第一章 生をつなぐ者(3)


             3


 たかい空に、草笛の音が響いた。

 真っ白な雲の尾根の向こうから、甲高い声が応える。そこから黒い点が現れ、滑るように近付いて来た。点は鳥の姿となり、水平に伸ばした翼で風を切る、イヌワシとなった。

 まひるの日差しに惜しげもなく羽をさらし、曲がったくちばしをきらめかせた鳥は、主人の腕に迷うことなく爪をかけた。翼のまき起こす風が男の帽子の房飾りをなびかせ、編んだ黒髪と外套を翻す。

 厚い皮手袋をはめた腕が、鳥の体重を支える。主人の長身は揺らがない。腕の上でいずまいをただす鳥に、彼は手にした生の肉片をさし出した。満足そうに裂き、血を滴らせながら飲みこむ鳥の脚には、糸が数本括りつけられている。鮮やかな緑柱石ベリルの眸が、じっとそれを見詰めた。

 傍らのくさむらに跪いていた男は、ごくりと唾を飲んだ。


「どうかなさいましたか? 盟主トグル


 ひかえめに声をかける。しかし、部族の盟主は今日も無口だった。ぴくとも動かない無表情は、傍らに彼が控えていることを忘れたかのようだ。シルカス氏族長アラルは、もう一度声をかけるべきかどうか悩んだ。

 気配を察したアラルが振り向くのとほぼ同時に、地平線の向こうから、一頭の馬が現れた。その背で声を上げているのは、若長老ジョルメだ。離れて草を食んでいた二人の馬も、頭をもたげた。


族長おさ! ハル・クアラ部族の本営オルドゥから使者が帰還しました。リー女将軍の使者を伴っています。お戻りを」


 アラルが見ると、トグル・ディオ・バガトルは、鳥を左腕にのせ、他人事のように天を仰いでいた。


「……雨が来るな」


 ぼそりと、トグルは呟いた。



 砂漠をこえて来た雨は大地に沁み、たちまち草原は青く輝き始めた。若葉の匂いが陽炎のように立ち昇るなか、ゆるやかに草を食んでいた馬達が首を上げ、前脚で土を掻く。

 ユルテ(移動式住居)の中から長衣デールを着た子ども達が走り出し、大人達も両手をひろげて空を仰ぎ、口々に歓声をあげた。女達は鍋や木の棒を持ち、それらを叩いて歓声をあげる。ふだん寡黙な男達が大声をあげて踊り、馬にって歌いながら辺りを駆け回る。

 永かった冬が終わり、ようやく夏が来たのだ。待ち焦がれていた雨に、人も動物達も喜びを身体じゅうで表して、彼らのテングリに感謝を捧げていた。

 はやぶさは、初めて見る光景に目を丸くして、傍らのタオに問い掛けた。


「まるで、いくさでも始まりそうな勢いだな」

「大丈夫。喜んでいるだけだ」


 タオは、落ち着いた口調でこたえた。


「南方の農耕民は雨乞いをするだろう? ハヤブサ殿。草原も、雨がなければ枯れてしまう。夏の雨は、草を育てる雨だ。遅れれば、春に産まれた仔馬や羊が死んでしまうから、早い雨は、ありがたいのだ」

「そうか」

「『降る』のではないぞ。雨は大地に『入る』のだ、ここでは」


 タオは、隼の痩身をつつむ濃紺の長衣の腹部がややふっくらとしてきたのを、眼を細めて眺めた。


「今日のように特別な日は、『入る』と言う方が相応しい。夏の最初の雨は、大地に入る。理由は、明日になれば解る」

「明日……」

「ところで、ハヤブサ殿。御子おこの名はもう決まったのか?」


 曖昧に相槌をうっていた隼は、ふいを突かれて渋い顔になった。タオが、くすくす笑う。

 遊牧民族を統一し、ニーナイ国との共存の道を拓いた王・トグル・ディオ・バガトルと、彼等の伝説の天人テングリである隼の婚姻は、タオ達の願いであった。隼の妊娠は、諸族に祝福された慶事なのだが……この、あまりにも不器用な夫婦には、それが苦痛でならないらしい。


「恥ずかしがっている場合ではないぞ、皆が貴女に会えるのを楽しみにしているのだからな。雨が入ったらすぐ来ると、オルクト兄者あにじゃが言っていた。他の氏族長達も、使者を送ってくるだろう。今年の夏祭りナーダムは、戦勝の祝いと披露目を兼ねたものになる」

「……やっぱり……そういう騒ぎに、なるのか……」

「将来の盟主トグルになるかもしれぬ方だ。仕方がない」


 うんざりと呟いた隼だったが、義妹タオの言葉に、少し考える表情になった。


「トグルに任せているんだけど、まだ聞いていないんだ。〈草原の民〉の名は、意味のあるものなんだろ?」

「ああ、そうだ」


 タオは得意げに頷いた。


「良い名、美しい名、幸福を呼ぶ名をつける場合が多いが、餓鬼ジルに攫われぬよう、病魔が退散するよう、わざと悪い意味の名をつける場合もある。ジジック(ちび)やエネビシ(これじゃない)、ネルグイ(名無し)などだ。兄上がこういう名をつけても、驚かないで下されよ、ハヤブサ殿」


 隼は頷き、腹部に片手をあてた。『皆に大切にされて、この子は幸せなんだろう。場所が場所なら、鵙姉もずねえ(隼の姉)やとび(鷲の前妻)のように、殺されたかもしれないんだ……』



 隼は、戦が終わった日のことを思い出した。シェル城下まで引き返し、ラーダ(オダの父、ニーナイ国の神官)と対面した後、トグルは倒れてしまった。意識をとり戻した彼は、まず彼女に懐妊の有無を訊ねた。


「何故、黙っていた?」


 隠していたわけではなく、《星の子》に指摘されるまで確信がもてなかった。周囲に知られれば騒ぎになる。それに――彼女にとって最も重要なことに――彼が喜んでくれるかどうか、分からなかったからだ。

 彼女の答えを聴くと、トグルは小さく嘆息した。気苦労をかけていたことを詫び、そして、呟いた。


「死ぬわけにいかなくなったな……」


 今のトグルを支えているのは、鷲と雉の能力ちからと、まだ見ぬ我が子への想いだ。

 草原へ戻って以来、トグルは一心不乱に働いている。(隼がつわりに苦しんでいた時期は、出来るだけ側にいてくれたが。)王位を退き、氏族長の立場に戻ったものの、これまで以上に忙しい日々を送っていた。


「タオ、ハヤブサ殿も、こちらでしたか」


 最高長老トクシンが、女達に声をかけた。シルカス族長・アラル・バガトルを従えている。


「雨に濡れて。風邪を召されますぞ」

「大丈夫。埃落としにちょうどいいと思っていたところだ」

「また、そのような」

「……トグルが帰ったのか? アラル」

はいラー


 長い黒髪を一本の辮髪べんぱつにまとめ、腰まで垂らした静かな草原の勇者は、項垂れて敬意を表した。たどたどしい交易語で続ける。


「オルクト・アンダからノ先触れも、参ってオリマス。是非、ご挨拶シタイと申していマス」


 隼が顧みると、タオは微笑んで頷いた。


「天幕なら、私も行こう」


 そうして、全員を先導するように歩き出す。

 隼は軽く苦笑すると、彼女の後ろについて歩き始めた。



               *



『相変わらず、圧倒されるな……』

 天幕に入ったタオは、兄の姿を観てこう思った。


 盟主が政務を司る天幕には、長老と将軍達が集まり、使者を迎えて話をしていた。本人は意識していないのだが、仕事中の兄の威厳には、妹すら感服させられる。

 黒く染めた羊毛の長衣デールに長身を包み、長い脚には、なめらかな革の長靴グトゥル。編んだ漆黒の髪を肩へながし、使者を見下ろす眸は、透徹にかがやく緑柱石ベリルのようだ。玉座の背にイヌワシをとまらせ、くつろいで座っているさまは、草原の狼を想わせる。


『ハヤブサ殿のお陰かもしれないな』 タオは、秘かに微笑んだ。


 トグルの傍らに立つ隼――少し前まで、女性には許されていない場所だった。居並ぶ屈強な男達のなかで、白銀の髪と紺碧ラピスラズリの眸をもつ彼女は、天女の威厳と高貴さで室内を照らしていた。月の光と影さながら、彼女の夫と対を成す。――妬けるほど似合いだと、タオは誇らしく思った。


「ハル・クアラ部族とオルクト氏族の連携は順調です、テュメン。キイ帝国のハン北方将軍とも」

「王ではない。盟主トグルだ。……それで?」


 生真面目に訂正して、トグルは訊ねた。軽く顎を揺らし、使者の後方を示す。

 無愛想な盟主に代わり、ジョルメ若長老が問うた。トグルやアラルとそう歳の変わらない、目付きの鋭い男だ。


「リー将軍家の御使者のご用件は? 我々に関する重大事が、貴国で生じましたか?」


 男達に促され、女将軍の使者は、おもむろに面を上げた。


『……ギタ?』 隼は、口のなかで呟いた。長身で筋骨隆々とした青年は、驚くほどセム・ギタに似ていた。頬骨の張った四角い顔は陽に焼け、褐色をしている。短く切った髪は赤みを帯びた黄金色の剛毛だ。きりりと太い眉の下の細い眼に、灰色がかった蒼い眸がきらめいている。丈夫そうな綿の衣と革鎧ごしに、肩や胸の盛り上がった筋肉の動きがみてとれた。

 タオはリー家の参謀を知らないが、トグルも似ていると思ったのだろう、わずかに眼を細めた。


「お初にお目にかかります、トグルート族(トグリーニ族のキイ帝国の呼び名)の盟主よ。私はセム・サートルと申します」


 青年は、流暢な交易語で挨拶した。表情も口調もおちついていたが、低い声は外見より若く聞こえた。


「先日ご支援いただいたスー砦のセム・ゾスタは、我が次兄。セム・ギタは三兄です。主人あるじと兄達より、御礼と戦勝のお祝いを申し上げます」

「承知した」


 トグルは無感動に答え、セム・サートルは一礼した。隼は得心した――『ギタの弟か。そういえば、五人兄弟と言っていたっけ。こんな顔をした奴が、五人もいるんだな……』

 隼の感慨に関係なく、トグルは淡々と話を進めた。


「リー女将軍は、息災か?」

「は。ハン将軍とトゥードゥ砦に詰めておりましたが、現在はカザ(リー将軍家の本貫地)を奪還しています。貴方がたがタァハル部族を征して下さったお陰で、オン大公は長城北に味方をうしない、失政を責められています」


 トグルは動じなかったが、ジョルメ若長老を含め、数人の男達がざわめいた。

 セム・サートルは兄達とは異なり、表情のゆたかな方ではないらしい。周囲の反応に構わず、トグルを真っすぐ見て続けた。


「大公は、昨年、ヒルディアで生じた地震と津波の被害に対策を講じなかったために、南方の民とカイ将軍の支持を失いました。先日、傀将軍はワンとして立ち、東方のヤオ将軍は静観しています」

「…………」

「今上陛下は日に日にご成長なさっています。朝廷が外戚の権力ちからから脱する日も間近かと、我われは期待しております」


 青年が語ったのは、キイ帝国内でオン大公が権力を失いつつある経緯だった。長老達は落ち着かないようすで身じろぎをし、何人かはひそひそと話しあった。

 隼は、トグルの精悍な横顔をながめ、彼がこれを予想していたと知った。オン大公の息のかかったタァハル部族とタイウルト部族を制すれば、大公の権威は地に落ち、帝国内の勢力図は変化する、と――。

 隼は、〈草原の民〉の払った犠牲の大きさと、立場が違えば辿ったかもしれない未来を想った。

 トグルは、ぽつりと訊ねた。


「地震?」


 ちらと隼を見遣ったのは、彼女が東国ヒルディア出身なことを思い出したのだろう。


「古来、地震の多い地域です。ヒルディアに王はおらず、カイ将軍の支配下にあります。大公は北方へ注力するあまり、南方を蔑ろにしてきたため、民心を失っています」


 隼は『自分は大丈夫』と伝えるため、トグルに小さく頷いてみせた。彼は視線をセム・サートルへ戻し、わずかに唇の端を歪めた。


「よいのか。貴国の内情を明かして」

「構いませぬ。こたびの戦で、トグルート族は立場を明らかにして下さった。我らも両国のために協力しようと、主人は申しております」


 赤毛の青年は、片方の膝をついた姿勢のまま、毅然とこうべを上げた。


リー将軍家は、カザ(キイ帝国の城塞)の関をひらきます。兵馬ではなく、民の利益のために……。〈草原の道〉を通り、交易を行う許可を頂きたい」


 隼は、改めて今回の和睦がもたらした意義を想った。オン大公という共通の敵と、《星の子》の仲裁があったとは言え、トグルがスー砦内に入ったことは――タァハル部族長に嫁していた大公の公女むすめとその子ども達を帰国させ、大公軍を退けたことは。リー将軍家にとっても歴史的な出来事だったのだ。

 何十年も、西方将軍はトグリーニ族の天敵だった。トグルは先代、先々代のリー将軍をたおしている。現在の当主リー・ヴィニガ姫将軍にとっても、部下たちにとっても、憎んで余りある敵だったはず。

 トグルは、ゆっくり頷いた。


「許可しよう……。我らの方からも、定住している隷民ハランとの交易の許可を頂きたい。三年は税を課さず、草原を経てニーナイ国シェル城下へ至る輸送は、これを保護しよう」

「感謝いたします。主人も喜びます」


 セム・サートルは厳めしいかおをくずすことなく、丁寧に頭を下げた。その姿勢のまま続ける。


「もうひとつ、セム・ギタより伏してお願い申し上げます。このセム・サートルめを盟主の傍に置き、学ばせてやって頂きたい。両民族の理解のために。問題が生じた際、解決のよすがにもなりましょう」

「……何?」


 トグルは、すばやくまばたきを繰り返した。長老達が顔を見合わせる。若長老ジョルメが問い返した。


「セム参謀の弟御の身柄を、我らに預けると?」

「は。申し上げた通りです」


 青年はうなずき、礼を失しない程度に簡潔に答えた。

 シルカス・アラル氏族長とジョルメが目線を交わし、他の氏族長達も、青年の鍛えあげられた体格を眺めた。目的は暗殺か間諜かと、警戒していることは明らかだ。

 隼も緊張した。傷を負った自分が人質になっていた時や、ほとんど武器を扱ったことのないオダとは違う。

 トグルはしばらく考えた後、低く応えた。


判ったラー。預かろう」


 セム・サートルは、きびきびと一礼した。


「ありがたき幸せ」

「こちらも準備が要る。当面は、客人ジュチとして遇する」

「は」

「ジョルメ、トクシン。お前達に任せるぞ。案内してやれ」


 トグルは淡白に命じ、椅子の背にもたれて脚を組み直した。肘かけに片肘を突き、ゆるく握った拳を口元に当てる。それを合図として、ジョルメは使者とサートルを促した。最高長老トクシンが、白髪頭を深々と下げる。


 氏族長たちと二人の女性は、キイ帝国の青年が天幕を出ていくのを、黙って見送った。シルカス・アラルがトグルに近寄り、控えめに声をかける。


「盟主。セム・ギタは、何ヲ考えておらレルのでしょう?」

「リー家をワンにしたいのだろうな」


 トグルがさらりと答えたので、一同はどよめいた。隼は彼を顧みたが、頬杖を突いた横顔はぴくとも動かなかった。

 シルカス・アラルは、礼儀正しく首を傾げた。


ワンに?」

そうだラー……。オン大公が皇帝の外戚として擡頭たいとうを始めて以来、皇家の血筋に連なる四王家――現在の四方将軍は、忍従を強いられてきた。セム・ギタは、俺とリー・ディア将軍に同盟を結ばせたかったと聞く」


 隼が観ると、トグルは頬杖を突いて瞼を伏せていた。彼の頭上、椅子の背にとまったイヌワシが、片方の翼をひろげながら足踏みをして、居ずまいをただす。


「タァハル部族を失い、南方のカイ将軍にそむかれた大公に、打てる策は少ない……。幼帝に公女むすめを嫁がせて外戚の権力を強化するか、いっそ禅譲させて己が帝位につくかだ。帝を人質にとられている呈のリーハン両将軍としては、大公に兵権を収奪される前にワンとなって奴を倒したかろう」


『それで、カイ将軍は王を名乗ったのか』――隼は納得した。確かに、皇帝は将軍の兵権をとりあげる力を持っている。あれだけの情報でここまで分析できるトグルは、やはり凄いと思う。

 そんな彼女の考えを察したのか、トグルはかすかに嗤った。


「……キイ帝国の民には、変わった信仰がある。連中の神は天だが、俺達のテングリとは異なる。帝は天意をけて国を治める天子であり、地震や洪水、旱魃などの災害は、治世が悪いせいで起きるのだそうだ」


 初めてきく思想に、隼は眼をみひらいた。最高長老トクシンが肯いている。ジョルメ若長老が戻って来て、トクシンに並んだ。

 トグルは、何事もなかったかのように続けた。


「女将軍本人はともかく。セム・ギタは、大公が民の支持をうしなっている間に、我われを味方にしたいのだ。交易は富を蓄えるよい機会だ。民も潤う」


 片手を振って頬杖をとき、椅子に坐りなおした。


「こちらの仕事を片付けよう、長老サカル達よ。まずは、今年産まれた家畜ボドウの数と、食糧の確認だ」





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