第一章 生をつなぐ者(4)


            4


「マナ。足下に気をつけて」


 微笑を含んだ滑らかな声に呼ばれて濃緑の木立を抜けたマナは、空の眩しさに足を止めた。目陰をさしてながめると、紅や橙色の野の花と流れる銀の川を背景に、きじが佇んでいた。

 痩身に皮の外套チャパンを羽織り、革製のかばんを肩にかけ、ゆるく巻いた銀髪を風になびかせた姿は、本当に《天人テングリ》(遊牧民の守護神)のようだ。優しげな若葉色の眼を細め、マナの手の野草をみた。


「それは?」

「向こうの岩陰に生えていたのよ。根を干して煎じれば、熱さましになるわ」

「子どもでも飲めるかい?」

「一歳以上の子なら蜂蜜で甘味をつければ、なんとか。こっちは、気道の炎症を抑えて痰を出しやすくする」

「使ってみるよ」


 雉は、説明とともに手渡される薬草を、ひとつひとつ丁寧に布で包んでかばんに収めた。既に柴胡サイコ地黄ジオウ甘草カンゾウなど、大量の薬草でいっぱいになっている。陽の高さを確かめ、彼女を促した。


「一休みして、食事にしよう」

「そうね、いい時間ね」


 二人は、盆地がみわたせる南向きの斜面に出て、日当たりのよい岩の上に腰を下ろした。持参したお茶で喉をうるおし、焼きしめたナンを分け合う。雉は干果を齧り、半日ぶんの成果を眺めた。


「マナが来てくれて助かったよ。この辺りの薬草は、知らないものが多いから」

「子どもは頻繁に熱を出すし、お腹もこわすから、すぐに足りなくなるでしょう?」

「その通り。薬が必要でない場合が殆どだけれど、あれば安心だからね」

「〈草原の民〉のところへも持って行くの? 隼の具合はどう?」


 マナが訊ねたのは、妊娠した隼がつわりになっていると聞いていたからだ。雉は、たのしげに微笑んだ。


「草原へは、岩塩を仕入れに出かけているよ。薬は、巡礼者やニーナイ国から向こうに行く人が使う場合が殆どだね。〈草原の民あいつら〉は、何でも馬乳酒クミスでなんとかなると思っているから……。隼は順調だよ、タオは頼りになる」

「トグル・ディオ・バガトルの方も、変わりはないのね。貴方たち、こんなに離れていても能力ちからが届くなんて、驚いたわ」

「凄いのは鷲だよ。おれは、中継しているだけ」

「それでもよ。共鳴できないと、難しいんでしょう? よく、続ける気になったわね」

「隼が、離れなかったからね……」


 雉は、かるい胸の痛みを覚えて苦笑した。いま思い返しても、息苦しくなる。


 あの日、仲間に助けをもとめた隼は、急いでトグルのもとへ戻ると、彼にしがみついて離れなくなった。幸い、トグルの傍にはオルクト氏族長、シルカス・アラル氏族長と《星の子》がいて、騒ぎになる前に彼をユルテ(移動式住居)に運びこんだのだが。――意識を失くしたトグルを抱きしめて、凝然と眼をみひらいた隼こそ、死人のように蒼ざめていた。

 まるで、手を離したら、その瞬間に彼が死んでしまうと信じているかのように。崖っぷちから転落する魂を、彼女自身が命綱となってつなぎとめているかのように……。その様子をみた雉に、他の選択肢はなかった。

 鷲と二人、トグルに少し生命力プラーナを注いで彼を支え、隼と話をしてもらってから、《古老》の契約を結んだのだ。

 隼は勿論、オルクト氏族長もシルカス・アラル氏族長も、大いに喜んだ。トグルには、まだしてもらわなければならないことがある。ニーナイ国の人々にとっても、よかったろう。


 だが、雉のなかには説明できない違和感がのこった。――トグル本人にとっては、どうだったのだろう?


 あの時、トグルは『生きることを受け入れて』くれたのだと、雉は思う。きっと、彼は覚悟していた……戦乱のなかで己の命を使い果たすことを。現世と別れる準備をしていたのだろう。それを、中断し、逆行させ、地上にとどめた。無理やりに、という気持ちを否めない。

 トグルは何も言わない。感謝の言葉以外は……言えないだろう、とも思う。

 鷲はいつもどおり飄々として、何事もなかったような態度だ。雉だけが、忸怩じくじとしている。生命を『選択』してしまったのではないかと。


「雉……」


 マナは柳眉をくもらせた。雉は、ちからなくかぶりを振った。


「後悔はしないよ。もう一度おなじ場面に出くわせば、おれ達は同じことをした。だから、判らない」


 胸の前で手を組み、雉はそれを見下ろした。細い指先をもてあそぶ。


「おれがトグルを助けなくても、隼と鷲は、あいつをたすけて戦った。どう転んでも、戦争で犠牲になった人々が、生き返るわけじゃない。でも、もし……もっと早く、能力ちからが自由に扱えていたら。もず(隼の姉)が殺された時に……ただ一度と知っていて、おれは、彼女を救わずにいられただろうか」

「雉」


 マナは再び呼んだ。彼が出口のない迷路に踏み込んでいると理解したのだ。

 雉は項垂れ、白い両掌を眺めた。硝子細工のように透明なかんばせが、苦悩に翳る。


「仮定の話に意味はないし、そんな選択は在り得ないと、わかっていて言うけれど。仮に、もずとトグルがいて、どちらか一人しか救えないとしたら、おれは鵙を救おうとしただろう。とび(鷲の前妻)と鳩だったら、鷹だったら……鷲は決められなかったろう」

「…………」

「おれ達がしたのは、こういうことだ。タァハル部族ではなく、トグリーニを。他の誰かではなく、トグルを――『選んだ』。その結果、起こるはずのないことが起きてしまった。この矛盾を、どうしたらいいんだ」


 マナは眼を閉じて溜息を呑んだ。深く、胸の底まで息を吸いこんで思う。


 きにしろしきにしろ、人は生を選択している。人間と他の生物、身内とそれ以外、己と他人……無数の境界線を引きつつ、それを乗り越えようと努力しながら。しかし、その努力が実ったためしはない。

 どれほど博愛をめざしても、身知らぬ他人と愛する人を同等に扱える者はいない。時に、それは人間性の欠如として、非難の対象にされた。全能のGodさえ、特定の民族と契約を結び、彼等だけを庇護して来たのだ。


 『命の重さは、世界と同じ』――殺人を非難し、目にうつる全ての生命を平等にいつくしもうとする雉の理想は、それ自体、矛盾を含んでいる。数え切れない人の死におおわれて、観えていなかっただけだ。

 鷲や隼ならば、迷わない。己の力の限界を知る彼等は、矛盾すらも肯定している。だが、雉は彼等の後ろで、その贖罪を担ってきたのだ。

 おそらく誰も抜け出せない迷宮に入り込んだ彼の心を、マナは哀れんだ。



「……〈黒の山カーラ〉は険しくて、毎年、巡礼で死者が出ているの」


 マナはおもむろに話し始めた。手近に生えている小さな紫色の花を、摘みながら、


「落石に遭ったり、道が崩れたり……高山病で生命をおとす人もいるわ。村の人達も、ルツと私も、出来るだけ助けようとしているのだけれど、ね」


 仲間と初めて〈黒の山〉に登った際、気胸を起こした友人を、マナが迎えに来てくれた。イエ=オリはどうしているだろうか、と思いながら、雉はうなずいた。

 マナは、もう一本薬草を摘んでつづけた。


「五年前、山道が崩れて、人が墜ちたわ。私は咄嗟にひとりを捕まえたのだけれど、もうひとりは手が届かなかった」

「…………」

「どうすればよかったのだと思う? 私は二人目を救うために、一人目から手を離せば良かったのかしら。二人を同時に救えないのなら、どちらにも手を差し伸べるべきではなかった? 悩むくらいなら、一緒に墜ちるべきだったかしら……そうしたら、貴方たちに会えていないわね」

「ごめん」


 これは比喩ではない、彼女の経験だと悟った雉は、さあっと蒼ざめつつ謝罪した。マナは、悄然しょうぜんと首を振った。


「貴方たちは、実際に、トグルと別人を比べて選んだわけではないわ。目の前にいたのが彼で、救う能力ちからがあったから、力を尽くしただけ……。自由に能力を使えなくなったから、病や怪我人を診るたびに考えてしまうのでしょう。でも、異能がないとは、そういうことよ」

「本当に、ごめん、マナ。おれは、傲慢になっていた……」


 雉は、己をじておもてをおおった。

 生命を選択したという思いは、畢竟ひっきょう、選択という思いあがりの上にある。しかし、マナは――ひとは本来、その機会すら与えられていない。

 マナは、穏やかに微笑んだ。


「傲慢とは思わないけれど、必要のないことまで悩まない方がいいわ。トグルも、貴方たちが苦しむのは嫌でしょう。責任を感じない人ではないのだから」


 雉はくり返し頷いたが、表情は晴れなかった。顔から掌をはなしたものの、項垂れた。


「おれ達って、何なんだろう……《古老》って」


 溜息とともにこぼれた問いに、マナはすぐには答えなかった。


 鷲は能力ちからで人を殺したくなかったのだと、雉はよく解っていた。相棒のなかでは、人が剣や弓を使って戦うことと、異能で人を殺すことには、明確な違いがある。最初にスー砦で能力を発揮して以来――湖を凍らせてシェル城の防壁を崩したときも、雪崩を凍らせたときも。スー砦周囲に吹雪を起こし、結界を張って大公軍を防いだときも。――鷲は、敵味方双方の人命を守ろうとしていた。

 大公やリー・ディア将軍に迫られて不本意に能力を使い、生きた兵器になることを、鷲は危惧していた。万一、鷹や鳩を人質にとられれば、言うことを聞かざるを得なくなる。


 トグルは、決して彼にそんな能力の使い方をさせなかった。(鷲なら、離れたところからタァハル部族長の生命を絶つことも、大公軍を雪崩で潰すことも、可能だったろうが。) 犠牲が大きくなっても、彼等の争いは彼等の力で解決しようとした。

 だからこれは鷲にとって、トグルに対する信義であり、友情であり……二度と戦争を起こさせない、枷でもあるのだ……。


 雉は嘆息した。

 家族と故郷の村人を殺してしまった彼にとって、《古老》の容姿と能力は、呪いでしかなかった。『ある』ものは仕方がない。己を認め、使いこなし、せめて人の役に立てなければ居場所などないのだと、〈黒の山〉で悟った。今まで悪用されずに済んだのは、運が良かったのだ。

 全く予想外のかたちで、になった。

 雉は、問わずにいられなかった。『おれ達は、何だ? 何故このように在るのだろう』


 トグルの生命を支えることは、《古老》の能力の使い方として正しいのか。その先は? 鳶(鷲と鷹の娘)と隼の子どもに、異能はないのか。自分の親は、こんな容姿すがたをしていなかった。

 そも、自分達は何処から来て、何処へいくのだろう……?



「私の父は――シュラではない、の父はね、《古老》のひとりだったそうよ」


 マナは、ぽつりと呟いた。取り残されたような言葉の粒を、雉は急いで拾い上げた。


「そうなの?」

「昔、ルツに訊いたことがあるのよ」


 斬れども斬れず、刺せども刺せない――不老不死な《星の子》とは異なり、母の年齢を超えたマナは、遠い眼差しを天へと向けた。


「《古老》は、破滅的な未来から人々を救うため、生命をして過去へ渡った能力者たち……。本来の使命を果たせなくても、貴方たちの能力は、人を動かして歴史をかえ、世界の安定のために使われるべきだと、私は思うわ」


 マナは、雉をみてあわく微笑んだ。


「かつて、ヒルダは津波を消し、ウィル(ウィシュヌ)は大気の汚染を除いて、アレクセイは緑を蘇らせた……。ルドガーは人々を導き、生きるための技術を与えた」

「トグルのように、《古老》が助けた人間が過去にもいたのか? それで良かったと?」

「分からないわ。けれども、その答えは貴方ではなく、トグルが見出すことではないかしら」

「…………」


 雉は、彼女をまじまじと凝視みつめた。マナは、ふっとわらって立ち上がり、外套チャパンの裾を手ではらった。


「行きましょう。そろそろ戻らないと、日暮れまでに薬の調合が出来ないわ」





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