最終部 大いなる翼

第一章 生をつなぐ者

第一章 生をつなぐ者(1)


           1


 川辺に立って、男は溜息をついた。眼前には、大河が悠々と流れている。

 遥かヒンズークシュ(エルゾ山脈)に源を発し、ルドガー大神の髪を流れ落ちる女神の名を持つ河は、数か月かけて砂漠地帯を通過し、ミナスティア王国とここナカツイ王国の国境に達している。乾季でも干上がることのない豊富な水は、にぶい黄金色に輝きながら川幅を広げ、対岸の森を藍色に霞ませていた。

 海が近いせいか、かすかに潮の香りがする。それは泥のにおいと混じり、彼の足元で、じりじりと日差しにかれていた。

 二度と還れないと思っていた。死ぬ覚悟をしていた自分がここに立っている感慨に、彼は耽っていた。おもむろに周囲を見渡す。彼にとっては馴染みのある景色だった。


 遠い昔に繁栄していた都市の面影が、崩れた石造りの建物に残っている。

 大人がひとかかえする大きさの黒い石は、全てクド山脈(ヒマラヤ)から切り出され、運ばれて来たものだ。今では想像もつかない高い技術によって精巧に積まれた石の中には、太古の海の生物を見つけることが出来た。

 河岸には、人々が沐浴をする為の石段ガートと女神に犠牲を捧げる為の祭壇が、数キリア続いている。ところどころ不自然にえぐれているのは、付近の住人が住居や道具を作る為に削ったのだろう。崩れた隙間から生えた木が、太い枝を伸ばしている。緑の梢の向こうには、万年雪をいただく山々が、どす黒いほど鮮やかな青空に白い蓮の花のごとく浮いていた。

 薄いはねを持つ虫が一匹、彼の視界を横切って水平線に消えた。

 静かだった。

 かつては億単位の人間が大陸にいたという。戦乱によって高度な文明は失われ、人も動物も激減してしまった。生き残った人々は、姿を変化させながら、遺跡の上にしがみつくように暮らして来たのだ。

 言葉や習慣、神話の中に、時の彼方へ消えた人々の息遣いを、感じとれるが――

 今の彼には、どうでも良かった。


 男は、外套の襟を開いた。右手を額にかざし、眼を細める。左手は……ない。

 川面をよぎる熱い風が、はちみつのように甘い金の髪を撫で、虚ろな左の袖を引き、焼けた肌に刻まれた幾筋もの傷跡をなぞった。氷河の残る高地に適した遊牧民の装束は、この気候に合わない。

 これから、どうしよう?

 男は苦笑した。『これから』だと?

 命はないと思っていた。生きている価値などないと。――三年間、すっかり死に囚われていたと思い知る。自由を取り戻した時が死ぬ時だと、決めていたはずなのに。


 彼は革の腰帯ベルトの縁に指を滑らせ、そこから、数本の金赤毛をまきつけた鉄の腕環を取り出した。自分と仲間を繋いでいた鎖についていたものだ。装飾はない。男の手によって何度も磨かれたそれは、一片の錆もなく滑らかだった。

 彼は左腕を切り落とされ、友人は右脚をうしなった。友は、それでも生きてくれていた。

 彼のために。


 男は眼を閉じ、亡き親友の顔を想いうかべてから、腕環を河へ投げこんだ。ガンガー(ガンジス河)に遺灰を流すときのように。

 金属の環は、陽光を反射してきらりと輝くと、ゆらゆら揺れながら濁った水中に沈んでいった。

 女神は、清廉な雪解け水も泥水も、生も死もそのかいなに抱き締めて、母なる海へ還してくれる。嘆きも、怒りも、絶望も。

『終ったな、本当に』

 男は、胸の奥で呟いた。



「あんたは、巡礼者か?」


 しわがれ声に男が振り向くと、ひとりの老人が石段ガートの上からこちらを見下ろしていた。

 骨と皮ばかりに痩せた黒い身体に清めの灰を塗り、粗末な麻の一枚布を巻きつけた翁は、素足だ。伸び放題に伸びた白髪まじりの髪と髭が年齢を語っている。この地方では珍しい姿ではない。男の方が長く異境にいたせいだ。

 彼が黙っていると、翁は再び訊ねた。


「キイ帝国の商人か?」

「……そう、見えますか」


 灰色がかった空色の瞳の問う意味に気づき、彼は苦笑した。羊毛の長衣デールを羽織り、革製の靴など履いた自分の方が、はるかに奇異に見えるだろう。翁は、水面に近い石段に腰掛けていた彼が立ちあがるのを、無遠慮に眺めながら近付いて来た。

 男は、胸の前に片方だけの手を立て、年長者への敬意を示した。


「貴方は、修行者サドゥ(世捨て人)ですか?」

「そう見えるのか」


 彼は決して背の高い方ではないが、背の曲がった老人の顔は、その胸ほどの位置にあった。濁った白眼が、じろりと彼を睨み据える。それから、川面へ視線を戻し、独り言のように言う。


「サドゥだなんて大それた者ではない。いつも、ここにすわっとる。先刻のあんたのように」

「何故――」

「今は、神さまがんで下さるのを待っとるよ」


 遠い昔に固まってしまったかのような皺だらけの老人の横顔を、男は見詰めた。


「何年もここに居て毎日河を眺めとると、神さまがいるように思えてきた。ルドガーだかウィシュヌだか知らんが」

「…………」

「ここには、巡礼者がやってくる。牛や犬や、赤ん坊の死体も流れてくる。時には生きた人間も、花も。――そんなのを観とるとな。神さまが、何処かにいるように思えてきた。わしのような者でも、いつか迎えに来て下さるんじゃないかと」


 男は黙っていた。彼は、かつて神官ティーマだった。誰よりも神の身近にはべり、教えを説く立場にいた。しかし、今は老人に応えることが出来ない。


「巡礼者は久しぶりだ」


 翁は彼を振りかえり、友好のつもりか、にっと歯を剥き出した。暗く開いた穴に、ところどころ欠けた黄色い歯が並んでいる。しかし、皺に埋もれた顔の筋肉はいわおのように動かず、目も笑ってはいない。

 彼は訂正しようとは思わなかった。なげやりに、辺りへ視線を走らせた。


「そう言えば、ひとけがありませんね。ネタジー(師を意味する尊称。ここでは、目上の人物を表す)」

「舟が止められているからだ」


 彼の瞳の動きが止まり、二、三度まばたきをした。


「何故?」

「詳しくは知らん。役人が来て、全部止めてしまった」


 老人が指差した先には、崩れかけた祭壇が川面に突き出していた。舟影はない。浮いているものさえ。彼は、翁の口元が皮肉に歪むのを見た。


「盗まれたり薪にされたりしてしまうので、舟頭どもは船を片付けた。もう半月、渡し舟は動いていない」

「それは、困っているのではないですか?」

「勿論だ」


 男は金色の眉を寄せた。翁の口調は苦々しかった。


「この辺りに橋は無い。架けられる川幅ではないからな……。舟が無ければ渡れない。離れ離れの家族もいるだろう。噂では、熱病が流行っているそうだ」

「熱病?」


 その言葉は、彼の胸に影を落とした。声をひそめる男の深海色の瞳に、翁は頷いた。


「内乱が起きてからこっち、ミナスティアは無茶苦茶だ。何人も逃げて来たが、船を止められて、それも出来なくなった。あんたはあの国に行くのか? 諦めた方がいい」

「逃げて来た?」

「あんた、本当に知らんのか」


 老人は男を不審な眼差しで見たが、彼が真剣だと判ると、説明してくれた。


ラージャンがたおれた。王女の一人が、北の遊牧民にさらわれた。それからすぐのことだ」

「…………」

「王族と貴族――あの国の支配階級に、民が反旗を翻した。それに乗じて、奴隷民ネガヤーどもも乱を起した。今では、誰が誰の敵で、誰と誰が戦っているのか、誰にも判らん。さらに熱病だ……。悪いことは言わん、行かない方がいい」


 翁は、黙りこむ男を残して歩み去った。ざらざらと砂を踏むような声が、彼の耳の奥で繰り返す。


『王女の一人が、北の遊牧民にさらわれた』


 異国へ人質に出される王女を逃がす為に、男は生命を懸けた。そして、仲間と共に捕らえられ、異民族同士の戦争に巻き込まれた。

 友を喪い、王女が新しい人生を踏み出したのを確認して、戻って来たのだ。


『王がたおれた』

『民が反旗を翻し、奴隷民どもも乱を起した』


 予期していた。半分は、自分たちが望んでいたことだ。

 しかし――


『誰が誰の敵で、誰と誰が戦っているのか、誰にも判らん』

『熱病が流行っている』


 ――終ってはいなかった。終りなど、ないのだ。生きている限り。生きると決めた限り。


 男は石段ガートを登りはじめた。一歩ずつ、確かめるように。次第に早足になる。対岸は彼の国だ。

 彼の名は、シジン=ティーマ。かつて神官だった男。

 行かなければならなかった。





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