かったなあ、すぐ返すって言ったのに」
屈託なく微笑むデオを、ファルスは横目に見ていた。瞳に閃いた凶暴な憎悪も、烈しい悲嘆も、今はなりを潜めている。
「待っていろ。今、ダル(豆のスープ)を持って来てやる」
軽々と身を翻す男をファルスが見送っていると、母が手を伸ばして膝に触れた。少年は、ぎこちなく微笑んだ。
「大丈夫……世間話だった」
言ってから先刻の葛藤を思い出したが、改めて『それ』を考える気力はなかった。腑抜けたように座り込む息子を見詰める母の眼差しから、不安は消えない。小さな手が、彼の痩せた膝をいたわるように撫でた。
「ほら。食べられるか? 起してやろう」
戻って来たデオが、粗末な木の器をぬっと眼前に突き出したので、ファルスは残り少ない気力を振りしぼり、居ずまいを正した。
「大丈夫だ。ありがとう」
デオはフンと鼻を鳴らし、母を座らせるのに手を貸してくれた。身動き一つにも痛みが伴う彼女を、優しく岩壁に寄りかからせる。背中には、彼の使っている夜具をあてがった。彼女がそろそろと息を吐くと、デオはその爛れた横顔を見詰め、囁いた。
「……死にたくなったら、言ってくれ」
ファルスは呼吸を止めた。
デオは、聞えるぎりぎりまで抑制した声で言った。
「いつでも、殺してやるからな」
母は、片方だけの目で彼をみた。
デオは意味深な嗤いを浮かべると、踵を返し、仲間のところへ戻って行った。足取りは滑らかだ。
――得体の知れない男だった。盗賊であり、人殺しであり、危険な復讐心を抱えている。関わったことに一瞬でも後悔を感じなかったといえば、嘘になる。
だが。
『いつでも、殺してやる』……。
その言葉は、少年に奇妙な真実を感じさせたのだ。
この男を信じてみよう。そう、ファルスは決意した。
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