第一章 生をつなぐ者(2)


             2


 西風が、水のにおいを運んで来た。

 透明にひろがった空から、雲ひとつないのに大粒の雨が降り始めた。――沙漠では、時々このようなことが起こる。草原や山岳地帯では雨季となるものが、ここでは湿った風のまま流れ込み、降って来るのだ。ほんの束の間、乾ききった大地を潤し、砂埃にまみれた木々を青々とよみがえらせる。

 子ども達が、家々から歓声をあげて駆け出した。


 亡国の王女は天を仰ぎ、眼を閉じた。素肌に大粒の水滴がぶつかる衝撃が、心地よい。腰にとどく栗色の髪も、水気を吸って生き返るようだった。

 こんな風に雨を感じるなんて、何年ぶりだろう。の地にも、この雨は届いているだろうか。


「大変! 洗濯物が濡れちゃう」

「おーい、誰か、水瓶を持って来い!」


 慌てる声と、呼び合う声。子ども達の笑声をきく彼女の唇に、微笑が浮かんだ。雨は街を洗い、人々を笑顔に変える。数え切れない小さな光が、きらきらと溢れ出すようだった。

 彼女の肩を、一人の少女が叩いた。


「もう。何やってるの? たかお姉ちゃん。びしょ濡れになっちゃうじゃない」


 ――少女というより、娘という方が相応しい。漆黒の長い髪を二本に編んでまとめ、ギョクと紐で飾った黒い瞳の娘。強い意志を秘めたその瞳に、鷹はみとれかけた。


「気持ちいいなあ、と思っていたのよ。」

「ええ? 蒸し暑くない? わしお兄ちゃんみたいなこと言って」


 額にかかる髪を掻き上げ、軽く唇を尖らせる。


「お姉ちゃん。洗濯物をしまわないと。」

「そうね。とびはどこ?」

「キノ達が連れて行ったわ。広場へ行くって。きっと、泥んこになって帰ってくるわよ」

わしさんは?」

「オダと一緒に湖へ行ったから。こっちもずぶ濡れなんじゃない?」


 女達は、並んで石畳の路を行き、角を曲がりながらくすくすと笑った。『うちには、大きな子どもが二人もいるんだから……』

 内庭に干していた洗濯物を二人で取りこんでいると、笑声とともに男達が帰って来た。


「うへえ。暑いなあ」

「走るからですよ、鷲さん」

「鳶、はと! 魚、捕って来たぞ」


 珍しい銀灰色の髪と髭にふちどられた無邪気な笑みが、戸口から覗いた。愛娘の姿を捜して、ぐるりと庭を見渡す。鳩は素っ気なく応えた。


「お帰りなさい、鷲お兄ちゃん」

「あれ、鳶は? 鳩」

「キノと一緒よ。そこ、どいて」


 衣類を山と抱えた女達に邪魔者あつかいされて、鷲は唇を尖らせた。壁際に立って道をあけながら妻を見下ろす若葉色の瞳は、明るく輝いている。えらに草の葉をとおして束ねた湖の魚を掲げた。


「ほれ、鷹。晩飯」

「ありがとう」

「やあだ、お兄ちゃん。オダも、泥だらけじゃない!」

「うん。ごめん」

「ごめん、じゃないわよ。ちょっと、触らないでよ」

「そう言われると触りたくなるよなあ、オダ。ほれほれ」

「きゃあっ、やめてよ、もう!」


 鳩はぶつぶつ言いながら、洗濯物を汚してしまわないよう器用に魚を受けとり、家に入った。そんな妹を、鷲は笑って見送る。低い笑声の下をくぐり抜け、鷹は食卓の上に荷を載せた。彼女が振り返ると、男達は、戸口に並んで雨を眺めていた。


「良かった。これで幾つかの商隊が、命拾いしましたよ」

「こっちまで、干からびそうだったもんなあ」

「この雨で元気を出して、来てくれるといいんですが……」


 オダが顧みると、鷲は、腰の革帯ベルトに両手をひっかけて空を仰いでいた。柱に寄りかかり、無造作に束ねた長髪を肩から背へ流している。わずかにひそめた眉の下で、碧眼は遠くを見ていた。


「鷲さん?」

「ああ。わりい、オダ。風邪ひくぞ。早く着替えてくれ」

「鷲さんこそ」

「俺はとびを迎えに行って来る。鷹、湯を沸かしておいてくれ」

「はい」


 鷹が応えると、鷲は軽く片手を挙げ、また雨の中へ駆けだして行った。素足の下で石畳にたまった水がしぶきをあげる。長い銀髪が、翼のように翻る。

 鳩は肩をすくめた。


「ちっともじっとしていないんだから」

「……商隊カールヴァーンが来ていないの? オダ」


 鷹が訊ねた。青年は振り返り、晴れた空色の瞳で彼女を見た。


「はい、減りました。先月の半分以下です。特に最近は、おか(砂漠のこと)からの商隊がまったく来ていません」

「そんなに?」


 鳩が頓狂な声をあげる。オダは、夕焼け色の頭をかるく掻いた。


「〈草原の道〉を通って来る商隊のお陰で、何とかなっているけれど……。それも、これから減るかもしれない」

「どうして?」

「船が来ないんだ」


 鷹は眉をくもらせて話を聴いている。オダは前髪の先に残った水滴を払い、慎重に続けた。


「三年前、タァハル部族に占領されて、リタ(ニーナイ国の首都)の港に着く船は減ったんだけど――それが、一向に元に戻らない。船はトール(ナカツイ王国の首都)で引き返しているらしいよ。……噂だけどね」

「海と砂漠からの商隊が来ないんじゃ、草原からせっかく来てくれても、商売にならないわね」

「そういうこと。だから、減ってくると思う」

「どうしてそんなことになってるの?」


 咎めるような鳩の問いに、オダは眉根を寄せた。


「ナカツイ王国からの便が途絶えているんだ。何故か、情報がないから判らない。草原の方は、トグリーニのお陰で安全になったのに」

「何とかしなくちゃならないわねえ……」


 思案気につぶやく鳩の隣で、鷹は考え込んでいた。オダは、我意を得たとばかりに頷いた。


「それで今日、父さん達がここで相談したいって。鳩、よろしく」

「……嫌」


 急に話の方向が変わったので、鳩は眼を丸くした。


「い・や・よ。何それ。あたし達に、前もって相談しないで」

「そんなこと言わずに。頼むよ鳩、鷹」

「駄目よ。どうせ、鷲お兄ちゃんと決めたんでしょ。どうしてそう、あなた達って、行き当たりばったりなの」

「そう言うだろうと思ったから、魚を釣って来たんだけど――」

「魚くらいで釣・ら・れ・る・も・ん・で・す・か。この散らかった部屋を、誰が片付けると思ってんのよっ」


 つん、と唇を尖らせる鳩。鷹がくすくす笑いだしたので、オダはほっと頬をゆるめた。


「仕方がないわよ。鳩ちゃん。もう決まっちゃったことらしいし」

「甘いわっ、お姉ちゃん。もっとびしっと言わないと、困るのはあたし達なのよ」

「僕らだって困るよ」


 オダの抗議は、完全に無視された。


「そんなことだから、お兄ちゃんに振り回されるのよ、お姉ちゃんは。嫌な時は嫌ってはっきり言わないと、つけ上がるわよ」

「お前がはっきり言い過ぎなんだよ」

「嫌だもん」

「『だもん』じゃなくて……こっちの立場も考えてくれよ。鷹は優しいんだよ。お前とは違う」

「その言葉、そっくり返すわよ。うちには小さな子が居るってのに、大勢で押しかけて眠らせないつもりなの? うちで一番疲れているのは鷹お姉ちゃんだって、解って言ってるの?」


 ぽんぽんとたたみ込まれて、オダは慍然むっと口を閉ざした。鷹が慌てて助け舟を出す。


「鳩ちゃん。わたしは大丈夫だから……」

「いいの、お姉ちゃん。ほんっとうに解ってないんだから、男って。お兄ちゃんもお兄ちゃんだわ。何考えてんのかしら」

「……俺が、何だって?」

「あーまー! きゃははははっ!」


 オダが反論する前に、入り口から低い声が入って来た。嬌声が後に続く。

 鷲が娘を小脇に抱え、額にかかる前髪を掻き上げながら家に入ると、その傍らをすり抜けて、近所の子ども達が走り込んで来た。


「こら。お前ら、『お邪魔します』 だろ」

「おじゃましまーす! おばさん、こんにちは」

「いらっしゃい。こんにちは、キノ。鳶をありがとう」

「いい子にしてたよ。なあ? ロンティ」


 赤毛の兄妹は、鷲の腕からとびをうけとると、抱きかかえて居間へ入った。雨に濡れて興奮気味の鳶は、きゃーきゃー奇声をあげている。

 鷲は、鷹がさしだす乾いた布を頭にかぶり、足元をすり抜けようとした子ども達を毛布で捕まえた。

 オダは、もごもごと口ごもった。


「すみません、鷲さん。父が相談したいことがあって、今夜、来たいと言うんです」

「え」

「お兄ちゃんとオダが呼んだわけじゃないの?」

「違うよ、鳩。ひとの話を最後まで聴けよ」


 鷲は、はしゃいで暴れる娘を毛布にくるみ、切れ長の眼をみひらいた。キノとロンティの兄妹は、濡れた髪を自分達で拭いている。


「鷹、悪いが扉を閉めてくれ。冷えてきた。……今日? 何の話だ?」

「さっき話していたことですよ。ナカツイ王国が国境を封鎖しているんじゃないかって」

「ああ」


 ごしごしごし。娘の頭を拭いていた鷲は、手を止めて考えた。鳶は父の大きな手を掴み、骨張った指をかぞえ始める。

 鳩の声に当惑が交じった。


「そんなことになっているの?」

「……俺は構わないが、鷹は大丈夫か?」


 顧みる若葉色の瞳の温かさに、鷹は微笑んだ。


「いいわよ。鳶がうるさくしても、ごめんなさいね」

「そんなことは、最初から解っていると思うが……。俺が出向いた方が良くないか?」

「わたしも聞きたいから、いいわ」


 間髪入れずに答えた鷹を、鷲は、少しの間、真っすぐ見詰めた。鷹は、やわらかく微笑み返す。

 オダは、ほっと息をついた。


「助かります」

「仲間外れにされるのは嫌だから、あたしも聴くわ」


 鳩は肩をすくめた。それからオダをじろりと睨み、その胸を軽くつつく。


「部屋の片付けと、この子達の着替え、オダもちゃんと手伝ってよ」

「わかってる」

「かっ……わいくない返事ね。『はい』って言いなさいよ、『はい』って」

「はいっはいっはあいっ! あーま?」


 オダの代わりに、鳶が元気良く答えた。新緑色の瞳を輝かせ、小さな手を精一杯挙げる。邪気のない笑顔に鳩は唖然とし、鷲はふっと哂った。くしゃっと娘の栗色の髪を掻き撫でる。

 幼子は、楽しげに両親の顔を仰ぎ見る。


「あーま(父さん)? ふぁーま(母さん)?」

「よし。おいで、鳶。お前は、アーマ(父さん)と一緒に居ような……。キノ、ロンティ。夕飯を喰っていけ。それくらいの時間はあるんだろう? オダ」

「あ、はい」

「早く着替えなきゃ。風邪ひいちゃうわ」


 鳩は気をとりなおし、子ども達を促した。自分の仕事を忘れていた鷹は、慌てて湯沸かしにとりかかった。



               *



 ニーナイは、大陸で唯一の民主共和制国家だ。

 沙漠と周辺の山岳地帯を国土に持ち、人々はオアシスに点在して住んでいる。海沿いの首都以外に、大きな街はない。そもそも人口が少ない。

 数百~千人規模の村々を運営しているのは、神官と長老達、医師や有力な商人たちだ。時には長期滞在している商隊カールヴァーンの代表者らが参加して、会議を行う。オアシスを結ぶのは砂漠を行き交う商人であり、神官達の情報網がそれを支えていた。


 オダ達は、ニーナイ国の北、エルゾ山脈とタサム山脈にはさまれた盆地の、シェル城という平城のまわりに築かれた街に住んでいる。ニーナイ国と北方の草原との間に設けられた緩衝地帯だ。半年前、〈草原の民〉の王との話し合いで、永年の紛争を解決し、両国の交流を図るために設けられた。

 オダの父は、神官ラーダだ。彼等が国の大事に異邦人の鷲を頼るのは、かつて、オダと共にこの国の危機を救った者の一人だからだ。

 宗教上の聖地である〈黒の山カーラ〉の巫女《星の子》さえ一目置く《古老》の一人であり、北方の遊牧民族国家の成立に関わり、《自由戦士ノコル》の称号を得た者だ。

 『であった』と、本人は言うだろう。

 今の彼は、故あって《古老》の能力を失い、街に住みついているに過ぎないと。――鷲は現在、〈草原の民〉から仕入れる皮革を用いて靴や鞄、腰帯ベルトを作って暮らしている。雉は、薬師の知識を生かして行商を。何処へ行ってもきちんと居場所を確保できるのは、彼らの人徳なのだろう。

 夕食後、乳茶チャイを飲み、葡萄をつまみながら、オダはそう考えた。


「国境に異変が起これば、〈黒の山〉から報せが来るはずです。それがない、ということは、慌てる必要はないと思うのですが」


 ラーダ達の到着を待つ間、彼等は居間で話を続けていた。キノとロンティの兄妹は、家に帰った。オダは壁に寄りかかり、鷹と鳩は食卓に座っている。とびは鷲の膝にのせてもらい、上機嫌で父の長髪を弄んでいた。


「直接はそうだろうが。ラーダ達が心配しているのは、そういうことじゃないんだろ?」

「どういう意味? 鷲お兄ちゃん」

「現実に商隊が減っているわけだから、ルツ(星の子の本名)から連絡があろうがなかろうが、動いた方がいい」

「……すみません。解りません、鷲さん」

「つまり、だ。……イテテ。やめろって、鳶」


 無精髭をひっぱる小さな手を解き、鷲はオダに視線を向けた。


「相手が〈草原の民〉のように直接国境を越えて攻めて来る連中なら、ルツは黙っていないだろうが。オン大公(キイ帝国の大公)のように策をめぐらせてこちらを追い詰める連中なら、見た目には判らんだろ」

「あ……」

「〈黒の山〉は、国境さえ安定していればいいんだ。こっちが自衛策を取り損なって自滅するのは、一向に構わない」

「お兄ちゃん、凄い」


 鳩の賛辞に、鷲は、つまらなそうに肩をすくめた。娘をよいしょっと抱き直す。


「やっかいなことは変わらんさ……。しかし、俺にはミナスティアがそこまで意図しているとは思えない」

「あーま?」


 首を傾げる鷲。父の関心がそれたのを訝しんで、鳶も首を傾けた。腕を伸ばし、彼の首に頬をすり寄せる。

 鷹は不安げだ。その表情を横目に眺めながら、オダは訊ねた。


「意図とは? 鷲さん」

「オダ。お前達が心配しているのは、ナカツイ王国とミナスティア王国が共謀して船と商人達を足止めし、この国を孤立させることだよな」

「ええまあ……」

「でもなあ。そんなことをして、二国にどんな得がある? 却って困るだろう」


 神妙な表情になる青年を、鷹と鳩も見上げた。


「ニーナイ国とナカツイ王国は、商人の国だ。富と情報を運ぶことで栄えてきた。〈草原の民〉もキイ帝国の大公も、この地を狙いこそすれ、交易を邪魔したことはない」

「…………」

「商売ができなくて一番困っているのは、ナカツイ王国だろう。苦し紛れじゃないのか」

「何故です? 鷲さん」

「それを考えるんだろ」


 判っているだろうと言わんばかりに応えて、鷲は葡萄を手にとった。鳶がすかさず手を伸ばし、父の分を取り上げて自分の口に押し込む。


「おいちっ(美味しい)、おいちっ!」


 オダは、やや釈然としない表情になった。鷲の話は理解できたが、この状況で自分達にできることがあるのだろうか。

 と、

「すまんな、遅い時間に。おや、鳶も起きていたのか」


 ラーダ(オダの父)が、この街のまとめ役の男達を数人連れて、やって来た。己が無作法者だと承知している鷲は、慎重に挨拶をした。


「ようこそ。座ったままで、失礼する」

「なに。私達の方こそ、押しかけてすまない。レイ王女と天人テングリ(《古老》の別称)に、早く報せた方が良いと考えたのだ」


 ラーダは鷹の勧める椅子に腰を下ろし、彼女に哂いかけた。鷹は曖昧に微笑み返す。

 鳶以外の全員が、顔を見合わせた。鷹をミナスティア国の元王女と呼ぶのは、珍しい。

 鷲は、若葉色の瞳を妻に向け、すうっと眼を細めた。


「鷹に?」

「ナカツイ王国の話じゃないんですか? 父さん」

「そうだ。今日、報せが届いた。〈黒の山〉ではなく、ナカツイ国王からの伝令だ」


 息子によく似た風貌の神官は、息子より灰色がかった青の瞳を、鷹から鷲へと移した。

 鳶は指についた葡萄の蜜を、嬉しそうに舐めている。身振りでそれをやめさせながら、鷲はラーダを見返した。


「……内乱か」


 それは質問と言うより確認だったので、オダ達は鷲を顧みた。ラーダは肯き、話を進めた。


「これまで何とか耐えてきたが、限界だと。正式に、ミナスティア王国と我が国との国境を閉鎖、港も封鎖すると伝えて来た」

「何故ですか? 父さん」

「難民の流入をくい止める為だ」


 息子の問いに、ラーダは簡潔に答えた。

 鷲は、じゃれつく娘を抱いて考えていた。真顔になると、彫りのふかい顔立ちは古代の彫像を思わせる。顎から頬をおおう髭を、鳶は無心に弄んでいる。


「ミナスティア国から難民が大量に流れ込み、ナカツイ王国は大変らしい。民の逃げ場は、そこしかないからな。あの小さな国に、以前の倍の人口がいるそうだ」

「ちょっと待て――」

「三年前からですか?」


 鷲と鷹の声が重なったので、鷲はかるく驚いて鷹を見た。彼が譲ってくれたので、鷹は硬い口調で言い改めた。


「わたしがこちらへ来た頃から、ということですか?」


 ラーダは重々しく首肯した。

 とびは長話に飽き、もぞもぞ身体を動かして自己主張を始める。鷲は、膝からずり落ちそうになる娘を抱き直した。


「船が使えず、ナカツイ王国が国境を閉じたら。難民は、どこへ逃げるんだ?」

「それが問題なのだ、鷲。トグル・ディオ・バガトルに報せねばなるまい」


 ラーダは、ぐずり始めた幼子に優しい眼差しを向けつつ、口髭を撫でた。

 鷲は眉間に皺を刻んだ。鳶は父の首にしがみつき、髭ののびた頬に小さな顔を押し当てる。


「あーまぁ……」

「キイ帝国のリー女将軍にも。《星の子》は、既に御存知であろうが……」

「出来れば、ナカツイ王国と連絡をとりたいですね」


 オダが、父の意思を伺うように言う。鳶は、父があやしてくれないのが不満だった。


「あーま」

「こら、鳶。大人しくしなさい」

「やー」


 鷹は蒼ざめている。ぐずる鳶をなだめる鷲も、思考は明後日の方向を向いている。そんな彼等に気を遣いつつ、オダは父に話し掛けた。


「ミナスティア国がその調子では――。鷲さんの仰るように、国境を封鎖して済む問題ではないでしょう。対策を立てないと」

「そうだ。協力して欲しい、オダ」


 オダは、父の言葉を最初から承知していたかのようにわらった。


「いいですよ。何なりと」

「草原とキイ帝国には、正式に使者を送ろう。ナカツイ王国にも。鷲、〈黒の山カーラ〉へ働きかけてはくれぬか。《星の子》の御力をかりたい。」

「悪いが、それは無理だ。ルツは降りない……。タハト山脈より南へは、あいつは行けないんだ。〈草原の民〉と同じで」


 鷲は娘の頭を撫でながら首を振った。鳶は鷲の髪を引っ張っている。鷹は真剣な夫の横顔を見詰めた。


「ラーダ。リー姫将軍とトグルと……ナカツイ王国と手を組めば、状況が変わるのか? ミナスティアを、さらに孤立させるんじゃないか?」


 鷲の言いたいことを、オダはおぼろげに理解した。鷹とラーダも。

 鳩は眉根を寄せ、鳶は無関係に暴れている。――髭を引っ張られて顔をしかめながら、鷲の目は遠い敵を見据えていた。

 彼の思考は、別の声で占められていたのだ。


「鳶。じっとしなさい」

 そう、娘をたしなめた時――


《お前が悪いんだ!》


 突然、神の啓示さながら飛び込んで来た声に、鷲は呼吸を止め、眼をみひらいた。それまでの会話とは全く無関係に、脳内に響いたのだ。ざあっと血の引く音がする。

 オダの声が遠去かり、背筋に冷たいものが走った。


《お前のせいで、あたしは! 誰のせいだと思っているんだ!》

 ――誰だ?


 ぼうとかすんだ視界に、見知らぬ女の顔が浮かんでいた。見覚えのない、怒りに歪んだ表情。たった今罵られたかのごとく、鼓動が速くなった。体温が低下する。


 ――誰だ。何故……。

《お前が悪い! お前なんか、産むんじゃなかった!》


 憎しみに満ちた声が、こだまする。その呪詛が。


《お 前 な ん か 死 ん で し ま え 》



「あーまぁ」

「鷲さん?」

「……時間をくれ」


 見知らぬ女ではなかった。鷲はオダに応えながら、身のうちの恐怖を認識していた。じっとりと冷汗をかいている。『今のは、なんだ?』


「――この三年間、俺達は、ミナスティアのことを知らなかったんだ。調べたい」

「承知した」


 ラーダは頷いて席を立った。鷹が椅子を引く。ラーダは彼女に微笑みかけ、仲間を促して部屋を出ようとした。


「遅い時間にすまなかったな。鳶、鷹、おやすみ」

「おやすみなさい」


 幼子の温もりが、思考を引き戻す。鷲は顔を上げ、不安げな鷹に肩をすくめてみせた。


「……まいったな。ラーダに乗せられた」


 冗談めかした口調で呟き、鷲はおし黙った。鳶を抱きあげ、答えを噛みしめる。

は、俺の母親だ』

 震え出しそうだった。今の今まで忘れていたのだ、あの恐怖を。悪寒を抑え、娘をしっかり抱き締めた。

『そうだ。母親だ――』

 混乱していた。己の身に何が起きているのか、全く理解出来なかった。



               **



 時空を超えて、めぐり逢う。

 母に殺された子どもと、母を殺された少年――




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